承認欲求に左右されないブログの書き方! | 何でもアル牢屋

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趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

いつも思っている事。ネットでモノを書き始めて21年経つが、「ウマいやり方」「人気の取り方」が未だに判らない。それに対し、勉強するとか研究するとか一切しようと思わない。ブログで何をしたいんだろう?と自分に問いかけると、必ず返ってくる答えは「書きたいからやってるんだろう?」となる。カメラとマイクを準備して動画をやりたい訳でもないし、大好きなゲームで実況しようとも思わない。

只、書く事に関しては多少の勉強はした。いわゆる<文法>というやつ。初歩的な所では、文章は最初の三行で決まる。説明文よりも動きのある文章を書く。ブレない文章にする為のタイトルの重要性。この三点を意識するだけで文章は変わる。どう変わるのかは自分でも何となく感じる。後は読み手の反応次第って所で運が絡む。
私の文章は、いつも長い。長い文章は好まれないと言われるが、そんな事、お構いなしに長文を書く。行間を空ける書き方は嫌いなので、ギッシリと書く。ギッシリ書いた後、微調整し、余計な文を削除し、テンポを重視する。不思議なもので20年も書いてると、他人に読まれる感覚や緊張を感じなくなってくる。21年前、私は27歳だった。年齢や経験以上のモノを書く事は出来ない。当時、夢中になって書いていたのは映画のレビューだった。観た映画の事を書くので、嘘を書く訳ではない。だから伸び伸びと書けた。飽きもせず数時間かけて書きまくった。27歳の頃の体力は、今の私には無い。
 

テレビゲームの世界には、縛りプレイと言うのがある。敢えて自分にプレイ制限を掛け、あるアイテムを使ってはいけない。強い装備を使ってはならない。格ゲーで言えば、対空や連続技が豊富な強キャラを使ってはいけない。ドラクエで例えれば、最も弱い竹ヤリやヒノキの棒でドラゴンに向かっていく行為で、要は絶対的不利の条件下での鬼畜プレイを敢えてする。それが縛りプレイの本質である。
私は自分のブログに、ある制限を掛けている。それは宣伝をしない事。書き込み掲示板にアドレスを張り付けるのも禁止。ヤフコメにコメントを書き残すと見せかけて、実の所、自分のブログ宣伝をするのが目的とかも禁止。同じくアマゾンでのレビューついでに宣伝するのも禁止。但し、他人様が私のブログを宣伝する事は私の意志ではないので、この場合は放置。不可抗力と言うパターン。
何故、そんな事をしてるのかと問われれば、こう答える。

「何処の誰が、どうやって、このブログの存在を知ったのかに関心があるから」

自分で宣伝をしてしまってはスリルが無い。何か納得がいかない。自分に負けた様な気がする。釈然としない自分が嫌になってくる。その際、アクセスがどうとかコメントがどうとか関係ないのである。
その辺の拘りで言うと、私が動画やツイッター、インスタをやらない理由が見えてくる。なるほど、そもそも、それらの行動が私の縛りに反しているからだろう。どうやら私の目的は、呼び込んで知り合う出会いではなく、ある日、突然出会う偶然性の様である。