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何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

ドナルド・トランプと大谷翔平。この写真が絵的に面白いと思うのは、一方は非難され、一方は称賛される光と闇のコントラストと言うか、天使と悪魔が仲良く握手をしている奇抜な作品とも言える。それ故に、人々がどう反応したらいいのか戸惑いを感じてるのが正直な所だろう。
日本のメディアは、今日この日を待ってましたとばかりに、トランプと大谷の接触の瞬間を狙って、そこだけ切り抜いた場面のみを報道した。ホワイトハウスでは毎年、メジャーリーグのワールドシリーズの優勝チームが招かれ、その時の大統領から賛辞を貰う事が恒例行事なのだが、日本のメディアは、素直にそう報じず、まるでトランプが大谷に個人的に会いたがってる風なニュアンスの報道に仕立て上げた。
それは正しい報道とは言わないだろう。この場合、<ドジャースがホワイトハウスに招かれ、トランプ大統領と面会しました>と報じれば良いだけの話で、そこに態々、大谷と言うキーワードを入れて強調する必要性は無い訳だ。
強調する事はかえって逆効果で、国際的には日本のメディアが底意地の悪い、食い意地の張った度量の小ささを露呈してしまう事に繋がってしまうのである。日本だけが気持ち良ければいいと言うオナニー体質は改めるべきであろう。

 

 

テレビ関連で嫌な事件が続発している。松本人志、中居正広、フジテレビ、テレビ局員の不正、番組の不祥事・・・何故、テレビ局の不祥事は起きてしまうのか?
視聴率主義と言う言葉がある。つまり、テレビが見世物である以上、見て貰わなければ作る意味がないだろうと言う考え方。私は前に、時にメディアは暴力になると書いた事がある。どういう意味かと説明すると、発信する側は、どんな時でも常に一方通行であり、発信を受ける側は、それが例え嫌な情報だとしても一旦は受け止めねばならない。その上で、視聴者は見るか見ないかの決定権を持つ。
発進する側も一種の冒険ではある。何が人に受けるか判らないのだから、まずは発信してみるしかない。まだ何も知らない世間に不意を突く訳だから奇襲戦法と似てるかもしれない。

テレビを観ていれば、相変わらずメジャーリーグの大谷翔平フィーバーは続いている。その大谷を巡る報道でも、去年、行き過ぎた報道で日本テレビとフジテレビの二局がお𠮟りを受けた。ロサンゼルスで20数億円で買った家が上空から盗撮され、プライバシーを侵害されたとして、それをワイドショーで放送した二局が公共の電波の前で謝罪した。
何故、上空から大谷の自宅を空撮して放送をしようと言う発想に至ったのか?これも又、視聴率主義である。抜け駆け、出し抜きと言うか、何処よりも早く変わった事をやって注目されたいと言う想い。大体、そんな事をされれば、大谷に限らず嫌な想いをする筈である事は判りそうなモンなのに、敢えてそれをやってしまう所に、一線を越えた狂いの境地がある。

大谷と言えば、最近、新しい関連用語が増えてきた。その名も「大谷ハラスメント」「大谷アレルギー」と言うのだそうだ。
大谷ハラスメントと言うのは大谷側に立った用語で、要するに連日、朝から晩まで大谷報道が止む事無く報道され、特集され、常軌を逸したメディア側の過熱ぶりに警告を発する意味で使われるらしい。
大谷アレルギーと言うのは世間側からの視点用語で、テレビに現れ過ぎる大谷に対して拒絶反応し、視聴者の体調に何らかの異変をもたらす状態の事を言うらしい。
どちらも共通してるのは、行き過ぎ、ヤリ過ぎは、何事も嫌われると言う事。これを書いてる時点で、子供はまだ生まれてないと思うけど、これから生まれてくる子供のプライバシーは、どう言う風に守られていくんだろう。良い意味でも悪い意味でも、大谷はアメリカからすれば外国人であり、特異な視線で見られている人物なだけに、マスコミとの関係性も、より一層難しくなってくると思われる。
日本からしても他人事ではなく、真美子夫人の出産報道はするんだろうけど、何処から何処まで報道するのか?何処までが許されて何処までが許されないのか?節度ある報道とは何処から何処までを指すのか?国の大事の様に速報まで打って、第一報でニュースにするとかしてしまうのか?

