「サンランドができた理由が、『国民にとって理想的な国を造る』ということですが、その経済的な基盤となるのは、やはり第一次産業なのでしょうか」

「はい。どのような国であっても、国民が飢えては国家は成り立ちません。糧の確保が第一だと考えます」

「そのためには、広大な農地が必要となりますね」

「確かにある程度の広さは必要ですが、合衆国のような広大な農地はありません」

「それで、足りるのですか」

「各ブロックにある農地はさほど広くはありませんが、数多くあります。その収穫の合計は、国民の空腹を満たすのに充分な量になります」

「なるほど、広さよりも数ですね」

「ご存じのように、私たちの国には土の地面はありません。合成樹脂でできた地面だけです。ですので、通常の栽培はできません」

「そうすると、先ほど言われた温室栽培ということになりますね」

「そうです。米も麦も野菜もすべて温室の水耕栽培です」

 

 

「そのような設備が、既に整っている訳ですね」

「はい。現在、使われている温室の外壁は、ほとんどが透明のプラスチックになっています」

「太陽光が入るようにですね」

「はい。その耐久性は非常に優れていて、暴風や豪雨が来てもびくともしません。屋内ですので、作物はまったく影響を受けないのです」

「イナゴなどの害虫もシャットアウトできますね」

「はい」

「作物の品質は、どうでしょうか。温室で育った物は、通常の物より落ちると聞きましたが」

「確かに味や栄養面で温室の物の方が少し劣るようですが、大した違いはありません。例えて言うなら、養殖魚と天然魚の違いのような差であって、食するのにまったく支障はありません」

「養殖物でも、調理の仕方で美味しくなりますものね」

「この国では、高級料理店が使うような本格的な食材は作っていません。『安価で安全なものであれば、それで良し』と、考えています」

「天然の食材は確かに美味しいですが、毎日は無理でしょうし」

「それができるのは、大金持ちだけです」

「限られた人だけの物より、すべての人に行き渡る物をですね」

「はい。そこそこの味であっても、害がなく空腹をしっかり満たしてくれれば、それで充分だと思います」

「そのような食物を確保できているのですね」

「現時点では、量に関しての問題はありません。貿易による輸入食品に頼ることなく、すべて自給自足で賄っています」

「でも、人口が増えてくると足りなくなるのでは」

「それがこれからの課題になります。人口が増えれば、当然農地を拡張しなければなりません。まあ、その前に住宅地を増やさなければなりせんが」

「それはそうですね。一度こちらの住宅地の様子をネットの動画で拝見しましたが、本当に綺麗に区画されていましたね」

「何もないところからの区画ですので、しっかり整っています。住宅用の建物は、すべて平屋で、二階建てはありません。また、商社、マンションなどの高層ビルや高層住宅も、プレートが沈んでしまう恐れがありますので造れません」

「病院や官舎、学校なども、一階建てですか」

「はい」

「障害者やお年寄りに配慮した優しい建て方なのですね」

「現在、若くて健康な人も、いずれは高齢者になりますから」

 

「すべての土地が国有だと聞いておりますが、そうなのですか」

「その通りです。土地だけでなく、建物もそうです。この国では私有財産が認められていますが、この事に関しては別です」

「それは、どうしてですか」

「土地や建物の所有を認めると、それで利益を得ようとする人が必ず現れます。その結果、価格が上昇し、ここに住みたくとも住めない人が出て来ます」

「確かにその可能性はありますね」

「国有にしたのは、そうならないようにするためです」

「なるほど」

「ですので、やたらに広い敷地や大きな建物を所有したい人は、この国には住めません」

「『豪邸に住みたければ、他の国に行きなさい』ですね」

「住居に関しては、誰もが平等な環境で住むべきと思います。その広さは、家族構成で決定しますので、余分な空間は持てません」

「住居の建物は、すべて同じ形ですか」

「いいえ、様々なバリエーションがあって、和風や洋風などのサンプルが数多くあります」

「その中から選べるのですね」

「はい。住まれる方のご希望に可能な限り応えますので、決して、画一的な集合住宅にはなりません」

「いいですね。ちなみに、商業用店舗も同じなのでしょうか」

「同じ様に国が管理していますが、他種多様です。レストラン、アパレル、家電、理髪店など、それらはすべてショッピングモールに集まり、それが地域ごとにあります」

「それ以外は、ないのですね」

「ありません」

 

「ショッピングモールについてですが、そこで何かの営業を始めるのも、やはり審査があるのですか」

「はい。例えば、モールで理髪店を経営したい人の場合、理髪師免許の有無を確認します。単なる何かの販売であっても、知識のない人は遠慮してもらっています」

「付け焼き刃の商売は、認可されない訳ですね」

「そうです。消費者の事を考えず、自分の利益しか頭にない人は許可できません」

「日本では、知識がないどころか、紛い物を本物と偽って売りつける輩もいます。ここでは、そんなこともなく安心して買えますね」

「はい」

 

「私もこの国に移住したくなってきました」

「是非とも」

「日本に帰ったら、家内と相談します」

「首を長くしてお待ちしています。これから先、入国希望者が更に増えるようですので、できる限り国土を広げて住居も造っていくつもりです」

「今現在、たくさんの人がこの国への移住を望んでいると思われますが、希望する人なら誰でもこの国に住めるのですか」

「一応、職業と同じように審査がありますが、それをクリアできる人なら誰でもOKです」

「どこの国の人であっても、どのような年令であってもですか」

「はい。基本的にはそうです。但し、条件があります」

「どのような条件なのでしょうか」

「未成年者は、保護者といっしょでなければなりません」

「未成年者だけでは、ダメなのですね」

「この国の理念に賛同する保護者が、自分の子どもを引き連れて入国するのは認められますが、入国を希望する未成年者が保護者といっしょでないのなら、認められません」

「なるほど」

「それと、犯罪歴です。交通違反などの軽微な犯罪なら大丈夫です。但し、何回も繰り返すような人はお断りです」

「うーむ」

「さらに、働く気のない人もダメです」

「いわゆるニートですね。日本でも、勤労意欲がなく親の脛をかじって生きている成人の存在が大きな社会問題となっています」

「障害や病気、怪我などで働けないのなら仕方がありませんが、健康なのにいつまでたっても働かない人たちは、遠慮してもらいます」

「ごもっともです」

「それから、一度この国から出た人も入国できません」

「再び戻ってくるのは、認められないのですね。何故ですか」

「そのような人は、自分勝手と見なされるからです」

「うーん」

「実際に住んでみて、自分が思い描いていた国ではないと判断されたから出て行くのでしょう」

「おそらく、そうでしょうね」

「私たちは、そういう人を引き留めはしません。それなりの覚悟で出ていくのですから。それなのに、また戻りたいと思うのは優柔不断です」

「なるほど、そうかも知れませんね」

「そうですとも」

遠い目になって答えた大使に対して、担当者は真顔できっぱりと言い切った。

「更にもうひとつ、どうしても受け入れられない人たちがいます」

「どのような人たちでしょう」

「難民です」

「難民・・ですか」

「本来、受け入れるべき人たちなのですが、あることが理由でそれを難しくしています」

「それは・・」

「宗教です」

「ふーむ」

「私たちは、どのような宗教も認めていません。ですから、特定の神を信仰する人たちは受け入れることが出来ないのです」

「難民の大半が、同じような信仰を持っていますからね」

「宗教は、戦争の原因の一つです。その原因を持ち込む難民を無条件で許可する訳にはいきません」

「なるほど、それはそうかも知れませんね。実際、日本でも宗教絡みのテロ事件が教会で起きています。もし、そのような事が他の国で起きたなら、戦争に発展することだって考えられますね」

「その通りです。大体、難民というのは、戦渦を逃れるために祖国を離れた人たちであって、最初から私たちの理念に賛同して、ここへ来ることを希望していた人たちではありません」

「確かに」

「人道的な見地から、『入国拒否は、無慈悲である』と非難されそうですが、受け入れたためにこの国が財政的な危機に陥ることも考えられます」

「過去にそのような国がありましたね」

「この国の人民を犠牲にはできません。排他的と言われようとも、難民の入国を拒否しなければならないのです」

「『泣いて馬謖を斬る』ですね」

大使は、同意の意思を担当者に示すように頷いた。

 

 質疑応答を始めてから、かなりの時間が過ぎていた。大使は、腕時計を見て時間を確認

し、『あまり長居もできないので、そろそろ終わりにしよう』と思った。

「最後に国家体制ですが、お話を伺う限り、資本主義というより社会主義や共産主義に近いのでしょうか」

「そうですね。個人の資産を認めているという点では資本主義ですが、生産性や社会福祉という点では社会主義になりますか」

「良いとこ取りの混合主義ですね」

「そうなのかも知れませんが、少なくとも、資本主義と社会主義の問題点をなくすための国家体制とは言えるでしょう」

「その基本方針は、 かなりの時間をかけて作られたのでしょうね」

「有識者が何日も議論を重ねて作りました」

「白熱した討議になったことでしょうね」

「なりました。どの方も、誠実に真剣に意見を出されましたので」

「そうでしょうね」

「試行錯誤の末になんとか土台はできましたが、まだまだ細かい部分で補足や改善しなければならないことがたくさんあります」

「理想に近づくための手直しですね」

「はい」

「私たちも、素晴らしい理念に基づいた国造りが、更に実現化されていくことを期待しています」

「そうなるように努めていきます」

「今日はお忙しい中を本当に有り難うございました。とても有意義な時間になりました」

「それは何よりです」

「日本に帰ったら、早速、参考になったことを政府に進言しようと思います」

「お役に立てることが出来れば幸いです」

担当者は、親しい表情で頷いた。

「日本とサンランドの友好が、いつまでも続きますように祈っています」

「私もです。また、いつでもいらして下さい。歓迎しますので」

「はい必ず。それでは、失礼致します」

二人は立ち上がり、固い握手を交わして席を離れた。

「交通機関は、飛行機以外にどのようなものがありますか」

「主なものとしては、船舶、大陸横断鉄道、地下鉄ですね」

「バスはないのですか」

「ありません。バスは障害者や高齢者にとって乗りにくく、また、交通事故や渋滞の原因になるので運営していません」

「一般市民の交通手段が地下鉄だけというのは、逆に不便ではありませんか」

「いいえ。地下鉄の駅を碁盤の目のように張り巡らしてありますので、問題はないです」

「でも、駅は、地下にありますよね」

「ですので、駅へのアクセスには、階段はもちろんのこと、エレベーター、エスカレーター、ムービングウォークを使います」

「すべての駅にそのような移動装置があるのですか」

「そうです」

「それなら、障害者や高齢者でも利用しやすいですね」

「はい。さらに、車両が従来のものではなく、リニアモーター式になっていますので、利用客には好評です」

「振動や騒音が少ないのでしょうね」

「静か過ぎて、動いているという感じがしません」

「いいですね」

 

 

「今や地下鉄は、国民にとって必要不可欠な交通手段になっています。通勤、通学はもちろん、あらゆる目的地に運んでくれる『市民の足』と言っても過言ではありません」

「目的地に直行で運んでくれるという点では、タクシーが一番だと思うのですが、タクシ会社は運営されていないのですか」

「運営しています。民間経営ではなく公営ですが」

「公営だと、料金は安いのでしょうね」

「地下鉄に比べると高くなりますが、日本のタクシーよりはリーズナブルです」

「少し耳が痛いですね」

「はは」

「車やバイク、自転車は使えますか」

「使えます。但し、車もバイクも、すべて電動車に限られます。自転車は専用の道路で使用可能です」

「動力の電化は環境保全のためだと思うのですが、ガソリンはまったく使っていないのですね」

「いいえ、使っています。トラックやクレーンなどの貨物自動車や重機は、バッテリーだけではパワー不足なので、今のところは、使用しています」

「近い将来、バッテリーの開発によって、完全電化を成し得るかも知れませんね」

「そう願いたいものです」

 

「通貨はありますか」

「ありません。すべてICカードでやり取りをしています。貿易などで外貨を得ても、世界共通の電子マネーに変えます」

「紙幣や硬貨を所持する必要もなく、カード一つで買い物ができるのは大変便利ですね」

「レジでおつりをもらう煩わしさがなくなるのですからね」

「現金がないので、空き巣に狙われることや銀行と現金輸送車が襲われることもなくなりますよね」

「なくなるでしょうね。もし、現金の代わりにカードが盗まれても、その番号によって足が付くので誰も盗らないと思います」

「現在、本物と見間違えるような完成度の高い偽札が出回っていますが、偽のICカードもできるのでしょうか」

「犯罪組織は、あの手この手で大金を得ようとします。ICカードも狙われることでしょう。組織と当局との闘いはいたちごっこですが、絶対に手を緩めることはありません」

「現在、世界はキャッシュレスの方向に進んでいますが、いずれ、どこもかしこもそうなるのでしょうね」

「おそらく、半世紀後にはなっているに違いありません」

 

「税金についてですが、どのような税率なのでしょうか」

「北欧のような福祉国家並の高さだと思われているかも知れませんが、かなり低いです。特に所得税、消費税が格段に安く、住民税、固定資産税などはありません」

「住民税、固定資産税がないのですか・・」

「ええ」

「それでよく、国の財政が成り立つものですね」

「なんとかやりくりをしています」

「サンランドは、財政負担の大きい教育や福祉に力を注いでると聞いております。それなのにパンクしないのは、どうしてなのですか」

「簡単です。国の予算の中に軍事費がないからです」

「軍事費がない・・」

「はい」

「確かに軍事費は、大きい額になりますものね」

「毎年、無意味な出費をせず、その分、教育や福祉に回しているのです」

 


 

「質問内容が前後しますが、自国を守る自衛隊のような機関は、ないのですか」

「ありません。災害時などで救助活動をする機関ならありますが、自国を防衛する為の機関は持っていません」

「日本の自衛隊も同じようなものですけどね・・」

「いえいえ、全然違います。戦争時に使用する兵器を一切持っていないので、まったく異なります」

「軍事費がないので軍事兵器を持てないのは分かりますが、国防の観点からするとどうなんでしょう」

「ご心配なく。軍事兵器がありませんので、どこかの国とドンパチすることは絶対ありません」

「でも、もし、どこかの国が攻めて来たらどうされるのですか」

「攻められる理由が見当たりません。資源がない国ですので、支配してもまったく意味がありませんので」

「ふーむ」

「たとえそんな事態になったとしても、国連が動いてくれるでしょうし」

「それはそうですね」

「その点、ミサイル、空母、戦闘機などの兵器を持つ日本は、友好国がどこかと戦争になれば、参戦を余儀なくされる危険性がありますよね」

「そうならないことを願うばかりです」

『焦臭い話は、なるべく避けた方が良い』と判断した大使は、話題を元に戻した。

 

「サンランドでは、海以外に自然に触れられる環境がありますか」

「非常に少ないですが、一応あります」

「それは、どんなものでしょうか」

「先ほど述べました島々です」

「ああ、なるほど」

「大半が小高い丘になっていますが、山になる島も少しはあります」

「島々の自然利用ですね」

「はい。また、それとは別に、人工の山と川があります」

「人工の・・」

「山と川です。山は、五百メートル以下の高さなら、簡単に造れます」

「それは、やはり合成樹脂で出来ているのですか」

「そうです。強固な合成樹脂の山です。中は空洞ですが、数十本の太い樹脂の柱が全体を支えています。一度に大勢の人が登っても、まず壊れません」

「それは安全ですね」

「ところどころに本物の木々や草花が植えられているので、鳥や昆虫なども留まります。断崖絶壁などの変化もあり、見た目は自然の山と変わらないです」

「ハイキングにもってこいじゃないですか」

「そうですね」

「川は、その山に流れているのですね」

「はい」

「淡水ですか」

「いいえ。海水です。海からポンプで汲み上げ、それを浄化して流しています」

「川の水が海水というのは、少し驚きですね」

「苦労して作った淡水を、気前よく流す訳にはいきません。生活用、農業用に使われる貴重な水なので」

「海水は、苦肉の策ですね」

「はい。やはり海水の川なので、鯉や鮎などの淡水魚は住めません。中にいるのは、海水でも生きられる鮭や鰻だけです」

「その稚魚を放流しているのですね」

「そうです」

 

「大人と子どもがいっしょに楽しめる公園のような施設がありますか」

「あります。遊園地、テーマパーク、球技場、競技場、動物園、植物園、映画館など、どこの国にもあるような施設がたくさんあります」

「民間経営ですか」

「いいえ。すべて、公営になります」

「それだと、不人気でも経営が破綻することはないですよね」

「それはそうですが、決しておざなりにはなっていません。スタッフの集客への思いは、並々ならないものがありまして、日々努力をしています」

「これは大変失礼しました。みなさん、真剣に取り組んで、労を惜しまずに働かれているのですね」

「はい」

「どうも我々には、『お役所勤め』という意識があって・・」

「分かります」

「ギャンブルに関してですが、カジノのような遊技場がありますか」

「カジノやパチンコ店は、一切ありません。競馬や競輪、競艇は土日と祝日に開催されますが、購入できる券の額の上限が決まっています」

「賭けた人が破産しないようにですね」

「その通りです。賭博というのは、人生を破滅させます。お遊び程度なら良いのですが、熱くなって全財産をなくす方もおられるようですから」

「米国のラスベガス近辺のホテルでは、二階から上の部屋の窓には、鉄格子が嵌めてあると聞きました」

「飛び降り自殺防止のためですね」

「日本でも、パチンコや競馬での負けが膨らみ、闇金に手を出し、ついには窃盗や強盗にまで及んだという人がたまにいます」

「抜き差しならない状態になると、犯罪に走ってしまうのですね」

「やはり、射倖心を煽るようなギャンブルはしない方が良いということでしょうか」

「そうですね」

 

「国の柱となる法律に関してですが、日本の法規とかなり似ていますね」

「大元になっているのが日本国憲法ですので、似ているのは当然です」

「やはり、そうでしたか」

「憲法を決めるための会議では、『日本の主権在民、平和主義、基本的人権の尊重の三大原則は、是非取り入れるべきである』と提案されて、実際に定められました。もちろん、戦争放棄も入っています」

「そうすると、非核三原則も国是になっているのでしょうね」

「もちろんです」

「更に、刑法や民法に関してもお聞きしたいと思うのですが、やはり、日本のものを参考にされているのでしょうか」

「そうです」

「民事裁判などが起こった場合は、裁判所が司法権を執行するのですね」

「はい。でも、権利や理非を争うような訴訟はほとんど起きていないので、今は開店休業状態ですね」

「ほぉー、信じられないですね。我が国では絶対あり得ないことですから」

「世界中どこを見渡しても、訴訟だらけですものね」

「裁判は時間と費用がかかるので厄介ですが、それがないというのは本当に羨ましいですね」

 

「次は、政治に関してです。サンランドでは、大統領や総理大臣のような政治家のトップはおられないのですか」

「いません。そもそも、政治家がいません」

「えっ」

「ですので、その選挙もありません」

「では、誰が政治を司るのですか」

「AIです」

「AI・・」

大使は、微かに聞き取れるぐらいの小さな声を発し、大きく目を見開いた。

「少し驚かれたようですね」

大使の呆然とした顔を見た担当者は、あからさまに苦笑した。

「そりゃ、誰だってびっくりしますよ。『コンピュータに政治を任せる』だなんて・・」

「耳を疑われるのも無理はないです」

「うーん・・」

「誤解をされたままでは不本意ですので、今からその訳をご説明致します」

「お願いします」

大使の開いたままの口が、ようやく閉じた。

「ご存じでしょうが、AIというのは、情報処理システムの中の人工頭脳のことを意味します。その完成には、多くの科学者の創意と工夫が反映されていて、決して、神が造りし物でも自然発生的に出て来た物でもありません」

「人が関わっているということですね」

「そうです。つまり、『人工知能だ、AIだ』といっても、中身は人の知識の集積です。その集積によって、人の頭脳では判断できにくい事を瞬時に解析してくれるという代物に過ぎないのです」

