ぶっ壊れた承認欲求で早死に続出!大丈夫か日本! | 何でもアル牢屋

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最近、若いユーチューバーの死亡記事を頻繁に見掛ける様になった。報告義務は無いので死因の殆どは非公開なのだが、直感的な感覚で、それは自殺なのだろうと判る。
最近読んだ本の中で、現代病とも言えるのが<承認欲求>で、何かをアピールし、反応を得られない事が大変なストレスになり、精神病へと発展する。メディアが避けている話題なのかは不明だが、日本全国で精神科、心療内科の受診者が急増しているのだと言う。場所によっては予約に一か月待ちなんて状況もあるそうで、大変な混雑ぶりなんだそうだ。
診察をする精神科医の話によると、承認欲求によって精神を壊す受診者の殆どがスケールの小さなチープな悩みらしい。幾つか例を挙げてみよう。

1:自慢の動画の再生回数が伸びない事によって、あらゆる<やる気>を無くす

2:これはイケると信じた自信満々の記事なのに<いいね>を貰えなかった事に絶望する

3:知人にメールを送ったが返信が無い事に不信感を持ち、その知人との関係に終わりが来た事を勝手に妄想する

4:ブログ、ツイッター、インスタ、あらゆる手段を講じて人気取りに奔走するも、どれも不発に終わり、人生の拠り所を失う

5:勇気を持って炎上覚悟の爆弾ネタを披露するも、驚くほど反応が無く、自分の存在意義を確認しようとする


こんな感じで、殆どがSNS関連で起こりえる事であり、その全てが数字を基準に左右される<承認欲求>である事が判る。
彼等からすると、SNSと言う空間は成り上がる為の手段であるらしく、誰よりも早く出し抜きたいと言う感覚が強い。それ故にSNSから誕生する著名人に対し、辛辣な反応を示す。出し抜かれた感と言うか、敗北感と言うか、例えるならば芋掘りで、自分のエリア内の芋を、目の前の奴に掘り起こされて持っていかれたって感じなんだろうか。

個人的な憧れがあって、ネットを必要としていない人達を羨ましく思う。ネットの情報にイラつくこともない。アクセス数や<いいね>の数も気にならない日々。

テレビゲームも私の少年時代は、おもちゃ屋で買うのが主流だった。今はネットで買える時代だが、おもちゃ屋で買ったファミコンソフトは格別の喜びだった。店を出て、包装紙に包まれたソフトを手に取り、匂いを嗅ぐ。新鮮な紙の匂いがする。家路までの道のりが楽しかった。この感覚は、ネットで買い物をしてると味わえない。少年時代の癖があるのか、今の私は、なるべくネットで買わず、わざわざ店に行って買うと言う面倒臭さを楽しんでいる。店に行く際、出来れば車ではなく、自転車で行ける様な絶妙な距離がイイ。そんな店を私は選ぶ。
80年代に普及したVHSのレンタルビデオ店も私の青春だった。毎週土曜になると千円札と会員証を握りしめて、一本330円のビデオを三本借りる。すると10円おつりが来る。当時、まだ消費税と言うシステムが無かったので、そう言う緻密な金の使い方が出来た。今は消費税も絡んで値段もややっこしい。
アダルトビデオを初めて借りたのは15歳だったが、あの時の緊張感も格別だった。少しばかり大人びた服装をしてアダルトコーナーに一歩足を踏み入れると、体が自然と引き締まった。平静な振りをしなければならない。この時ばかりは役者染みた自分を意識する。だが体が熱い。額からは汗が流れ落ちる。店員に見られている様な錯覚に陥る。店員が不意に近づいてきて「ねえ、ちょっと」と声を掛けられそうな気がしてくる。実際には、そんな事は起きない。身分証明も曖昧な時代だったので、ガキだろうが大人だろうが確認されるなんて事もない。そうやって何とか借りる事が出来た巨乳モノのビデオは大収穫だった。今はどうか、アマゾンでポチッと押して終わり。感動が無さ過ぎる。

ネットが人を焦らすと言うか、ネット社会が日本全体を生き急がしている感じがする。生き急ぐって言葉も何だか変で、そのゴール地点は何処なのか?この世に生まれて死ぬまでの中間において、自分が生きたと言う何らかの証を残したい。それが現代病である承認欲求なのかもしれない。