松熊神社

宮崎県宮崎市小戸町36番地

 

海にほど近い住宅街の中に

鎮座されています

 

 

 

丸レッド御祭神丸レッド

伊邪那岐命神
伊邪那美神
速秋津彦命神

瀬織津咲神

 

丸ブルー御由緒丸ブルー

人皇第十二代景行天皇の、小戸神社と同じく松熊山にご鎮座されましたが寛文二年(一六六二年)九月十九日の西海大地震による洪水のため社殿流出の災厄に遭いのち下別府字下北山に再祀しましたがその後寛永五年大淀川の港脇へ祀を建て水門の神として遷座申し上げ社名は往古の鎮祭地であります松熊山の松熊を付けました。

一九六八年(昭和四十三年)明治百年を記念してご本殿改築が行われました。

例祭は旧三月十三日で吉村八幡神社の末社です。

 

 

※「上差し」は、御由緒内にある部分の説明

 

上差し「寛文二年(一六六二年)九月十九日の西海大地震」

外所地震日向灘地震西海大地震とも呼ばれる

以下Wikipediaより

外所地震(とんどころじしん/とんところじしん)とは、1662年10月31日(寛文2年9月20日)未明に日向灘沖(北緯31.7度・東経132度)で発生したマグニチュード7.6〜7.9 、津波マグニチュード Mt 7.7の地震。最大震度は6強(推定)。
有史以来最大規模の日向灘地震である。1662年寛文日向灘地震や西海大地震とも呼ばれる。この地震によって、現在の宮崎県宮崎市及び日南市付近を中心に大きな被害が生じた。
「外所」の由来は、加江田川河口北岸に存在していた集落で、本地震によって海没したと伝わる。

 

関連記事

 

 

 

 

上差し下別府字下北山」

現在の宮崎市吉村町下別府あたり

 

 

上差し「社名は往古の鎮祭地であります松熊山の松熊を付けました

松熊山ってどこ?と思い、探索

‛宮崎県宮崎市吉村町松熊甲’という地名を見つけました

現在の宮崎県宮崎市港3丁目 あたりに該当するようです

 

 

 

 

車は、境内に置くことができます車

 

 

 

 

参拝お願い

 

 

参拝お願い

 

 

摂社の横の切り株そばには 疑似カラス

 

 

ちょうど道なりにカーブになっている所が

地域のごみ集積所になっています

カラス除けのカラス

 

 

以前は、大樹もあったのでしょうが

切られています。

 

明治100年を記念して改修工事が行われてから

今年で58年。

 
 
吉村八幡神社の改修修繕工事に併せて
松熊神社も改修修繕工事を行うため
寄付のお願い看板が立っていました。
 
 
参拝を終え、
車を出そうとしたろころ
20~30代の欧米人男性2人が境内に入ってきました。
 
参拝に来たのかな?と思い、
安全のため車を止めたままでいたのですが
 
二人は、鳥居の前で立ち止まり
神社の方は見ず、何やら会話をし
 
松熊神社隣の公園へ消えていきました
 
 
ただ、内緒の話があって人気のない神社に来たのか?
 
この辺りに住んでいて通り道にしているのか?
 
なんだかよく分からない雰囲気でした。
 
神社の前を通る時、
参拝しなくても 一礼したり
通らせていただきますという会釈などは
日本人ならではなのだろうと思いました。
 
ありがとうございましたニコニコ
 

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命

マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト

 

天照大神の御子であり、瓊瓊杵尊の父

 

を主祭神とする

 

赤池神社

 

宮崎県東諸県郡国富町木脇にあります

 

 

赤池神社の 隣は

国富町木脇児童館

 

 

たくましい木の根が フェンスからはみ出しています

 

丸レッド御祭神丸レッド

 

天忍穂耳命
天穂日命
活津彦根命
天津彦根命
熊野久毘命
田心姫命
市杵島姫命
多岐津島姫命

 

国富町HPより

赤池神社は、国富町木脇に鎮座し天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)をはじめ、8柱を祀っています。

831年(天長8)年の創建で約1、200年の歴史ある神社で「赤池さま」として古くから崇められています。特に主祭神は正勝吾勝勝速日(まさかあかつかちはやび)天忍穂耳命と言い、勝神様として事業繁栄、スポーツ、恋愛運などにご神徳があるといわれ、各地から多くの参拝者が訪れています。

また、境内にある「龍霊木」には、神聖な霊力が樹木に宿り「龍頭」をはじめ、天に伸びる3本の幹は雄々しく、悠久の時空を経て限りない未来へと繋がっています。

 

