俳優にとって<イメージ>と言う要素は重要だ。
貴族的風貌の吸血鬼ドラキュラのイメージが往年の名俳優・クリストファー・リーなんだとすれば、モダンな吸血鬼の象徴的存在を確立させたのは、間違いなくフライトナイトのクリス・サランドン(Chris Sarandon)なんだろうなと、つくづく思う。
何処にでもありそうな閑静な空き家に、ある日、突然やってきた独身の何処か普通じゃないミステリーな雰囲気の男。おまけに長身で端整でセクシー。でも、その正体は人間の生き血を吸う残忍な吸血鬼!
クリス・サランドンを日本の芸能人で例えるなら、福山雅治や谷原章介あたりがベッタリとした吸血鬼のイメージにピッタリだろう。
日本でクリス・サランドンと言う俳優を語る時、一番手っ取り早いのは、日本でも有名な名女優・スーザン・サランドンの元旦那と紹介するのが一番早い。
俳優としての地位や格はスーザンの方が断トツに上だったし、クリスは役者としては恵まれていなかった。コアなファンを獲得したフライトナイト以前に演じた役はと言うと、ホモ、変質者、殺人鬼と言った、誰がどう観ても普通じゃない役ばかり。
そんな彼が85年に飛躍を遂げる事になった運命的な作品に巡り合う。それがフライトナイト。
「今度は吸血鬼か・・・」
役に恵まれないクリスは内心そう思った事だろう。だが彼の思惑とは裏腹にフライトナイトで演じた吸血鬼・ジェリー・ダンドリッジのキャラクターは大受けした。。ダンドリッジは普通の私服を纏い、ディスコでダンスし、ウィットなジョークを飛ばす。
主人公・チャーリーの彼女を横取りし、噛み付いて我が物としてしまうダンドリッジ。深夜、チャーリーの家に忍び込み、その母親に噛み付くと見せかけて素通りする茶目っ気すら見せたダンドリッジ。女しか噛まないと思いきやチャーリーの友人のエドも手に掛けてしまうホモっ気すら見せるダンドリッジ。
今やジェリー・ダンドリッジと言うキャラクターを確立させてしまったクリス・サランドンも今年で80歳。映画活動はしてないが、ER緊急救命室やコールドケースなどのメジャーな海外ドラマでゲスト出演してくれた事もある。
そんなクリスはインタビューや講演会。何処へ行ってもフライトナイトのセクシーな吸血鬼・ジェリー・ダンドリッジとして見られる。その現象はクリストファー・リーが何処へ行ってもドラキュラとして見られるのと全く同じだ。
女がそこに居るだけで誘惑され血を吸われるかもしれないと錯覚を起こさせる男。それがクリス・サランドンと言う俳優なのだ。
アメリカの大統領がトランプだろうがバイデンだろうが、世界のリーダーとして、あらゆる方面でのバランス維持を最優先して貰いたいと思う。平等なんて言葉が幻想な以上、どこまでならやっていいかと言う忖度と折り合いが必要だと言う事。多くの人は偉大な事をやってくれるリーダーなんて求めてない。
日本だけの事を考えた場合、個人的な意見だけど、もう少しの期間、トランプの持つ<強さ>が必要だと思っている。それは北朝鮮問題もそうだし、日本は特に防衛面での強い味方が絶対的に必要な国だからだ。日本の人口が減り続けると言う事は、日本を守る人達が居なくなっていく事を意味する訳だし、今から100年後の日本がどうなっているのかを想像すると、怖い気がしてくる。
おそらく侵略されるか、取り込まれるか。日本が単体で生き抜く事は不可能だと思う。100年後、日本がどうなろうと今生きている我々には関係が無くなる。何故ならば、今生きている我々は居ない訳だし、たった今、今日生まれた子供達も普通に考えて、この世に居ないだろう。
