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火星の通信メッセージ

チャネリングでマークさんという火星存在と交信し、地球の皆さんに伝えて欲しいと言われたメッセージを公開しています。

「今日は、夏の話をしましょう。
夏と冬は、表裏一体です。
どのように表裏一体かというと、自然を見ればわかります。
夏に出てくるものは冬に準備され、
冬に見えるものは夏に整えられているからです。」
 

例えば?


「木の芽。それ以外には、冬の雪山などです。」
 

冬の雪山は、どうしてですか?


「冬に降り積もる雪の、水分は、夏に浄化されたものです。
夏に海まで行き、浄化された水が上昇し、
そして冬に雪となり降り積もるのです。」
 

どうして表裏一体なのですか?


「それは、同じことの、表れのちがいだからです。
陰陽とも言いますが、元は同じエネルギーなのです。
夏と冬は、極と極、とも言えます。」
 

これを知って、どうするのですか?


「見極めるのです。真理を見極めるのです。
あなた方の、今ある状態に、これは大切なことです。
両極を大切にして下さい。
以上。」
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2016年12月12日  11:50頃(フランス時間)に書き出したものです。
 

いきなり「夏の話」と出てきて、え?今冬なのに…と思いました。(^^;)
書き出している最中には、とりあえず書いてはみているものの、意味があまり良くわかりませんでした。
見極める、その真理に関しては、これを読まれた方がそれぞれに思いをめぐらせてみてください。
 

前半に出ている「木の芽」は、この言葉が出る前にすでに私の中でイメージが浮かんでいました。
以前読んだ、動物行動学者の日高敏隆さんの本の中に、春になって芽吹く木の芽は前年の夏の間にすでに準備をされており、冬の間は眠っている…という話があり、そのようなイメージが頭に浮かんでいました。
良く考えてみると、芽の元になるものは“前年の夏”の間に準備されているという話なのだから、マークさんの言うこととちょっと違うようにも思いますが…
要するに、夏に青々と広がる木の葉と、冬の間にじっと動かない小さく硬い木の芽は、同じエネルギーの両極である…ということなのだと思います。


夏に葉を広げているその姿だけが木の本来の姿ではない。
冬に雪を降らせ積もらせることだけが本来の雪(水分?)の姿ではない。
そこには、人の目に見えないところでの循環の部分(舞台裏)がある。
その、目に見えない部分も含めて見ていく…ということかな、と私は思いました。


ちなみに、書き出しながら、「じゃあ、春と秋は?」という部分に関しての素早いやり取りも同時にありました。
一般的に考えられている季節感とは違い、夏(夏場)と冬(冬場)の期間が長く、春と秋は切り替わりの時期のイメージのようでした。
 

昨夜はテレビで映画を見ながら、陰と陽は同じくらいの強さでなければならないのだ、と思っていました。
陰の部分は、見えなくとも、陽と同じだけのエネルギーがあるのかもしれません。
だから、見えないからといって、陰を無視した生き方は、バランスを欠くということなのかもしれません。。。
陰陽のマークも、白と黒は同じ大きさですしね。

「今日は、月の話をしましょう。
月は、美しく輝いていますが、あの光は月が自ら
発するものではありません。
太陽の光により、月は輝いています。
あなたも同様に、多くの存在により、
あなたという人生を輝かせることができています。
皆、お互いに、そういう関係性になっているのです。
そこに貸し借りはありません。
ただ、つながりがあるだけです。
輝きの部分を、見ていきましょう。
発せられ、反射し、輝く光を。
それを互いの関係性の中に
見つけていきましょう。
それはとても美しい輝きです。
以上。」
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2016年12月9日  14:45頃(フランス時間)に書き出したものです。
 

これを書き出した時、あるポストカードに書かれていた言葉のことを思い出しました。
それは玄関のドアに磁石で貼っているのですが、2日ほど前に娘がそれを見て読んでいたので、なんとなく頭に残っていました。


それはこんな言葉です。


Tu ne peux cueillir une
fleur sans troubler
une étoile
Toutes choses par un
pouvoir immortel
de près ou de loin
de manière secrète
les unes aux autres
sont reliées
(あなたは、星を1つも乱すことなく花を摘むことはできないのです。
大いなる力によって全ての物事が、近くであろうと遠くであろうと、見えないやり方であろうと、各々が他のそれぞれと繋がっているのです。)


日本語訳には自信が無いので…大体こんな感じの意味、ということで。(^^;)