宮崎神道青年会HPより

当社は、淳和天皇の御代天長八年辛亥3月、木脇郷総廟赤池大明神と称して鎮座したと伝える。建久元年(1190)に工藤祐経が日向国守護となり社領を寄進したのをはじめとして、歴代藩主より崇敬を受けた。

江戸期は高鍋藩主秋月氏に崇敬され、武運長久、国家安全を願い社領五百石が奉納されたと言う。貞享三年(1686)の『高鍋藩寺社帳』によると、本地仏は正観音と虚空蔵正月一日、三月三日、五月五日、九月九日、十一月十二・十三日に祭礼があった。
明治維新後、旧称赤池大明神を現社名に改めた。明治五年郷社に列格。十一月十五日の例祭では、古例にのっとった神馬神事が行われる。

摂社として旧村社・大土神社(祭神・猿田彦命)を祀る。
旧社殿(昭和十二年竣工)が老朽化の為、平成十七年六月起工し、平成十八年二月に竣工、遷座祭が斎行された。

 

参道を歩き 二の鳥居に到着

 

 

木のよい香りが漂ってきます

ふわ~ 良い香り ニコニコ 

 

 

めちゃめちゃいい香り~ フィトンチッドニコニコ

 

鳥居をくぐり

木を拝見

 

 

ねじねじと ねじり上がる 御神木 長命杉

 

 

少し進むと

 

ハート夫婦杉

 

手水舎

 

 

 

参拝お願い

 

 

 

絵馬やお守り 御朱印 などが販売されています

 

 

つづいて

右手の摂社へ

 

 

旧村社・大土神社 祭神・猿田彦命

 

 

参拝お願い

 

 

ここから 左手に進むと

 

「扉」が見えます

 

 

この扉は 龍の扉

 

 

男性は、右足から

女性は、左足から

入ります

 

 

龍霊木の説明

 

龍の霊力は、神聖な樹木に宿るといわれているそうです

 

 

幹から出ている龍頭

 

 

入る時は、左足から入りましたが

出る時は、どちらの足と指示がなかったので

どっちの足を出そうかなーと迷い真顔

入った時と同じ左足から扉を出ました

 

赤池神社の玉砂利には

渦巻模様が数か所に見られましたうずまき

 

 

梅が咲き始めている頃に

参拝しました

 

 

参道には、

記念碑 や 石 がありました

 

 

 

赤池神社のまわりは

スッキリさっぱり整備され

広場や児童館があります。

昔は、木々が多く伸び伸びと茂っていた場所だったのではないかと思いましたニコ

 

ありがとうございました

 

髙屋神社

宮崎市村角町橘尊1975

 

(むらすみちょうたちばなそん)

 

尊い地名なのだと思いますニコ

 

髙屋神社の辺りには、

高尊(たかそん)中尊(なかそん)安尊(あんそん)阿波(あわ)古郷(こきょう) などの地名があります。

 

髙屋神社

夫婦楠が出迎えてくれます

 

 

この日は、強風で

注連縄を ブオーブオーと揺らし

仲良く 楽し気な 夫婦楠でしたグリーンハーツ

 

夫婦楠の間から 鳥居が見えます目

 

 

鳥居に到着

 

 

 

丸レッド御祭神丸レッド

彦火々出見命
豊玉姫命
景行天皇

 

当社は、日向御三代皇神第二代の彦火々出見命御陵降誕神話の舞台である村角の里に、千古の昔より鎮座しております。

『日本書紀』神代巻下に鹿葦津姫(木花開耶姫)ご出産の折り、御子(彦火々出見命)の臍の緒を切って捨てた竹刀が後に竹林となり、その地を竹屋(たかや)と名付けたとあり、社名の由来を物語っております。又、これに因み当社は、安産育の神と崇められてきました。社殿西方の古墳は、命の御陵(みはか)「髙屋山上陵」と伝わり、古来昇る者や近づく者は無く、畏れ敬われていました。村角には他に安尊・袍ノ尊・天神川・御手洗川・犬ケ城といった神話縁の地名数多く残されており、古き伝承と民族を大切に受け継いできた里人の気質が窺えます。

 

時代は降り、第十二代景行天皇の熊襲御親征の際、当地に行宮「髙屋宮」が建てられ、六年間御駐輦されたと『日本書紀』巻第七に明徴されています。武内宿禰が山稜聖跡である当地を選定したもので、約一千九百年前から皇神を崇め祀り、社殿が創建されたものと考えられています。次いで仁明天皇嘉祥二年の当社旧社家系図に神官就任の記録があり、古代における祭礼の執行を証しております。