過去の時代を生きた先人達も、きっとそう思っていた筈で、今を生きる為に研究に明け暮れ、発明し、その結果、たまたま先の時代の役に立っただけの事だと私は思っている。過去の先人を褒めると言う習慣を持つのは、その時代を生きる人達の「そうあって欲しい」と言う願いを込めたエゴでしかない。現代人は100年後の未来の事なんて考えず、今を生き抜いて人生を全う出来ればいい。100年後の事は100年後の人達に任せる。
テレビで先の見えない未来に対して綺麗事を抜かす人達の言葉を聞いてると、イカサマに思えて仕方がない。心にも無い事を発言して関心を買おうとしてるのだろう。ポジティブが全て良い訳ではない。ネガティブも必要に応じて混ぜ込んでバランスが保たれる。ネガティブばかりだと人に悪影響を及ぼしてしまう。だからバランスなのだ。
アメリカ大統領選挙の報道を観ていた時、どう見ても日本のマスコミはバイデン歓迎、トランプ辞めてくれの度合いが強かった。実の所、この報道の仕方は義理人情に反する。
トランプ就任後、彼の強引さに悩まされる部分はあったにせよ、防衛面ではかなり救われた部分がある。例えば北朝鮮問題。オバマの時代にはポンポン飛んできた日本海への実験ミサイルが、どう言う訳か飛んでこなくなった。元・アメリカ大統領のオバマは、北朝鮮に対する経済政策を緩め、甘やかした。その結果、北朝鮮は悠々とミサイル実験に金を投資する余裕が出来た。試作のミサイルが完成する度に日本の海に飛んできて日本は大騒ぎになった。
少なくとも、トランプはオバマよりは日本の事を考えてくれた。自分の息子ほど年の離れた北朝鮮の指導者・金正恩と話を付け、日本に対するミサイル実験を辞めさせた。ガキ大将っぽい一面のあるトランプの強さと言うのは、こう言う所では威力を発揮した。金正恩も最初こそトランプを警戒したが、実際に接してみると意外に話の判るオヤジだと判断したようだ。
どんなやり取りがあったのか、そこまでは判る筈も無いが、何はともあれ懐柔には成功した。こう言った事実は日本にとっては<恩>であり、日本のマスコミのやっていた偏向は、侍、義理人情、ワビサビを重んじる日本のやり方に反していて違和感を感じる。
今の日本を、これ以上ない一言で表した作家が二人いた。五木寛之と西部邁である。
五木寛之は、現代日本を<希望の無い国>と表現した。この言葉が出たのは今から10年以上前である。10年以上たった今もピッタリくる<希望の無い国>と言う表現。日本の未来を言い当てた当時の五木寛之には何が見えていたのだろうか。先見の明と言うか並の感性ではない。チャラけたバラエティ作家には到底追い付けない境地だろう。
日本は戦争も起きず、飽食で、水にも恵まれ、環境には恵まれるも本当に幸せな人って余り見かけない。毎年自殺者は数万を超え、日本で生まれた日本人が苦しんでいる。人の思考とは浅はかなもので、今が不幸だと昔に戻りたがる。そういう人達にとっては、どうやら昔の方が幸せだったらしい。
西部邁も又、東京MXの番組で日本は統合失調症の様な国だと発言した。この言葉を言った経緯に東日本大震災がある。
大震災の後、東北は大混乱を起こし、泥まみれでバケツに水を汲んでいる人達が居る一方で、関東地方は動物園にパンダは必要なのか?と言うパンダ騒ぎで賑わっていた。西部邁は、その光景を見て、あっちでは泣き、こっちでは笑ってると皮肉を込めた。
私は西部邁と言う憎たらしい老人が大好きだった。言い当てたブラックユーモアの影響なのか、晩年は若いファンも出来たのだと言う。彼のキャラを考えれば意外過ぎる人生の最後だった。只の自殺ではなく、弟子とも言える知人に死の手伝いをさせた。この事実を知った時に「おいおい先生、そういうキャラじゃないだろう」と私は嘆いた。
自殺の動機は色んな説がある。不治の病に侵されていたとか、先立たれた妻への想いと落胆が原因とか、日本への失望感からの精神薄弱だとか。判っていた事と言えば、晩年は東洋医学に凝り、手にはいつも黒革の手袋をしていた事くらいだろうか。
