筑紫と大和 | まーりんのまりんエッセンス

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魂・心・体に響き渡る、これから先の時代のエッセンス
「海のエッセンス」「月のエッセンス」の物語

 

 

 

 

 

筑紫では

水城の南に飛鳥、

北に春日の地名があり

 

大和では

北の添上春日、

南の高市明日香が栄えた。

 

 

(「儺の國の星 拾遺」より)

 

 

 

先のブログでは、ここで

 

福岡の飛鳥~水城~春日あたりは

三国、三郡、御原、御井、御笠川があり

 

三潴~水沼~見沼の水の「み」と

鹿島神宮あたりと春日大社とで重なる地名

を想起させる

 

・・・と書きましたが

 

 

わりと有名な

九州・畿内地名移動説の図をみつけたので

はらせていただいて、

メモしておきます。

 

 

東遷神話のように

北部九州から大和へ・・・民族移動にともなって地名も移ってきた、と。

 

 

 

<出典:福岡県観光連盟「福岡古代ロマンの旅 ~邪馬台国時代編~ 」> 

 

 

 

こげな図を思い描いていたわけではなかったのですが

だいたい、わたしの言いたいことは入っています

 

こっち(奈良)に来ても

御蓋とか朝倉とか 聞くたび見るたび、

ギクッとしてしまう

 

 

もし、地名移動が真実なら

 

筑紫朝倉

さっき言った福岡の飛鳥のすぐ東で、

邪馬台国比定地のひとつであり北部九州の重要拠点

 

⇒ 大和朝倉の周辺もそれ相応の土地ではなかろうかと思ったりします

三輪とか?

 

 

※追記2022/04/01

三輪桜井は邪馬台国比定地というのを後で知りました。

(「邪馬台国は朱の王国だった」「大和誕生と神々」)

 

つまり、筑紫でも大和でも、

邪馬台国/古代連合国家の中心を

「朝倉」と呼んだ

 

のかもしれません。

 

ちなみに斉明女帝は

筑紫朝倉に朝廷を敷いた。

朝廷が近畿以外に置かれた唯一の例外

朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)である。

 

 

真鍋大覚「儺の國の星」では、さらに

「朝倉」、「長谷」は

太白(金星)のことだという。

 

あさくらとは、あしたのいはくら

明けの明星のこと。

 

もとは上座(あさくら)と書いた。

筑紫の朝倉郡は

明治23年に上座郡と下座郡を合併してできたもので

上座=明の明星、下座=宵の明星に正応する。

 

ちなみに

はつせは八節=八季の金星暦を意味する。

長谷は大和や鎌倉に残る

 

ということは

古代国家の中心とされた氏族とは

金星暦の一族=八幡(*)だったりするのかもしれない

*北九州八幡、宇佐との関連

 

が、外洋を渡ってくる海人族が使う天文暦法が金星暦一本であるはずはなく

朝倉を統べたのは名のある豪族のどれなのか、

列島に林立する海人族のどこからどこまでが同族といえるのか、

すべて曖昧模糊なままだ・・・

(追記 了)

 

 

 

筑紫の笠置山は、饒速日尊降臨地であるとともに、天然の要塞で笠木城があったりした。

大和の笠置山は、笠置寺、摩崖仏(豊後臼杵を思い出してしまう)があって、やっぱ交通の要衝なんね。

こないだの東大寺のお水取りはここが発祥で、実忠さんが笠置山の龍穴から兜率天に行けたから。

(その辺、こう すごい山伏臭というか修験のにおひがしますね)

 

 

うーん 位置まで正確に一緒ではないのは

筑紫と大和は地形が違うからですよね

 

 

ニューヨークみたいに

新平群とか、新春日とかにしとけば

土地の関連が

わかりやすかったのにね

 

 

博多もんはいまでも

春日1号、春日2号、・・・とか、元春日・新春日みたいに、

いちいち数えたりめんどくさいのは嫌いである。

 

そして新しいもの大好き。

古いものとか伝統への執着はうすい

(山笠だけ例外)。

 

なので、

後にしてきた筑紫のことは深く考えてなくて、

”いまはここ(大和)がホームたい!” てな思考回路だった可能性は高いのではと、

残念だけど思ってしまう。

 

 

 

七色の魔術師まーりん

 

 

 

太陽と月、星の波動を採り

それらのエッセンスをつくっています。

 

エッセンスをつくるために

海や山で

天の氣を読み、地の氣を感じ、精霊と対話するうち

その土地のなりたちや神様に必然的に関わることになり、古代史をひも解き始めました。

 

したがって、現地で得てきた情報と照らし合わせたり、業務に利用できる情報かという目でみています。

 

 

 

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