忖度とメディア、浮世離れした人々の黄昏! | 何でもアル牢屋

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傍若無人だった主君が死に、死んだ主君の遺体に向かって罵詈雑言、唾を吐きかけ、踏みつける家来達。先日のジャニーズ事務所の会見には、そんなニュアンスが感じられた。
自分達が信じていた象徴的存在に裏切られ、踏み絵の如く扱われる主君。そんな事件が過去の日本の政治にあった。元・総理大臣の田中角栄である。ジャニー喜多川と田中角栄の姿が妙に重なってしまった。田中角栄の踏み絵は、VTRとして記録され、何度かテレビで放送されてきた。報道番組で、そのVTRを観た元・側近とやらが嗚咽しながら「可哀想に・・・」と言ってマジ泣きしていたのを想い出す。先日の会見を観たジャニー喜多川の元・側近も、同じ様に「可哀想に・・・」と涙した者は居たんだろうか。
歴史的な会見であったと思う。この会見はジャニーズ事務所と世間と言う図式に収まらず、様々な媒体に余波が行くのではないか?それを扱う日本のメディアは「当時、報道しなくて御免なさい」の嵐。私に言わせれば、本当にそう思うなら、今現在、報道番組を担当している司会者、出演者は全員まとめて首にしたらどうか?或いは自分達で辞表を提出したらどうか?責任や覚悟を語るなら口だけでなく行動すべきだろう。
忖度って言う言葉が、とにかく浮き上がる。一体、何処から何処までが忖度なのか?いつまで遡るのか?途方も無い忖度があり、その忖度とメディアがグルになっている。多難な時代を迎えている日本のテレビ業界にとって拍車の掛かる事件であり、更に国民のテレビ離れが深刻になるのではないか。テレビ局の一局、二局、潰れるのではないか?とさえ思う。

少し話題がずれるが、最近ふと思うのは、今年の冬、山下達郎の「クリスマス・イブ」は流れるのかどうか。
先頃、彼はネット上でジャニー喜多川の性加害事件の事で世間と悶着を起こした。それによると山下達郎はジャニー喜多川を庇ったらしい事になっている。

 

<山下達郎とジャニー喜多川は信頼すべき同盟者>

 

細かい事情はさて置き、世間の多くでは、そう捉えている。そう認識した。クリスマスソングは数あれど、毎年の様に山下達郎のクリスマスイブが流れると言う事を忖度とは言わないんだろうか?こう言う所でも、忖度が渦巻いている。もしかすると、今年から山下達郎のクリスマスイブが大人の事情で流れなくなるのかもしれない。流す方も聞く方も違和感を感じる訳だから、スポンサーも、どうしようか困惑してしまう。
山下達郎とテレビ局の関係は深い。双方の関係は70年代まで遡る。テレビに出演しない事でも有名な山下達郎だが、彼の新曲の殆どがCMで流されてきた。テレビには出ない。だけども歌だけは流れてくる。そんな奇妙な関係を双方は築いてきた。これも立派な忖度の一つだろう。利害関係の一致とも言える。テレビに出ないのではなく、出たくないと言うのが彼の本音であり、どのミュージシャンも新曲や興行のキャンペーンは無視できず、責任として嫌でも出るのが主流だが、山下達郎は徹底して出ない。一種の<わがまま>とも言える。
嫌な事はやらない。好きな事だけをやる。彼はラジオの中でリスナーに対しても、そう訴えている。それは能力と環境があればの条件付きで、凡人のリスナー達はマネ出来る筈もない。前にも書いた事があるのだが、山下達郎と言う人は、能力と人間性が乖離しているタイプで、<一級品のオタク>であると私は評価したのである。

スポーツ界にを向ければ、プロ野球はどうであろうか?特に渡辺恒雄が牛耳ってきた読売巨人は大丈夫なのか?
12球団ある日本のプロ野球界の中で、読売巨人軍ほど特別な球団は無いだろう。金、淫欲、暴力、嘘、負の要素が渦巻いている巨人の歴史は、ジャニーズよりも巨大かもしれない。だが渡辺恒雄ことナベツネは生きている。往年の支配力は無くとも、現在、彼は大病院のVIPルームで不自由の無い生活を送り、巨人の頭脳として君臨している。メディアやファンから「辞めろ、辞めろ」と大合唱され批判され続ける原辰徳が、何故、監督を辞めないのか?と言う謎も、ナベツネが全容を知っていると、多くの専門家が口を揃える。
ナベツネが死んだら、ジャニーズと同じ事が巨人に起きるのではないか?度重なるメディアの「御免なさい」は、ジャニーズだけでは無いだろう。スポーツ、芸能、政治、過去のツケの清算がやってきそうな予感がしてならない今日この頃。