「ふーむ」

「この数十年間で、コンピュータの機能は大きく飛躍しました」

「昔の物と比べて、処理速度が段違いに早くなり、身近にもなりましたよね」

「今や、あらゆる所で使用されていて、コンピュータのない社会というのは、考えられなくなっています」

「使い道さえ誤らなければ、こんな重宝な道具はないでしょうね」

「その通りです。命令したことは確実に実行し、休むことなく働き続けてくれる存在は、まるで疲れを知らない忠僕のようです」

「確かに」

「しかしながら、『人』はそうではありません。意に反して寄り道をしたり、間違った方向に向かったりします」

「背信行為もしますよね」

「政治家は、そのような『人』がなっているのです。国民より自分を優先し、私利私欲に走る人がほとんどです。ですので、賄賂や忖度という不正も必然的に起こります」

「なるほど、そうですね。選挙の時は、『国民の声を聞く、国民のために働く』と言っていますが、実際はそうでないことが多いですからね」

「その点、コンピュータは裏切りません。そのような不正行為を絶対しません。状況に応じた判断を的確に下してくれるだけです」

「そう考えると、人類にとって明瞭で誠実な味方といえますね」

「まったくです」

「それでも、操作する人に不正があったとしたら、同じではないですか」

「もし、不正が可能ならそうですが、それができないようにはしてあります」

「そのような防御システムが入っているのですね」

「そうです。確かに操作するのは『人』です。ですが、その役割は単に数値やデータを入力するだけで、中身を改ざんすることはできません」

「少しでも想定外の数値が入ると、警告されるのですね」

「はい。もし、そんなことを作為的にすれば、すぐに発覚して逮捕されます。国家の信頼をなくし、国民に不利益をもたらしたという罪で」

「厳罰ですね」

「おそらく、監獄行きか国外追放になるでしょう」

そう言い放った担当者の顔が、心なしか険しくなっていた。

「将来的には、世界がそのような方向に進んでいくのでしょうか」

「それはどうでしょう。容易にはいかないでしょうね。政治家になりたがっている人がかなりいますから」

「残念ながら、我が国にもたくさんいます」

「本音で語る政治家の本懐とは何でしょう。巷では、『大きな権力を持ち、自分の思いのままに国を動かすことである』と、言われています」

「世の中は、そんな野心家だらけですよね」

「そもそも、政治家というのは民衆の代弁者にすぎず、生産活動は何もしていません。議員という地位によって、市民や国民の税金で生きているだけの人なのです」

「まるで『無用の長物』ですね。いや、もっと悪く言うと『百害あって一利なし』の厄介な存在になりますね」

「ですから、民衆を正しい方向に導くのは自分の利益しか考えない政治家ではなく、AIなのです」

「なるほど、AIであることの意味がようやく分かりました。それにしても、良いことだらけですね。選挙がないから、無駄な選挙費用を使わなくて済みますし、裏金がばらまかれることもないのですから」

「まあ、そうですね」

「でも、コンピュータ内部に故障が生じた時は、困りますよね」

「機械ですから、そういう事もあるでしょう。でも、予備の人工頭脳を複数用意してありますので、すぐに代わりをさせます」

「万全ですね」

「はい」

 

「治安を守る警察のような組織はありますか」

「あります。実際に活動しています」

「先ほど、訴訟沙汰になる事件はほとんど起きないと言われましたが、治安についてはど

 うなんでしょう」

「良識のある国民ばかりとはいえ、やはり、ちょっとした犯罪は起こっています。でも、殺人のような重大な事件は、今のところ非常に少ないです」

「その要因は、どのような事が考えられますか」

「まず、この国に集まった人々の意識が違います。犯罪のない理想の国を求めて来ている人たちなので、殺人のような大きな犯罪は起こりにくいのです」

「なるほど」

「それにもう一つ、監視カメラの設置です」

「最近は、至る所に設置されていますね」

「そうですね。どこの国もかなり多くなっているように思いますが、サン・ランドに比べると物の数ではありません」

「どれくらいあるのですか」

「おそらく日本の数百倍以上の台数になると思います」

「凄い数ですね。国中が監視カメラだらけなのですね」

「はい。さらに、驚くべきことがあります」

「何ですか」

「カメラの性能です」

「はぁ」

「通常の監視カメラは、それ自体が一定の場所に固定されているので、録画の範囲が限られますよね」

「当然、そうなりますね」

「私どもの監視カメラは、移動できます」

「えっ。移動できるのですか・・」

「はい。犯罪を確認したら、犯人を追跡できます。もし、車で逃げても、最高速度が時速百五十キロメートルなので、大抵は追い付けます」

「いやはや、なんとも・・」

「画期的でしょう」

「まったくです」

「この発明によって、犯罪が起きにくくなりました」

「犯して逃げても、それが追いかけて来るのですから端から諦めますよね」

「防犯の最終兵器と言っても過言ではありません」

「その移動できる監視カメラというのは、どのようなものなのですか」

「そうですね。一口でいうと、謎の飛行物体です」

「UFOですか」

「野球のボールとほぼ同じ形体で、ドローンのようなプロペラはなく、そのままで空中に浮遊できます」

「ほぉー。できれば、その仕組みを知りたいものです」

「至って簡単です。中に密度の高いヘリウムガスがあって、それで浮くことができるのです」

「浮力が大きいと、上昇し続けてしまうのではありませんか」

「そうならないように、AIが中のガスをコントロールします」

「やはり、AIですか」

「はい」

「時速百五十キロメートルまで出せるということですが、まるで、プロ野球のピッチャー並のスピードですね」

「そうですね」

「その移動するための動力は、何ですか」

「それは極秘事項なので、残念ながら答えられません」

「そうですか・・」

「普段は待機場所に固定されていて、周りを監視しています。映像は常時、電波で監視センターに送られ、AIが管理しています」

「なるほど」

「事件が起こると、待機場所から離れて現場に向かいます」

「犯人に壊される心配はないですか」

「地上か五メートルの高さに浮いていますので、まず届かないです」

「ピストルでもない限り、破壊できないのですね」

「ええ。もし、仮に打ち落とされても、代わりのカメラがすぐに向かいます」

「あらゆる所に設置されているのですから、到着は早いでしょうね」

「早いです」

日本とはかなり異なる治安の良さに、大使は心底羨ましく思った。

「日本も含めて世界中のどの国においても、殺人や暴行、窃盗や詐欺などの犯罪が、日常茶飯事に起こっています」

「理不尽な犯罪が多いですよね」

「保険金目当ての計画的な殺人も起こっていて、人の本性は『悪』ではないかと思うくらいです」

「非常に嘆かわしいことです・・」

そう呟きながら、担当者が自分の足下に視線を落とした。何か忌まわしい事件でも思い出したのか、下に向けたままの顔はとても悲しげであった。

 只ならぬ様子に気づいた大使は、空のコーヒーカップを手に取りながら、何気なく彼を窺い見た。暫しの沈黙の後、担当者が神妙な面持ちで切り出してきた。

「実は、ここに来る前の事なのですが・・」

「まだ日本にお住まいの時ですよね」

「そうです。当時、大学生であった私の娘が・・」

「娘さんがどうかされたのですか」

「酷い犯罪に巻き込まれて、非常に悔しい思いをしました」

「はぁ・・」

「口にするのも恥ずかしいのですが、同じ大学の学生達に酩酊状態にされて、レイプされかかったのです」

「『されかかった』ということは、未遂に終わって無事だったのですね」

「ええ。間一髪のところで操は何とか守れましたが、心に深い傷を負いました」

「抵抗できないようにして女性を襲うなんて、人の道に外れていますよね」

「おっしゃる通りです。彼らはどうしようもない悪党どもで、逮捕された時も反省することなく『魔が差した』とか『つい出来心で』とか、保身のための言い訳ばかりしていました」

「けしからんですね」

「その後の裁判でも、反省の言葉は見せかけだけで、本当に改心しているようには思えませんでした」

「そんな輩は、一生、刑務所に入っているべきだと思います」

「娘を大切に育てたいと思う父親にとっては、決して許すことができない愚劣な行為と態度なのです」

「分かります」

「更にです。彼等だけでなく、彼等の親にも憤慨しました」

「何かあったのですか」

「彼らの親の中に、トップ企業の重役である者がいました。その親は、政治家と繋がりがあり、政治家を通じて私に圧力を掛けてきたのです」

「裁判沙汰にならないようにですか」

「そうです。裁判になる前に、私の勤める会社の上司からこんなことを言われました」

『娘さんは無事だったし、学生さんたちも反省していることだし、ここは事を荒ら立てずに済ました方が良いのではないですか』

『いいえ、それは、断固できません』

『裁判になれば、君の娘さんが公に晒されてしまうでしょう。それは、君にとってもマイナスになり、会社としても困ることになるんだがね』

と、何回も執拗に言われました。

「私は直感しました。上司がこれだけくどく言うのには、裏で誰かが動いているに違いないと」

『子も子だが、親も親だ。こんなことを許す訳にはいかない』

「そう思って、私は裁判を起こしました」

「それが、正しい判断だったと私も思います」

「裁判を進めていくで中で、他にも被害者がいることが分かり、結局、彼らは有罪になりましたがね」

「常習犯だったのですね。被害者の泣き寝入りを見越した、あくどい手口ですね」

大使の眉間が、怒りで寄っていた。

「寸前で助かったとはいえ、信頼すべき者から酷い仕打ちを受けた娘は、それ以来、人間不信になってしまいました」

「娘さんにとっては、只の災難では済まされませんからね。ご心痛、お察しします」

「どうも、痛み入ります」

担当者は、尚も重々しい口調で言葉を続けた。

「私がこの国に来たのは娘のためです。犯罪が起こらない環境で、娘と共に平穏に暮らしたいと願ったからです」

「なるほど、そうでしたか」

「娘もこの国が気に入ったようで、少し明るくなってきました」

「それは良かったです」

「あんな腐った連中がのさばる日本は、壁壁です。もう戻りたくありません」

「ごもっともです」

「私も妻も娘もこの国に留まって、この国に骨を埋めるつもりです」

「このような素晴らしい国ですからね」

「はい」 

 険しい表情だった担当者に、少し笑みが戻ってきた。その顔を見て安堵した大使は、コーヒーカップをテーブルに置き、質問を続けることにした。

 

視察の大使

「ようこそ、おいで下さいました」

「こちらこそ、私たちのために時間を取って頂き、感謝しています」

 握手をして名刺を交換した後、担当者と大使は、ソファに腰かけた。

「早速ですが、サンランドについていくつかお尋ねしたいと思います。よろしいでしょうか」

「どうぞ、ご遠慮なく」

「有り難うございます」

大使は丁寧にお辞儀をして、すぐに秘書の方に顔を向けた。

「君、要綱をお渡しして」

「はい」

秘書は鞄から書類を取り出すと、それを担当者に手渡した。そこには、簡潔に書かれた十六の項目が並んでいた。

一   領土

二   人口

三   ライフライン

四   言語

五   交通機関

六   通貨

七   税金

八   環境

九   施設

十   法律

十一 政治 

十二 軍備 

十三 治安 

十四 産業 

十五 土地

十六 国家体制

 

「まず、領土に関してですが、現在、サンランドの面積はどれくらいになりますか」

「日本の沖縄県の半分くらいで、約九百平方キロメートルになります」

「結構広いですね」

「いえいえ、決して満足できる広さではありませんが、当初に計画していた面積にはなんとか達しました」

「国の形が正方形というのは、明瞭で分かりやすいですね」

「そうですね。真四角ですので、海岸線の四辺がどれも同じ長さで一直線になっています。ところどころに入江や湾、岬があるため、そうでない所もありますが」

「変化があるのですね」

「はい。そして、その海岸線から五キロメートル先に防波堤があります」

「ほう。防波堤が」

「もし高波が来ても、領土を隈なく囲んでいますので、大きな被害は受けないと思います」

「それは安心ですね」

「まあ、凶暴なキングコングか邪悪なゴジラでも現れない限り、この領土が壊れることはないでしょう」

「あはは」

 担当者のジョークを交えた言葉に、大使と秘書は顔を見合わせて笑った。担当者は一年前にこの国に移住して来た日本人であり、日本からの来賓の対応は、彼が行うことになっていた。

 

「到着時に気が付いたのですが、こちらの空港は非常に見晴が良いですね。飛行機の窓から下を見た時、障害になるような物がほとんど見当たりませんでしたから」

「空港近辺には、高い建築物は作らないようにしました。目立って高いのは、管制塔ぐらいです」

「それだと離着陸がしやすいですね」

「はい。パイロットたちも気に入っているようです。ちなみに、周辺には住宅地や商店街はありません」

「それは、騒音による苦情を出さないための対策ですか」

「そうです。空港は空の便の重要な拠点ですが、住民に迷惑をかけるようではいけませんので」

「素晴らしい環境ですね。日本では、滑走路やその周りの土地を確保するにあたって、住民に立ち退きを求めたこともあります。大半の住民が反対でしたが、強制的に執行しました」

「成田空港の三里塚闘争ですね」

「ええ。そのような問題もなかったのですね」

「新たに地面を作って空港にしましたので、何の障害もなくスムーズにできました」

「羨ましい限りです」

「現在、空港は、東西南北の海岸沿いにそれぞれ一カ所ずつあります。すべて同じような空港にしています」

「規模も環境も似た空港が、四ヶ所もあるのですか」

「はい。来賓をどこからでもお招きできるようにそうしました」

「それだと、空輸も容易にできますね」

「その利点もあります」

 

「一番気になっていることですが、地面が海に浮いているのは、何かと不安定な感じがするのではありませんか。動くことのない土地に住まう私たちにとっては、日常的に落ち着かないような気がすると思うのですが」

「よくある質問ですが、心配は要らないです」

「はぁ」

「そうですね。巨大な豪華客船を思い浮かべて下さい」

「豪華客船ですか」

「少々の波を受けても、ゆったりとしているでしょう」

「はい」

「その船の何百万倍も大きな島ですから、まるで大陸にいるような感覚です」

「なるほど」

「物凄く大きな高波がくれば、地面が少し上下に動いた感じがするかもしれませんが、まあ、その程度です」

「まったく生活に支障なしですね」

「はい」

 担当者は、今、テーブルに運ばれてきたばかりの紅茶を大使や秘書に勧め、自分も手に取り少しばかり飲んだ。

 

 

「太平洋に浮かぶこの国の長所は、土地を増やせることです。自国の領海内なら、合成樹脂のプレートを継ぎ足すことで、いくらでも地面を増やせます」

「そのプレートは、海水にも腐食しないと聞きましたが」

「そうです。中は空洞ですが、結構丈夫で五百年はもつようにできています。もし何らかの原因で破損しても、容易に交換できます」

「その原料は、石油ですね」

「石油は、この国の土台作りに欠かせないものです。これまでに、莫大な量の石油を使いましたが、その購入も問題なく出来ました。なぜなら、国家形成の中心となっている同志の中に、中東の石油王がいるからです」

「石油を安価で提供してもらえる訳ですか」

「通常価格の一万分の一です」

「タダ同然の値段ですね」

「あはは」

今度は、担当者が目を細めて笑った。

 

「しかし、よくこの場所が得られましたね」

「そうですね。何しろ、太平洋のど真ん中ですから。小さな島々はあっても、人が住めるような大陸はありませんので、誰も考えが及ばなかったのでしょうね」

「それを逆手にとった画期的な方法ですね」

「いくら広くて手に入りやすくても、砂漠のような乾燥地や南極のような極寒地では人は住めません。ですので、あまり手が付けられていないこの海域を思い立ち、埋め立てではなく、海に浮かぶ国を造ったのです」

「認可は、すぐには下りなかったようですね」

「はい。諸外国の反対があって、認可が下りるまでにかなりの日数がかかっています」

「実は、日本も反対していました」

「存じております」

「誠に申し訳ありませんでした」

「いえいえ。どこの国の領域でもない公海に造るとはいえ、漁業国にとっては遠洋漁業の漁場になります。『漁場が狭まり、漁獲高が減ってしまう』と、非難の声が出るのは当然のことです」

「自国の不利益に対しては、どこもかしこも狭量ですからね」

「スタート前から容易ならぬ事態となりましたが、二つの条件を出すことで納得してもらいました」

「それは確か、『外国船であっても、この国の領海、接続水域、及び排他的経済水域内で漁獲が可能なこと』『その漁船の燃料補給が容易にできる港を設置すること』でしたね」                  

「その通りです。最初に一番目の条件を出しましたが、それでだけは賛成してくれる国が少なく、考えた末に二番目の条件を付け加えたのです」

「それが反対派を賛成派に変えた訳ですね」

「そうです」

「それによって問題は解決できたようですが、新たな反対意見もありましたね」

「巨大な人工島を造ると、環境維持、生物資源保存ができなくなるという意見でした」

「最近は、そのような活動をする団体が増えましたからね」

「プレートによって海面に当たる太陽光が遮られますが、海中や海底に直接手を付ける訳ではありませんので、そのことを理解してもらい、なんとか認めて頂きました。その際、幾ばくかの寄付金は出しましたが」

「最後はやはり、お金ですか」

「まあ、そうですね」

「噂では、『国際政治に対して発言力のある方のバックアップがあった』と聞いておりますが」

「おっしゃる通りです」

「どのような方なのですか」

「今はまだ公表できませんが、財界ではトップクラスの人になります」

「ほぉ、財界の方ですか・・」

「どのような経緯でこの国のことを知られたのか分かりませんが、我々の理想に甚く共感されて、これまでに多大なご尽力を頂きました」

「その方といい、中東の石油王といい、強力な味方が後ろ盾になっているのは、非常に心強いですね」

「有り難いことです」

 

「緯度的には、日本の東京と同じですね」

「そうです。ですので、気候は日本とそう変わりません」

「四季がはっきりしているのですね」

「はい」

「やはり、夏から秋にかけては、台風が多いですか」

「いいえ、そんなに多くはないです。それに、来たとしても熱帯低気圧に変わりかけている台風がほとんどなので、勢力は弱いです」

「日本のような大きな被害はないのですね」

「今のところは受けていませんし、これからもないように思います」

「この辺りだと、東向きの海流がありますね。それによって、プレート全体が流されてしうのではないですか」

「太平洋に点在していた島々を取り込んでいますので、それはないです」

「島々が錨の役割をしている訳ですか」

「そうです」

「では、潮の干満の影響はどうでしょうか」

「プレートが水没する危険性ですね。プレートを島々に固定しているならその可能性はありますが、そうでないので有り得ないです」

「完璧ですね」

「命に係わることは、常に重要事項として捉えています。これからも疎かにすることはありません」

「安全対策も万全なのですね」

「そのように心がけています」

 

「現在、サンランドの人口は、どれ程ですか」

「約三十万人になります。成人はその六割でして、更に成人の九割りが就労者です」

「成人の残りの一割は、学生ですか」

「はい」

「就労者は、どのような職種に就いているのですか」

「農家、漁師、工夫、職人、商人、技術者、芸術家、教育者など様々です。その道のベテランがほとんどで、やる気のある人ばかりです」

「頼り甲斐がありますね」

「はい。たとえビギナーであっても、『理想の国作りを担う一員である』という自覚があります。彼らの労働意欲は、非常に高いです」

「国民が一丸となって、理想の国造りを目指している訳ですね」

「おっしゃる通りです」

「職業の選択は、自由にできるのでしょうか」

「もちろん、選べます。但し、資格が必要な仕事もありますので、それを選んだ場合はその資格を取ってもらわなければなりません」

「医師、弁護士、教師、調理師などですね」

「既に持っている人は、その必要はありませんが」

「希望する職業に偏りがありませんか」

「あります。どうしても人気の高い職種には希望が多くなってしまいます。ですが、今のところは何とか納得してもらって、第二希望や第三希望に回ってもらっています」

「ちなみに、一番人気は何でしょうか」

「農家です」

「えっ、農家ですか・・」

「はい。農家です」

「意外でしたね」

「まあ、農家といっても、米や麦を作る農家だけではなく、野菜農家、果物農家と作物によって分かれていますが」

「多角的農家ではなく、専門的な農家ですね」

「はい。その道のスペシャリストと言えるでしょう」

「収穫の喜びがあるとはいえ、農業は重労働で大変ですよね」

「いいえ。最近は農業も機械化されて、作業が非常に楽です。最早、昔のような重労働ではなくなっています」

「それでも、耕運機、田植え機、コンバインなどの購入には、大きな費用がかかりますよね」

「いえいえ。すべて無料レンタルです」

「ほぉ。無料ですか」

「それを共同の農地で使用します」

「故障した場合のメンテナンスも無料ですか」

「はい。無料になります」

「ふーむ」

「この国の稲作は、すべて温室栽培です。心配の種である台風や害虫の被害をまったく受けませんので、毎年、安定した収穫が望めます。さらに、サラリーマンのような残業もなく、定刻になれば任意で帰宅できるのです」