スターは孤独であると、誰が言ったかは知らないが、メジャーリーグで大活躍の大谷翔平を見てると相当な孤独と向き合ってるんだろうなと思う。
報道されるホームラン数よりも気になるのは、この数字を叩き出す背景である。その背景とは明らかに孤独であり、孤独でなければ出せない数字だろう。寝ても覚めても、飯を食ってても、野球の事を考え続け、トレーニングする事でしかモチベーションを維持する方法は無い。小説でも漫画でも他のスポーツでも、プロの世界は皆そうなのだろう。心休まる時が無い。その犠牲ゆえの記録であり、名声であり、報酬であり、他者からの称賛なのだろう。
引き合いに出されるベーブルースと言う殆どの現代人が見た事も無い100年以上前のベースボールの英雄も、今を生きるハイテク・メジャーリーガーと競争したら勝負にならないだろう。記録の上で抜かれなくても実質では、とっくの昔に抜かれている。球場の規模、打法、投法、ベーブルースが今現役だったら、並の選手か、それ以下だった可能性もある。
もう一つ重要なのは、アメリカの英雄を日本人が超えてはならないと言う暗黙の掟がある事だろう。日本人が頂点に立って、それをアメリカ人が崇めると言う画を造ってはいけないと言う事。
たかがベースボール、たかがスポーツと言う御気楽で済ませられない背景に何がるかと言えば政治である。過去の戦争でアメリカを手こずらせた日本。アメリカの最後の手段は広島への原爆投下だった。
何故、落としたのか?
勝利こそ我が国アメリカと言うプライドが、原爆を投下させた。最後には勝っていなければならない国、それがアメリカなのである。やがて戦争が終わり、そのプライドは<ルールのある戦い>であるスポーツに向けられた。
大谷翔平はホームランを打ち過ぎると控えに回される。バッターボックスに立てば明らかに意図的なデッドボールが飛んでくる。ストライクゾーンから離れたボール球も強引にストライク判定される。今、大谷が戦っているのはメジャーリーグ機構と言う、とてつもないデカい組織なのである。
怪我でもないのにスタメンから外され、代打で登場する大谷に「何で代打?」と感じてる人は多いだろう。所属チームの監督ですら操縦する事が可能なのがメジャーリーグ機構で、メジャーリーグが日本のプロ野球と違うのは、日本の場合、民間企業や新聞社がチームを掌握するのに対し、メジャーリーグは<機構>と言う組織をピラミッドの頂点に据え、全チームに指令&号令をかける事が可能な訳。
日本の戦国時代に例えれば幕府と似ていて、領土拡大で調子づく織田信長を包囲すべく、将軍・足利義昭が号令を掛けて結成した<信長包囲網>と似ている。止められない大谷翔平の暴れっぷりは何処か天下布武の信長快進撃と被る。このままではアメリカ人が日本人を崇める事になる。あってはならない迫りくる現実に、策を弄しないと止められない。メージャー機構の判断なのだろう。妨害行為も時には正当化されると言う考え方だ。
称賛と孤独の狭間に居る大谷翔平。称賛の嵐の野球から離れた大谷のプライベートは孤独だ。
スポーツニュースで流されるベンチでの楽しそうな光景とは裏腹に、食事はポツンと一人で済ます。話す相手と言えば通訳くらいで、他の選手達とプライベートでワイワイする事も無い。日本の大谷ファンが期待し、想像する様な光景が実際には無いと言う事なのだろう。
日本のメディアは偏向なので、都合のイイ事しか報道しない。大谷の孤独なんか報道して何の得があるんだ?と言う損得勘定の念が満ちている。御都合主義の大谷報道で、結果としてアンチが急増してしまった。おそらく日本の報道姿勢に、大谷翔平自身は不信感を抱いているのではないか?