マークさんの話す「関係性」も、この言葉にある「繋がり」と同じものだと思います。
その関係性(繋がり)とは、あらゆる次元において…のことだと感じます。


この3次元世界においては、人間関係の場合であったり、出来事とか物質的な部分という、一見分断されたようなものにおいても…です。
(星に影響を及ぼすことなく花を摘むことはできない、という表現がまさにそれです。)


「加害者と被害者」という構図であっても、3次元的な部分にのみフォーカスするのではなく、別の次元にもフォーカスして別の視点でその出来事を眺めると、そこにある繋がりの別の部分が見えてくると思います。
加害者が被害者に借りがある…という形ではなく。
そこにあるのは、感情を抜きにした「関係性」。
表現のエネルギーの輝き。


自分が何か行動を起こすと、もしくは何か考えることをすると、それが他に影響を与える。
そういう目に見えない関係性、それが大勢の人たちの間で普通に行われている状態。
これをネットワークと言うのでしょうか。
そのネットワークの部分を、見ていく。感じていく。
そういう時に今あるのだなと思いました。

11月21日、お友達のともこさんのセッションを受けていたとき、私が以前から気になっていた存在にアクセスすることになりました。
その存在は、宇宙空間に浮いて大きく両手を広げて私を待っているような感じの、きれいな半透明の女性です。
今年に入ってから、何度か、ふとした瞬間にそのイメージが頭に浮かんでいたのです。
最近、あることをきっかけに何度もその女性が浮かんでいて、気になっていたのでした。


改めて彼女に繋がって、誰なのか聞いてみると、四次元空間に浮かんで待機している、半物質の世界から来た存在だということでした。。。
彼女はどうも、準備ができた人を連れて行く役目を持っているらしく、それで私を待っていたようで、「ようやく来てくれた」と言われました。


黒い空間の中にいる私たちの側には、ドラえもんのどこでもドアに似た感じの扉があり、その向こうがその、行くべき場所のようでした。
扉は勝手に開き、中にスッと入ると…
そこはいわゆる桃源郷のような美しい景色でした。シャンバラと言われる所かもしれません。


そこで「街に行く」と言われて、行った先が宇宙空間に出ました。
左手に地球が、右手に大きな宇宙船が見え、そのどちらの中にもその「街」があるように感じられました。


彼女の役目はそこで終わったらしく、一旦月に帰るといって去っていったので、私は宇宙船に入ることにしました。


そして、入ってみたら…
そこは、マークさんのいる宇宙船でした。
久々に、マークさんが出迎えてくれました。
例の蜘蛛宇宙人も後ろにいました。
そしてすぐに私の席に案内してくれ、「君が信じようが信じまいが、ここが君の席なんだ。」と。
ここで私は何をするのか聞くと、「地球を見守る。地球の青い大気を見守る。」と。
そして、「愛している。(君は我々の)仲間なのだ、クルーなのだ。」と言われました。


この日のセッション内でのアクセスはここで終わりました。
マークさんに会いに行くつもりでアクセスをしていたわけではなかったので、こんな風に繋がるなんて…と少し驚きました。


10月に入ってから急に、チャネリングに関して積極的な気分になれなくなってきて、だんだんと不安というか不信感のようなものが私の中に出てきていました。
このメッセージは正しいのだろうかとか、こんなことを書いて一体何になるんだろうか?などと思っていたのです。
今でもまだ少しそう思っている部分があります。
マークさんの、「君が信じようが信じまいが…」は、そういうところから来ています。


顕在意識の私がどう考えようが、そういう動きがあることは確か。
それに対して、私が信じようが疑おうが、それは私の自由である。
ただ、私がいくら疑ったところで、その動きがあること自体は変えられない。
それを知った上で、さぁどうする?伸るか反るか、という感じ。


私たちはこれから、新しい価値観の、新しい現実の世界を生きていくのだろうと思います。
その時に、その根底からの変化に対して、どう在るか。
3次元世界では見えないものを、信じることは、やっぱり最初は不安や疑いが伴います。
でも、信じるか信じないか…では無いのだと思います。

 