「それだと、読書や映画鑑賞などの趣味の時間が充分持てますよね」

「家族がいる人は、いっしょに自宅でゆっくりと寛げるでしょう」

「農家をされている方の休暇日数は、どのくらいですか」

「月に10回は取れます。常に土日という訳にはいきませんが」

「農家全員でのシフト制なのですね」

「そうです」

 

「ライフラインの中で一番重要な水の供給は、どうされているのですか」

「自然の恵みである雨水と海水で賄います。それらを一旦水蒸気にして、更に冷却して液化し、生活用水、農業用水や産業用水として使用しています」

「海水なら周りに無限にありますので、枯渇することはないですね」

「ええ。浄水場は各地域ごとにありますので、各家庭への供給はスムーズです」

「その際に、ある程度の水圧が必要になりますが、どのようにされているのですか」

「土地はすべて平地ですので、貯水タンクを高い位置に置くだけで充分に圧がかかります」

「なるほど」

「また、その際にできた水蒸気も動力の一部として使っています」

「無駄がありませんね」

「はい」

「下水の方は、どうされているのですか」

「すべての汚水が下水道を通って処理場に集まりますが、それらを一旦綺麗にしてから、海に流しています」

「汚水のままでは流さないのですね」

「もちろんです」

 

「電力は、火力発電ですか」

「発電は、太陽光、風力、潮の満ち引きを利用しています。ガスは、やはり石油になります」

「原子力発電所はないのですか」

「それは絶対に作りません。原発は、私たちの理念の一つである『安全な国造り』に反することになります」

「そうでしたね。我々、日本国ではまだ原子炉を作動させていますが、想定外の地震が起これば放射能の被害が出るのは必然で、危険極まりないです」

「そうなれば、手の打ちようがないですね」

「はい」

「私どものこの国は、海上に浮いていますので地震による直接的な被害はないと思われます。それでも作りません。それは、発電所が何かの原因で壊れてしまう可能性があるからです」

「人為的な原因も考えられますものね」

「はい」

「資源のない日本では、今のところ原子力発電に頼るしか方法がありませんが、いずれはそのすべてをなくしたいと思っています」

「日本には、優れた技術者がたくさんおられるので、なんとかなりますよ」

 

「次に言語についてですが、様々な国からの移住者がいると、意思の疎通が困難になりませんか」

「それも問題ありません。なぜなら、少し前に強力な言語翻訳装置を開発したからです」

「スマホなどでよく見かける言語翻訳アプリのようなものですか」

「基本的にはそれと同じ働きをする装置です。ですが、機能的にはまったく異なります」

「どのような機能なのでしょうか」

「あらゆる言語を瞬時に母国語に翻訳して、音声はもちろんのこと、文字を空中に浮かび上がらせることができます」

「スピーチ用プロンプターの小型版ですか」

「従来のプロンプターはクリアガラスに文字を映し出しますが、そんなものは必要としません」

「なんとすばらしい」

「でも、理想はそのような装置なしでのコミュニケーションです」

「共通言語による会話ですね」

「共通言語は、世界中で通用する英語になります。ですので、教育現場では英語力を培う授業に力を入れています」

「なるほど」

「若い人ならその習得は比較的容易でしょうが、高齢者になるとそうはいきません。翻訳装置があるとはいえ、最初は、言葉のニュアンスの違いによるトラブルも起こるでしょう」

「そうでしょうね」

「それを避けるために、住居地を日本語エリア、中国語エリア、英語エリアなどに分けています。移住者は住む場所を選べて、希望すれば母国語エリアに行けます」

「それだと、言葉が通じて安心ですね」

「はい。近所付き合いも容易にできる筈です」

ワクチン

「片岡さん。このウィルスのワクチンができれば、私たちは家に帰れるんですね」

「そうや。あんたらの役目は、それで終了や。約束した報酬も必ず渡すさかい、はよ作ってんか」

「報酬は兎も角、医療に関わる身として、こんな仕事は二度としたくありません。もうこれっきりにしてください」

元製薬会社の薬剤師であった湯川が、きっぱりと言った。

「分かってるがな。儂らは何も、『細菌兵器を作れ』と言うてる訳やないで。新型ウイルスとそのワクチンでちょっと儲けたいだけや」

「どんなに感染力が弱いウィルスであっても、かかって重症になれば死に至ります。特に高齢者や病人は、その危険性が高いのです。そんな倫理に反することは、私の良心が許しません」

「そう言うても、あんたらの家族の身の安全を考えたら、否が応でもやらんとしゃあないのちゃうか」

片岡の脅しに、湯川は黙るしかなかった。

「兄貴、ワクチンが出来た後は、そのウイルスを世界中にばら撒くだけでんな」

「そや。ウイルスの感染者が増えたら、どうしてもワクチンが必要になる。時期を見計らってそれを高く売ったら、大儲けできるで」

「どれくらい儲かるんでっしゃろ」

「何十億になるかもな」

「うへー。何十億ですか。大金でんな」

 

混迷の任侠道

「なあ兄貴、ほんまにこんなんでええんやろか」

「しゃあないやろ」

竜次のふてくされた声に、恵太郎は顔を曇らせた。

「ど阿呆の山田組とうっとこが手打ちやなんて、考えただけでもムカムカするわ」

「親っさんが決めたことや。逆らえん」

「ほたら、マサは犬死ですか。組のために命張ったのに」

「・・・」

「マサの仇、討たんでもええんですか。このままでは、マサの嫁はんに責められまっせ。『死んだうちの人にどう顔向けできるんや』と」

「事情が変わったんや。儂も腹が立つけど、今は我慢するしかない」

「俺は、どう考えても納得できひん」

「竜次、アホな事、考えるなよ」

「・・・」

 

GPS

「母さん、真由美の帰りが遅いな」

「そうですね。『サークルのコンパで帰りが九時頃になる』と言ってましたが、もう十時過ぎですからね」

「こっちから何度も携帯で呼び出しているんたが、まったく出ない」

「マナーモードになっていて、気付かないのかも知れませんね」

「だとしても、連絡くらいはある筈だ」

「何かあったんでしょうか・・」

「このまま待っていても、どうにもならん。とりあえず、その店に電話だ」

「はい」

父親が電話番号を調べて、母親が掛けた。

 

「ちょっとお伺いします。今日、淑西大学のサークルのコンパがそちらであったと思うのですが」

「はい、ございました」

「コンパは、まだ続いているのでしょうか」

「いいえ。既に終わられています」

「終わったのは、何時頃ですか」

「ご予約が九時まででしたので、その少し後です」

「そうですか・・」

「あのー、どういったご用件でしょうか」

「実は、私はそのコンパに参加していた娘の母親なのですが、予定の時間になっても家に帰って来ないので心配になって・・・」

「娘さんをお探しなのですね」

「はい。お忙しい中、お手間を掛けて済みません」

「いえいえ、大丈夫ですよ」

「もう、淑西大学の学生は、誰も残ってはいませんよね」

「はい。淑西大学のお客様は、宴会が終ってすぐにお帰りになられましたので、今はどな

たも居られません」

「その帰り際に、何か変わった事はありませんでしたか」

「変わった事ですか。そういえば、何人かが帰られた後に、幹事の方が女性を背負われて部屋から出て来られました。その時、『彼女、酔い潰れてしまった』と、おっしゃっていました」

『真由美かも知れない』

「その女の人は、どんな身なりでした」

「カジュアルな感じで、青いジーンズに緑色のトレーナーであったことを覚えています」

「髪の長さは、どうでした」

「結構短かったように思います」

『真由美に間違いない』

「それで、その人はどうなりました」

「女性の方なので少し心配しましたが、その方のショルダーバックと履き物を抱えていたもう一人の男の方が、『この人を家まで送る』と言われたので、お任せしました」

「タクシーを呼んだのですか」

「いいえ。その方がたまたま車で来られていたので、その車でお帰りになられました」

「どこに行ったか、分かりませんか」

「それは、私どもには分かりかねます」

「それはそうですね。どうもありがとうございました」

そう言って、母親は電話を切った。

 

「真由美は酔いつぶれて、男の人といっしょに店を出たようです」

「行き先は分からないのか」

「はい。どうしましょう・・」

「うーん」

父親は、暫く考え込んだ。

「そうだ。真由美の携帯に、GPSのアプリが入っていた筈だ」

「ええ、入っています。私の携帯にも同じものを入れています」

「携帯から、真由美の居場所を探し出そう」

「はい」

二人は、注意深く画面を見た。

 

 

「いた。こんなところに・・」

「どこなんですか」

「コンパの店からかなり離れた所だ」

「どうして、そんな所に・・」

「誰かの家かも知れないな。よし、今からそこへ行く。お前もついてこい」

「はい」

 二人は、素早くタクシーに乗り込んだ。

 

「どちらまで」

「駒込公園まで行ってくれ」

「承知しました」

運転手が、只ならぬ二人の様子を凝視しながら頷いた。

「運転手さん、悪いが、急を要するので飛ばして貰えないか」

「お急ぎなのですね。できるだけ早く着くように努めます」

 父親が母親の携帯で位置を確かめている間、母親は父親の携帯で警察に通報し、事情を話して協力を求めた。

 警察は当初、失踪者が大学生なので捜査することを渋ったが、母親の懸命な説得もあって『事件性有り』と判断し、その場所に向かってくれた。

「娘さんをお捜しなんですか・・」

事情を察した運転手が、父親に尋ねた。

「ええ。家に帰ってこない上に連絡が取れません」

「そうですか・・」

「こんな事は、今まで一度もなかったのに」

「それは心配ですね」

運転手が近道を走ったこともあって、十分後にその場所に着くことができた。

 

「ここだ」

「マンションですね」

「とりあえず、入るぞ」

父親は、インターフォンでマンションの管理人を呼び出し訳を話した。

「連絡の取れない私の娘が、このマンションのどこかの部屋にいます。娘は淑西大学の学生ですが、同じ大学に通う学生がこのマンションに住んでいませんか」

「ああ、その学生さんなら、三階の三○一号室にいますよ」

「女の人ですか」

「いいえ、男の人です」

『許婚がいる身の娘が、たった一人で男の部屋に入る筈がない。おそらく、無理矢理連れ込まれたに違いない』

 管理人の案内で、二人はその部屋の前に立った。携帯のGPSも、はっきりとこの場所を示している。部屋の中は灯りが点いていて、誰かいるようである。

「間違いない。娘はこの部屋にいる」

父親は、高ぶる気持ちを抑えるように『冷静に、冷静に』と、自分に言い聞かせた。母親の方は、警察官を連れてくるために、部屋の番号を確認してから一旦外に出た。

「ピンポーン」

管理人が、チャイムを鳴らした。息を殺して数秒待ったが、反応がなかった。

「ピンポーン」

再び、管理人がチャイムを鳴らした。すると、部屋の中で人影が微かに動くのが見えた。

『おそらくその学生だろうが、なぜ応じない』

そう思った父親は、三回目のチャイムを自らの手で押した。

「はい・・」

不機嫌そうな声が返ってきた。

「あっ、横田さん。夜分済みません。管理人の森本です」

「何ですか。こんな時間に」

「実はですね。貴方と同じ大学に通う吉野真由美さんという方と連絡が取れないということで、親御さんが探しに来られています。何か心当たりがありませんか」

「吉野真由美さん・・。ああ、その子ならコンパが終わった後、すぐに帰ったと思いますよ」

「それが、帰っていないんですよ。横田さんの所には、来てませんか」

「来てませんよ」

『嘘だ。娘はそこに居るじゃないか』

父親は、怒りで体が震えていた。そこへ、二人の警察官が母親といっしょに駆けつけて来た。

「横田さん、インターフォン越しではなんですので、ドアを開けて頂いて、直接お話を伺えませんか」

「もう、寝るところなんで、明日にして貰えませんか」

「そこをなんとか」

「私からもお願いします」

父親が、『話を聞くまでは、ここを動かない』という強い口調で言った。

「ちぇっ」

横田は、奥の部屋にいる仲間の二人に向かって、露骨に顔をしかめて見せた。

 

「なんだよう。これからが面白いところなのに」

「興醒めだな。しかし、なんでこの家が分かったんだろうな」

「サークルの誰かに聞いたんじゃないのか」

「まあ、何にしても上手くごまかして、すぐに帰って貰え」

「絶対こっちの部屋には入れるなよ」

高木と坂井が、声を潜めて横田に言った。

 真由美は、横田のインターフォンでの話し声から誰かが自分を探しに来たことを悟る。大きな声で叫びたいが、それが出来ない。高木と坂井は、真由美が物音を立てないようにと、口と体を強く押さえつけた。

「横田さん、お願いですからドアを開けて下さい」

「お願いします」

「はいはい、分かりました。ちょっと待ってて下さい」

下半身をさらけ出していた横田は、そう言いながら素早くパジャマを穿いた。

『カチャリ』と解錠の音がして、ドアが少し開いた。ドアチェーンは繋がったままである。

僅かな隙間から横田の顔が見えたが、いかにも迷惑そうであった。

「吉野さんの居所なんか、私は知りませんよ」

「横田さん。駒込署の者ですが、詳しくお話を伺いたいので、ドアチェーンも外して貰えませんか」

警察官の一人が、ドアに近づいて来た。

『なっ、何だ。警察が来てるのか・・』

少し怯んだ横田は、どうしようかと躊躇ったが、『言う通りにしないと怪しまれる。奥の部屋に入れさえしなければ、バレることはない』と思い、渋々ドアチェーンを外した。

「コンパで、吉野真由美さんといっしょだったんですよね」

「そうですけど。さっきも言ったように、その後のことは知りませんよ」

「そうですか」

「あっ、そうそう。誰かが吉野さんたちと二次会に行くようなことを言ってたような」

「ほう、二次会に」

『よくもそんな作り話をしゃあしゃあと。娘は酔い潰れていたんだ。そんな状態で二次会なんかに行くもんか』

父親は、目の前にいる男に益々疑いを持った。

「お役に立てずに済みません。じゃぁ、そういうことで」

横田がそう言った時、母親が玄関に転がっているローヒールのパンプスに気付いた。

『真由美の靴だ』

母親がそのことを父親に告げると、それを聞いた警察官たちは、閉じかかっていたドアを強引に開け、素早く中に入った。

「ちょっ、ちょっと、待ってくださいよ!」

横田が両手を広げて通さないようにしたが、無駄だった。父親も母親もその後をついて行き、奥の部屋で拘束されている娘の姿を見た。

「十時五十三分、未成年の女性監禁と婦女暴行容疑で逮捕します」

 慌てた高木と阪井は、裸のままでベランダから逃げようとしたがすぐに警察官に捕まってしまい、手錠を嵌められた。横田は、暫くその場に呆然と立ち尽くしていたが、手錠をかけられるとすぐにへたり込んでしまった。

 その後、三人は、別々のパトカーに乗せられ、駒込署へ送られた。

 灰色の楽園                                                                        仲代 章

 

真夜中の逃走

「君たちの周りを完全に包囲した。もう逃げられません。諦めて出て来なさい」

「稔、和馬、どうするよ。このまま、おとなしく捕まるのか」

そうするしかねぇな」

「けど、なんで追いかけて来たんだろう。ちょっとバイクで突っ走っただけなのによう」

「どうやら、それだけじゃねぇみたいだぜ」

「ヤク持っているのを感づかれたようだ」

「マジかよ。それじゃ、どこかに隠さなきゃ」

「そんなことをしても無駄さ。あれを見ろよ」

和馬が指さした方向に、野球のボールのような球状の物が宙に浮かんでいた。

 

        
 

「くそっ、あんなところに・・」

滋樹が悔しそうに睨み付けた。

「どこに隠しても、結局見つかってしまうのさ」

「苦労してやっと手に入れたブツなんだがなぁ」

「もう、どうにもならねぇのか」

「ああ。諦めるしかねぇな」

「ちぇっ」

「まぁ、捕まっても監獄行きにゃならねぇだろよ」

「精々この国からの追放だな」

「別に大それたことなんかしてねぇんだがな。俺たちは」

「それがこの国の掟なのさ。仕方がねえのさ」

 

聖フランシスコ教会

 日曜日のその日は、今にも降り出しそうな曇然とした空模様であった。

礼拝堂では、たくさんの信者やその家族たちが座席に着いていて、知り合いを見つける度に軽く会釈をしたり、手を振ったりしていた。

 少し雑然とした中で、ピアノによる賛美歌の演奏が始まった。その伴奏に合わせて、聖歌隊と起立した信者たちが一斉に歌い出す。

 三分間程の演奏が終わると同時に、ゆっくりとした足取りで神父が登場した。彼は米国人ではあるが、二十年以上も日本に滞在しているベテラン神父である。日本通で日本語も流暢に話すので、彼の説教は信者たちにとって非常に分かりやすいと評判であった。

 

 神父が祭壇に上がり、マイクの前に立った。

「皆様、お早うございます。今朝もよくお集まり下さいましたね。心から感謝致します。天に居られる主も、敬虔な方たちの礼拝をきっとお喜びになっていることでしょう」

 場内は、神父の声がよく通るほど静まっている。

「この世には、辛いこと苦しいことがたくさんあります。たとえそのような苦難を受けても、諦めずに前に進むことです。主は見ています。あなた方を常に見守っています。救いの手を必ず差し伸べてくれるはずです」

 神父は、熱い眼差しで会場の人々を隈なく見回した。その視線を最前列に向けたとき、何か違和感のある男がいることに気付いた。

 日本人には見えない顔つきのその男は、この場に不似合いな汚らしい身なりをしていて、じっと神父を見据えていた。少し気になったが、神父はそのまま言葉を続けた。

「もし、大きな災いを被ったなら、主に助けを求めなさい。只々、主に祈りを捧げなさい。そうすれば、一筋の光が見えてくるはずです」

 どの信者も、彼の言葉に深く頷いた。只一人の男を除いては。

「何度も繰り返しますが、私たちの主は、信じられる本当の神です。『絶対的な神』と言っても良いでしょう」

きっぱりと言い切った神父の眼が、少し険しくなっていた。

「世の中には紛い物の神も存在しますが、そんな神を信じてはなりません。間違っても心を許してはなりません。不幸を被るだけです」

 その男の肩が微かに震えているように見えたが、神父はさらに続けた。

「最近、メディアなどでよく報道されている事件があります。それは、海外の様々な所で起こっています。たくさんの命が一瞬にして犠牲になるという最悪の事件です。耳にすると非常に心が痛みます」

「あぁ、あれだ・・」

と、神父が言わんとすることを察した人々から小さな声が漏れた。

「分かりますか。それは、他でもない卑劣なテロ行為です。邪な神の名の下に、罪のない人の命を奪うことは許されることではありません。いずれ、そのような指示を出した首謀者に天罰が下ることでしょう」

 そう神父が言い終わった時である。その男は突然立ち上がって祭壇に近づき、何やら凄い剣幕でしゃべり出した。

 男の殺気立った動きに、前列の信者だけでなく後列の信者までも驚いて、騒然となる。

『何だ、何だ?』

不穏な空気が漂う中、隣にいた信者が男を制止しようとするが、男は、尚も神父に向かってしゃべり続けた。

「どうかされましたか?」

 神父が困惑した顔で問いかけた時、男は天井を見上げ両手を組み、日本語でも英語でもない何かの言葉を発した。

 そして、左手で神父を指さし、肩に担いでいた鞄の中に右手を入れた。その瞬間、

「ドーン」

凄まじい爆音と爆風が起こった。

「キャッ!!」「ギャッ!!」

耳を裂くような悲鳴があがり、礼拝堂はドス黒い煙と焼け焦げた臭いに包まれた。

「ヒィ・・」

 立ち込めた黒煙の中で、辛うじて助かった人たちは「一体何が起こったのか!」と、恐怖と不安で体が凍りついた。

 やがて、煙がまばらになって、辺りの様子が徐々に見えてくる。その光景は、「吹き抜けの天井に大きな穴、大理石の床に多数の長いひび割れ、白い壁にたくさんの肉片と血糊という凄まじいものであった。