もう少し控えめに報道してくれよと。
ホームラン1発打つ度に大谷特集やられたら、そりゃアンチが増えちゃうよと。
不思議とメジャーリーグで楽しい生活を送ったと言う日本人選手の話を聞いた事が無い。あのイチローも今の大谷と似ていて、引退してから現役時代の孤独を語っている。弱い所を見せるな、強い自分を常に見せろと言うのは、プロと言う領域に居る人達の孤独な共通点なのだろう。
ポニーテールと言えばロン毛。その昔、日本の男達も当然の様に伸ばしていた時代があった。安土桃山、戦国時代のチョンマゲ、江戸時代を経て、幕末の時代に入ってからポニーテールが流行り出した。やがて男達が髪を短く切り出し、男はショートカット、女はロングの黒髪が定番となっていったのは、現代人である我々が知る所では明治時代辺りなんだろうか。
そして現代になり、髪形は更に自由度を増した。罪人のイメージが強かった坊主頭もスキンヘッドと洒落た呼び方に変わりファッションになった。個人的にだけど、平成になって坊主頭を流行らしたのは、日本の音楽グループのブルーハーツ・甲本ヒロトだと思っている。私の世代は坊主頭と言えば野球少年。スカジャンに坊主頭と言う格好で暴力的に踊って歌う甲本ヒロトの姿は最高に恰好良かった。
昭和の時代のロン毛の象徴は武田鉄矢だった。此処で一々語る必要も無いくらい有名な金八先生である。平成になると江口洋介が登場する。90年代初期、フジテレビで放送された東京ラブストーリー、101回目のプロポーズ、愛という名のもとにのトレンディードラマ三作品で江口洋介の人気は不動のものになった。
江口洋介のロン毛は漫画的と言うか、ゲーム的と言うか、武田鉄矢のロン毛とは明らかに異質に感じた。判り易く書くと、武田鉄矢のロン毛はファッションにはならないが、江口のロン毛はファッションとして流行ると言う予感めいたものがあった。
事実、流行った。
街のアッチコッチで偽・江口が出没しだした。意味も無く佇み、涼しい目線で髪をかき上げるロン毛の野郎達をアッチコッチで見掛けた。当時、江口洋介は芸能界を代表するロン毛俳優だった。
この令和の時代になっても、ロン毛の男は何処か印象が悪い。スーツ姿とポニーテールは特に相性が悪い。日本では、この組み合わせの殆どが半グレか、ヤクザか、AV男優で、良いイメージが無い。芸能や漫画、アニメと言ったエンターテイメントのせいもあるだろう。何故か悪役にロン毛が多い事に気付く。パッと想い出す限りで良いイメージのあるロン毛キャラは、北斗の拳のトキくらいだろうか。トキの偽物・アミバは、やっぱり非道な悪だった。
とにかく日本社会はロン毛の男を許さない。ロン毛で髪を結んだサラリーマンを見た事が無い。
何故、いけないのか?
と言う明確な理由を何処の企業も持っていない。
答えはないが、何となく嫌いと言うのが本音だろう。それを大っぴらに言う気はない。それを言うと問題になるから。厄介事は避けたい。波風は立てたくない。スーツを着込むサラリーマンたる者は、とにかく髪を短く刈り込んで清潔感を出せと教育する。そこで面倒臭がり屋の合理主義な現代人は、日々の整髪が面倒臭いからと言って、刈り込み過ぎて坊主に近づけば近づくほど疎まれる。
だったら、どの位ならいいんだ?