こう言った所で報道姿勢が問われてくるだろう。

テレビとの向き合い方が変わりつつある。テレビにムカつきを覚える人達も明らかに増えている。それ以上にムカつく存在になっているのはネット記事だろう。イラつく表現用語をわざと使って煽る記事も日々増えている。どうしたら良いのだろうかと考えてみる。
不思議な魔法を掛けられてると言うか、見ればムカつくものを態々見に行ってる事に気付く時がある。嫌いな有名人が何を言ったとか、何をしたとか、一々、偵察に行く事が辞められない人達。嫌いなものほど観たくなる心理と言うか、怖いもの見たさとでも言うか。元来、人間と言う動物は臆病が基礎になっているんだと私は思う。臆病ゆえに物陰から様子を窺う。直接ではなく間接的に攻撃をしたがる。自分で攻撃するのが嫌だから他者に攻撃して貰う。
悪口や辛口の有名人の受けがイイのは、自分の負の念を代理してくれるからなのだろう。自分の意に沿った事をやってくれる人に、人は興味を抱く。自分と同じ側の人間だと気付く瞬間である。

最近、テレビの電源を落とす様になった。以前まで、チャンネルを変えると言う事をしていたが、それで済まなくなった。どうにもイライラするし、今のテレビの流れに対し、視聴率を僅かばかりでも上げたくないと言う頑固さが身に付いてきた。これって歳のせいなんだろうか。テレビを観てるより、本を読んだりゲームやったり、他の事をやっていた方が有意義に感じるのである。
テレビとの距離感を感じさせる今日この頃。

 

 

 

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横溝正史、松本清張、二人のミステリー大作家が一つの事件に魅了された。昭和13年、岡山県・津山市で起きた通称<津山事件>
深夜から夜明けまでに、一人の人間が30人を殺し、最後は自ら自害して果てた有名過ぎる日本史上最悪の事件。この事件は日本と言う領域を飛び越え、アメリカにも伝わり、類稀な事件としてファイル保管されているのだそうだ。
2025年現在、事件から87年目となった今年。衰える事無く、世代を超えて語られ続けるのは何故なんだろうか?津山事件に関して、それなりに書籍を読み込んできた私なのだが、様々な作家が様々な切り口で論じ、語り、書いてきた。取り分け印象に残ったのは、この事件に魅了される要素があるとすれば、そこには人間心理の奥底にある<負のロマン>を刺激されるからではないか?
我々人間と言う動物は、平常心を継続させながら日々を過ごしている。だが、何処かで他者を憎み、傷付けてやりたいと言う欲求を抑えながら生活をしている。
津山事件は都井睦雄(とい むつお)と言う21歳の青年による戦略的な大量殺人事件だった。最終的に自分が死ぬ事から逆算し、どうやって村人30人を一人で殺せるかを知力を尽くして実行したゲーム、ある種の実験性の高い事件であったとも言える。事件が行われていたリアルタイムの最中、深夜、静まり返った村から聞こえてきた猟銃の音は、木の板を竹で叩いた様な乾いた音だったと言う。ズドンと言う音ではなく、リアルに聞こえた音は<カーン、カーン>と言う叩く様な音だった。
殺人の動機に関しては、今日まで様々な切り口、推測、憶測で解釈されてきた。村八分と言う、簡単に例えれば<仲間外れによる被害妄想>と言う見解が多い。仲間外れの要因は、結核と言う感染率の高い肺病を持っていたと言う事になっているが、松本清張の調べによると、必ずしも事実はそうではないと綴っている。都井がもしも本格的な肺病を患っているのなら、あの様な真夜中に駆け回り、山を上り下りする事自体が不可能であろうと矛盾を突いている。
都井睦夫は何かを切っ掛けに殺人鬼に変身したのではなく、事件以前から常軌を逸する奇行があり、生まれつきの性格異常者だったのではないかと解釈している。この解釈は、実際に取材を試みた記者としての清張の結論であった。

 

 

横溝正史が、もしも八つ墓村を書かなかったら?

 

横溝正史の原作・八つ墓村と言う作品は、津山事件をベースに創作された。知られた話だが、横溝正史は岡山県に滞在していた時期がある。年表を調べてみると、昭和24年に八つ墓村は雑誌で連載された。津山事件から11年後の事であり、昭和46年に書籍化され現在に至っている。
昭和42年。もう一人の大作家が津山事件に興味を持った。松本清張である。清張ほどの大作家が横溝正史の八つ墓村を知らない筈はなく、二番煎じを避ける為、敢えて小説と言う手段は避けた。その代わりと言っては何だが、清張は横溝とは違う視点で津山事件に着手した。物語ではなく、どんな事件であったのか事実を余す所なくリアルに掘り下げる取材と言う形式で文字にした。それが昭和42年八月から43年の四月まで週刊読売で連載された「ミステリーの系譜」と言う作品。ミステリーの系譜は75年に中公文庫から書籍化された。ちなみに私の生まれた年である。
このミステリーの系譜と言う本。流石に年代物と言う事情もあり、中々、街の本屋さんでは入手しにくく、見掛ける事も無かったので、通販で注文して読んでみた。まず一言。凄いと素直に感じた。清張の文章力の凄さ、精密さ、グロさに圧倒された。
正直に書くが、私は松本清張の作品を一冊も読んだ事が無い。ミステリーの大作家と言う認識はあっても手を出す事が無かった。それが何故、読む気になったのか?これはもう、彼が津山事件に関して書いていた事が全てだと説明するしかない。それだけが購入意欲になった。
読んだ限りで書かせて頂くと、清張は明かに、この津山事件を題材にした作品を書きたい衝動に駆られていたに違いない。だが出来なかった。出来ないのではなく、敢えて取り掛からなかったとも言える。横溝の後を追う事を避けたのである。そこで思う。もしも、横溝が八つ墓村を書かなかったら、清張が八つ墓村とは違う形の津山事件・物語を描いた可能性は十分に考えられる。
結果として、八つ墓村の人気が凄過ぎて、清張の書いたミステリーの系譜は目立つ作品では無かったかもしれない。だけども、この一冊は是非とも読んでみるべきだと思う。松本清張って、どんな文章を書くんだろう?難しくて読み辛かったらどうしよう?そんな人達にとって入門書となる事、間違い無しと言える内容だと思う。事実、私の中で松本清張への想いが開いた。次に読んでみたい作品を買った。読書の幅を広げたいと常々思っていたので、本当に喜ばしい事だ。

