今回の郷土の先覚者の銅像

小村壽太郎 

 

1855年10月26日(安政2年9月16日) - 1911年(明治44年11月26日)

幕末の飫肥城下、飫肥藩士の長男でありながら、身分にとらわれず多くの人と接して育ちました。

 

大学南校(東京開成学校 現・東京大学)からハーバード大学へ進学し、近代教育を学んでグローバルな世界観を身につけました。


外交官として尽力。

日露戦争を終結させたポーツマス会議で、寿太郎はねばり強く話し合いを続け、戦争を終わらせました。

幕末に日本が欧米列強と結んだ不平等条約の改正をし、日本の世界的地位の確立を果たしました。 

 

 

「もし万一にも私のとるべきものがあるとしたならば、それはただ誠の一字に尽くされると思う。即ち学問に対しても、同胞との交際においても、将来を計るにも、いずれもこの誠の一貫を忘れぬ覚悟でいる」

 

この言葉が

『ラーゲリより愛を込めて』の山本幡男さんのおもいと似ていると思いました

 

 

 

小村壽太郎は、外交官時代、側近の秘書官から外交官としての心得を教えて欲しいといわれ、即座に「まず『嘘』を吐かぬことです」と答えました。外交官は相手の信頼を得ることが大事。しかし時には国のために“大ぼら”をふかなくてはならないこともある。「普段から嘘が多い奴は、こんな時に効き目が無くなります」と付け加えました。

 

地元ならではの話指差し

現総理大臣 岸田首相は、外務大臣当時

小村壽太郎の墓碑に献花しています。

壽太郎の精神を学ばれたのか、パフォーマンスだったのかは分かりません。

 

  伝説の一分訓話

1906(明治39)年ポーツマス平和条約を締結し、大役を果たした寿太郎は、帰国後県立宮崎中(現・宮崎大宮高校)で講演を行います。

その時、寿太郎の講演はたった1分。
「諸君は正直であれ。正直と言うことは何より大切である」

 

諭すようなこれだけのスピーチ

重みを感じます

 

台座の文字は 小村壽太郎の自署

 

 

 

小村家

元の姓は 平氏

平維貞の弟忠清が、薩摩国小村に住したのに始まるそうです

維定の次男貞賢も小村に改姓していたが、分家して日向国に住するようになり、やがて小村家は日向伊東氏に仕えるようになりました。

 

 

世界で誠を正直に貫く 

郷土の先覚者 小村壽太郎 

 

日南市には

小村壽太郎の記念館や移築された生家などがあります

観光でお時間があるかたは、行ってみてくださいニコニコ