と聞きたいが聞けない。そこで会社と社員の無言の忖度が出て来る。社員は定期的な散髪の度に悩んで美容師さん、理容師さんに、こう注文する。
「丁度よく切ってください」
切る側からすれば丁度よくって、どう言う事なんだと突っ込みたくもなる。突っ込めば客が怒りそうな予感がするから、申し訳程度に程々に切って済ます。こんな事になるのも全て会社がハッキリと決めてくれないからである。角刈りとスポーツ刈りはどう違うのかと研修会で説明した方がいいだろう。
小室圭のポニーテールが問題視されたのは、礼儀とは何か?って事で、髪を切れと言うのであれば、誰の為の何の為って事になる。誰に何と言われようとロン毛を貫き通す事で<媚びない姿勢>は主張できる。一方で、その縛りは「俺にとって何の意味があるだろうか?」と自問自答で考える。
ある戦国武将が勝ち目の無い戦いに挑んだ。そこで武将同士、こんな会話が交わされた。
「今ならば、頭を丸めて許しを請えば、許してくれるかもしれぬ」
もう一人の武将はこう言った。
「謝る度に坊主になっていたら一生、毛が生えぬわ」
この逸話を、ある書物で知って笑ったが、何処か今の小室圭の状況と似ている。
定時制高校に通っていた頃、どう言う訳か、怖い先輩から椅子を投げつけられる同級生が居た。
「アイツ、なんでいつも椅子を投げつけられるんだろう?」
定時制高校に来る生徒は殆んどが訳アリであり、大半が高校受験に失敗したが、将来の為に高卒の資格を取りたい中卒上がり達で、一番最年少で16歳。他には全日制を何かの理由で途中退学し、改めて高卒の資格を得ようとする者。私が仲良くさせて頂いた28歳の既婚者の会社員は、内勤を希望する為に高卒の資格が必要なんだと語ってくれた。
他にも暴走族のリーダーも居た。そのリーダーを心底凄いと思ったのは、族が放つ特有の怖そうなオーラを隠して見せない所だった。噂を聞くと喧嘩だって強いらしい。そんな彼は私の四歳年上だったが、彼を見て感じた事は、喧嘩が本当に強い奴ほど、喧嘩を避ける事だった。
全日制の高校と違うのは、クラスメイトが同い年ではないと言う点。5歳、10歳離れた人も同級生で、この辺のリアルさを見事に表現して見せた山田洋次監督の映画「学校」を観た時に「そうそう、これこれ」って思わず声を出したのを想い出す。
日本の大半の子供達が全日制の高校に通う点を考えれば、定時制高校を経験出来る事は、人生の中でもレアと言うしか無い。普通高校は三年制度だが、定時制の殆どは四年制で、何故かと言うと一日の授業数が違うから。どの曜日も必ず四時間で終了する。なので、殆んどの生徒は朝から夕方までバイトやパートをして働き、仕事と学校の両立をこなしている。金が無いから働くと言うよりは、昼間何もしてないと言う罪悪感に駆られ、必然的に働こうとする奴が多いのも特徴。私も、その類だったw
定時制に通ってるからって、別に自立して生計を立ててる訳ではないので、十代のガキが使う金なんてタカが知れている。なので自動的に貯金が増えまくる。当時17歳の私の貯金は60万を超えていた。
椅子を投げつけられていたアイツと知り合った切っ掛けはプロレスだった。
今はどうでもイイが、15歳から20歳くらいにかけて、プロレスにハマった時期があった。20歳を超えた辺りから急激にプロレス熱が冷め、プロレスが客に嘘を付いている事に薄々と感じ始めた。毎週、「詰まんねえな・・・」と感じながらも惰性で買っていた少年ジャンプを買うのを辞めたのも同じ様な時期だった。20歳と言う歳頃が、こうも変わってしまう時期なんだなと振り返ってみて思う。
怖かった一つ歳上の先輩は、夕食の休憩時間になると、よく私の教室にフラリやってきて、後ろの椅子に座るとポケットから煙草を出し、食後の一服を吸い始めた。
そこにアイツが現れる。