「ううっ」「ぐふっ」「・・・」

激痛で呻く人、息も絶え絶えの人、身動き一つしない人など、それはまさに修羅場であった。

 爆風で吹っ飛んだのか、神父の姿が見当たらない。男の方はというと、影も形もなくなっている。

「ピーポ、パーポ」

 数分後に、救急車とパトカーが到着し、救急隊員と警官たちが慌ただしく拝廊へと向かった。現場付近は見物人でごった返していて、救助活動の妨げになっていた。

「邪魔です!」「そこをどいてください!」

救急隊員の怒号が飛び交う。さらに、報道関係者の車両も押し寄せて、一時、パニック状態になる。

 暫くして、この惨事を象徴するかのように雨滴が落ち始めた。鼠色の空から壊れた教会の屋根へと、パラパラと降り注いでいった。

 

神への冒涜

「酷い光景だな」

「そうですね・・」

「三十年以上この仕事をやってるが、こんな悲惨な現場を見るのは初めてだ」

「まるで戦場ですね。身体が粉々に飛び散って身元が確認できない遺体もあったようです」

「恐ろしい程の破壊力だったんだな」

「海外でならいざ知らず、日本で自爆テロが起こるなんて誰も予想しなかったでしょうね」

「それも、教会でな」

「宗教絡みの事件というのは、厄介ですね」

「ああ。捜査が非常にやりにくくなる」

「それにしても、外国人らしき犯人は、正常な神経じゃないですよね」

「周りに幼い子供もいたからな」

「動機は何なんでしょう」

「『自分の信じる神が貶された』とでも思ったんだろ」

「ここの神父がそんな事を言ったんですかね」

「その可能性が高い」

「カトリックの神父らしからぬ言動ですね」

「確かにな。しかし、それにはどうも理由があったようだ」

「どんな理由です」

「教会の関係者の話では、『神父はとても穏和で、他宗教を貶すような人ではなかった。ところが、二ヶ月程前に仏国で起こったテロのことを知ってからというもの、礼拝時の話の内容が辛辣になってきた』ということだ」

「そこに神父の親族か知り合いでも、居合わせていたんでしょうかね」

「長年の親友が犠牲になったらしい」

「それが、よほどショックだったのですね」

「友人を含め、多くの命を奪う理不尽な行為への恨みは、『汝の敵を愛せよ』という博愛の言葉をも無効にした訳だ」

「神父の噂を聞いた犯人が、様子を確かめに礼拝堂に何度か来ていたかも知れませんね」

「おそらくな」

「結局、私怨による報復ですか」

「そういうことになる」

 

理想の国

「昼過ぎにあったテレビの臨時ニュース、見たかい」

大手の新聞社に勤める小宮忠司が、旧友である吉村一夫に電話で問いかけた。

「見た見た。まさかこの日本で起こるとはな」

「酷いもんだ」

「神聖な筈の教会で、無差別テロというのは何だかなぁ」

「殺された人は浮かばれんわ」

「幼い子どもも犠牲になってるし」

「残忍としか言いようがないな」

「何でこんなことをしたんだろう」

「犯人は、イスラム系の信者のようだ。『我が神を否定する者には天罰を』とでも思ったんじゃないか」

「つまり、洗脳による思い込みだな」

「まあ、どんな理由があったにせよ、悪行は悪行だ。冷静に考えりゃ分かることなのに、なんとも歯止めがきかない輩が世の中には多いことか」

「馬鹿ばっかりだな」

「そういや、お前の実家は事件の起きた教会のすぐ近くだったな」

「ああ。今も親父とお袋がそこに住んでいる」

「二人は無事だったのか」

「お陰様でね」

「そりゃ、良かった」

小宮の声が少し緩んだが、吉村の顔は険しいままであった。何故なら、本当は危なかったからである。

 吉村の父母は、聖フランシスコ教会の信者であり、いつものように教会に行くつもりだった。ところがその日は、父親の持病が出たので礼拝をやめたのである。『もし、やめていなかったら』と思うと、とても手放しでは喜べないのである。

「どうやら、日本も危なくなってきたな。一番安全な国だと思っていたんだが」

「これからは、どこに行こうと危険だ。どこかに魔の手が潜んでいて、いつどこで殺戮が起こるか予測できんからな」

「確かに」

「今朝のようなテロもそうだが、人を奈落に落とすような輩は、これから先も出て来るだろうな」

「犯罪を未然に防ぐための対策を強化してもダメか」

「ダメだな。犯人は、目的を果たすために巧妙な手を使ってくる」

「防ぎようがないのかねぇ」

 公共の福祉施設に勤める吉村は、いつどこで起こるのか予想のつかない惨劇に心を痛めた。

「テロリストだけじゃない。罪のない人を犠牲にしてまで自分の思いを通そうとする輩、罠に嵌めてまで他人の財産を奪おうとする輩、人を裏切ってまで自分の地位を上げようとする輩、そんな悪人は、いつの時代にもどんな国にもいるもんだ」

「なんでいなくならないのだろう」

「それが人の性だからさ」

「人の性・・か。そうかも知れんな」

「考えてみろよ。今までにどれくらいの悪行がこの世にあったのか」

「星の数程だな」

「仮に、ここに人が百人いるとしよう。その百人全員が、釈迦やイエスのように私欲がなく、博愛に溢れている者ばかりであるなんてあり得んだろう」

「生まれ持った性質や育った環境が異なるから、性格が異なるのは仕方がないか・・」

「その中から、極悪非道な奴が出て来る可能性もある。また、たとえ温厚であっても、窮地に立たされて、悪に手を染めてしまう人もいるだろう」

「悪事だと分かっていても、子どもを餓死させないために盗みを働く母親のようにな」

「『止むに止まれず』は、まだ許される。しかし、自分の欲望だけで他人を陥れるのは頂けない」

「まったくだ」

「更にこの世には、法律に反する事をさせてしまうような誘惑がたくさんある。大抵の 人が、それに負けまいと理性を保つが、それができない人も結構多い」

「交通ルールでいうと、スピード違反や飲酒運転か。警察官にもたまにいるな」

「ドラッグ、賭博、売春など、人を破滅に向かわせる悪魔もあちこちで手招きしている」

「また、殺人、強盗、詐欺のような事件も、毎日のように起こっているし」

「それもこれも最大の要因は、『人の性』だ。いや、『人の本能』と言い換えてもいいだろう。悪に走るのは、それとの葛藤に負けたということなのさ」

「なるほど」

「この『本能』というのは、かなり厄介なものだ。人が生きている限り、ずっと付きまとってくるからな。口先だけの道徳教育では、とても抑え切れない」

「悪人がいなくならないのは、そういう訳か」

「そうことだ」

「しかし、俺は願う。誰もが悪を被らず、安心して暮らせる国がなんとかできないものかと」

「犯罪のない理想的な国家か」

「そうだ」

「荒唐無稽だな」

「そうかな。何とか努力すれば、実現できるんじゃないか」

「昔、米国に『コミュン』と呼ばれた共同体があったろう」

「同じ理想を持った若者たちが集まって作り上げた団体だな」

「ラブ&ピ-スのスローガンを掲げたヒッピーたちの拠点だった」

「カウンターカルチャーと呼ばれて、フリーセックス、ドラッグなどを認めていたが、今はどうなっているんだろう」

「もう、とっくに無くなっているんじゃないか。もしくは、形を変えているかも知れないな。現実は、そんなに甘いもんじゃないからね」

「彼らの場合は、理想だけが先行して結局は行き詰まり、自然消滅したんだと思う」

「思慮が浅く準備不足だった訳だ。理想と現実とのギャップだな」

「確かにユートピアを造るには、たくさんの壁が立ち塞がる。それを打破するのは、非常に難しい。それでも、その問題点を把握して解決策を見つければ、決して不可能な事ではないさ」

「まあ、何はともあれ、まず第一に広大な土地と莫大な資金が必要だな。それには、大富豪のスポンサーを見つけなきゃなぁ」

「確かにな・・」

 

黄金色の土鈴

「田中さん、はっきり申しますと、貴方の身に危機が迫っています。このままでは一年後に大腸癌になって、命がなくなります」

薄暗い個室の中で、五行法師と呼ばれる男が、ひとりの信者に伝えた。

「本当ですか!」

「残念なことですが、私の見立てではそう言わざるを得ません」

「大腸癌・・ですか。私自身、体の調子は悪くはないのですが、すぐにでも、病院で診てもった方がよいですね」

「いや、今は病魔が体の中で潜伏している状態です。病院で検査を受けても分からないでしょう。それに、この病気は薬や手術では治りません」

「では、どうすれば・・」

「助かる方法が一つだけあります」

「法師、それはどんな方法でしょうか。命が助かるのでしたらどんなことでもします」

「分かりました。常日頃、この会のために熱心に活動されている貴方のことです。特別に教えましょう」

「ありがとうございます」

 五行法師は、側近に『いつもの物を持ってくるように』と目配せをする。間もなく一尺四方の木箱が運ばれ、田中の目の前に置かれた。

 五行法師がその木箱に向かって何やら呪文のような言葉を発し、おもむろに蓋を外した。中には、妖しく黄金に輝く土鈴が入っていた。

 

      

 

「この霊験あらたかな土鈴を、貴方の家の床の間に置くことです。そうすれば、たちどころに病魔が立ち去る筈です」

「この土鈴を・・」

「はい。少々、値は張りますが」

「如何程でしょうか」

「五十万円です」

「五、五十万・・」

「これで貴方の命が助かるのですから、安い買い物ですよ」

「あっ、はい。そうですね・・」

 

ドローンの行方

「これで、証拠をきっちり掴んだるさかい」

 零時を少し過ぎた頃である。川岡組の構成員でマサと呼ばれている男が、住宅地の一角にある薄暗い空き地に立っていた。

 その近くに山田組の組長宅があって、マサはそこからカメラを搭載したドローンを飛ばそうとしていたのである。

 川岡組と山田組は、シマの事で揉めていた。その原因は、山田組が川岡組の縄張りを横取りしようとしたことである。規模の小さい川岡組としては正面切っての喧嘩もできず、山田組が自滅するようなネタを掴んで国家権力に売り、そのことを全国の親分衆に知ってもらおうと思ったのである。

 マサは、ある筋から『山田組が任侠道に外れた事を企んでいるらしい。深夜、奥の「離れ」で、何やら怪しげな事をやっているようや』と、聞かされていた。

「何をさらしてるんか知らんけど、今に見とれ!」

 人気のない山奥まで行ってドローンを飛ばし続け、自在にコントロールできるまでになった。空き家を組長宅と見立てた予行演習も、何度も繰り返し行った。後は、その証拠をカメラで捉えるだけである。

 

    

 

 決行日の夜の空模様は、曇よりとしていて無風であった。

「やるなら今や。今しかない。絶対にシッポを掴んだるわ」

 少し震える手でスイッチを押すと、ドローンは軽快な音と共に地上から離れていった。

『奥の「離れ」は、あの辺りの筈や』

 遠隔操作でカメラを起動させると、モニターの画面に「離れ」が映った。更に近づけてみると、灯りが漏れた窓際に人影があるのがはっきり見えた。

『誰やあれは?医者のような白衣を着てるで・・』

不審に思ったマサは、カメラのズームを試みた。

「あれ?」

 突然、ドローンが窓際から離れた。更に「離れ」からも遠ざかって、どこかへ飛んで行った。

「なんや?どないしたんや?」

 ドローンの操縦がまったく効かなくなったのである。コントローラーのボタンをあれこれ押してみるが、まったく反応しない。結局、ドローンは、闇の空の彼方に消えてしまった。

 そうこうしている内に、人の足音と声が聞こえてきた。どうやら、気付かれたようだ。マサは、コントローラーを捨てて逃げようとするが、既に遅かった。山田組の若いもんに囲まれて捕まってしまう。

「お前、川岡組のマサやな」

「そうやったら、どうや言うねん」

「ドローンでうちの組を探ろうとしたやろ。けど、残念やったな」

「何のことじゃ」

「この期に及んでしらを切るか。まあ、ええわ。あのドローンは、こっちのもんになったさかい」

「ふん。乗っ取りかい」

「そういうこっちゃ。用意がええやろ。こっちはお前が来るのん待ってたんやで」

「けっ」

「3日前にお前、下見に来てたやろ。監視カメラに映っていたわ」

「ああ、そうかい」

「まあ、ゆっくり話を聞こか」

 この後、マサは拘束されて壮絶な暴行を受ける。気を失ったままドラム缶に入れられて、大阪湾に沈められてしまうのである。

 

狡猾な獣たちの罠

「さあ、今夜は待ちに待った新入部員の歓迎会です。無礼講ですので、とことん飲んで盛り上がってください」

「おお!」

「さあさあ、吉野君も飲んで、飲んで」

「はい。でも、私、あんまりお酒は飲めないんで・・」

「何言っんだい。このサークルでは、こんな会が年に数回はあるんだよ。飲めないと損するよ」

「そうだよ。男子部員はもちろんのこと、女子部員だって酒を飲まないと場が白けてしまうって良くないよ。酒が強くなる訓練だと思って飲みなよ」

「はあ・・」

「そーれー、そーれー、一気、一気」

 吉野真由美は、仕方なく目の前のグラスを手にして、ビールを一気に飲んだ。

 

     

 

「いけるじゃないか、吉野君、さあ、もう一杯」

「いえ、もう、これが限界です」

「いやー、まだまだ」

このサークルの部長である高木は、真由美の空いたグラスにビールを入れた。

「そーれー、もう一回」

「私もう、無理です」

「吉野君、部長の頼みを断ちゃダメだよ。君の評価にマイナスポイントが付いてしまうよ」

副部長の阪井が、吉野の背中を押した。

「そうだよ。卒業後の就職先の相談なんかも、乗ってもらえなくなるよ」

会計の横田もたたみかけた。

「でも・・」

「大丈夫だって」

「そーれー、一気、一気、一気、一気」

みんなの視線が真美に集まり、無下に断れない状況になってきた。

「じゃ、この一杯だけで・・」

「おお!」

「一気、一気、一気、一気」

 飲めない酒を無理矢理流し込んだせいか、真美の体はかなり火照り、目も異様に据わってきた。そして、猛烈に眠気が襲ってきた。

『いくら酒に弱いからといっても、こんなに眠くなるのはどうしてだろう・・』

真美は、そう思いながらいつの間にか寝入ってしまった。

 

 耳元で男たちの甲高い笑い声が聞こえた。それで気が付いた。どうやら、自分はどこかのベッドの上に寝かされているようだ。それも素っ裸で。

 口には、球状の猿轡が入れられていて、声が出せない。両腕は顔の真横に伸ばされ、手首には手錠が掛けられていた。それがベッドの端の木部とロープで繋がれているので、起き上がることもできない。まだクラクラする頭ではあるが、男たちが誰なのかはすぐに分かった。

 

「おや、やっと気が付いたようですね。可愛い、可愛い、我らの真由美さん」

 男たちは、部長と副部長、会計の三人だった。他の部員は男女ともいなかった。

「ううっ」

真由美は、自分が嵌められたことを悟り、顔に悔しさを滲ませた。

「まあ、少しの我慢です。その内に気持ちがよくなるからね」

抵抗するために首を激しく振ったが、無駄だった。

「さあ、始まりますよ。楽しいサークル活動が」

「真由美さんは、男の経験が何人くらいですかねぇ」

「まさか未通女ということはないでしょ」

「では、私が確かめましょう」

 真由美は、それをされまいと両足をバタつかせたが、すぐに副部長と会計に左右の足首を掴まれた。彼らは閉じた股を開けようと、それぞれの足首を外側へ強引に引っ張った。

「ジタバタしてもだめですよ、真由美さん」

ビデオカメラを持った部長の顔が、真美の股間に近づいた。

 実は真由美は処女だった。卒業する四年後の春に、同郷の幼なじみと結婚する予定だったのであり、『それまでは』と、操を守っていたのである。

「ほぉ、どうやら未通女のようですね。これは、ラッキーです。しっかり、処女喪失の場面を撮らないといけませんね」

「真由美さん、分かってますよね。警察なんかに知らせちゃいけませんよ。そんなことをすれば、この動画がネットに流れてしまうことになりますよ」

「そうなりゃ、世間の男たちは喜ぶよな」

「違いない」

「恥ずかしくて、誰にも顔向けできないよね」

「うんうん」

「真由美さんのご両親にとっても、露わな娘の姿がネットに出てしまったら、きっとショックだろうな」

「あははは」

 助けを呼ぶことが出来ない真由美は、男たちに怒りの目を向けるしかなかった。それだけが唯一の抵抗であったが、男たちはそんなことはお構いなく、平然と真由美の体を弄ぼうとした。

 真由美は、この後、自分がどうなってしまうのかという不安で慄き、辛く苦い涙を流すのだった。

操作室

「あっ、今、海女らしき者が一人、海面に顔を出しました」

「おお!」

「船に気づいて、必死で泳いで行きます」

「泳ぎながら、船に向かって何かを叫んでいるように見えるな・・」

「尋常でない慌てぶりからして、助けを求めているんじゃないですか」

「おっ、操縦席から誰か出てきました」

「1人だけか?」

「そのようですね」

「いくら若い海女といっても3人もいるんだ。1人で拉致するつもりか」

「銃か何かで脅すんじゃないですか」

「ふーむ」

「しかし、海女が手を差し出しているのに、あの者は船に引き上げようともしないですね」

「黙って見てるだけだな」

「拉致しないのでしょうか?」

「分からん。それにしても、他の2人はどうして出てこんのだろう」

「もしかすると、海中で何かあったのでは・・」

「かも知れん」

「鮫か何かに襲われている可能性もありますね」

「それもあり得るな」

   スタッフが映像を凝視する中、突然、海女が体を回転させ、再び海中に潜って行った。

 

 

   1979年 麦崎海岸 

 

8月4日午前4時40分

「外はまだ暗いな」

「夜が明けるまでに少し間があるわ。行くなら今だよ」

「そうだな」

「結構遠いよ・・」

「何言ってんのさ。うちらはまだ若いんだよ。がんばればすぐ着くさ」

「美津、赤ん坊はどうしてる」

「母ちゃんに預けたよ」

「よく、出られたな」

「『早紀の母親が今朝早く納屋を修理するので、その手伝いをしたい』と言って出てきた」

「上手い口実だね。うちは女所帯だからな」

「それにお前の母ちゃんは、うちの家に義理があるからね」

「まあね・・」

「和男は、まだ寝てるのかい」

「いいや、昨日の晩は帰って来なかった・・」

「またかい。本当に甲斐性がない亭主だね」

「仕方がないよ。今は・・」

「お前たち、ぐずぐずしてられないんだよ。話の続きは、これが終わってからにしな」

「分かったよ」

「帰りは、極上のアワビが桶に一杯さ」

「そうだといいけど」

「さあ、行くよ」

「うん」

 

 

操作室

   推測した通り、映像に海女と小型船が現れたことで、誰もが真実に迫れるものと確信した。

   ところが思わぬ展開となり、主任の太田とスタッフ全員は、この後の成り行きがどうなるのか、瞬きもせずに見入っていた。

「ここまでは、なんとか順調に捉えています。この調子で、最後まで行って欲しいものです」

と、野々村博士が言ったその時である。突然、映像が乱れた。

「な、なんだ!どうしたんだ!」

操作していたスタッフたちが、すこぶる慌て始めた。映像が、まるで幾何学模様のような複雑な形になっているのである。

「なんで映像が乱れるんだ?装置の故障か?」

「いいえ。装置は正常に動いています」

「じゃあ、何なんだ?」

「分かりません。今、原因を調べています」

「こんな大事な時に限って・・。一体どういうことだ・・」

「この乱れ具合からすると、どうやら妨害電波のようです」

「妨害電波?」

「はい。この近辺のどこかに、強力な妨害電波を出す装置があると思われます。カムイからの電波を受信するアンテナが、その電波の影響を受けている可能性があります」

「うーむ。もしそうだとすれば、某国の仕業に違いない」

「爆破装置は未然に防ぎましたが、そんな装置まで仕掛けていたとは迂闊でした」

「よし、一刻を争う緊急事態になった。手分けしてその装置を見つけ出してくれ」

「はい」

「見つけ次第、すぐに叩き壊すように警備の者にも伝えてくれ」

「分かりました」

 

