1994年2月14日、ロシアで52人を殺した一人の怪人が処刑された。
連日報道されるウクライナとロシアの戦争。度々、表示されるロシアの地図を見て、数年前、マイブームになっていたロシアの怪事件を想い出した。ロシア連邦南西にロストフとシャフトゥイと言う小さな町があり、その2つの町で事件は始まった。この事件を知った最初の切っ掛けは、古本屋で見つけた「マーダー・FILE」と言う定価524円のワンコイン・ブックの本だった。世界の著名な殺人鬼30人を特集した内容で、その中の一人が今回取り上げているロシアの怪人。
その後、ホラー作家の平山夢明が書いた「異常快楽殺人」と言う文庫本に出会い、この中でロシアの怪人を興味深く取り上げていた。流石と言うか、平山夢明の文体がホラーっぽくて刺激的な描写が多かったせいか興味をそそられた。この事件を本格的に知りたくなったのが、その時からで、後で紹介するが、国内で翻訳された3冊の本を夢中になって読み込んだ。
事件の捜査は1982年で、12歳の少女が買い物に行ったきり帰って来なくなり捜索願いが届けられた所から始まった。
季節は丁度、梅雨時で、少女は、その年の6月6日に殺され、数週間後に遺体が森の中で発見された。遺体は森の中で原型をとどめないほどに腐乱していた。当時、DNA鑑定と言う便利なシステムが無かった時代で、行方不明になった少女だと判別できたのは、ほぼ白骨化している頭部にわずかに残された編んだ毛髪だった。遺体には頭部に鈍器による一発の打撃痕と、41箇所の刺し傷があり、目玉は両方とも抉り取られていた。
この事件から3週間後には、同じく森の中で14歳の少女、9歳の少年、16歳の少女、3体の遺体が発見された。少女達の遺体は3週間前の少女とほぼ同じ状態だったが、9歳の少年の遺体は違っていた。少年の遺体はロープで手が縛られ、体には折檻されたナイフの細かい傷。特徴的だったのは少年の舌が半分欠け、局部が切り取られていた。同年の12月11日、音楽教室に通っていた10歳の少女が、帰って来なくなった。数日後、少女は人気の無い生い茂る草村で発見された。遺体の状態は更に凄惨さを増し、刺し傷が50箇所、両目が抉られ、胸部が裂かれ臓器が露出し、腸の下半分と子宮が持ち去られていた。この一連の事件が捜査されたのは82年からなのだが、78年に9歳の少女、81年に17歳の少女が殺され、数人の男達が容疑者として挙がったが、逮捕するには証拠が無く事件が迷宮入りしていた。
この異常な事件の解決は、捜査が開始された82年から怪人が処刑される94年まで12年続いた。検察が立件できた殺人が52件。つまり立件できなかった殺人を合わせれば、それ以上と言う事になる。
殺された52人の内幕は、成人女性と少年少女に限られ、成人男性は一人も居なかった。女子供を殺しまわる、この怪人の目的は一体何なのか?
事件は最初、ロストフとシャフトゥイを往復する様に続発し、同じ様な事件が大都市・モスクワまで拡がっていった。小さな田舎町で起きた局地的な猟奇殺人が大都市にまで展開され、世間がザワザワと騒ぎ始めた。そして警察の本格的な捜査が開始され、警察と精神科医が同席する合同会議が行われた。
「この事件はカルト宗教が絡んだ殺人事件で、複数犯に違いない」
警察側は大体、この意見で合致したが、一人の精神科医が流れを変えた。
「いや、この事件の犯人は複数犯ではなく、一人の人間による犯行だ。性別は成人男性。犯人は仕事を持っていて、移動をしなければならない人物だ。例えば物資調達や輸送に関わる仕事。子供達が容易に森に誘い込まれると言う事は、子供を懐柔する術を心得ている者で、家庭を持っているのかもしれない。犯行現場には精液が撒き散らされている事を考えると、性に対するコンプレックスを抱えている可能性がある」
このプロファイリングが、この事件を紐解く鍵になり、この見事な読みをした精神科医が後に事件解決の大きな存在になっていく。
事件発生から8年経った1990年11月3日。16歳の体の大きいスポーツ少年の遺体が発見された。この少年は結果的に殺されたが、大きな手掛かりを残した。
現場には少年と怪人が格闘した形跡があった。危険を察知した少年が怪人の腕を抑え込み、取っ組み合って転げまわり、右手中指に喰らい付き、渾身の力で嚙み砕いた。少年の抵抗はそこまでで、怪人のナイフは少年の腹を抉り、絶命させた。逮捕後の怪人の供述で判った事だった。
私には、この殺人だけが、他の殺人とは何か違うものを感じた。それまでの怪人の犯行は反抗する術を持たない少年少女が殆どだったのに、何故、抵抗する術を持つ体の大きい少年を選んだのだろうか?
これまで全く抵抗を受けなかったと言う自信から慢心が生まれたのだろうか?
それともゲームで言えば、初級、中級の難易度に飽き、上級に挑戦してみたくなったのだろうか?