 

恐怖の本質を知っていた松本清張と言う偉人!

 

ミステリーの系譜と言う本は、三つの事件を取り上げている。津山事件は、闇に駆ける猟銃と言うタイトルで事件を振り返る。昭和13年とは、どのような時代であったのか、都会人には理解出来そうもない村の在り方とはどう言うものなのか、その村に住む人々は、どんな日常を送っているのか、こう言った所から清張は切り込んでいく。
そして、読者が一番知りたい犯人の都井睦雄(とい むつお)と言う20代の青年が、どんな人物だったのかを書き綴る。彼は思い付きの狂人ではなく緻密なグリーンベレー。例えれば俳優のシルベスター・スタローンが演じた映画「ランボー」の主人公だった。
都井睦雄は軍人に憧れ、戦争に行きたかった男だった。肺の持病で兵役をハブられた彼の怒りは、村人に向けられた。事件後、この事件から生還した村の駐在警官は、事件前の都井睦雄と会話をしていた事実があった事が記録に残っている。駐在所で茶を飲みながら都井と警官は雑談していた。都井は四つの大胆な計画を警官に話す。

1;まず、警官の貴方を殺し、村の情報網を遮断する。

2:連絡の機能をストップさせ、その上で村人を襲撃する。

3:当然、騒ぎは拡大し、応援の部隊が村に駆け付ける。その応援部隊が車で侵入するであろう入口の坂に障害物を置き、降りて来た応援部隊を一人ずつ猟銃で発砲し人数を減らしていく。

4:応援部隊が増えた頃合いを見計らって、自分は村にある家を使って籠城戦を展開させ、自分の死を持って終わらせる。


茶を飲みながら聞いていた警官は、リアル過ぎる彼の構想に笑っていいのか、怒ったらいいのか、複雑な心境だったらしい事を語っている。
村の最初の犠牲者は同居していた祖母だった事は有名だが、この場面の描写を容赦なく清張は綴る。例の有名な武装を整えた都井は、コタツに入って仰向けに寝ている祖母の顔を覗き込む。頭には例の懐中電灯が差してあり、光の反応で祖母の顔は横に向く。その祖母の首に都井は斧を振り下ろした。一回で切断されたのではなく、数回、振り下ろした。祖母の首は向かいの障子に向かって飛び、跳ね返って畳の上に転がった。その首の表情は口の端で布をかむ時の表情だったと描写する。判り易く書くと、顔の半分が引っ張られた様な表情になっていた。この後に続く惨劇も、こんなノリで清張の文章が綴られていく。
 

三つのタイトルが収録されている訳だが、その一つのタイトルの中に他の類似した事件を掘り下げており、これらも読み応えがある。人肉を食うカニバリズムの事件、一つの殺人事件に二人の犯人が現れたと言う奇怪な事件も取り上げている。
清張は、こんな事を残している。

「現在の我々の恐怖は、生首やぶら下がった血染めの片腕ではない。それはあくまで日常の生活から出発していなければならない。普段の心理から理解されなければならない」

これは深い言葉である。
つまり、この世に蔓延する猟奇事件の全ては、何気ない普遍な所から始まっている。生首もバラバラ殺人も降って湧いた訳ではなく、日常の中で端を発する事であると、松本清張は訴えているのである。

 

 

 

 

 

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今回はリブログです。大好きな金田一映画だった悪霊島の監督、篠田正浩監督が今月25日に亡くなられました。巴御寮人を演じた岩下志麻のリアル御亭主です。

悪霊島と言う作品は、私自身、間違いなくネットでモノを書く切っ掛けになり、今現在に至るまで強い影響力を持った映画でした。主題歌のレット・イット・ビーの旋律と映像が怖い程合っていて、初めて観た時、トラウマになりました。岩下志麻と言う名女優を知ったのも、この映画が初めてで、少年の頃に見たトラウマ女優・四天王の一人です。

不思議なモノで、子供の頃、それだけ恐ろしかった悪霊島を今観ると、岩下志麻の怪しい美貌に惚れ惚れする。唯一無二、日本史上、最高峰の巴御寮人として後世の映画史で語られる事でしょう。この女優の魅力を引き出したのは監督の篠田正浩であり、巴御寮人とは、どう言う人物で、どうあれば良いのかを心得ていたとしか言いようがありません。