竜宮井戸

「多分この辺りだ」

「なんとか来たね」

   3人は、海岸から約1.5kmの沖合を桶を掴みバタ足で泳ぎ切った。美津も2人に少し遅れたが、着くことができた。

「ふう、ちょっと疲れたよ」

「産後だから、きつかったかもな」

 

「いいかい。半端ない深い岩場だからね。かなり気合いを入れて行きなよ」

「ああ」

「まず、私が先に行くから、お前たちは後ろからついて来な」

「分かった」

   良恵は、大きく息を吸ってから体を前方に回転させた。息に余裕がある内に岩場に届くようにと、素早い泳ぎで潜って行った。その後すぐに、2人も続いた。

   夜明け前なので海中は薄暗く、勘だけが頼りである。

 

   視界が悪い中、10mほど潜ったところで、先頭を切っていた良恵が、岩場の下の方で何かしら動く物に気づいた。それは全体が黒く、深海魚のように光る部分があった。そして、時折、細かな水泡を出していた。

「いくら深場とはいえ、こんな所にチョウチンアンコウがいるはずないんだが・・。ひょっとして、龍?まさかね・・」

そう思いながらも、その物体に近づいて行った。

「あっ」

良恵は、思わず声を出しそうになった。目前に迫った物体の正体が何なのか、歴然としたからである。

   それは、深海魚のような海に住まう生き物ではなく、黒い潜水スーツを身に着けた人間だった。

 

 

   顔にはマスク、足にはフィンがつけられ、背中にはボンベがあった。さらに、肩の上にはサーチライト、腰には大きく膨らんだ網の袋が括られていた。

「密漁者だ!」

良恵は、そう直感した。

「自分たちも掟を犯す者ではあるが、こいつは念の入った密漁者だ。動き方から見て、おそらく男だ」

と、判断した。

「密漁を知られて、このまま私らを放っては置かないだろう。近づくと何をされるか分からん。今は逃げるしかない」

   常は姉御肌で強気な女ではあるが、顔の見えない完全装備の男に少し恐怖感を抱いた。

   すぐに、黒の密漁者が良恵に気づいた。そして、猛烈な勢いで追いかけてきた。早紀と美津たちは、まだそのことを知らない。

  この状況を彼女たちに伝えたいが、海中では言葉を発することができない。良恵は咄嗟に体を反転させ、降りてくる2人に手で合図を送るが、早紀や美津は、何があったのか呑み込めないまま固まってしまった。

   良恵は、すれ違いざまにもう一度、上に行くように合図を送る。不審に思った2人が下の方を見るとると、黒い潜水スーツ姿の男が間近に迫っていた。

  2人は、良恵の合図の意味をようやく理解するが、既に遅かった。体を反転させ顔を上に向けた時に、美津が捕まってしまった。片足を掴まれたのである。

  なんとか残りの片足で男の手を蹴るが、海中では威力が半減するのでほとんど応えない。

「そうだ!」

   腰の後ろに付けていた磯ノミを手にし、体をくの字に曲げて男の手を刺そうとした。

   しかし、男の方も磯ノミを持っていた。長さに差があり、逆に手を刺されてしまう。美津の磯ノミが手からこぼれて、海の底深く落ちていった。

「このままでは、息が続かない。なんとかして、この男から離れなくては・・」

美津は手を伸ばし、男のマスクをはずそうとした。ところが、その手を掴まれ、体を逆さまに抱えられてしまった。

   必死でもがく美津であるが、如何せん相手は男であり、簡単には逃げられない。さらにボンベを背負っていることもあって、圧倒的に不利な状況になった。

「早紀、助けて・・」

そう祈ったが、その早紀にも危機が迫っていた。黒の密漁者が、もう一人いたのである。

   姉に似て勝ち気な早紀は、暫くその男と対峙したが息が苦しくなり、磯ノミを銜えて上に行こうとした。その時に体を掴まれ、羽交い締めにされてしまう。咄嗟に手を曲げて、美津がしたように男のマスクを探るが、僅かに届かない。

   美津も早紀も否応なく海水を飲むことになり、その苦しさでのたうちまわった。30秒後、2人の動きが鈍くなり、次第に意識が遠退いていくのだった。

 

   いち早く海面に到達していた良恵は、20m程離れた所で止まっている船を見た。

   力を振り絞って近づき、助けを求めようとしたが、その船の操縦席から出てきた男を見て驚いた。なぜなら、その男は、美津の夫、和雄だったからである。

『なぜ、和雄がここにいるんだ?いや、そんなことはどうでもいい。早く2人を助けなくては』

そう思いながら、必死で叫んだ。

「和雄!この下に早紀と美津がいるんだ!密漁者に捕まったようだ!助けてよ!」

   その声を聞いて、和雄は困った表情になり、立ち尽くしてしまった。

「何をぐずぐずしているんだ!捕まっているのは、あんたの女房なんだよ!」

   それでもどうしたことか、和雄は動こうとしなかったのである。

「和雄、お前・・」

良恵は、和雄の不自然な様子に「はっと」気づいた。そして、これ以上の問答は無駄だと思い、再び海中に潜って行った。

 

 

空白の20分間

   警備員はもちろんのこと、手の空いているスタッフたちが、一心不乱に受信機を探した。それでも、なかなか見つからない。

   闇雲な捜索では埒が明かないので、操作室のスタッフが発信元の逆探知を試みた。苦肉の策であったが、思いもよらず、すぐにその位置を探し出すことができた。

「アンテナ付近です!」

「よし、みんな、そっちに行ってくれ!」

「了解です!」

   映像は、依然として乱れたままであるが、誰もが回復を信じて凝視していた。

 

   指示があってから数分後、

「これだ!」

警備員の一人が、灰色の物体を手にした。それは、小型ではあるが発信機のような形状をしていた。

「これに間違いない!」

周りのスタッフたちも、確信を持った。

「こんな所に隠していたのか・・。念のために調べてくれ」

「はい」

   爆発物の可能性もあるので、念入りにチェックした。そして、それが紛れもなく発信機だと分かると、直ちにハンマーで叩き壊した。

「これでどうだ!」

その声と同時に、映像が正常に戻った。映像が乱れてから、約20分後の事であった。

「おお、映像が戻ったぞ!」

「やはり、妨害電波だったんだ」

   スタッフは、再び映し出された画面を食い入るように見た。

「うーむ。漁船が消えたな・・」

「桶はありますが・・」

 

   この後、変化のない映像が続く。時間が経つにつれて、麦崎から違うエリアに移り、最後は、日本から離れて外国の映像になって行った。

   結局、一番肝心な場面は見ることができなかった。妨害電波によって邪魔された訳である。

「くそー」

一同は、口惜しさで声を震わせた。

 

計画の評価

   その後の調査で分かるが、発信機はタイマー付きであった。「なぜタイマー付きだったのか」その理由は、事前に発信機を発見されないようにするためである。

   最初から電波を発信すると、M17を起動した時に映像が乱れる。それでは、スタッフに発信機を探す時間を与えることになってしまう。だから、重要になる時間帯を計算して、それにタイマーを合わせたのである。

   そんなことができるのは、事情をよく知っている者しかいない。つまり、スタッフの中に某国のスパイが紛れ込んでいた可能性が高いのである。

   しかしながら、このような工作は取り越し苦労であった。どうやら、拉致ではなかったのである。

   功を焦った実行犯たちは、この日の拉致の確認をしなかった。科学技術庁の目的を阻止することしか頭になく、勇み足を踏んでしまった訳である。

   いずれにしても、拉致が明らかになるのを恐れていた某国の幹部たちは、ひと先ず「ほっと」したに違いない。

 

   数日後、この結果をどう捉えるかが問題になった。実際、会議の中では、官僚の意見が真っ二つに分かれた。

「莫大な費用がかかったのであり、期待外れである。拉致の現場ではないのだから、評価できない」

「想定外ではあるが、事件の真相に迫れる1つの事実が分かった。それなりに評価してもよい」

賛否両論が飛び交う中で、野々村博士と神谷は、神妙に黙した。

 

三重県警本部

「川村和雄という男を探し出してくれ」

三重県警本部長の榊原が、移動式のホワイトボードに和雄の写真を張り出した。地元の親類縁者、友人関係を虱潰しに当たって、なんとか手に入れた写真である。

「誰なんですか?その男は」

「昭和54年に伊勢志摩で起こった『海女行方不明事件』の重要参考人だ」

「昭和54年だとすると、今から38年も前の事件ですね・・」

「捜査の糸口のないまま迷宮入りになったが、事件の真相がその男によって明らかになろうとしている」

「その重要参考人が地元から離れて、どこか遠くに隠れているということですか?」

「そうだ」

「もう時効でしょう?」

「そうであっても、我々は真実を掴まなければならん。被害者やその家族のためにもな」

「榊原本部長、その写真の男は、かなり若く見えるのですが」

「これは、川村が21歳の時のものだ。現在では59歳になっているので、これとはかなり異なる風貌になっている筈だ」

「名前を変えている可能性は?」

「有り得るな」

「こりゃ、人海戦術しかないな」

「大変だろうが、三重県警の信頼を得るためにも頑張ってくれ」

「分かりました。すぐに指名手配して、捜査を開始します」

 

   和雄は、生まれたばかりの赤ん坊を置いて、一人で地元から離れた。自分の行先を親族にも告げず、住民票もそのままにして消えたのである。

『一体、どこへ行ったのか。手掛かりはこの写真だけであるが、なんとしても居所を掴みたいものだ』

榊原は、和雄の写真を目にしながら祈った。

 

   それは、困難を極めた捜査であった。「まるで、広大な砂漠の中に埋まっている何かの骨の一欠片を探し出すようなもの」と言っても過言ではないだろう。

 

   捜査を開始してから11日後の事である。榊原の強い願いもあってか、和雄の所在がついに分かった。ようやく事件の核心が、38年越しで解明されようとしているのである。

 

重要参考人への尋問

「俺は、連れと居酒屋で飲んでいたが、些細な事で口論となった。その時、止めに入ってきた組合の理事長を酔った勢いで殴ってしまった」

「翌朝、酔いが覚めた俺は、美津といっしょに理事長の所へ謝りに行った。美津は生まれたばかりの赤ん坊を抱えていた」

「理事長は、赤ん坊の泣き声が気になると言って、美津を別の部屋で待たせた」

「俺はひとりで理事長に謝ったが、すぐに除名処分と言われた」

「処分を受けるのは覚悟していたが、除名は俺にとって非常に重いものだった」

「『それだけは許して欲しい』と俺は謝り続けたが、理事長は横を向いたままだった」

「半ば諦めていたとき、どういう訳か理事長がこんな話を持ち掛けてきた」

「どんな?」

「『やって欲しい仕事がある。もしお前がそれを引き受けるのなら、3週間の謹慎だけで済ましてやる』という事だった」

「俺は、『それで済むなら何でもする』と答えた」

「それが、密漁の片棒を担ぐことだったのか」

「はい・・」

「密漁が悪いことだとは思わなかったのか」

「理事長でさえしているのだから、正直、そんなに悪い事だとは思わなかった。それに、俺の役割が、2人の男を船で送り迎えすることだったので・・」

「別に実行犯が、2人いたんだな」

「そうです・・」

 

「事件があった前の夜は、どうしてたんだ」

「その日の夜は、理事長の離れにいた。その2人もいっしょだった」

「そいつらは、知り合いの者たちか?」

「いや、初めて見る顔だった」

「何という名前か知っているか?」

「知らない。聞いてもいない。理事長に、『密漁は勿論、2人の事も一切口外するな』と言われていたんで・・」

「おそらく、どこかの漁師を金で雇ったのだろうな」

「手際が良かったので、そうだと思う」

「その2人の特徴は?」

「はっきりとは覚えていない。ただ・・」

「何だ?」

「2人とも、顔が少し黒かった。会話も日本語じゃなかったし、たまにしゃべる日本語も片言だった」

「ということは、外国人だな」

「はい」

「言葉は、朝鮮語か中国語じゃなかったのか?」

「違うと思う」

「とすると、東南アジア辺りか・・」

 

「部屋で2人に会ったとき、少し怖かった・・」

「どうしてだ?」

「2人が着替えている時に、大きな刺青が見えたので」

「マフィアか?」

「多分・・」

「理事長は、そんな輩をどこから引っ張ってきたんだ?」

「分からない・・」

「それで、どうした?」

「午前3時頃に、俺は離れを出て桟橋に行き、自分の船に2人を乗せた。2人は、ボンベを背にして完全装備になった」

「そして?」

「竜宮井戸付近で2人を下ろし、また桟橋に戻った」

「その後、頃合いを見て2人を迎えにいった訳か」

「はい。まさかその間に、美津たちが来ていたとは・・」

「まあ、美津さんたちも同じように大潮の日を選んだのだろうな」

「・・・」

「そこで美津さんたちは、先に来ていた男たちと鉢合わせになり、命を奪われたのだな」

「はい・・」

「海面に出てきた海女は、誰だ」

「あれは、良恵です」

「2人を助けに行って、逆に殺されたな」

「そうです・・」

「どうして、助けに行かなかった?」

「3人が捕まっても、まさか殺されるとは思っていなかった」

「ところが、そう甘くはなかった訳だ」

「・・・」

 

「その後、美津さんたちをどうした」

「奴らに命令されて、俺が船に引き上げた。3人ともぐったりして、もう虫の息だった」

「奴らは、手当をしようとしたのか?」

「いや。そうじゃない」

「じゃあ、何で引き上げたんだ?」

「裸同然の若い海女たちが、目の前でじっとしているんだ。無法者のような輩がすることは、決まってる・・」

「犯したんだな」

「・・・」

和雄の顔が下を向いたまま、動かなくなった。

 

「こりゃ、マフィアというよりギャングだな」

「俺は女房だけでもなんとか助けようとしたが、『余計なことをするな!』と、磯ノミで殴られてし まった」

「それで、見殺しにしたのか?」

「俺は怒りで体が震えた。美津を指さして、『これは、俺の女房だ』と食って掛かった」

「それで?」

「2人は一瞬驚いたが、『口封じのためだ。文句があるならお前も・・』と短刀で脅された」

「人殺しを平気でする輩には、刃向かえないということか」

その言葉に悔しさが蘇ったのか、和雄は深く項垂れてしまった。

 

「3人の遺体はどうした?」

「竜宮井戸から2キロ離れた無人の小島に行って、そこに埋めた」

「証拠隠滅の為だな。辛いと思うが、明日現場に立ち合ってもらうことになるな」

「はい・・」

 

「理事長は、3人が殺された事を知っていたのか」

「多分、知っていたと思う。昼過ぎになって『3人が行方不明になった』と村が騒ぎ始めた時に、『もしかしたら』と思ったはずだ」

「離れに戻った時、理事長にそれを言わなかったのか」

「俺は2人からその事を口止めされていた。だから、何も言わなかった」

「密漁は、その後もしたのか?」

「2人はどうだか知らないが、俺はしていない」

「どうしてだ?」

「怖かったからだ。あの時の事が、頭から離れなかったんだ」

「だから、逃げたのか」

「ああ・・」

「2人の居所を掴みたいのだが、もし知っていたら、教えてくれないか?」

「あれ以来、一度も会っていないので知らない。また、会いたくもない」

「まあ、そうだろうな」

「当時の警察は、3人が竜宮井戸に行ったことをどうして分かったんだ」

「それは、良恵の母親が知っていたからだ。赤ん坊がいるのになかなか帰って来ない娘を心配した美津の母親が、良恵の母親に問い合わせて密漁の事が分かった」

「それを聞いて、美津さんの母親が警察に届けたのだな」

「そうだ」

「母親は、家に帰ってきた俺にも、美津がどこにいるのか聞いてきた」

「事情を知っていながら、知らんぷりするのは辛いな」

「・・・」

「今から考えると、警察に行くべきだったな」

「かも知れない・・」

「それが、正しい判断だったんだよ」

「刑事さん、今でも俺は、何かの罪に問われるんですか?」

「密漁はともかく、本来なら死体遺棄の罪に問われるところだが、もう時効だ」

「そうですか・・」

安堵した和雄であったが、その顔は疲れ切った表情になっていた。

 

『黒幕は、地元の組合理事長だった。それにしても、地域を束ねる立場の者が、東南アジアのマフィアとどんな繋がりあったのか。もしかすると、日本のやくざが仲介役だったのかも知れないな』

   これまでに様々な事件を経験し、不可解な事件も数多く見てきた。すべてを知り尽くしたつもりの榊原であるが、この事件で、闇の世界の底知れない深さを痛感するのであった。

 

   和雄に関する聞き込みで、もう一つ分かった事がある。地元の和雄をよく知る者の証言であり、このように語った。

「和雄は、美津との結婚を望んでいなかった。子どもができたので、責任を取らされた訳だが、奴には他に好きな女がいた。事件の1年後に、その女といっしょになったはずだ」

『なるほど、そういうことだったのか。和雄が警察に行かなかったのは、脅されただけではなかったのだ』

 

   3人の遺体を発見してから2日後、組合理事長と密猟者を調査していた捜査員から電話があった。

「組合理事長は、7年前に亡くなっています。実行犯の2人は、常習で密漁をしていましたが、すでに母国に帰っているようです」

「そうか」

「これから2人を追いかけるのは、とても無理です。それにもう時効です。どうしようもありません」

「分かった」

報告を受けた榊原は、静かに受話器を置いた。これで、この捜査のすべてが終わりになった。

「『事実は、小説より奇なり』というが、まさにこの事件の事だな」

周りの誰に聞かせるでもなく、遠い目になって自分自身に呟いた。

 

 

2017年 東京・東急多摩川駅

 

「あっ、お父さん!」

「やぁ、友ちゃん。迎えに来てくれたんだね」

「お母さんに頼まれたの。『駅まで行って、お父さんに傘を渡してちょうだい』って」

「急に降り出したもんな」

「でも止んじゃったね」

「夕立だったからね。折角だから、一緒に帰ろう」

「うん。」

「今夜は、雨上がりで星がはっきり見えるなあ」

「そうだね」

 

 

「向こうに柄杓のように並んでいる7つの星があるよね」

「ええーと。ああ、あれね」

「あの7つの星には、名前がついているんだよ」

「北斗七星でしょう」

「なぁんだ、知ってたんだ」

「だって今、学校で習っているもん」

「そうなんだ」

「じゃダブリューの形をした星座は?」

「えーと。カシオ・・・ カシオペア座!」

「正解」

「じゃぁこれはわかる?」

「なあに?」                        

「はくちょう座のデネブとこと座のベガとわし座のアルタイルの3つの星を結んでできる形を何というでしょう。ヒントは三角形です」

「三角形・・・分かった。夏の大三角でしょ」

「ピンポーン!よく分かったね」

「だって、星のことは好きなんだもん」

「じゃぁ、ベガの隣にかすかに見えている星があるんだけど分かる」

「うーん わかんない」       

「よく見て、ベガの右斜め下だよ」

「う~ん。あっ、あった、あった。あれね。あのオレンジ色の・・・」

「そうそう」

「あんなところにも星があったんだ」

「ベガのために見つけにくいんだけどね」

「あんまり目立たない星ね」

「そうだね。名前は、ミリカというんだ。実はあの星、今はもうないんだよ」

「ない?でもみえてるよ・・・」

「うん、確かにあったんだけど、数年前になくなったことが最近わかってね。地球から遙か遠くにあるために、なくなる前の姿が今、地球に届いてるんだよ」

「へ~え」

 

 