すると先輩の表情が急変し、「お前、ムカつくんだよ!」と言って座っていた椅子を思いきり投げつけた。
投げた椅子が周りの机にぶつかり、耳に悪そうな聴き心地の悪い音が響き渡る。
幸い、怖い先輩は当てるつもりは無いらしく、脅かし目的で投げつけていた。恐怖に駆られたアイツは、椅子を投げつけられると半ベソをかいて教室から逃げ出していった。怖い先輩は私に言った。
「お前も、アア言う奴は締めといた方がいいぞ!」
「はあ・・・」
椅子を投げつけられていたアイツには、確かに人をムカつかせる何かがあった。体系は痩せ型で身長は、いわゆる普通。猿がスポーツ刈りしてる様な顔をしていた。
プロレスが大好きだったアイツは、プロレスの話になると目を爛々とさせていた。夢中になって今のプロレス界を語り始める。中でもお気に入りだったのは当時、全日本プロレスのエースだった三沢光晴。2代目タイガーマスクだった男だ。後年、三沢は試合中のバックドロップの当たり所が悪くて意識不明に陥り、突然の急死を遂げた。ニュースで知った時、そりゃ驚いたモンだった。
アイツはプライベートのレスラーの写真を撮るのが趣味で、その中の数枚を私に見せてくれた。写真に写っていたのは当時、新日本プロレスで活躍していたスコット・ノートンが立ち食いソバ屋でウドンをすすっている最中の姿だった。要するに隠し撮りだ。スコット・ノートンは筋肉ダルマみたいな体の分厚いレスラーで、シルベスター・スタローン主演の映画「オーバー・ザ・トップ」に出演した。
「すげえー・・・スコット・ノートンだ・・・」としつこく眺めていると、早く返せと催促してきた。自分から見せて置いて早く返せと迫ると言う事は、自慢がしたかったのだろう。
その後、記憶の限りでは一度だけ我が家に遊びに来た事があり、その時にスーパーファミコンのゲーム「ファイヤープロレスリング」の対戦をし、帰り際に「何かゲームを貸してくれ」と言うから数本、ゲームソフトを貸した。
私の経験則だが、泥棒の素質がある奴の特徴として、電話に出ないと言うのがある。中学の頃に金を3万貸した同級生も、金をくすねた後輩も、共通していたのは電話に出ない事だった。
電話に出たくない心理って何処から来るのか?と考えると、やっぱり自分自身にやましい所があるからだろう。心の何処かに罪悪感があり、あるんだけども素直になれない自分が居る。自分に負けている人達とも言える。
アイツはいつ電話しても出なかった。電話する度に出て来たのはソイツの母ちゃんだった。同じ相手から何度も掛かって来る事に異変を察知したのか、ソイツの母ちゃんは私を怪しむ様になった。
「何の御用ですか?」
「〇〇君が、貸したゲームのソフトを返してくれないんですよ」
親と言う立場は自分の子が絶対的な存在であり、何があっても子を庇う習性があるようで、自分の子に明らかな非があるにも拘わらず認めようとしない。そこで昔からある、こんな言葉が出て来る。
「うちの子に限って・・・」
最初に誰が言ったか知らないが、よく出来た言葉だと思う。
ゲームを貸したあの日から、アイツは学校に来なくなった。登校拒否だ。懲りずに自宅に電話すると、こんな言葉が返ってきた。
「あの子は、もうウチに居ません」
アイツは何処に行ったのだろう?
風の便りで、可愛い彼女を連れて歩いてたとも聞くし、何処かの建設現場で働いてたとも聞くし、借りたゲームソフトを売り捌いて悦に入っていたとも聞くし、真相は未だに闇のままである。
そんな出来事から30年経った今思うのは、自分の人生にとってアイツは一体どういう役割を果たした存在だったんだろう。何故、アイツと出会ってしまったんだろう。せめてもの救いと言えば、こうやってブログの想い出ネタとして披露出来たって事なのかなと。そう思って終わりにしよう。