 

 

 

 

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おそらくと言うか、多分そうだと思うけど、里見八犬伝が好きな人が観たがってる映像作品って、83年に制作された角川映画の里見八犬伝をベースにしたリメイクなんだと思う。
角川版以降、何作か映像化されてきたんだけど、ハッキリ言ってどれも面白くないと言うのが正直な感想。面白くない理由と言うのは簡単で、元々の南総里見八犬伝の物語そのものが面白くないから。これを圧倒的に面白くしたのは鎌田敏夫と言う作家で、この人の書いた「新・里見八犬伝」を原作に角川版が作られた。結果、アレンジ版が大受けして本家を超えたと言う次第。三国志なんかでも三国志正史よりも三国志演義の方が面白いのと同じ理屈だろうと思う。
当たり外れが多かった角川映画だが、83年に作られた角川版・里見八犬伝は大当たりで、今でも語られ、愛され続け、最近では八犬士の一人・犬江新兵衛を演じた真田広之がアメリカで大きな賞を取って話題になった。

 

星に導かれたジョン・オバニオンと言う歌手について

 

日本は、こう言う映画を作らないと駄目だろう。いつまでも小出しで、お笑いやコメディー、御涙頂戴で逃げてないで、質の良い俳優陣を揃えて、思い切って製作費を掛けて、ドーンっとデカい映画を映画館でやってくれよ!って思う訳。
私は、この映画を観たのはテレビの映画番組で、83年公開だと8歳で小学3年生。小学6年生の時に観たのが最初だった記憶があるが、子供ながらに興奮と感動を覚えた素敵な作品であった。
まず、主題歌を歌うジョン・オバニオンと言う歌手で、長い年月を経た今でも記憶に残る歌声になった。角川版以降も作られてきた映像版に物足りなさを感じるのは、もしかしたらジョン・オバニオンの歌声が聞こえてこないからなのかもしれない。作品にピッタリのハマり過ぎる主題歌となった。
想い出に残る外人歌手とは言え、ジョン・オバニオンについては殆ど知らない。83年と言う時代はネットも無かった時代だから、よほどの音楽通でも無い限り、一般層が知る術は無かっただろう。やがて時代はネットの時代になり、ジョン・オバニオンについての情報が明らかになった。
 

角川版・里見八犬伝の主題歌を歌う2年前の81年にデビュー。翌年の82年3月に第11回東京音楽祭と言うイベントでグランプリを獲得。この時、35歳。調べてみると遅咲きの歌手である事が判る。
角川映画のプロデューサーだった角川春樹は中々の目敏い人で、皆が知らない世に埋もれた逸材を見出す才能に長けていた。里見八犬伝の映画化にあたり、主題歌をどうしようかと思案していた所に、ジョン・オバニオンと言う日本では無名に近い歌手の存在に目を付けた。
もう一つの閃きは、時代劇に洋楽のロックを使うと言う冒険に踏み切った事で、これが大成功。その後、時代劇映画で洋楽を使った作品は幾つかあるのだが、角川版の里見八犬伝は間違いなく、その先駆けとなった。
その後のジョン・オバニオンの活動については、日本では情報が殆どない。日本で新曲を出したとか、日本の芸能界で活動した形跡もなく、アメリカで細々と音楽活動をしている。俳優としても活動したらしい。時が流れて2007年、ツアー中に車に轢き逃げされると言う悲劇が起き、その年の2月14日に死去。享年59歳だった。
それにしても不思議な境遇の歌手である。ジョン・オバニオンにとって日本映画の主題歌を歌う事になっただけでも奇妙な縁で、それから多くの里見八犬伝のファンから愛され続ける存在になり、映画から24年後のバレンタインデーに亡くなると言う事実も、何処か運命的な導きを感じざるを得ない。
そう言えば、角川版・里見八犬伝のキャッチフレーズが「星よ、導きたまえ」だった。ジョン・オバニオンも又、光の玉を持つ八犬士の仲間だったのでは?・・・と想いを馳せたくなってしまうのは私だけだろうか。

 

 

 

人材登用が天下一品の男・角川春樹について

 

角川春樹はプライベートでお騒がせをする破天荒さで各方面に迷惑を掛けた人だが、人材を見つける能力は間違いなく本物だった。振り返ってみれば色んな人材が角川のプロデュースで輝いた。ヒロインの静姫を演じた薬師丸ひろ子もその一人で、彼女自身も後に書籍で「角川さんに拾われなかったら、今の私は間違いなく居なかったと思います。物は試しの角川のオーディションで落ちたら、教員か医療の道へ行こうと思ってましたから」と語っている。
角川作品の第一作となった「犬神家の一族」の金田一耕助役・石坂浩二は、元々映画から出てきた俳優ではなくテレビドラマで有名になった俳優だった。ハマリ役となった金田一をやる以前、1969年のNHK大河ドラマ「天と地と」で主役の上杉謙信を演じ、評価された彼だったが、かと言って軌道に乗る程の勢いではなかった。石坂浩二の俳優力は間違いなく一級品だが、角川の犬神家の一族で金田一をやっていなかったら、その後の彼の役者人生は違った展開になったのではないだろうか。この辺の人材起用においても、角川の先見の明には確かなモノが感じられる。