※この作品は、すべてフィクションであり、架空のものです。実在する人物・地名・団体とは一

   切関係ありません。

※過去の事件の内容については、ウィキペディアから引用しています。

居酒屋「呑」

「いやー、驚いたよ。まさかお前が俺と同じ会社にいたとは、夢にも思わなかったよ」

「俺もだよ。まあ、それぞれ違う部署にいたので、これまで顔を合わせることがなかったんだろうな」

「それにしても田所、お前、老けたな」

鮫島が、田所の頭部に視線を向けながら言った。

「お互い様さ。あれから30年以上も経っているんだ。年も取るよ」

「積もる話もあると思うが、まずは一献、再会に乾杯だ」

「おう!」

   2人は一気に、グラスのビールを飲み干した。

「なあ、鮫島、思い出すよな。セクトにいたあの頃を」

「うん。あの時代は学生運動がどこも盛んで、中核、革マル派などが幅を利かしていたな」

「俺たちも燃えていた。理想の社会を実現するという目的のために、毎日が闘いだった」

「アジ、デモ、オルグなど何をするのも先頭に立って、『俺たちが社会を変えるんだ』と息巻いていたっけ」

「当時はご多分に漏れず、授業にほとんど出なかった。おかげで、卒業するのに7年かかったわ」

「へぇー、お前、卒業してたんだ。俺なんか、中退だぜ」

「なんだ。大学やめてたのか。中退で、よくこの会社に入れたな」

「そこは、親のコネを使ったさ」

「あは・・」

   彼らの話は、途切れることなく続いた。会社の事は勿論、妻や子どもの事まで、溜めていたものを吐き出すかのようにしゃべり、しこたま飲んだ。

 

   杯を交わしてから一時間と二十分が過ぎ、酒も満ちて話も一段落したので、ひとまずトイレ休憩になった。

「ふぅ。飲んだ。飲んだ」 

「2人でこれだけ、よく空けたもんだ。忘年会でも、こんなには飲まないぜ」

「まったくだ」

   休憩してから数分後、田所が爪楊枝を口に加えながら、おもむろに切り出した。

「しかし、今考えてみて、俺たちのやったことは本当に正しかったのかな・・」

「反動を批難する立場だったのに、今じゃとっぷり資本主義社会に浸かっているものな・・」

「30年前の俺たちは、一部の権力者に支配されるような社会を否定していた」

「『富める者は、自分の立場を守るために嘘を言い続ける。貧しき者ものは、その言葉に踊らされる』という構図だな」

「自由競争の歪から生まれる悪を憎み、資本主義の欠陥を民衆に知らしめて、それを根本からひっくり返そうとしていたんだ」

「つまり、革命を目指した訳だ」

「労働者が資本家に搾取されない社会、貧富の差がない社会、誰もが平等な社会、それが理想の社会だった」

「その理念自体は、今でも間違っていなさ」

「じゃ、何が間違っていたと言うんだい?」

「社会主義思想と人の本性のミスマッチさ」

「人の本性・・」

「確かに社会主義は、俺たちが抱く理念に最も近かった。しかし、革命を成して移行した国のほとんどが、理想とはかけ離れた国になっている」

「理想と現実とのギャップだな」

「支配者が、常に国民の事を思って政治をしていれば問題はない」

「そうだな」

「しかし、人というのは取り巻きによって変わるものだ。また、変わらなくても、永遠に生き続けることはできないのであり、次の支配者がとんでもない愚行をする可能性だってある」

「私利私欲に走ったり、体制を保持するために反対派を全員粛清したりとかだな。そういう意味では、資本主義の方がまだましかな」

「勿論、資本主義社会に問題があるのは否めない。しかし、それ以上に重大な問題が、社会主義体制にはある」

「その問題というのは?」

「本来、人というのは、自由を求める生き物なのさ。野生の動物と同じさ」

「・・・」

「アフリカのシマウマは、草原を自由に走りたいと常に思っている。ライオンに襲われる危険があってもだ」

「命より自由か」

「もし、動物園にいる動物が、地震か何かで檻が壊れたとしたら、必ず逃げるだろうな」

「本能的に、糧より自由を選んでしまうのかな」

「人も同様さ。いくら安全で社会保障が整った社会であっても、決まったレールの上でしか動けないのは嫌なんだ」

「制限付きの可能性は望まないということだな」

「例えば、将棋やチェスのようなゲームだ。最初から『100%勝つ』と分かっている相手と対戦をしても、面白いとも何とも感じないないだろ」

「退屈なだけだな」

「やはり、『勝敗はやってみなければ分からない』というゲームでないと、面白くないんだよ」

「確かに」

「双方、勝つために様々な手を考えるよね」

「ああ」

「実はそのこと自体が面白いのであって、指し手を誰かに指図されると、面白くなくなってしまう」

「自分のゲームではなく、他人のゲームになってしまうな」

「その通り。人が生きる事も同じことが言える。人生で一番重要なことは、自分の意思が反映されることさ。たとえ、それが間違っていてもだ」

「間違いながらも、自分で正しい方法を見つけていく過程が大切なんだな」

「そうだ。もし、自分の意思ではなく、他人の押しつけばかりで生きていくとしたら、張り合いのない、つまらん人生になるだろう」

「俺だったら、生きる意欲をなくすかもな」

「飢饉や戦禍で明日をも知れない命であるならまだしも、そんな状況に置かれていない人の意識というのは、ほとんどいっしょだ」

「仮にそんな窮地になったとしても、『喉元過ぎれば』だからな」

「行き過ぎた押しつけは、『人民の為の理念』を『理念の為の人民』に変えてしまう」

「本末転倒だな」

「それが、結果的には人民にとって良い事であっても、いつかは不満へと導くことになるんだ」

「すべての人民が右に倣えでは、息が詰まるということか」

「そういう意味で、社会主義体制では『指図される人生』になってしまうと思うのさ」

「なるほど・・。そうかも知れないな」

 

「『自由とは何か』については、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』の中で明言されているが、俺たちはその言葉を毎日のように暗唱していたな」

「『自由とは、認識された必然性である』というところだな」

「『人が岐路に立った時、物事の本質を捉えていれば、よりベターな解決方法を選択することができる』とするのであり、それはある意味、正しいと思う」

「うむ」

「逆に、何も知らずに闇雲に行動するのは、自由ではないということになる」

「先輩方にそう教えられたな」

「さっきの将棋の例で言うと、定石や様々な戦法を知っている者とそうでない者とでは、明らかに指し方が違ってくる」

「前者の方が、自在に駒を動かせるわな」

「『知ることこそが自由になり得る唯一の方法であり、人生においても同じである』とね」

「だから、教育を受けた者とそうでない者とでは、前者のほうがより自由であると言える訳だ」

「そう考えると、発展途上国の中の充分な教育を受けていない人々のすべてが、自由でないことになってしまう」

「そうなるな」

「果たして、本当にそうだろうか」

「紆余曲折を経ることにはなるが、知識がない者はないなりに、結構気ままに振舞っているんじゃないのか」

「俺もそう思う」

「逆に、知識で雁字搦めになっている者の方が、それに囚われて自由奔放ではないのかもな」

「大体、神のようにすべての本質を把握している人などいない。もし、そんな人がいるのであれば、その人の行動は、法則や原理によって決まってしまうことになる」

「ミスをしないために、常に正しい方法をとるだろうな」

「その判断は、自分の意思のようであって、実際はそうでないことになる」

「うーむ」

「つまり、自由か否かは、その人の気持ちがどうであるかが重要になるということだ」

「うーん。なんとなくだが、お前の言いたいことが分かるような気がする」

「どうやら、共感してくれたみたいだな」

 

「社会主義への執着が希薄になった理由は分かった。しかし、その考えに辿り着いたのは、いつからなんだ」

「俺がそのことに気付いたのは、ごく最近のことだ」

「何がきっかけだ」

「ある雑誌に記載していた『自殺の多い国ランキング』を見たことだ」

「それは、俺も見たような気がする」

「自殺率が高かったのは、意外にも福祉国家や社会主義国家と言われた国々だった」

「障害者や老人にとって安心できる国家なのにな」

「ランキングが上位の中には、宗教が普及している国もあった」

「宗教自体が自殺を禁止しているにも関わらずか」

「ああ。心底悩める者にとっては、宗教も無力になるのだろうな」

「信心も役に立たずか・・」

 

「宗教についても、やはり、マルクスが言及している。当時の運動家のほとんどがこれを支持していた」

「『宗教は、阿片である』だな」

「宗教家が説く『悲惨な現状を嘆かず、信仰を持て。されば救われる』は、惨状の根本的な原因を改善するのを諦めさせることになる」

「『一時的な鎮痛剤の役割はしても、ただそれだけのことであり、社会の問題点をそのまま放置することになる』と指摘しているな」

「実際、人権など様々な問題が改善されたのは、当時の運動家の尽力によることが多い」

「闘争によってな」

「しかし、いくら社会が改善されようとも、人は悩みを持つものだ。そして、それがどうにもならない苦難の場合、人はどうするだろうか」

「うーん・・。やはり、何かに頼ろうとするわな」

「宗教の存在意義というのは、本来、そこだと思う」

「ふーむ」

 

「ところで、俺とお前がセクトから離れたのは、あの事件が起こってからだったな」

「そうだ。忘れもしない浅間山荘事件とベース山岳事件だ」

「テレビの生中継では彼らを応援していたが、逮捕されてからは何とも・・」

「本当にショックだったな」

「彼らの活動が共闘ではなく、独裁によるものだったからな」

「その独裁が、『私怨による殺人』というおぞましい事件を引き起こしたんだ」

「おかげで、我々に対する世間の風当たりがより厳しくなったわ」

「それからというもの、学生運動がどこも下火になっていったな」

「俺も活動に疑問を感じ始めて、セクトを避けるようにアルバイトばかりしていた」

「どんな?」

「工事現場の日雇い人足、宅急便の配達人や深夜営業の店員など色々したさ。その中でも一番時給が良かったのは、大学病院の死体洗浄かな」

「うへー。お前、そんなことまでしたのか・・」

「就職するまでの繋ぎのバイトさ。食うためには仕方がないさ」

「苦労したんだな」

「まあな。でもまあ、こうしてまたお前と酒が飲めるんだ。ほろ苦い挫折も、今となっては良い思い出になっている。有難く思うよ」

「俺もだ。結果はどうあれ、日本の将来を考え真摯に向き合った仲間に再び会えたんだ。嬉しいよ」

「これからも、ずっと変わらずにいような」

「もちろんだ」

「おう」

   お互いに顔を見て、がっちりと手を握り合った。

 

「それでは、我が同志たる執行部副委員長の田所稔君、あの頃の俺たちの純粋な志とこれからの親交に、是非とも乾杯をしようじゃないか」

「よーし、乾杯だ!」

「せーの」

「乾杯!」

   2人は人目も憚らず肩を組み、『インターナショナル』を高らかに歌い出した。

 

 

   2016年 相模原市宇宙科学研究所

 

「野々村博士、たった今、調査室の阪井さんから連絡がありました」

「おお、阪井さんからですか。では、その日が分かったのですね」

「はい。我々が捉えられる映像は、『1979年の8月4日』ということです」

神谷が目を輝かせながら言った。

「日本時間の8月4日ですか?」

「そうです」

「しかし、よく分かりましたね。マーティン博士が捉えた映像は、なんとか地球であると分かる程度のものでしょう。そのようなものからよく特定できましたね」

「スーパーコンピューターで解析したスタッフの話によると、それは地球を覆う雲の形状や位置関係から割り出したようです」

「なるほど」

「捉えられる映像は、どれくらいの長さになりますか」

野々村博士の隣にいた間宮博士が、心配そうに質問した。

「マーティン博士の時は40分間程でしたが、今回は人工衛星からの撮影ですので、それ以上の時間が期待できます」

「人工衛星を移動させることで、映像を追いかけられるからですね」

「そうです。それに、時間をかければ装置の能力を最大限に出せます。この前の実験より、かなり身近で鮮明な映像が見れるでしょう」

「日本の映像もキャッチできますか?」

「100%とは言えませんが、その確率は非常に高いです」

「その日の日本の天気は、どうですか?」

「沖縄と北海道が曇りで、他の地方はほとんどが快晴です」

「条件の一つは、クリアしているね」

「他の条件も、なんとかクリアして欲しいものです」

「そう願うよ」

「只、問題は、この日の日本で未解決の事件が起こっているかどうかです」

「それですね」

「それが分かるには、過去の新聞や記録を調べなければなりません」

「そうすると、各都道府県に所在する図書館や資料館に出向くことになりますね。かなりの労力を要するのではないですか」

「いえいえ、その必要はありません。今は過去の新聞のデータもコンピュータ上で管理されていますので、研究所でも調べられます」

「それなら、手間が省けますね」

「それでも、莫大な資料の中からそれを探しだすのは、難しい作業といえるでしょう」

「やはり、大変な調査なのですね」

「通常、何かの事件が起こった場合、早朝ならその日の夕刊に載りますが、大抵は、翌日の朝刊になります」

「ですので、8月4日だけではなく、5日も調べる必要があります」

「両日の全国紙や地方紙など、日本中の新聞という新聞を隈なく探さなくてはならないのです」

「相当な量ですね」

「確かに量は多いですが、なんとかして見つけたいです」

「その有無が分かるのは、いつ頃になりそうですか」

「多分、今日の深夜になると思います」

「そうですか。科学技術庁への報告は少し急がなければなりませんが、あまり無理をなさらずに」

「お心遣い、ありがとうございます」

「スタッフの中には、ろくに睡眠が取れてない人もいると聞いております。かかりっきりになって、体を壊さないようにして下さい」

「はい」

「私たちは、ひと先ず科学技術庁へ出向きます。もし、何か分かったら連絡をお願いします」

「分かりました」

   研究室から出た野々村博士と間宮博士は、期待を内に秘めて神谷からの知らせを待つことにした。

 

調査室

「こっちはないな。そこはどうだ」

「ないな」

「そっちはどうだ」

「ありません」

「そうか。やっぱりないか・・」

「本当にあるのかね、未解決事件が。都合よく、その日に起こっているとは思えんが・・」

「そうですね」

「世界中ならまだしも、日本の中での事件だろ。起こってない確率の方が、かなり高いんじゃないか」

   調査スタッフの阪井、川上、山田は、半信半疑だった。それでも、これ如何で計画が終わってしまう可能性があるので、コンピュータの画面に集中し探し続けた。

 

「うーん」

   口から出るのは、ため息ばかりである。始めてからかなりの時間が経ったが、そのような記事はどこにもなかった。リーダーである阪井は、室内のインターホンで神谷にこう告げた。

「ダメです。3人で手分けしてあらゆる新聞を隈なく探しましたが、それらしき記事は見つかりませんでした」

「そうですか」

「これから、警視庁から送られてきたデータを調べていきます」

「それが、最後の手がかりになりますね」

「はい」

「皆さん、お疲れだと思いますが、宜しくお願いします」

「承知しました」

   3人は、再びコンピュータの前に腰を下ろし、粘り強く続けていった。使い慣れているとはいえ地味な作業であり、時折睡魔に負けそうになる。

   部屋の中は、阪井がヘビースモーカーなので常に霞がかかった状態になった。灰皿の中は、煙草の吸殻が山のように積もっている。

   思えば、朝から何も食べていない。口にしたのは、一杯の珈琲だけなのである。なのに、誰もが空腹を感じなかった。疲れがピークになっているせいか、無駄口を叩く者もいない。時間が経過する中、コンピュータのキーを打つ音だけが室内に空しく響き渡った。

 

   外が少し白めいてきた。部屋の時計の針は、午前4時17分を指していて、もうすぐ夜明けである。

   疲れ切った顔の阪井が、「一旦休憩を取ろう」と力なく言った。それでも、あとの2人は、何かに取り憑かれたように手を休めなかった。

   重い空気が伸し掛かるような気分の中で、阪井が2杯目のインスタント珈琲を入れようとしていたその時である。

「おお!」

「ど、どうした!」

「あ、あった。あったぞ!」

「ほんとうか!」

「どれだ!」

「これだ!」

   それは、「三重県志摩市で3人の女性が行方不明」という記録であった。

「私が最初に調べた4日にはなかった」

「こっちの5日もなかった」

「6日も同様です」

「そこで、『念のために』と思って7日のデータを調べていたら出てきた。記録された日付は8月7日であるが、行方不明になったのは8月4日になっている」

「大人が行方不明ということで、すぐには公表されなかったようだな」

「行方不明者は、3人とも地元の漁師だ」

「とすると、海女ですね」

「ああ」

「3人が行方不明になった時刻は?」

「早朝から昼の間だ」

「場所は、志摩半島の最南端である麦崎という岬の沖合だ」

「沖合での漁だな」

「沖までは、船で行ったのか?」

「いや、桶に摑まって泳いで行ったらしい」

「桶は、その日の夕方に見つかっている」

「今も行方不明のままなのか?」

「おそらくな」

「一応、警視庁で確認してもらおう。山田君、すまんが朝一に出向いてくれ」

「はい」 

   半ば諦めかけていた記事が出てきたのである。それぞれが安堵の表情を浮かべたが、特に阪井は、神谷に報いることができそうな状況を心底喜んだ。

『誰よりも早く神谷さんに知らせたいが、この時間帯ではまだ寝ているに違いない。それに、事件の確認もまだできていない。糠喜びにならぬよう慎重に運ばねば』と、阪井は思った。

 

   川上が窓のカーテンを開けて見ると、外は先ほどよりも明るくなっていた。「7時ジャストに作業を再開する」と決めて、3人はひとまず仮眠を取ることにした。

   3人の中で一番若い山田は、ソファに横たわるとすぐに寝入ってしまった。耳元でラッパでも吹かない限り起きないような爆睡状態になっている。

   阪井と川上は、行方不明事件が気になるのか、すんなりとは眠れなかった。睡眠を要求する体とそれを拒絶する脳が葛藤していたのである。

   数分後、思い立ったように阪井がしゃべり出した。

「それにしてもこの事件,何か臭うと思わないか」

「何がだ?」

「子どもや老人ならいざ知らず、20才前後の若い女が3人、同時に行方不明になっている点さ」

「バミューダー海域でもあるまいし、こつ然といなくなるのは確かに変だな」

「3人とも鮫に襲われたとは考えにくい。海女なので海中で溺れ死んだとも思えない」

「それなら、桶が見つかった付近で遺体も同じように発見されるはずだわな」

「それでは、誰かに連れ去られたということか」

「ああ」

「つまり・・」

「そうだ」

「某国の拉致か?」

「多分な」

「この頃には、我が国で某国による拉致事件が起っていた。この事件もその可能性が大だ」

「もしそうなら、3人は某国で生きていることになる」

「事件から37年が過ぎているので、もう60才近くになっているはずだ」

「彼女たちの家族にとってこの話は、『寝耳に水』だろうな」

「いいや、『青天の霹靂』さ」

「いずれにしても、このことを早く神谷さんに伝えよう」

「そうだな・・」

   そう言い終わると、2人はゆっくりと目を閉じた。

 

 

科学技術庁

「野々村博士、科学技術庁で再度協議した結果、我々の方針が固まりました。博士の計画を早急に進めていくつもりです」

「本当ですか」

「はい。これで私の肩の荷が下りたような気がします」

「本当にありがとうございます。長官には、多大な尽力を頂いたと思っています。心から感謝します」

「いえいえ」

「これから私たち一同、長官の期待に沿えるよう数々の問題に対処していくつもりです」

「それらをクリアして、是非とも計画を成功させたいものですね」

「はい」

「差し当たって、当日までのより具体的な取り組みを我々で考えていく必要があります」

秘書の篠塚が述べた。

「また、そのスタッフを決めなければなりませんが、極内輪だけの少人数になります」

「そうですね」

「今の段階では、計画を公にすることはできません。秘密裏に進めなければならない状況なのです」

「分かっております。某国による妨害工作の恐れもありますから当然ですね」

「使用する人工衛星は、現在製作中の気象衛星カムイを代用するつもりです」

「新たに作ることはしないのですか」

「それでは、時間がかかり過ぎます。この計画は急ぐ必要がありますので、このような処置を取らざる得ないのです」

「そうですか」

「この目的が終われば、カムイは普通の気象衛星として活用されますので、無駄はありません」

「少ない費用で済みますね」

「経費については、大まかな額を先日より聞いておりますが、より確かな数字をお知らせ下さい」

「承知致しました。再度、計算して明後日までに送りします」

「それでは、近日中にスタッフを決めて、会議を持つことにしましょう」

「宜しくお願いします」

 

 

某国の情報機関

「どうも、日本の科学技術庁に何やら不穏な動きがあるらしい」

「公安ではなく、科学技術庁にか?」

「ああ」

「科学技術庁が、一体何を企んでいるというのだ」

「はっきりした情報ではないが、どうやら拉致問題に関連する事のようだ」

「拉致問題?」

「そうだ。その証拠を掴むために動き出したとのことだ」

「けっ、今更、奴等に何ができる」

「何にもできんさ」

「いや、かなりの自信を持っているらしい」

「何か証拠に関わる情報を掴んだのか?」

「分からん。しかし、その可能性がないとは言い切れない」

「もしそれが本当なら、放っては置けんな」

「ああ。どんな手を使ってでも、阻止しなければならん」

 

