美術館や図書館が隣接する

宮崎総合文化公園

 

公園には

郷土の先覚者の銅像がいくつかあります

 

着物と高下駄が印象的です

 

児童福祉の父 石井十次の像

 

 

 

 

石井十次は 宮崎県高鍋町の生まれ

岡山で医師を目指し医学研修時

生活に困窮する母親から

子どもを預かったことをきっかけに

日本初の孤児教育会を設立

 

医学の道を捨て 児童救済事業を開始

東奔西走しながら資金を集め

教育を施し 手に職を付けさせ

子どもたちを自立へと導きました

 

児童福祉制度がなかった明治時代に

児童救済に力を尽くしました

 

『岡山四聖人』の一人と称されているそうです

 

 

燃える炎のようなおもいと

行動力がある人だと思いますニコニコ

 

十次を生んだ 高鍋の教育風土
1865(慶応元)年、宮崎県児湯郡上江村馬場原(現・高鍋町馬場原)で生まれた石井十次。高鍋藩の下級武士である父 石井萬吉、母 乃婦子(のぶこ)の長男として、4歳で寺子屋へ入り、6歳で明倫堂に学びます。
名君と名高い秋月種茂公が創設した藩校明倫堂は、90年以上の歴史の中で「明倫堂教育」と呼ばれる教育文化を高鍋に根付かせていました。年配者を敬い親を大切にし、災難時には皆で助け合うといった、儒教的で徳を重んじる気風が、ここで生まれ育った十次の人格形成に大きく影響したと考えられます。
母は心やさしい女性で、近所に貧困する家や親のない子があれば物心両面で手助けしていました。その背中を見て育った十次もまた、困った人は放っておけない性格。十次7歳、『縄のおび』のエピソードは有名です。
『縄のおび』
十次7歳の頃、母に新調してもらった紬の帯をしめて、祭りに出かけました。すると神社の境内で友人の松ちゃんが泣いています。家が貧乏な松ちゃんは、ぼろのゆかたに縄の帯をしめて遊びに来ていたところ、何人かの子どもにいじめられたのです。
そこで十次は母が作ってくれた新しい帯を松ちゃんに渡し、自分は縄の帯をしめて松ちゃんを励まし助けました。家に帰っておそるおそる訳を話すと、母は「よいことをしたね」と頭をなでて誉めてくれたそうです。
口先だけでなく、自分のものを差し出して人を助ける十次の心は、心やさしい母を鏡にして育まれたのでしょう。
 

石井十次の言葉

「為せよ、屈するなかれ。時重なればその事必ず成らん」