いずれにしても怪人の一生の不覚となった。
その3日後の11月6日、駅に配置された私服警官が、目の前にあった森から一人の男が出て来るのを発見した。
男は長身でブリーフケースを持った初老の男だった。初老の男は森から出て来ると近くにあった水道で手を洗っていた。私服警官は、男に職務質問をした。男はアンドレイ・ロマノヴィッチ・チカチーロと答えた。54歳で孫も居る男だった。私服警官が顔をよく見てみると、頬から顎にかけて赤い染みが付いている事に気付いた。手を見ると右手の中指にグルグル巻きにした包帯が巻かれていた。森で何をしていたのかと聞くと、男はキノコ狩りをしていたと愛想よくニコニコと答えた。そこは確かにキノコの狩場であり、私服警官は思わず納得し、そのまま職務質問を終了させ、男は他の客と談笑しながら電車に乗って去ってしまった。
それから24時間後、男の出て来た森の中から22歳の成人女性の遺体が発見された。遺体の眼は何かを訴えるかの様に見開き、手足を縛られ、拷問されたかのようだった。捜査当局は私服警官を叱り飛ばしたが、私服警官は森から出て来た男の名前を控えていた。12年に渡る猟奇事件の終焉が、いよいよやってきた瞬間だった。1990年11月20日、アンドレイ・ロマノヴィッチ・チカチーロが逮捕された。
1992年4月14日。初めての裁判が開かれる前に、怪人・チカチーロは妻と面会した。二人は涙を流しながら抱き合い首筋にキスをした。妻は言った。
「どうして、こんな事に・・・」
「結局、こうなってしまったんだよ。君はいつも医者に見て貰えと言っていたのに、言う事を聞かなかった。私がいけなかったんだ」
子供は二人いた。息子は父親の起こした事件で人生が狂った。交際していた女性とも別れを告げられた。娘は結婚して女の子の孫がいた。娘にとっては信じられない現実だった。父が孫を公園に連れて行って可愛がっている姿と、人様の子供を森に連れ込んで殺しまわる父の姿が、どうしても一致しなかった。
12年に渡って続いた酷い事件ゆえに、殺された子供達の遺族の報復が容易に予想できた。チカチーロの家族は、その面会を最後に離婚し、財産の全てを妻の名義にし、家族は名前を変え、誰にも知られない土地へ越していった。
有名過ぎる怪人・チカチーロの裁判の模様は、今でもユーチューブの動画に残っているので、興味のある方は検索して、そちらの方を御覧頂きたい。
ロシアで起きた、この事件に一番最初に興味を持ったのはアメリカだった。
1992年、逮捕から2年後にアメリカの<ニューヨーク・タイムズ>が、<鉄の檻の中の男・!ロシアのホラーストーリー!>と銘打って、写真入りで報じた。翌年の93年に、この題材を扱った3冊の本が出版された。出版順に並べると以下の通り。
「52人を殺した男」(著者・ミハイル・クリヴィッチ&オルゲルト・オルギン 邦訳・小田晋 出版社・イースト・プレス)
「少年たちは森に消えた」(著者・ロバート・カレン 邦訳・広瀬順弘 出版社・早川書房)
「撫で肩の男」(リチャード・ラウリー 邦訳・染田屋 茂 出版社・文藝春秋)
この事件が何故、こんなに書籍化されるかの要因の一つに、ストーリー性のある猟奇事件と言うのがある。
12年間で少なくとも52人の女子供を殺し、全く捕まらずに警察の追跡を逃れ、ひたすら追い続ける警察組織、ひたすら殺しては逃げ回る謎の怪人と言う判り易さが、人間の脳を刺激せずにはいられないのだろう。よく言われがちな19世紀イギリスの切り裂きジャックの再来と言うより、この事件はジャックの犯行を超えている。捕まらない事でジャックは伝説となったが、ジャックも、この事件を知ったら驚くだろう。
3冊の本を読み終えた感想は、三者三様で、題材が同じなのにも拘わらず、内容が全く被っていない。この事件を知りたい人に最もお勧めなのが、ロバート・カレンの「少年たちは森に消えた」で、今でもAmazonで簡単に手に入るので是非、読んで頂きたい。この本の特徴は、もっとも小説っぽく書いてある所。主人公には当時、事件を担当したロストフ民警のブラコフ少佐と言う強面の心優しい男が演じている。そんな彼が凄惨な現場を目の当たりにし、どう動いていくのか?そこが読み所。3冊の本が特徴的なのは、それぞれ主人公が違う点であり、よって事件を見る視点も違う。なので、同じ題材なんだけど違う事が書いてある。つまり新しい発見がある。
3冊の本に共通して書いてあったのは、この怪人は悲惨な戦争によって造られたと言う点で、この怪人も又、戦争の犠牲者であると論じている。事件の背景が、アフガニスタン侵攻の、ほぼ1年前に始まり、ペレストロイカの波から、ソ連解体へと至る時代の大きな変化に対応するように続いた。チカチーロの犯行がソビエト連邦の終焉の混沌の中に咲く毒々しい花の様な異彩を放っているのも無理は無いと著者たちは書く。
懸念すべきは、チカチーロがそうであったように、ロシアとウクライナの争いによって、新たな怪人が誕生してしまうのか?って事であり、ウクライナ人虐殺の報道を見る度に、アンドレイ・ロマノヴィッチ・チカチーロを想い出さずにはいられないのである。