 

   2017年 相模原市宇宙科学研究所

 

「今回の調査は、プルトニュウムの量からして、1回限りです」

「一回限りですか?」

「そうです」

「もし失敗すれば、それで終わりですか」

「はい」

「万一失敗しても、次の年にやり直せば良いのでは・・」

「いいえ、それはできません」

「なぜですか?」

「ご存知だと思いますが、間宮博士が開発した装置・M17にはプルトニュウムが不可欠です。プルトニュウムは大変希少な物質なので、そう簡単には手に入りません」

「確かに、入手は困難ですね」

「また非常に高価なので、予算の面から考えても調査の1回分しか積めないのです」

「うーむ」

「マーティン博士がM17を試したときは、ほんの四十分間程でした。機能的にも最小限の活用であって、プルトニュウムの使用量も極僅かでした」

「実験的な使用でしたからね」

「しかしながら、今回の作動は12時間で、さらに最大限まで活用します。かなりの量を使うことになります」

「そうなりますね」

「ですので、『失敗に終われば、来年に持ち越し』とはいかないのです」

「なるほど」

 

「人工衛星の打ち上げの成否も心配ですが、それ以上に装置の起動も気になります」

「調査において1番要となる装置ですからね」

「打ち上げに成功しても M17が正常に機能しなければ、それは「科学の敗北」を意味します」

「それほど重大な役割を持っているのですね」

「もし、調査が失敗に終わると、今までにかかった莫大な費用と費やした時間が無駄になってしまいます。それは、この研究所の存続に関わることにもなります」

「失敗は、絶対許されないプロジェクトなのですね」

「その通りです」

 

 

   2017年 種子島宇宙センター管制塔 

 

   10月13日・午後11時

   人工衛星カムイの打ち上げを明日に控えて、管制塔の中は、スタッフの期待感と不安感とが錯綜していた。

   特に主任の太田は、絶えず監視カメラの映像に目を向け、万全の注意を払った。太田は現場の最高責任者であり、周りがピリピリする程の緊張感に包まれていた。

「ピコン、ピコン」

突如、管制室のインターフォンが鳴った。太田が素早く動き、すぐに受話器を手にとった。センター周辺にいる警備員からであり、緊急連絡のようである。

「どうした?」

「たった今、柵を登ってセンター内に侵入しようとしていた不審な人物を捕えました」

「本当か!」

「はい」

「場所は?」

「北門近くです。不審者は2名いて、1人はなんとか拘束しましたが、もう1人は逃げられました。スタッフが、追いかけているところです」

「そうか。それで、その者の素性は分かったのか?」

「今、尋問していますが、口を固く閉ざしてしゃべりません」

「以前からセンター周辺をうろつく者がいるとは聞いていたが、そいつ等ではないのか?」

「おそらく、その1人だと思われます」

「やっぱりな」

「顔つきは日本人ですが、どうも中国系か朝鮮系のように思われます」

「ふーむ」

「捕まえた者は手ぶらでしたが、逃げた者は灰色のバッグを持っていました。中身が何かは分かりません」

「ひょっとして、爆破装置かも知れんな」

「その可能性があります」

「心配していたことが、実際に起こってしまったな」

「これからどうしたものでしょう」

「その者については公安に引き渡すとして、周辺に何か不審物が置かれていないか、注意深く巡回してくれないか」

「承知しました」

「プツン」とインターフォンが切れたが、太田は受話器を持ったまま動かなかった。

「主任、何かあったのですか」

心配した副主任の大八木が尋ねた。

「ああ。残念だが、予断を許さない状況になったようだ」

 

警視庁公安部・取調室

10月14日・午前0時25分

「あんた、名前は?」

「・・・」

「国籍は?」

「・・・」

「何のために立ち入り禁止の宇宙センターに入ろうとしたのか?」

「・・・」

   4人の刑事に囲まれていたその男は、下を向いたまま、まったく反応がなかった。両手には、手錠がはめられている。

「そうか。黙秘権か。まあ、黙っていても大体の予想はつくがな」

「・・・」

「あんたが言わなくても、あんたの相棒が白状するさ。なにせ、時限爆弾の装置を持っていたんだからな」

「・・・」

「動かぬ証拠があるんだから、今更黙秘もないだろう」

「・・・」

「言っておく。お前たちの国がやっていることは、人道に反することだ。我が国がそれを正そうとしているのに、さらに邪魔をするというのは極悪といえる行為だ」

「その通りだ。お前たちもその片棒を担いでいるのだから悪党さ」

   その言葉を聞いて、男は一瞬、目が吊り上ったように見えた。

「なんだ?怒ったのか」

「言いたいことがあるなら言ってみろ」

   男は、今にも飛び掛からんばかりに2人を睨んだが、口は開かなかった。

「やはり、黙りか」

「『盗人猛猛しい』とは、このことだな」

「・・・」

「あんたも国に帰れば家族がいるんだろ。家族が理由もなく離れ離れになることが、どんなに辛いことなのか分かるだろう」

「・・・」

「女、子どもを拐うことが、悪いことだとは思わんのかね」

「普通の人間だったら思うよな。正しい行為ではなく悪行だとね」

   男は、何か言いたそうな目をした。しかし、依然として口は開かなかった。その様子をさっきから横で見ていた谷口警部は、おもむろに自分の持っていた煙草を差し出した。

「煙草は吸うんだろ?」

   男は少し驚いて谷口を凝視したが、しばらく間をおいてからその煙草を左手で取った。谷口がすぐさまライターを渡すが、男は煙草を口に加えて右手で火をつけた。

「ふう」

煙を吐くと同時に、口からため息が漏れた。そして、決心したかのように話し始めた。かなり低い声ではあるが、流暢な日本語である。

「拉致がそんなに悪いことなのか」

「何だと!」

公安の中では一番若手の上田が、声を上げて男に詰め寄ろうとした。しかし、すぐに谷口がそれを制した。

   その声で一瞬口を閉ざした男であるが、再び谷口の方を向いて話し出した。

「お前たちの国は『拉致』を非難しているが、我が国では、それは理想を実現するための手段だとしている」

「手段?」

「そうだ」

「『拉致』がその手段になると、君は本当に思っているのかね」

「思っているさ」

「・・・」

「日本の資本家は、労働者を搾取する。野心家は、自分の地位を向上させるために権力者に賄賂を渡す。政治家は、国民のことなど二の次で、自分の権力を大きくすることや財産を増やすことしか考えていない」

「・・・」

「我が祖国は、そんな劣悪な社会を認めていない」

力強い口調で言い切ると、男は再び煙草をくわえて目を閉じた。

「では聞くが、あんたの言う理想の社会とは、どんな社会なのかね」

「それは、誰もが平等であり、豊かに暮らせる社会だ」

「ほう」

「お前たちが認める資本主義社会は、一部の資本家のためだけの社会だ。それを維持するために、平気で人を蹴落とす。裏工作によってな」

「・・・」

「そんな社会のどこに正義があるというのだ。お前たちの正義とは何だ。誰のための正義だ」

男は、逆に質問をし始めた。

「それは全国民、いや、全人類のための正義だろ」

谷口の向かい側にいた中堅の井上が言い返した。

「全人類の・・。ははっ、笑わすな。世界中を見渡して、それを貫いている国がどこにある」

   男は、嘲笑した。その態度に怒りで震える刑事たちを谷口が再び目で制止した。

「我々は、悪いことをしたとはまったく思っていない。他の国に理想を知ってもらうために行動しただけだ。多少の犠牲がでるのは、仕方がないことなのだ」

「今度は、『盗人にも三分の理』か」

   日本の古い諺が理解できなかったのか、男は不審な顔で田中を見た。

「いや、君たちの理想は分かるが、実現のための手段が良くないと思うんだが」

谷口が穏やかな口調で言った。

「まったくだ。『拉致』が良い手段とは、誰も思わないぜ」

苛立ちをモロに出した上田が付け加えた。

「馬鹿なことを言うな。たとえ『拉致』をしても、その者達の命まで奪っていない。彼らは、我が祖国で立派な同志として生きている。むしろ、我々に感謝しているぐらいだ」

「それは嘘だ!そんなことは信じられない!」

「信じたくなければ、信じなくて結構!」

「誰が信じるか!」

と、田中が机を叩きながら言い返した。同時に井上と上田も、感情を剥き出した憤怒の顔になった。

「国のことはすべてトップが決める。従わなければ処罰を受ける。そんな国のどこが良いのだ」

「俺たちは、決められたレールに乗りたくない。自分の行く先は、自分で選ぶんだ」

「その通りだ。たとえ不完全な社会でも、我々には自由がある。何よりも大切な自由がな」

「やっぱり、お前ら、単細胞なんだわ。犬より劣る。だから、俺の言うことが理解できんのだわ」

3人に向かって、男は平然と言葉を浴びせた。

「なんだと!」

「まあまあ」

   谷口が止めに入るが、男は3人を交互に睨みつけ、非常に険悪な状態になる。その後、男は、再び貝のように口を閉ざしてしまう。

   谷口は、『そんなに良い国であるなら、脱出する者などいないはずだ。なのに、後を絶たないのは何故なんだ』とその男に問いたかったが、言わずに胸の奥にしまい込んだ。

 

2017年 人工衛星カムイの打ち上げ

10月14日・午後3時45分

「打ち上げの全ての準備が整いました。これからシステムの操作を開始します」

その言葉にスタッフはもちろんのこと、科学技術庁の官僚たちも雑談を止めて、操作室が映る大型モニターに目を向けた。

「メインスイッチ、オン」

   時間は、午後3時45分ジャストであった。天候は、快晴、無風であり、これ以上の条件はないくらいに良好である。

人工衛星カムイを目の前にして、葉山長官、野々村博士、神谷は、打ち上げの成功を祈るように見守っていた。

   操作室では、間宮博士が自分の出番になるのを静かに待っている。そのすぐ近くで、スタッフにアドバイスをするマーティン博士の顔も見られた。

 

   システムが動き出してから30分経った。直ちに、人工衛星カムイの打ち上げのカウントダウンが始まる。

「30、29、28、27、26・・・」

「緊張する瞬間だね」

宇宙センターの主任である太田が呟いた。

「10、9、8、7、6」

   一同は、息を飲んだ。そして、それぞれの思いで成功を祈った。

「5、4、3、2、1、0」

   スタートのボタンが押された。大爆音と共にカムイは地面から離れ、大空を一直線に飛んで行った。

「やった!」

歓喜の声があちこちで上がった。かなり固い表情だったスタッフたちも、安堵の顔を見せた。

   この段階ではカムイが只単に飛び立ったに過ぎず、打ち上げが成功したとは言えない。これから先の動向が肝心であるが、兎にも角にも、第一歩を無事に踏み出せたのである。

   10分後、人工衛星の本体や管制塔のシステムにも異常が認められず、カムイは順調に飛行し続けた。後は、軌道に乗るだけである。

「今、カムイは大気圏を脱しました。これから軌道に乗ります」

「おお!」

野々村博士が期待に満ちた声を発したが、操作室にいる間宮博士の顔は、まだ眉間に皺を寄せたままである。

 

カムイからの映像

   日本が日没になる60分前に、人工衛星カムイは軌道に乗ることができた。ここから先は、間宮博士の指示に従ってM17を始動させる手筈になっている。地上からカムイへの遠隔操作のため若干の時間差はあるが、全く支障はない。

「今から60分後に日が沈み、夜に入ります。それからの12時間は、野々村博士のM17をフル稼働していきます」

「それまでに、地球を捉えなければならないな」

「はい。なんとしても捉えて欲しいものですが、仮に捉えられたとしても、それが日本の映像になるのは2時間ぐらいです」

「あまり長くない時間だな。それは、12時間のどの辺りになる」

「仮に映像の始まりがアメリカ大陸だとしますと、太平洋、ロシア、日本の順になりますので、映像を捉えてから8時間後になりますね」

「結構、時間がかかるな」

「そうですね」

「南半球はいらないな」

「北半球を是非ともお願いしたいですね」

 

「ここで、注意することはあるかね」

「特に注意するのは、1つです。動作中のM17を絶対に太陽に向けてはならないこと。夜なので太陽の姿は見えなくなりますが、少しでも太陽光が入るとその光が強烈なビームになってしまい、カムイ本体と地球のどこかが破壊されてしまうことになってしまいます」

「1つのミスが、とんでもない事態を招いてしまうのだな」

「調査が夜に限定される大きな理由の1つは、その危惧です。そうならないように厳重に注意を払わなければなりません」

 

   まずは、M17本体の電源が入れられた。次に、M17の命ともいえるGR-K2の動作確認になった。映像を捉える装置であって、カメラで言えば、レンズに当たるところになる。

   ここでは、まだプルトニュウムは使用しない。なので、たとえGR-K2に太陽光が入ったとしても、カムイ自体が壊れることはない。

   操作室から遠隔信号を発信して4秒後に、最初の映像がカムイから送られてきた。

「おお」

   捜査室のモニターにその映像が映し出された。かなりぼやけてはいるが、確かにM17が捉えた宇宙空間の映像である。

「ピントを合わせてくれないか」

「はい」

   慎重にピントを合わせていくと、数秒遅れで映像がはっきりしてきた。

「ふうむ。鮮明にとはいかないが、なんとか見られるようになったな」

「はい」

「では次に、GRをかに座の惑星55eに向けてくれ」

「了解です」

   M17のGR-K2が、静かに向きを変えた。

「55eを捉えました」

「よし、それでは、GRを右方向にずらしてくれ。微かに見える星があると思うのだが」

「右方向にずらしました」

「どうだ?」

「うーん」

「ないか?」

「はい。まだ完全な日没ではないので太陽光がM17に当たり、映像をぼやけさせているようです」

「そうか」

「少し、映像を拡大してみます」

「そうしてくれ」

   スタッフたちは、少し焦り出した。『もしかしたら、捉えられないのでは』という不安が、頭をよぎってきた。その理由は、

「光の折り返し点になる空間が、一年後の今も存在しているとは断言できない」

「空間が存在していても、何らかの原因で光の道筋が地球に向かっていないかも知れない」

「光の道筋が地球に向かっていても、塵や何かで遮断されている可能性も考えられる」

などの疑念があったからである。

   軌道上にあるカムイの位置は、スーパーコンピュータによって決められたものであり、ほぼその通りに運ぶことができた。それによって、地球を捉えることは容易になったが、それはあくまで計算上での可能性であり、実際にできるかどうかは、誰もが半信半疑であったのである。

   なかなか捉えられないのを心配したマーティン博士が、1年前に捉えた地球の位置を詳細にスタッフに示した。

   そうこうしているうちに、日没になった。午後6時43分である。マーティン博士の指示通りにGR-K2の向きを変えると、間もなく微かに光る小さな星がモニターに浮き出てきた。

「あっ、ありました!所長、これですね!」

「おお、あったか!」

   モニターを凝視していた誰もが、その声に喜んだ。これまでの不安が一掃されて、胸を撫で下した。中には、肩をたたきあうスタッフも見られる。

 

「ここからは、間宮博士にお任せします」

「はい」

   実際、ここまでに至るには、不安と問題だらけであった。が、いよいよ、1979年の地球を見る時が来たのである。

「では、映像拡大のためにプルトニュウムを使用します」

   満を期したように、間宮博士自らがそのスイッチを押した。M17の内部でプルトニュウムが融合し始め、独特の轟音が響き渡った。MAX時になれば、本格的な天体望遠鏡の数千万倍の拡大能力を持つことになる。

   M17は、その能力をすぐに発揮し、小さな点であった映像が見る見るうちに拡大していった。数秒後、それが地球と分かるまでになり、さらには、大陸の形や海の状態がはっきりとしてきた。

 

 

「うーむ。これはまさしく、我々の地球だ!」

「リアルタイムで見る1979年の地球の映像ですね!」

「そうだ!」

「すごい!」

「ミラクルです!」

   一同はしばらく感慨に耽った。

「映像の場所は、どこだ?」

「雲が邪魔しているのではっきりとは分かりませんが、どうやら、アメリカ大陸のようです」

「ふうむ。そうすると、日本の映像になるには、8時間後になるな」

「そうですね」

「それまで、この映像が途切れないことを祈るしかないな」

「はい」

 

別室

「田宮くん、あの老人は誰かね?」

警視庁の上役である渡辺が、部下の田宮に尋ねた。

「ああ、あの方は、志摩で漁師をされていた人です。事件当時は漁船に乗っていたようですが、今は引退したと聞いています」

「公安部が呼んだのか?」

「はい。映像には、地元の方でしか知り得ない事があるかも知れません。それが、事件解明への手がかりになる可能性もあるということでした」

「なるほど。それでお呼びした訳か」

「はい」

「お名前は?」

「三木谷さんです」

「かなりのお歳のようだが」

「90歳に近いと聞いております」

「大丈夫かね」

「その点はご心配いりません。お年の割にはしっかりされていますので」

「ならいいが」

 

「行方不明になっている3人のご家族は、誰も来ないのかね。もし3人が拉致されていたのなら、生きている可能性があると思うのだが」

「南井良恵・早紀姉妹は、幼少の頃に父親を海難事故でなくし、母子家庭でした。その母親も30年前に病死されています」

「割と早くして亡くなったんだな」

「失跡事件の後、かなり気に悩んでおられたようです」

「娘さん2人が同時にいなくなったんだから、落ち込むのも無理ないな」

「増田美津さんの方も同じような母子家庭でしたが、当時は、母親だけでなく夫とお子さんがいたようです」

「その3人は、呼ばなかったのかね?」

「残念ながら出来ませんでした」

「なぜだね」

「美津さんの夫は、事件の1年後に離婚届けを出して美津さんとは縁を切っています。今は、所在が分かりません」

「うーむ」

「美津さんのお子さんは、成人するまで美津さんの母親に育てられたようです。美津さんのことはもちろん当時のことも、幼すぎてまったく記憶がないと思われます」

「まあ、そうだろうな・・」

「ですので、ご足労を願うことはしませんでした」

「美津さんの母親は?」

「ご存命です。でも、介護施設に入っておられ、外に出ることができません」

「認知症でも患っているのか?」

「はい。かなりの重症で、自分が誰なのかも分からないようです」

「・・・」

 

操作室

   太平洋の映像から長い時間が過ぎて、いよいよ日本の映像になる。

   途中、雲が邪魔をすることもあったが、今の時点では雲一つなく、鮮明に捉えている。

 

「太田主任、映像が今、志摩半島のエリアになりました」

 

 

「おお、ようやく来たか」

「予想していたとはいえ、ずいぶん待ちましたね」

「そうだな。それでは、麦崎に焦点を合わせて、さらにそれを拡大してくれ」

「分かりました」

 

 

「ここですか」

「いや、もっと南よりだ。竜宮井戸というのは、麦崎灯台から真南へ1.5kmの沖合にあるようだ」

「そうすると、この辺りになりますね」

 

 

「うーむ」

「見たところ、人影どころか何も映っていませんね」

「そうだな・・」

「もう少し拡大してみましょう」

「そうしてくれ」

 

「どうだ?何か映っていないか?海女着らしき白いものが・・」

「そうですね・・」

スタッフたちは、目を皿のようにして画面に集中した。そして、その中の1人がすぐに気づいた。

「あっ、海面に何か浮かんでいるのが見えます」

「どこだ!」

「左下のところです」

 

 

「おお、それをもっと拡大してくれ」

「はい」

スタッフは、M17の拡大能力を最大にした。

 

 

「どうやら、海女が使う桶のようです。合計3つあります」

「よーし、ここに間違いない。もう少し拡大したいが、これ以上できないのか?」

「だめです。これが限界です」

「うーむ」

「主任、このままだと映像が、他の場所に変わってしまいます」

「よし、ここに固定したいので、M17を移動させてくれ」

「了解です」

スタッフは、地球の自転の速さに合わせてM17を動かし始めた。

 

「ここに桶だけで誰もいないということは、3人とも拉致された後か、海中に潜っている最中かのどちらかになりますね」

「もし潜った直後だったとしたら、長くても2分位で海上に顔を出すはずだ。はやく浮上して、姿を見せてくれい」

スタッフ一同は、桶が漂う海面に釘付けになった。

「あっ!」

「どうした!」

「船です。船が近づいて来ます」

 