 

平安末期から戦国期にかけて宇佐宮領村角別府が成立し、久しく髙屋八幡宮と称していましたが、延岡藩領となった江戸期の宝暦年間に髙屋宮に復しています。明治に入り現社名となりました。

 

近世初頭の慶長十六年社殿改棟札をはじめ、近現代にかけての棟札多数が残されており、古代から現代へと至る連綿とした祭祀と信仰の継続が国史上に明らかな宮崎県内屈指の古社であります。

なお、現社殿は明治初年に造営されております。

 

 

宮崎神道青年会HPより

創建は、古老の伝えるところによれば、一〇七代後陽成天皇慶長十六年(1611)社殿改造の棟木あり、また仁明天皇嘉祥二年(849)当宮の祠官となった旧社家の系図があることから、その古いことがうかがえる。
当社西方の小高い処は、彦火々出見命の山陵と言い伝え、「日本書紀」にいう「日向の高屋の小陵に葬る」とあるのは当地であると伝える。また景行天皇が六年間ご駐輦された高屋行宮址とも伝えている。このことは「日向五郡八院旧元集」に、「景行天皇が十一月日向の国に到り行宮を起こしてここに居たまう。これを高屋宮という。武内宿祢、彦火々出見命の山陵を知り、そこで御鎮座を定めた。これが村角高屋八幡宮である。」と書かれている。
山陵付近には命にちなむ地名が残っている。竹園(たけぞん)は、命のご降誕の時その臍の緒を切った竹刀を投げた所と伝える。袍ノ園(いやんそん)は、命の臍の緒を切った所と伝える。安園(やすぞん)は、命のご降誕の地と伝える。その他、天神川・御手洗川、犬ヶ城等の地名が残っている。
当社はもともと高野(高屋)八幡宮と称していたが、宝暦時代以降高屋宮と称するようになり、明治になって高屋神社と称し現在に至る。

 

 

髙屋神社は 緑の保全地区

 

手水舎

 

 

猿田彦神石塔が 多く残されています

 

 

 

 

 

 

 

弘法大師も祀されています

 

 

 

拝殿へ 

 

 

1月下旬の参拝で

まだ御正月の雰囲気が漂っていました

 

 

座布団に鎮座する

大きな打ち出の小づちが気になりました

 

 

「満珠・千珠」

よーく見てみました目

 

龍の手の中に珠

右端の波に珠

龍のしっぽに珠?うーん

 

どれが何だかよくわかりませんでしたガーン

 

 

「満珠・千珠」のすぐそば 若宮神社

 

参拝お願い

 

小さくて、年月を感じさせる風貌で

かわいらしい狛犬

 

 

ナギの木

 

 

 

 

髙屋山上陵

彦火々出見命御陵墓 へ

 

 

竹の鳥居から入ります

 

 

 

 

 

左が、寄付した方の名前が彫られた寄付石

 

他2体は、経年で形が削られてしまっていますが、おそらく、阿吽の仁王像

 

 

こちらが、御陵の中心

 

 

 

寄進された石塔

 

参拝お願い

 

 

髙屋神社の敷地内にもう1つ神社があります

 

 

奥の社殿が 美録神社

 

「みろく」なのか?

「びろく」なのか?

 

弥勒菩薩と関係があるのか?

美しいもの大切なものなどを、記録してあるのか?

コノハナサクヤヒメと関係があるのか?

 

分かりませんでした。

 

 

近くに、霧島神社やお寺などもあり

信仰深い地域だったのだと思います。

 

 

近くの 曹洞宗天正寺

 

 

古い石塔が多くあります

 

 

 

下三角下三角下三角下三角下三角下三角下三角下三角

「高屋神社」という名称の神社が

宮崎県西都市にも在ります 

 

 

神社発祥の由来は異なりますが

今現在の神社名は、同じです。

 

こちらも、景行天皇

熊襲征伐で 日向国に入り

御駐輦した地です。

島津氏の祖・惟宗忠久(これむねのただひさ)が、建久8年(1197年)に創建した

島津稲荷神社

 

島津忠久(惟宗忠久)は、大阪の住吉稲荷で生まれたという伝説があります指差し

 

忠久の母の丹後局は、源頼朝の正室・北条政子のねたみから鎌倉を追われ、僧永全とともに難を逃れて西国に行く途中、大阪の住吉神社で産気づき、頼朝の子として初代島津忠久公を生んだとも言われています。