 

角川版・里見八犬伝の勝手にリメイク編

 

15年ほど前、以前やっていたブログで、角川版・里見八犬伝を何度か特集した事があり、その時に、今だったら各キャラの配役は誰が合うんだろう?・・・と妄想を働かせて、キャスティングして見た事があった。
15年と言う年月なので、今、私が考えてる配役と15年前とでは当然、事情が違ってくる。俳優達も変化が見られるし、新たに台頭した俳優も居る。そこを踏まえて配役遊びをしてみようと思う。最初にお断りしておくと、俳優達の細かい年齢設定は無し。この人がやったら面白いと言うイメージ重視でやってみたい。

キャスティング:八犬士と静姫の配役

静姫:広瀬すず 齋藤飛鳥

現在の勢いを見れば、もう、この人しか居ないだろうし、他の対抗馬も見当らない。無双状態の広瀬すず。この人は可愛さだけではなく、俳優としての風格とオーラがあると思う。静姫を演じさせるなら超が付くほどの安定感がある筈。
もう一人、面白い人選をしてみたのが元・乃木坂46の齋藤飛鳥。演技力は広瀬すずよりは劣ると思うけど、何故、選んだのかと言うと、昔の薬師丸ひろ子の顔によく似てるから。そう感じてる人って私だけか?と思う時もあるが、意外な演技力を見せてくれるかもしれない雰囲気と期待感は持ってる。
15年前にチョイスしたのは新垣結衣だった。彼女の当時の透明感と言うかオーラは、他の追随を許さなかった。体は少し大きめだが、姫様っぽい感じは十分に出ていた。当時なら見てみたかった。

犬江新兵衛:佐藤健 横浜流星

実の所、一番悩む人選。真田広之のイメージが強過ぎる。ルックス、スピード感、アクションの技量、これを併せ持ってる俳優って今居るのか?って言う位、見つからないし、唯一無二と言っても過言じゃないだろう。
外見だけで選ぶなら昔の木村拓哉となるのだが、トレンディー系のイメージが強すぎて何か違う感じがする。そこで今なら、アクションが得意そうな佐藤健となる。その点で選ぶと、横浜流星なんかも捨て難い。若さと勢いとルックスで選ぶなら、流星の新兵衛を見てみたい。

犬山道節:渡辺謙

驚くべき事に、15年前に挙げたのも渡辺謙だった。此処まで来ると個人的には不動の犬山道節かもしれない。15年前、もう一人挙げたのが松平健。この人の場合、弁慶的なイメージが強くなってしまうかなと思ったので今回は外した。
角川版では今は亡き千葉真一だったが、あの圧倒的な八犬士を率いるリーダー感は中々出せない。渡辺謙なら千葉さんとは違ったタイプのリーダー感が出せる筈。

犬村大角:内野聖陽

この方も15年前の構想と変わらない。選んだ理由と言うのは、大河ドラマ「風林火山」で主役の山本勘助を演じていたイメージだったと思う。野武士なんだけど知性を感じさせるタイプの俳優は意外と少ない。内野聖陽は、そこを感じさせてくれる数少ないタイプの俳優だと私は思う。
角川版では今は亡き寺田農だったが、寺田農は悪役が多かっただけに里見八犬伝の犬村大角と言う配役は意外だったし、役者の幅としても意外な一面を見た様な気がする。八犬士の中で最も参謀と言うか軍師に近いイメージだし、私の中で渡辺謙の道節と内野聖陽の大角が並んでいる姿を想像すると、ビックリするほど違和感が無かった訳である。

犬塚信乃:GACKT

八犬士で唯一のビジュアル系と言うイメージは、間違いなく角川版の京本政樹が作ったと思う。この作品の犬塚信乃を見ると、これ以降に作られる犬塚信乃は、こう言う感じじゃなきゃ嫌だと言う固定観念に囚われる。そこでリメイク版はGACKT様の御登場となる。
この人に役者としての天性が芽生えたのは大河ドラマ「風林火山」で演じた長尾景虎、景虎は後の上杉謙信だが、その後のゲームやアニメで描かれるビジュアル系の上杉謙信は、確実にGACKTの影響だろう。それまで髭面の厳つい僧兵みたいなイメージだった謙信のイメージは一変する。そして何よりも、こう言う謙信も中々良い感じだと思う。

犬坂毛野:長澤まさみ

最近では美女剣士みたいなイメージが定着しつつある長澤まさみ。ドラマ、映画、舞台、果てしない貪欲さが功を奏した結果だろう。素敵な女優さんになったと思う。
15年前の構想では仲間由紀恵だった。今となっては、長澤しか頭に浮かんでこないし、この人が凛とした姿で剣を振って妖魔軍団に立ち回る姿を想像するとワクワクしてくるではないか。
角川版では志緒美悦子が悲しくも美しく、華やかな演技を見せてくれた。名台詞「誰からも愛されず、誰も愛さず」と言う台詞は、観る者の心に響いた。そんな演技を今の長澤なら出来る技量があるだろうと言う事で、私は強く推薦したい。