「今日は、星の話をしましょう。
以前、星間戦争の話をしたことがありますね。
その際に、私は言いました。あれはやるべきことでは無かったと。
後悔につながるものになってしまったのです。
しかし、それはまた、生き直すことができるのです、
あなたたちの手によって。
“人生”というもののあり方を、もう一度考え直してみて下さい。
そこにある価値を。
(今のあなたの)人生は、あなただけのものではなく、
そして今回限りのものでもなく、
個人を超えて皆つながっています。
それは、宇宙の星々に存在するものたちとの人生とも
繋がっているということです。
互いに影響を与え合っています。
だから今、一番肝心なのは、ただ生きることなのです。
自分らしく生きるとか、あるがままにとか、
言うことは(そう言う言葉で表現することは)できますが、
それと同じことです。
“ただ在る、あなた”を表現して下さい。
それは、ただ生きることによって、成り立ちます。
以上。」
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2016年12月6日  9:45頃(フランス時間)に書き出したものです。
 

今回、冒頭に出ている星間戦争の話というのは、2ヶ月ほど前の通信73に出ていた話ですが、この件に関しては通信内に限らず、マークさんから何度か、折に触れ耳にしていたという感じではあります。
しかし、深く話をされたことはまだ一度も無いです。
「やるべきことでは無かった」という言葉で彼から聞いてはいなかったと思いますが、そういう雰囲気は感じていました。


データの書き換えというのは、特に使命とか任務といったような雰囲気のものでは無いのだろうと、私は感じています。
今回の通信に出ているように、むしろ普通に生きていく中で、ついでに行われていく部分のことだろうと。
だからこそ、まず自分の生を全うすること、つまり自分が自分として生きること、自分を表現することがまず第一であり、それをやっていく中で、データの書き換えが自然と行われていく…ということなのだろうと私は受け止めています。


今回、出だしに「星」とありますが、それは宇宙空間に浮かぶ沢山の星々を指しているけれども、同時に、私たち一人ひとりの存在を星と表現しているように感じられました。


今回の人生が「私だけのものではない」というのは、縛りという意味ではなく、それはプレッシャーでもなく、ハーモニー、調和の状態をそのように表現しているのだと感じました。
その広がりを、意識して欲しい、そこに目を向けて欲しいということだと思います。


なぜ「ただ在る、私」を生きることが一番肝心なのかと言うと、それは、その部分(3次元世界で生きているという部分)でしか表現できない(=変えていけない)から、だと思います。
そういう意味で、常に自分を3次元(この現実世界)にアンカーして、しっかりと生きていくことが一番肝心なのだと思います。
私は、ふわふわ~っと抜けてしまいがちなので…(^^;)、肝に銘じないと。。。

「今日はまた、道について話しましょう。
道は、険しい時がありますが、心配せずに登りましょう。
険しく見えるだけで、本当はあなたは
そこ(中心)から一歩も動いていないのです。
どう感じるかは、全てあなた次第です。
これがニュートラルです。
あなたの感じるものは幻想、つまり
ニュートラルに付加されるものです。
それがわかると、実はあなたは常にニュートラルに
あったことに気付くでしょう。
そうすれば、全ての起きてくること、感情を
楽しむことができるようになります。
体験として。。。
以上。」
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2016年12月1日  14:50頃(フランス時間)に書き出したものです。
 

また、「道」の話です。
とはいえ前回とはちょっと内容が違い、自分の中心についての話のようです。


ニュートラルになるとか、中心に在るとか、そういう感じで、「ズレている自分を中心に戻す」ようなイメージが私の中にあったのですが、実はそうではなく、もともと私は(私たちは)ずっと「中心」つまり「ニュートラルの状態」にあり、そこにさまざまな色を重ねて見ているから、ズレているように感じているだけ…ということのようです。


書き出しながら私が感じていたイメージは、透明な球体の中心に自分が立ち、その球体(内側全体がスクリーン)に映る世界を見ているというもの。
実際に私たちが見ている世界が、実は全てただスクリーンに映っているだけという…。
自分は常にその球体の内側のスクリーンを見続けていて、自分が必死で走っていると感じている時、景色はいかにも自分が走っているかのように目の前を動いていくけれど、自分の位置は変わっていない、一歩も移動していない、というような感じ。
スマホを目の前に取り付けてバーチャルリアリティを体験する装置がありますが、あれと効果は似たような感じ。
自分はブレている…と思っていることさえも、じつは幻想であるとしたら。。。


ここで大切なのは、「道は本当は険しくないんだ」と軽く見て進むのではなく、本質的には「自分は中心から一歩も外れていない」と知った上で、そこに自分が勝手に色づけしていってる部分を細かく見ていき対処していくことだと思います。
道は本当は険しくないんだ、と思ってしまう(そこに焦点を当ててしまう)のは、自分が色づけた世界にさらに色を上乗せするに過ぎないのだと思います。
 

書き出したばかりで、まだまだ私もしっかりとは飲み込めてませんが…。