このとき、暴雨風の中で守ってくれたのが稲荷大明神の狐火だったそうです炎

 

 

犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬犬

 

 

 島津稲荷神社へ⛩️

 

 

鳥居をくぐり 振り返ると

 

 

鳥居の 向こうに

大通りに面する一の鳥居が見えます

 

 

『三国名勝図会』には

御祭神

倉稲魂命

瓊瓊杵尊

伊弉諾尊

 

と記されているが

 

現在は

豊受媛大神

大宮売神

猿田彦神

 

を祭神する

 

平和記念之碑

 

社務所

 

 

参道を進みます

 

 

手水舎は、撮影の仕方が少し傾いているのもありますが、実際も結構傾いていて、ちょっとトリックアート感覚になりました無気力

 

 

植込みの中に 意味ありげな石がありました

 


 

 

二社を過ぎ

参道を進み

拝殿へ向かいます

 

 

この日は、あと数日で新年という年末

 

駐車場に人はいましたが、境内には人がなく

たくさんの雀と私だけ

 

また振り返ってみました

 

 

んー いい天気だ 照れ

 

 

大樹の根元に 小さな御狐ちゃんたちがいました

 

かわいー ラブ

 

 

こっちの木の根元にも ラブ

 

 

うふふ笑 うふふ笑 と

御狐ちゃんたちを見て

一人でニヤけていました 

(ひとに見られてなくてよかった)

 

 

参拝お願い

 

つづいて

拝殿の左の社へ

 

 

エイブルカラーの奉納旗がズラリびっくり

 

何十旗ものエイブル旗の中を通り

 

 

参拝お願い

 

つづいて

拝殿の右の社へ

 

 

こちらは赤い旗で

いろんな会社さんの名前があります

 

 

参拝お願い

 

 

狐ちゃんも居るけど

ウサギちゃんも居ましたうさぎ

 

 

またしても 振り返ってみました

 

 

緑と赤の旗は、陰陽なのか?

 

エイブルさんが社色の旗にしたかったから、たまたまそうなっただけとは思います

 

来た参道ではなく、こちらからも駐車場へ行けます

 

こちらも 大樹が いくつもあります

 

 

鳥や小動物

狐ちゃんたちの隠れ家にもよさそうです

 

 

道路から 神社をみました⛩️

 

気が付けば

振り返ってばかり爆笑

 

去年1年での最後の参拝神社で

自然と、1年間を振り返っていたのかな?と思いましたニコニコ

 

ありがとうございました

髪長媛を祀る早水神社から

車で7分車

 

髪長媛の弟・五百津御毛主大神(いおつみけぬしのおおかみ)を祀る乙戸神社に到着

 

この日は、午前に都城での用事を済ませ

昼前から3か所をまわりましたニコ

 

 

 

すでにグレーの静まりかえった空だったのですが

 

乙戸神社に着いて

パラパラと雨が降ってきました

 

写真は、相変わらずグレーがかって色味がありませんが

乙戸神社 参拝をご覧くださいニコニコ

 

 

乙戸神社

 

霧島酒造本社にもほど近い住宅街にあります

神社の隣は、下川東自治区公民館

 

 

この神社は、北郷讃岐守入道沙弥道端が沖水川の川端に建てたものが洪水のため、志和池の野々谷に流されたのを北郷家六代義久公が延徳二年(1490)にこの場所に再建された。

 

沖水川は、今ある乙戸神社から1㎞ほど離れているところにあります

そこから、志和池の野々美谷まで5~6㎞流されたと推測しますうーん

 

乙戸神社の祭神は、早水神社の祭神髪長媛の弟神と言われ、弟が故に「乙戸」に成ったと伝えられている。

又、社号を乙戸大明神と称されていた。

 

昔、髪長媛が仁徳天皇のお妃に召された折、弟神は守護役に任せられ、その後この地に祀られた。

 

古くから、川東、祝吉、千町、沖水地区の氏神様として崇拝されている。

乙戸神社は、家内安全、交通安全、商売繁盛、五穀豊穣などの祈願に参拝者が多く、家業の神として庶民に熱く尊崇されている神様であったと伝えられている。

 

 

鳥居をくぐると

右 左 に社があります

 

 

 

乙戸神社の説明板にあった

境内神社 神門神社(みかどじんじゃ)櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ) 豊磐間戸神(とよいわまどのかみ) かと思います

 

姉の髪長媛を祀る早川神社

東神門神社 西神門神社 がありました

 

 

境内は、広いです

 

 