犬田小文吾:阿部寛

犬田小文吾と犬川荘助は二人で一つと言うか、セットのイメージが強いのは角川版の影響なのだろう。大男と小男の組み合わせ。フランケンと背むし男と言ったらオカルトの見過ぎと言われそうだが、そう言えば「悪魔城ドラキュラ」と言うアクションゲームでは、フランケンの肩に乗った小人の背むし男が敵として登場したりする。里見八犬伝の映画とは関係ないのだがw
角川版では刈谷俊介。この人は西部警察の弁慶のイメージが強かった。寡黙な演技で雰囲気を出せる阿部寛は、小文吾のキャラにピッタリ合うと思った。小文吾と犬川荘助、あの語り草になった巨大な岩を支えて道を作って死んでいった二人の場面は今でも感動する。あれを阿部寛にやって貰いたいし、見てみたい。

犬川荘助:今が旬の子役(不特定多数)

角川版では福原拓也と言う少年が演じていたのだが、この人の情報が残念ながら無い。その後、芸能界を辞めたと言う事なんだろうか。
設定では犬川荘助は子供の姿をした成人らしい。特殊能力なんだろうか。それとも洞窟と言う地底で生まれ育った故の霊力なのか。小文吾の所でも書いたが、荘助と小文吾はセットのイメージが強い。これはこれで逆らう必要性も無いと思う。
15年前に選んだ子役は、当時まだ少年だった加藤清史郎だった。全くの偶然だが、阿部寛と加藤清史郎は大河ドラマ「天地人」で共演している。阿部寛は上杉謙信、加藤清史郎は少年時代の直江兼続だった。加藤清史郎も流石に成人してしまったので選ぶ事は無いが、子役は時代によって違うので選びようがない。その時の旬な子役でイイと思う。

犬飼現八:山田孝之

最もハグレ感を感じさせてくれる八犬士の一人。角川版では大場健二が演じた。角川版では意外過ぎる所から八犬士の一人となったが、ハグレ的なイメージは、その辺から来てるのだろう。
リメイクとなれば誰が合うかな?と考えたら、すぐに出てきたのが山田孝之。何を考えてるのか判らない様な不気味な感じと言うか、無表情と言うか無感情と言うか、静かなる猛将みたいなイメージがある犬飼源八。彼なら合うかなと素直に思った。
角川版では活躍が乏しくアッサリ死んだ感じだが、赤備えを着て槍を振り回して豪快に暴れ回る源八の姿を見たい。

伏姫:薬師丸ひろ子(絵巻のナレーション)

リメイクとなれば、この人にも何らかの役で出て貰いたい。そこで伏姫はどうだろう?と思った。
伏姫は静姫の先祖であり、角川版では絵巻の中で語られる宝玉の伝説と、里見家と蟇田家の宿命と因縁の重要人物として登場する。そのシーンではナレーションと絵で語られていくのだが、伏姫のナレーションをやっていたのが松坂慶子だった。この役を薬師丸ひろ子がやってみてはどうだろうか?と言うのが私の発想。
オマージュとしては最高だし、角川版が好きな人ならテンションが上がる事、間違い無し。八犬士が揃い、八大童子の石像に八つの宝玉を嵌めた時に現れる愛犬・八房に跨った光の使者。「よくぞ来た、八人の剣士達。この弓を静姫に与えよ」と言う台詞を薬師丸ひろ子に言ってもらいたい。嬉しくて鳥肌が立つ。

妖魔軍団のキャスティング

玉梓(たまずさ):天海祐希 米倉涼子

角川版のダークヒロインと言ってもいい程の存在で、素晴らしい妖艶な玉梓を演じた夏木マリ。後年になって夏木マリが語った話によると、玉梓を演じるに当たって特に気を使ったのは眼だったらしい。なるほど、確かに映画を観てると夏木マリが喋ってる時、瞬きをしていない事に気付く。グワっと見開いた眼差しが強く鋭く、観る者を刺す様な演技であった。この怖さをリメイクで誰が出せそうか?
15年前に挙げた候補も米倉涼子であった。今回追加したのは天海祐希。玉梓の持つ女王っぽさは宝塚的な雰囲気を感じる。であれば、この人だろうと。それと、この役は長身の人の方が合うと思う。夏木マリは大きくない人だが、夏木マリによると撮影の時は厚底の靴を履いて演じたらしい。
その点で言えば、米倉も天海も合格。何よりも二人とも強そうな所がイイ。声のトーンを低くして「静姫の首はまだか!」と怒鳴りつけるシーンを見てみたい。どちらを見たいかと言えば、今だったら天海祐希かなと。