 

手水舎に 古い 説明板がありました

 

 

新しい説明板には書いていなかったところを記載します↓

 

三年に一度御衣替として早水神社の御衣を乙戸神社へ譲る同社の祭神に着衣する事から弟神に麻す証明となりと地理誌に書かれている。

 

 

神社内には、川東第7児童公園があります

 

 

思いっきり天に枝を伸ばす木

氣持よさそう 爆笑

 

 

 

参拝お願い

 

末社 水天宮 は

都城市上川東四丁目に有るようです

 

 

神社への入口は、裏にもあります

 

 

神社の横、後ろは

思う存分遊べるスペースがあります

 

 

最近、シーソー

あまり見なくなったような気がします

 

個人的には、好きな遊具 音譜

 

 

乙戸神社は

まわりの土地より小高くなっていて

古墳だったのかな?と思ったりしました キョロキョロ

 

ありがとうございました

古代5世紀頃、日向国に

美人の誉れ高い女性がいました

 

名前は 髪長媛(かみながひめ)

 

諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)の娘の髪長媛は、美人の誉れ高く、その噂は、当時の天皇 応仁天皇の耳まで届いていました。

 

諸県君家(もろかたのきみけ)は

現在の宮崎県の 東・西・北諸県、南那珂、日南、串間、そして鹿児島県曽於郡に及ぶ広大な領域を統治していました。

 

応神天皇は、髪長媛を召し出し、大和に近い桑津邑(くわつむら)に住まわせました。

 

皇子の大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)(後の仁徳天皇)は、髪長媛の美しさに一目惚れし、恋慕され、想い悩まれるようになりました。

 

どんだけ美しいんだー ラブハート

 

それを知った応神天皇は、髪長媛をあきらめ

仁徳天皇に譲ることにしました。

 

髪長媛は、仁徳天皇の妃となりました。

 

二人の間には

大草香皇子 と 幡日皇女 が生まれました。

 

幡日皇女は、後に二十一代雄略天皇妃となられたことで、諸県君家と皇室は母子二代の深い間柄の親戚となりました。

 

娘の幡日皇女も美しかったんだろうなー ラブラブラブ

 

 

髪長媛を祀る

早水神社

 

宮崎県都城市早水町3866

 

 

 

鳥居をくぐり

 

左手に見えてきたのは

 

早水観音

 

 

縁結び 安産の 神様

 

 

むかしは、今の場所ではなく

東方へ150m付近にあり、

17番札所として宿坊もあったそうです。

 

廃仏毀釈で観音菩薩像や寺は焼滅

 

住民の強い願いにより、早水神社境内に再建されました

 

 

早水観音から

少し進むと

幢六地蔵 

 

 

廃仏毀釈で基礎や中台が失われています

 

 

幢六地蔵 の先へ進むと

 

沖水古墳

 

大正末期までは

あたりに小規模古墳が散在していたそうです

土地開発などで無くなっていってしまったのでしょうか

 

 

都城も古墳が多いところだったと思います

 

 

沖水古墳の先に進むと

 

髪長媛の泉水

 

髪長媛が産湯を使われた泉水

 

湧水を飲む、顔や手を洗うと美人になると伝えられています

 

 

髪長媛が泉水の畔に立っています

 

 

参道を進んでいくと

左に 西神門神社

 

 

右に 東神門神社

 

狛犬が見えてきました

 

 

奥が 拝殿です

 

御祭神

応神天皇
髪長姫
諸県君牛諸井

 

参拝お願い

 

 

 

昭和天皇の皇后・香淳皇后

皇太子妃となられた大正12年、早水神社に御来臨になり、境内から御先祖島津発祥の地祝吉御所旧跡を望まれました。

 

香淳皇后は、久邇宮邦彦王同妃俔子島津忠義公爵の令嬢)の第1王女子

 

香淳皇后もお輿入れの際は、水を汲んでいかれたそうです

 

 

拝殿から右へ進むと

早水馬頭神社

 

廃仏毀釈のため、装飾を削り落としたそうです

 

葉山神社

都城市五十市にあったそうですが

五十市競馬場の早水移転についてきた葉山神社は、競馬場廃止や家畜市場の移転などのため早水馬頭神社に合祀されました。

 

 

良子(ながこ)女王祝吉御所跡観望記念碑

(良子女王は、昭和天皇の皇后・香淳皇后)

 

 

昭和天皇の皇后・香淳皇后

皇室にないって皇太子妃になる前、

ご家族4人で九州を巡遊され、

島津出身のお母様のご先祖の

島津発祥地の祝吉御所跡を神社から観望されました

 

 

 

 

池に 架かる橋は

 

 

かみながひめのはし

 

 

池之大王神社

 

水神信仰から

縄文時代から神座が

弥生時代には祠が設けられた

 

 

早水神社は

広い公園内にあります

 

早水公園

 

馬? 

タツノオトシゴ恐竜くん? 龍龍? にも見える 

案内図

 

右側が 早水神社の方で

大きな道路を隔て左は、きれいに設備をされた体育文化センターや広場や公園があります

 

今回は、早水神社の方だけ行きましたが

公園全体をまわって

植物や池を楽しむのもよいと思いますニコニコ

 

ありがとうございました

去年は11月12月と

いろんなことで怒涛のように過ぎていき

ブログも数週間遅れのアップなど

タイムラグが多く驚き

まだ下書き保存に4つ、5つ?

いや、遡れば まだ下書きがあるかもしれません笑い泣き

 

年は変わりましたが

2025年の下書きブログからアップしていけたらと思っております

 

どうぞよろしくお願いしますニコニコ

 

馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬

 

 

「島津」と 聞くと

薩摩 や 鹿児島 

思い浮かべるかたが多いのではないでしょうか

 

島津亜矢さんを思い浮かべる人もいるかもカラオケ

 

実は、島津

宮崎県都城

とても深い関わりがありますニコ

 

 

都城島津発祥の地なのです

 

万寿年間(1024~1028年)に大宰大監(だざいのたいげん)・平季基(たいらのすえもと)が、当時「島津」という地名であった都城市郡元町周辺地域を開発し、関白・藤原頼通にこの土地を寄進しました。

これがのちに日本一の大荘園となる「島津荘」(しまづのしょう)のはじまりです。

 

文治元年(1185年)3月、源頼朝は、弟の義経らの力を借りて、壇の浦の合戦で平家を滅ぼし実権を握りました。

同年8月、島津荘の下司職(げすしき=荘園の管理人)に、惟宗忠久(これむねのただひさ)を任命します。

その後、惟宗忠久は、日向・大隅・薩摩3か国の守護島津荘の地頭となっていきました。

 

惟宗忠久は、荘園名から姓をとって「島津忠久」と名乗るようになりました。

 

地頭となった忠久は、都城の祝吉(いわよし)に館を造って移り住んだといわれ、今もその跡地と伝えられる場所(祝吉御所)に顕彰碑が立てられています。

 

これが「島津」姓の由来の地として

都城「島津家発祥の地」といわれる理由です。

 

島津は、鎌倉時代から幕末維新期まで約700年間、南九州を治めつづけました。

 

 

島津忠久

館を造って住んだ祝吉御所跡

都城市内の住宅密集地の街の中にあります

 

 宮崎県都城市郡元町2804

 

 

祝吉 って 

縁起がよい漢字の組み合わせですよねひらめき

 

 

 

 

 

後ろ側に回ってみました

 

 

「馬頭観音の由来」

 

よ、読みたいのに 読めませんでした 滝汗

 

この石碑のまわりの石が馬頭観音???

何か大事な石だと思います

 

 

広場のような何もないスペースもあります

 

 

車は、砂利が敷かれている駐車スペースにとめることができます

 

 

「島津」 地名

大荘園「島津荘」から

惟宗忠久が をとって

「島津忠久」になった

というお話でした 指差し

鳥取・島根で強い地震が相次いでいますね

地域の方は、とても不安だと思います

何より安全第一でお過ごしください

 

遠く離れた宮崎でも、

震度2、震度1が発生しています

 

西日本全体が揺れた

 

そんな感じを受けました

 

 

 

昨日、午後

宮崎市で 

ヘリコプターがホバリングをしていました

 

ドクターヘリ?

 

でも、こんな場所で

ずっとホバリングもおかしいうーん

 

色もブルーではなく

明らかに違います

 

何か確認してるのかな?

何かあったのか?