蟇田素藤:福山雅治 谷原章介

最初、何て読むのか判らなかったキャラで、<ひきた もとふじ>と読む。一応、書いておこう。
玉梓とは親子の関係なのだが、ラスボス的なのは母親の玉梓。妖魔軍団の党首は蟇田素藤であり、静姫の目標は打倒・蟇田素藤である。この映画の玉梓と素藤は異常な関係で、母子でキスをする。この演出の狙いとは、魔族と化した二人の禍々しさを誇張する為だと思われる。その効果は確かにあったとみていいだろう。
角川版では目黒祐樹が演じた。目黒祐樹の顔はハーフっぽいイケメン顔で、青白いメイクが冴えている。物語から遡る事100年前、里見家に城攻めされた際、少年だった素藤は顔に火傷を負い、魔性に転生した際は成人として転生したが、皮膚の再生は完全では無かった。その皮膚を埋める最後の作業が静姫の皮膚で、この辺のサイコっぽさが素藤の売りでもある。
イケメンでサイコっぽさを出せる俳優は誰かな?と考えたら、福山雅治と谷原章介の二人が浮かんできた。素藤は、背が高めのイケメンの方が冴えるだろう。谷原章介は大河ドラマでサディストっぽい感じの今川義元を演じた時の印象が深く残った。この辺が選んだ理由の一つ。
福山雅治はベビーフェイスの役が多く感じるが、この人の真の良さは<悪役>にあると私は見る。あの風貌、あの喋り方、あの声、これはもう素藤に適任の人の様に思う。絶対、似合うと思う。

妖之介 :玉木宏

妖之介って言うキャラは、どう言う立ち位置なんだろう?と観る度に考えるのだが、シレっと居る所を見ると蟇田家に仕えた小姓と考えるのが妥当だろう。落城の際に討ち死にし、魔性の者として転生したのである。
八犬士の紅一点・犬坂毛野に惚れた所を見るに、魔となっても恋をする感性は失って無い様である。蛇を操るのを得意とし、同じく毛野も蛇を扱う。妖之介いわく「同じ匂いがする」と言う事らしい。
ヌルっとしたイメージが合う。角川版では今は亡き萩原流行がエロく演じてくれた。玉木宏はヌルっとして蛇っぽいし声も色気がある。15年前も、この人を選んだ記憶がある。

幻人:笹野高史 

妖魔軍の軍師の様な老人。薬学に長けてるらしく、死んだ人間を生き返らせる術を使う。ゾンビ使いとも言えるし、死体を操るネクロマンサーとも言える。
角川ではベテラン俳優の汐路章が演じた。必然的に爺さんっぽい俳優となるのだが、色んな人が浮かんだ。タモリ辺りが本気で演技すればイイ感じに思えるし、笑福亭鶴瓶でもイイ感じがする。求めるのは<怪しいジジイ>と言うイメージ。
そこで大安定なのが笹野高史。この人なら文句無しの演技をしてくれる。

船虫:渡辺えり

視力を失っている老婆で、その正体は人を食い殺す大ムカデ。目が見えないのに八犬士の光の玉は見えると言う矛盾があるが、もしかしたら失明では無く、微かに見える程度なのかもしれない。
角川ではヨネヤマ・ママコが演じてくれたが、この人は役者ではなくパントマイムのパフォーマーが本職。どう言う経緯で選ばれたのか不明だが、役者顔負けの怖い演技を披露してくれて、少年の頃、すごく印象に残った。
華奢なイメージだが、リメイクとなれば、もう少しフックラしてても良いと思う。そこで渡辺えり。オバちゃん俳優と言う点では泉ピン子と言う線もあるが、ピン子だとイメージが違う。
この映画のオープニングって、里見家が妖魔軍団によって落城し、静姫の一族が首を取られたシーンから始まるのだが、私は、このシーンを映像にすべきだと思う。どうやって城が落とされたのか?そこに、どんな静姫と家族のドラマがあったのか?静姫がどうやって城を脱出したのか?
そう考えると想像が膨らむ。大ムカデに変身した船虫が城内を暴れ回って、兵達を食い荒らすシーンとか考えると、楽しくなってくる。リメイクするなら、渡辺えりが凶暴な大ムカデになって暴れるシーンを見たい。

浜路:有村架純

八犬士の一人・犬塚信乃の腹違いの妹。信乃は義理のお兄ちゃんと言う関係なのだが、あろう事か、そのお兄ちゃんに恋心を抱いている。この辺の設定も、この時代にしては新しかったのではなかろうか?
角川で演じたのは岡田奈々。このキャラのポイントは<妹キャラ>で、お兄ちゃんを好き過ぎて、他の人を好きになれないと言う雰囲気を持ってる女優さんに限られてくる。よって強い女には務まらない。
いっそ、アイドルから候補を挙げようかと思ったのだが思い留まり、この人ならどうか?と思ったのが有村架純。と言う事でリメイク版では、GACKTお兄ちゃんが好き過ぎて代官様となんて結婚出来ないと駄々をこねて困らせる事になる。二人の顛末については、角川版と同様、悲し過ぎる展開が待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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驚くべき事に、ウクライナのゼレンスキー大統領は私より3歳も年下だった
75年生まれの世代は、今年50歳の大台に乗る。去年で40代が終わってしまったのである。それ故に去年一年は、それなりに感慨深い年になった。身の周りを取り巻く状況や環境、先行きや健康への不安。振り返れば、こう言った想いは、10代、20代、30代の頃には考えもしてなかった様に思う。40代になって少し考え始めた。何の不安なのか考えてみると、見えない先に対して、あれこれ考える様になる。そして嫌な想像ばかりしてしまう。何故か明るい未来と言うポジティブな気持ちになれない自分が居る。

ふと、ゼレンスキーに想いを巡らしてみる。年下で、今まさに危急存亡と言うか、国を背負い、生きるか死ぬかの毎日を彼は送っている。
ゼレンスキーにとって強烈な不安だったのは、去年のアメリカ大統領選だったに違いない。当てにしていたバイデン大統領が体調不良で副大統領のハリスに変わった時、勢いがトランプに流れるであろう事を予想したに違いない。そのトランプは、大統領になる以前からゼレンスキーに不信感を持っていた。「ゼレンスキーは世界一のセールスマンだ」と言う言葉に込められた痛烈な皮肉からしても、好意を持たれていない事は明らかだった。
トランプが大統領になったら、もう支援をして貰えないかもしれないと言う予感。トランプに痛い所を突かれたのは、カードが無いと言う指摘だった。この際、カードと言う言葉の意味は、交渉のアイテムと言う例えで、ビジネスマン出身のトランプは、何事も取引であり、外交とは、そう言うやり取りが必要であり、その上で互いの腹を探り合い、落とし所を見つけ、損得を考え、納得のいく形で交渉を成立させる。ビジネスに生きる人達なら、それこそが鉄則とも言えるルールなのだと、トランプの交渉術に理解を示すのかもしれない。
事実、ゼレンスキーの此処までの交渉術はプレゼンテーションに近かった。ぶっちゃけてしまえば、無償の援助をしてくれと言う内容だった。この無償の援助に関してゼレンスキーは切り札を持っていた。それは物や金ではない。国同士が交わした<条約>と言うカードだった。
その条約とは、ウクライナが核を捨てると言う条件で、外国が安全保障をすると言う約束だった。その外国の中にアメリカとロシアも入っていた。直後、ロシアは裏切った。裏切ったロシアに対し、アメリカは何も制裁しなかった。ウクライナの領地は次々と武力で切り取られた。ヒラリー、オバマ、バイデン、トランプ、アメリカの大統領達は何もしてくれなかった。ホワイトハウスで起きたトランプとゼレンスキーの歴史的な口論の発端は正にそこだった。

 

 

日本時間の早朝4時過ぎ、私用を終えてテレビのチャンネルをNHKに回した所、偶然にもホワイトハウスで行われたゼレンスキーとトランプの安全保障をめぐる記者会見を放送していた。放送は生ではなく録画だったが、日本の何処のテレビ局よりも、いち早く放送したのはNHKだった。
キーワードになった<安全保障>と言うのは、時の大統領の気分で変わっていいモノではなく、国と国との約束として考えなければならない筈で、ウクライナが核を廃絶した時点で、非武装となったウクライナが外国によって守られなければならない事が成立しているので、「俺は知らん。前の大統領達が決めた事だ」と突き放すのは詐欺行為に近いのではないか。
要するにゼレンスキーは裏切られた被害者の立場で、条約にアメリカが関わっている以上、そこに関してはどう請け負ってくれるんだと怒気を含んだ物言いになったのは自然な反応だった。

会見後の世界の殆どの反応はゼレンスキーを評価した。アウェイと言う立場でありながら、ゼレンスキーは現状と状況と、これまで経緯を嘘偽りなく正直に訴えた。
 

トランプとゼレンスキーのやり取りは、判り易く例えれば、金持ちが貧乏人に「俺達が恵んでやってるから御前等は生きてられるんだろう?」と言うニュアンスに近い響きがあった。でなければ、昔の日本の親父たちが発した「誰の御蔭で飯が食えてんだ」と言う響きにも近い。あの会見は見ようによっては親子喧嘩みたいでもあり、実際、二人の年齢差は親子に近い。
世の中には、喧嘩して仲良くなると言う展開も実際ある。何故そうなるか?と言うと、喧嘩ほど相手の人物が見えるモノは無いからだろう。その時は互いがヒートアップしていても、時間が経てば冷静になり、その喧嘩がどう言う類のモノであったのかが見えてくる。

喧嘩相手が何を言いたかったのか?

何を訴えたかったのか?

何を求めたのか?

ジックリと煮込んだ旨いシチューの様に味わいのある喧嘩であった事にジワジワと気付いてくる。そうやって気心が互いに知れて来る。
ウクライナにとって最良の展開とは、頑固親父のトランプが「ゼレンスキーの小僧は中々やりおる。面白いから手を貸してやるか」となれば、不名誉な会見が一変して、歴史的な名誉ある会見となるに違いないのである。

 

 

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