 

どこからも煙もでていないし

台風の後でもないし

何なんだろう

 

そう思いながらも、

ずっとヘリを見ていることはできないので

そのまま仕事に戻りました。

 

 

今日になり

昨日の ヘリコプターが

なぜ長時間ホバリングしていたのか分かりました

 

宮崎市役所そばの

大淀川の底から

250キロの不発弾が発見

されたそうです

 

 

6日未明まで

佐賀県の陸上自衛隊目達原駐屯地の不発弾処理隊が確認を行っていたそうです

 

 

 

太平洋戦争中の

アメリカ製250キロ爆弾の不発弾で

今後、宮崎市などと、付近の住民の避難範囲や交通規制などを協議したうえで、不発弾の信管を外す作業を行うということです。

ダイソー宮崎南店での買い物を終え、帰る時

そういえば、この近くに

前から気になっている神社があったうーんと思い、

ダイソーの駐車場から

徒歩1分 その神社へ向かいました。

 

こちらの神社です

 

 

鳥居の真向かいは 

カラオケコロッケ倶楽部赤江店カラオケ

 

神社前道路の突き当りは

城ケ崎清武線 車

 

この神社の名前は

何ていうんだろう?

 

鳥居に 「春日神社」 とありました

 

へー こちらに 春日神社さん ニコ

そうだったんだー

 

 

左手にある

春日神社の説明を読んでみました

 

 

春日神社は、地域の守り神として春日神(天児屋根命など4柱)をまつっています。

創建は不明ですが、明治23年(1890)の記録によれば、天正12年(1584)の棟札が残っていたことから、安土桃山時代には建立されていたことがわかります。

赤江町は、大淀川右岸に城ケ崎町と並んで所在していましたが、寛文2年(1662)の外所地震と津波で被災し現在地に移りました。春日神社もそのときに移転したと考えられます。

太平洋戦争の頃の道路拡張や戦後の地域開発などで、境内は狭くなりました。

赤江地区にあった観音、大師、地蔵、鵜戸山権現、恵比寿などの神仏は境内に合祀されました。

戦前まで行われていた夏祭りでは、若い男衆が神輿を担ぎ、リヤカーに地蔵を乗せて、赤江の上講・中講・下講を練り歩きました。

 

いろんなことがあって、いろんな神仏が集められ

時代の流れとともに、ぎゅうぎゅうの境内になってしまったのですね。

 

 

初めまして 失礼します ニコ

 

 

 

手水へ向かいます

 

 

 

小高い位置にガードレールがあります

この城ケ崎清武線は、混みやすい道路

 

 

井戸は壊れていて水が出せませんでした

 

「危ないから入ってはいけません」の看板の後ろは、雨水が流れる小さい溝

 


鳥居から 真正面に進んみ

社へ 向かいました

 

 

「赤江観世音菩薩」と書いてあります

 

春日神社の説明板によると

【赤江観音】

カギ町境にあった上講の民家から移転

 

 

イチョウがきれいでしたおねがい

 

 

赤江観音の 左後ろは

 

【杉田興助翁碑】

赤江酢等を経営し赤江町の慈善に尽くした杉田興助翁を祀る

 

ここから 鳥居に向かって 横並びに

紹介していきます 

 

 

【赤江大師】

「お大師様の山」の護国寺に祀ってあった

 

 

【石仏】

稲荷山の並びの里山「お大師様の山」にあった

稲荷山って

おそらくこの稲荷山のことかなと思いましたニコ

 

 

【赤江地蔵】

赤江大師とともに移転

 

 

【鵜戸山権現】

山内に接した下講の杜にあった

 

 

【恵比寿神社】

中講の醬油屋・酢屋の前から移転

 

ここで 鳥居まで きました。

 

最後に もう一つの社に向かいます。

この社は、

鳥居に向かって 後ろ向きに建っています。

 

なぜ鳥居に背を向けているのだろう?

向きに 違和感があるのですが

ぎゅうぎゅうだったから この向きになったのか??うーん

 

【春日神社】

鳥居に背を向けて立つ社は

春日神社 でした

 

鳥居に「春日神社」とあるので

真正面にあると思い込んでいました 

 

春日神社さん すみません

思い込みはいけないですね 汗うさぎ

 

参拝 お願い

 

 

赤江の歴史と神仏が集まった

春日神社

 

地域の皆さんに大切にされてきた歴史があり

今この場所で

いろんな神仏とともに

赤江の町を見守られていました

 

ありがとうございました

この日は、

南郷旅館を出て 宮崎市に帰ります

 

昨日、南郷に向かう途中、行こうと思っていた神社があったのですが、時間の関係で帰りに行くことにしました。

 

南郷から日向市東郷まで 車で約35分 車

 

山陰神社に到着

 

駐車場はこちらです

 

駐車場そばには

大きなイチョウの木、広い屋根付きスペースがあります

 

 

この奥の方に社が見えたので

こっちからも行けるかもしれないと思いましたが、道路に出て神社へ向かいました

 

 

緩やかな下り坂を 歩いていくと

鳥居が見えてきました

 

 

山陰神社 に着きました

 

 

鳥居の向こうから 

こちらを 何かが 見ています

ぬとーっという感じの半笑いで イヒ

 

 

河童? 妖怪的な雰囲気です

狛犬ですが河童なのか?

 

 

ようこそという歓迎 

見透かすような目 見定めているような

あざ笑うような 面白がっているような アセアセ

 

でも、なんか楽しいような

 

歓迎されていると解釈し

しっつれいしまーす 爆  笑

 

 

祭神 大己貴命(大黒さま)

 

天正6年(1578)の大友宗麟の乱入により神社に関する書類の多くは紛失したため創建の時期は定かではないが、約1300年前に遡り、天平勝宝8年(756)百済王が敗戦し朝鮮より逃れ、美郷町神門への途次、山䕃神社に休息のため立ち寄られ、その日の出来事が神楽にもなっている。創建は、養老の年代と推測される。

 

大友宗麟は、こちらでも神社破壊をしていたのですね悲しい

 

キリシタン大名の大友宗麟(洗礼名フランシスコ)は、キリスト教の布教を推進する過程で、特に日向国(現在の宮崎県・鹿児島県の一部)侵攻の際に、神社や仏閣の破却や焼き討ちを徹底的に行ったいました 悲しい

日向国に「神の国(キリシタン王国)」を建設する夢を抱き、この目的のため日本の神道や仏教を排撃し、神社仏閣を破壊。

 

山陰神社の由緒書きには「乱入された」とだけ書かれていますが、破壊はもちろん焼き討ちのようなことをされ文書は残っていないのではと思いましたぐすん

 

こちらの神社も大友宗麟の兵火にあっています

 

ちょっと悲しくなったけど、参道を進みます 

 

 

気持ちよい参道 キラキラ

 

 

「カッパと、なかよ~くしてね」の立て札

 

まずは 粟嶋神社

 

 

 

すごい!願掛けです

 

特別な願掛けは、髪の毛を切って使うようですガーン

 

呪術的~ 

 

 

チョロチョロと水が流れる音

 

水面が揺れて 透明で きれいだな 

 

粟嶋神社の裏手には

珍宝神(大国主命)がいらっしゃるようで

回ってみました

 

 

おっ!!!びっくり おったまげ

かなりリアルな陰陽さまがありました

掲載は控えます 生で見て参拝がよいですねチュー

 

 

境内に古墳があります

山陰古墳

直径約13m・高さ約4mの円墳

1935(昭和10)年指定 宮崎県指定史跡(東郷村古墳)

 

 

かっぱ像はコチラです

 

かっぱの後ろ姿が見えてきました

 

 

 

正面から拝見

 

 

長い柄の柄杓で

夫婦かっぱのお皿に水をかけました

 

目の前は、耳川

 

 

水が流れる音が心地よく 

カッパさんも川が見られてよい場所ですね

 

すると、弟が、「かっぱや!」

 

え??

え!!

 

「見てん!あそこ河童!」

 

どこ?

どこ?

 

「(指を指しながら)あれ!」

 

どれ? 

んーーーー 目

 

なんやー 釣り人やわー

おいーーー!

 

でも、もしかしたら人間に擬態した河童かもしれませんニコ

 

川を見たり、河童に水をあげたり

河童と戯れ 楽しくて うきうき

 

 

はいニコニコ すもうはしませんでした

 

 

この夫婦河童

元は、町の違う所に居て、山蔭神社にやってきたようです

 

そうだったんだー ほっこり

 

 

続きまして

八幡神社

 

 

 

参拝お願い

 

 

山蔭神社は、整備されていて(現在も整備中)

多くの方からの寄付で木が植えられ

町の人に愛されている神社だと

境内を回りながら感じました

 

 

こちらが山蔭神社です

 

 

参拝お願い

 

 

奥も狛犬が守っています

 

 

気持ちよさそうな龍たち

 

 

やはり地域性なのか

ここも黒色が使われています

 

伊佐賀神社跡

 

 

山蔭神社拝殿横に

結界が張られている所がありました

その中の 木の根元に鳥居が目

 

 

鳥居の中を見ると 

大黒様が数体いらっしゃいました

 

その木の後ろの石が、大黒様にも見えます

 

犬とか ドラえもん っぽくも見えたりニコニコ

 

 

山蔭神社(やまげじんじゃ)

とっても清々しく 気持ちの良い神社でした

 

川のせせらぎを見ながら、音をききながら

ボーっとするのもよいと思いました

 

ありがとうございました