 

「おお、小型船だ。やっぱり現れたな」

「某国の船でしょうか?」

「おそらくな。ハングル文字か何か、手がかりになるものはないか」

「見当たりません。なにぶん、上から見る映像ですので・・」

「ふーむ」

「たった今、桶の近くで止まりました」

「これから3人を拉致するつもりだな」

 

別室

「あっ、あの船は・・」

モニターでその映像を見ていた三木谷が、思わず声を出した。その声を聞いて、公安部特捜科の柿本が詰め寄った。

「あの船をご存知なのですか?」

「はい。多分・・」

と言いかけて、三木谷は口をつぐんだ。

「あの船は某国のものですよね?」

「いや、私は某国の船など知りません。でも、あれは違うと思います」

「どうしてですか?」

「それは、どことなく見覚えのある船だからです」

「すると、地元の漁船ということですか?」

   柿本の問いかけに、三木谷はゆっくりと頭を縦に振った。そして、曖昧な昔の記憶を辿っていく中で、それが誰の船であるのかをはっきりと思い出した。

「間違いない。やっぱり、あの船は・・」

 

 

「三木谷さん、あれは一体、誰の船なんですか?」

 

永覚

 

「尊師、この世では、なぜ悪行が後を絶たないのでしょうか」

瞑想を終えたばかりの義心(ぎしん)が、卒然と住職の慧隆(えりゅう)禅師に問いかけた。

 義心は、剃髪の跡も青々しい若き僧侶である。仏門に入って日が浅く、読経などの勤行はまだおぼつかないが、世情については人並み以上に関心を持っているのである。

「今朝見た新聞に、外国で起きたテロの記事がありました。かなりの人が亡くなったようです」

「また起こったのじゃな・・」

「このような惨劇が終わらないのは、どうしてでしょうか」

「私も義心と同じ思いです。どのような時代でも、罪のない人々が殺されています。これからもこのようなことが、続いて行くのでしょうか」

義心より2つ年上で、同じ時期に入門した惠淳(けいじゅん)も同調した。

「義心、惠淳よ。その問いの答えを得るには、まず、人の『本性』を知らねばならぬ」

「本性・・ですか」

「そうじゃ。そもそも、人とは何であるのか。お前たちにそれが分かるか」

「・・・」

その問いに2人は顔を見合わすが、答えを出せないまま固まってしまった。

「何なのでしょうか」

「ミミズやオケラと同じじゃよ」

 

 

「尊師、それは、単なる生き物という意味ですか?」

「そうじゃ。ただの生物ということじゃ」

「はあ」

「では、すべての生物に共通する事とは何か」

「・・・」

   まるで禅問答のような慧隆の投げ掛けに2人は暫く考えたが、答えが何なのか見当すらつかなかった。

「分からんか。それはじゃな。命があるということじゃ」

「命ですか・・」

「生物が生物であり得るのは、命があってこそじゃ。命が尽きれば、そうでなくなる」

「それはそうですね」

「それでは、命あるものは常に何をしようとしているのか」

「常にですか・・・」

「うーん。何でしょう?」

「生きようとしているのじゃ。生き延びようとしているのじゃ」

「確かに・・」

「誕生してから、すぐに死に向かおうとするものはいない。生きるのに必要な物質を求めて、見つければそれを体に取り入れる。それによって、1秒でも長く生きようとする。それが、命を持つ物の摂理である」

「なるほど・・」

「この『生き伸びる』ということは、決して楽なことではない。糧が見つからないだけでなく、外敵に襲われて自分が餌食になる場合もあるのでな」

「命がなくなる危険性が潜んでいるのですね。自然界ではよく見られることです」

「いいや、自然界だけではない。人間の世界にもそれはある」

「人が殺し合うことですか」

「そうじゃ」

「尊師、私たちが知りたいのは、その理由です」

 

「お前たちは、ネコ同士が殺し合うのを見たことがあるか」

「いいえ」

「同類は、基本的に殺し合わない。ネコがネズミを襲うことはあっても、ネコがネコを襲うことはない。縄張り争いはしても、決して殺して食べることはしないのじゃ」

 

 

「同じ種という意識が、潜在的にあるからですね」

「人も、かつてはそうだった。同類の繁栄を意識の根幹としていた」

「他の生物のように、同類と共に生きるという思いが強かったのですね」

「ところが、文明が発達するにつれて、『利害』というものが人類に仇をなした」

「損得ですね」

「人は、ただひとりで生きているのではない。常に複数いるのであり、利害の対立は必然的である」

「争うのは、その対立が原因なのですか」

「そうじゃ。昔は、治水の取り合いで村々が争ったこともある」

「土地の取り合いもありましたね」

「その最たるものが、国の取り合いじゃ」

「つまり、戦争ですね」

「国で内紛が起こるのも、それが原因ですか?」

「ああ。表立っては主義主張、思想、理念の対立が原因になっているが、大抵は利害が絡んでいる」

「そうすると、この世で起こる争いのすべては、利害の対立から生じている訳ですか」

「すべてがそうだとは言えぬが、個人、村、国、民族、宗教などの争いは、その原因によることが多いな。争うだけで済めば良いが、血が流される場合も結構多い」

「国を挙げての戦争になれば、必ず多くの命がなくなりますね」

「戦争に勝つには、敵をたくさん殺さねばならぬ。単なる殴り合いや取っ組み合いでは、それは難しい。そこで使われ出した物があるが、何なのか分かるな」

「武器ですね」

「棍棒、鉈、刀剣、槍などがそうじゃが、もっと簡単に相手を殺せる飛び道具も作られた」

「さらには、爆弾も開発されましたね」

「相手より強力な武器を持って勝とうとした結果じゃな」

「対立の激化が、不幸を招くことになったのですね」

「日本でも、利害の対立から他国と戦争になり、たくさんの命がなくなった」

「最後は、核兵器が使われたのでしたね。もう二度と、戦争をしてはいけませんよね」

「誰もがそう願うのだが、中には戦争をして欲しいと思う者もおる」

「そんな人がこの世にいるのですか?」

「他人の対立を横目に見ながら、武器を売りつける輩だ」

「死の商人ですね」

 

 

「彼らは、財を得るために対立を煽る。戦争をけしかける。売れた武器によって、幾千万人が死ぬことになってもお構いなしだ」

「大切な人の命が、『儲けるための消耗品』とでも思っているのでしょうか」

「戦争の中には、彼らによって仕組まれたものもあるかも知れませんね」

「おそらく、あるだろうな」

「まったく、不埒な輩ですね」

「人非人と呼ぶべきです!」

そう言い放った2人の顔に、明らかな憎悪が見て取れた。

 

「有名な喜劇役者が作った昔の映画に、こんな場面がある」

「はあ・・」

「子どもが、どこかの家の窓ガラスに小石を投げて割る。家主が外に出て犯人を捜すが、すでに逃げていない。そこへ、ガラス屋が通る」

「はは・・。子どもが、グルだったのですね」

「その通り。貧困のためにそのような生業をせざるを得なかったのだが、捨て子を育てるという訳もあって、まだ許せる所行と言える」

「死の商人は、そうではないですよね」

「たんなる営利目的であり、売るためには手段を選ばん」

「卑劣極まりないですね」

「それは、死の商人だけでない。世の中には、そのように仕組まれた陰謀が渦巻いているのじゃ」

「陰謀が複雑すぎて、一体何が事実で、何が事実でないのか分からなくなります」

 

「この世には、思いもよらない争いがたくさん起こっている。仏門に身を置く儂がこんなことを言うのは憚れるが、異なる宗教間の争いもあった」

「宗教戦争ですね」

「『自分の信じる宗教が絶対に正しい。他は邪教だ』という思いを持てば持つほど、争いは起こる」

「キリスト教とイスラム教の対立が、その顕著な例ですね」

「仏教界でも、違う宗派が争って死者さえ出している」

「それは、仏の教えに背く行為ですよね」

「釈尊は、争いなど望んではいなかった。釈尊が唱えたのは『慈悲』であり、目指したのは『魂の救済』である。同様に、イエスも『博愛』を唱えて、『相愛協力』を目指したはずじゃ」

「そうですね」

「ところが、いずれの後継者も、教祖の思いとは異なる方へと向かってしまった」

「普及させるために、他を排除しようとしたのですね」

「信者が増えれば、お布施も増える。国教になれば、国家から支援を受けられ、権力も持てる」

「教団のトップが、(まつりごと)に影響力をもたらすこともありましたね」

「その目的のために、救済より普及が最優先になってしまった。そして、その競争が対立を生じさせる原因となった訳じゃ」

「嘆かわしいことですね」

「これは、宗教だけではない。利害の対立による争いは、あらゆる所で起こっている」

「できれば、それらすべてを今すぐやめさせたいものです」

「私もそう願います。でも、それはできないのでしょうね」

「いいや、できる。このような争いは、『同類』『共存』という意識を高めていけば、なくしていける」

「本当ですか・・」

「無論、一朝一夕で成せることではない。それには、全人類の絶え間ない努力が必要となる。今はまだ分からぬが、きっとその方法を見つけるに違いない」

「そうなることを切に祈ります」

「私もです」

   慧隆の言葉で、若い2人の表情は幾分明るくなったが、逆に慧隆の方は、翳りで覆われたような眼になった。

 

   少し間をおいた後、禅師は、おもむろに低い声で話を続けた。

「問題なのは、人の本能じゃ」

「本能・・ですか?」

「どんな生き物にも、それぞれに本能がある。それは、生死や繁殖に関わることであって、至って単純なものである。ところが、人の本能はそれだけではない」

「繁雑なのですね」

「人であれば必ず持つのであり、他の生物には見られないものだ。それが人の本性を形成しているといってもよいな」

「尊師、それは一体、どのようなものなのでしょうか」

「仏教では、それを『煩悩』と呼んでいる。それが原因で災いになる場合も多い」

「以前、講話の中で話されていましたよね」

「私も覚えています」

「この煩悩は、全部で百八つあるとされるが、その一つに『欲』がある」

「確か、執着してはいけないものでした」

「例えば、『金を得たい』『物を手に入れたい』『頂点に立ちたい』『有名になりたい』という気持ちじゃ」

「金欲、物欲、支配欲、名声欲ですね」

 

 

「人が成長するにつれて、その意識がはっきりしてくる」

「幼い子でもありますものね」

「お前たちも、これまでに何かで一番になりたいと思ったことがあるか」

「はい。私は、得意なスポーツで一番になりたいと思いました」

「私も、芸術の世界において上を目指したことがあります」

「人は、必ずそのような望みを持つものだ。程度の違いはあっても、大抵の者が持つ。当然の事だ」

「健全な競争心と向上心ですね」

「しかしながら、その意識を過剰に持つと、邪悪な行為に及ぶこともある。非常に強い思いを持つ者がいると、同じような者と決まって争いを起こす」

「欲と欲のぶつかり合いですね。勝つか負けるかの争いになりますね」

「時には、生きるか死ぬかの争いになることもあります」

「人の歴史というのは、そのような争いの歴史でもあるのじゃ。過去を振り返ると、どこの国にもそれが当てはまる」

「今でも、身勝手な欲望によって無益な争いが起っています」

「心ない輩によって、善良な市民が被害を受けています」

「儂がお前たちに『欲を断ち切れ』と教えるのは、そんな輩になって欲しくないからである。分かっておるな」

「はい」

 

   一呼吸して、慧隆は話を続けた。

「このような『欲』もそうじゃが、それ以上に厄介な『煩悩』がある」

「何ですか」

「それは、人を羨んだり、妬んだりすることである」

「『妬み』や『嫉妬』ですね」

「人は、他人を妬む。嫉妬する。もし、誰かと比べられて自分が劣っていたら、その相手に対して敵意を持つこともある」

「私も経験があります」

「敵意を持つだけならまだ良いが、その人に危害を加えようとする輩もいる。結果、悲惨な事件になってしまうのじゃ」

「三角関係が拗れて、目も当てられない程の醜い修羅場になった事件もありましたね」

「知らぬ間に人に恨まれて、命を奪われることもありました」

「私怨による殺人は、どのような時代にもある。他人事でなく、我々にも起こり得ることじゃ」

「私たちもそうならないように気を付けなければなりませんね」

 

「この他に、自分を自慢したり、卑下したりもすることもそうじゃ」

「『優越感』や『劣等感』ですね」

「たとえば、暴走族である」

「他人の迷惑顧みず、徒党を組んで派手にやりますよね」

 

 

「彼らは、何のために暴走行為をしていると思う」

「日頃の欲求不満の解消でしょうか?」

「それもあるが、主な理由は自己主張のためじゃ」

「自己主張ですか」

「奴らは、『平気で交通ルールを破るのが、格好良い』と思っておる」

「これ見よがしにするのは、民衆へのアピールですね」

「そうじゃ。『俺は、お前たちのような小心者ではない。警察なんか怖くない』という虚勢じゃな」

「そうすることで、優越感が持てるのですね」

「ああ」

「彼らも、廃墟になった無人の村では、暴走行為などしませんよね」

「そんな所でしても張り合いがないからな。奴らは、暴走行為を民衆に見て欲しいのじゃ。警察に追いかけて欲しいのじゃ」

「見方を変えれば、警察がその手伝いをしていることになりますね」

「結果的には奴らの思惑通りになっているが、警察も被害者を出さないためには、放って置くことができない」

「無視すれば、もっと過激な行動に出るでしょうしね」

「人は、自分に取り柄がないと、反社会的な行為によって優越感を持とうとする。もし、学力や運動で優れていたら、そんな馬鹿な真似はしないだろう」

「将来のことを考えて、自分にとって不利益になることは避けるでしょうね」

「結局、劣等感からの衝動ですよね」

「それは、暴走族だけではない。急ぐ用もないのに、必要以上のスピードを出して喜ぶ輩もそうだ」

「街中でよく見かけますが、かなり危ないですよね」

「普通に走っている車を追い抜いて、何が嬉しいのでしょうか。自慢にもならないのに」

「本当にスピードのスリルが好きなら、レーサーにでもなってサーキット場でそれを味わえば良い」

「なのに、そうしませんよね」

「レーサーになるには、生半可でない覚悟と厳しい鍛錬が必要となる。奴らは、そうするのが嫌なのである」

「自己満足のために、安易な方法を取るのですね」

「最近問題になっているネット上での中傷・誹謗もそうじゃ」

「誰が書いたか特定できないから、言いたい放題です」

「言いっ放しで、相手のことなどまったく考えていません。やり方が卑怯です」

「奴らも、他人を貶して優越感に浸っている訳じゃ」

「上から目線は、劣等感の裏返しですよね」

「奴らのみならず、自分の言葉に責任を持たない奴は、悪人と言っても過言でないわ」

「責任を持たないどころか、他人に擦り付ける人たちもいますね」

「私の知り合いの中にも、そんな人がいます」

「自分可愛さに、他人のせいにする輩は、どこにでもいるもんじゃ」

「そうですね」

 

「尊師、劣等感という点では、暴力団もそうですか?」

「やくざか・・」

 

 

「任侠道を謳いながら、脅しや力ずくで物事を成すというのは、どうも・・」

「『仁義を重んじる』とか口では立派なことを言っていますが、所詮、社会の嫌われ者です。彼らは、やくざに成るべくしてこの世に生まれてきた根っからの悪党ですよ」

「惠淳よ、やくざも人の子じゃ。生まれた時からやくざである者などいるものではない」

「それはそうですけど・・」

「儂は、二人のやくざ者をよく知っている」

「はあ」

「一人は、中学時代の同級生だ。この前、何十年ぶりかに出会ったが、組の幹部になっていた」

「幹部ですか・・」

「奴は、普通の家庭に育ち、学校の成績もごく普通だった。口数の少ない大人しい中学生であったが、『悪いことは悪い』と言えるほど芯はしっかりしていた」

「そんな人が、なんで暴力団に・・」

「奴が変わったのは、高校に入ってからだ。元々、人に指図されるのが嫌いな性格だったが、それが原因で喧嘩をするようになってきた」

「見た目が大人しいと、傍からあれこれ指図されますからね」

「しかし、喧嘩になると、負けん気の強さと体格の良さもあって負けなかった」

「強かったのですね」

「ある日、2学年上の不良グループの番長に突然喧嘩を売られた」

「勝ったのですか?」

「いや、コテンパンにやられたそうだ。おまけに、持っていた金を全部とられてしまったらしい。それは、友達から単車を買うために小遣いをコツコツ貯めてた金だった」

「可哀そうに。不良に目を付けられていたのですね」

「その番長は、倒れている奴に向ってこう言った。『このことを誰にも言うな。言えばお前だけでなく、お前の家族も不幸な目に遭うぞ』とな」

「脅したのですね」

「結局、警察には届けなかったのですか」

「ああ」

「番長は、その日、彼が大金を持っていることをなぜ知っていたんでしょう」

「おそらく、番長に喝上げされた級友の誰かが、奴を売ったんだろうな」

「つまり、喧嘩は意図的な企みだったのですね」

「単車は、必ず買うという約束で、2日前に友達から手に入れていた。後は、貯金をおろして渡す手はずだった。しかし、それが出来なくなってしまった」

「単車を返さなければなりませんね」

「そこで、奴は考えた。なんとか金を工面しなければと」

「それで、良からぬ事をしだした訳ですか?」

「そうじゃ。それ以来、誰彼なく手当たり次第に喧嘩をふっかけ、負けた相手から金を巻き上げた」

「悪いパターンですね」

「調子に乗った奴は、こう思った。『この世は、力のあるものだけが思う通りになるのだ』と」

「はあ・・」

「奴が不良グループの仲間入りをするのは、自然の成り行きだった。半年後、気が付けば番長に次ぐ猛者になっていた。それまでに、両親が何度か説得したようだが、聞き入れることはなかった」

「彼は、高校を卒業したのですか?」

「いいや。卒業どころか、少年院に送られたわ」

「傷害と恐喝ですね」

「少年院から出てきても、何をすることもなく数日間ブラブラしていた。その時に、奴のことを知っていた地元のやくざが、組に入ることを薦めた訳じゃ」

「なるほど」

「もう一人の方は?」

「そいつは、今はやくざをやめておる」

「改心されたのですね」

「片親だけの非常に貧しい家庭に育ったが、それを僻むこともなく常に明るく振る舞っていた」

「健気ですね」

「中学を卒業した後、高校には行かず、料亭の見習いとして働いた」

「家庭の事情を彼なりに考えたのですね」

「ところが、入ってから数ヶ月たった頃、事件が起こった」

「何が起こったんですか?」

「先輩格の板前が、自分のしくじりをそいつに押し付けたのじゃ」

「自己保身のためですね」

「その板前は、日頃から何かにつけて奴を馬鹿にしていた。『こんな事も知らんのか』と、奴が無学であることを度々罵倒した」

「嫌な先輩ですね」

「時には、『親の顔が見たいわ』と奴の母親を貶すこともあった。奴は、そんな仕打ちを我慢強く耐え続けた」

「自分が徒弟であることを弁えたのですね」

「たとえ、上の者が『黒を白』と言っても、それに従う世界であることは奴も承知していた。しかし、度が過ぎた」

「どうなったのですか」

「最初は、奴も冷静に話をしようとした。ところが、逆に『生意気だ』と罵られ、殴られてしまった」

「なんと横暴な」

「もう我慢の限界だった。その時運悪く、奴の目の前に包丁があった」

「殺したのですか?」

「いいや、殺しはしなかったが、瀕死の重傷を負わした」

「そうすると、やはり鑑別所行きですか」

「ああ」

「模範的な態度だったので早く出られたが、どこも雇ってくれはしなかった。働く気はあったのじゃがな」

「世間は、一度間違いをすると冷たいものですよね」

「確かにな。その後は、さっきの奴と同じじゃよ」

「そうですか・・」

「だから、奴等の場合は、『劣等感』というより『怒り』が原因になる。やくざになる理由も、人それぞれに違うということじゃな」

「その方は、なぜやめられたのですか」

「結局、任侠の世界でありながら、人を泣かして生きることに嫌気がさしたということだ」

「やくざも縦社会ですものね」

「そうじゃな・・」

「ところで、その方は今、何をされているのですか?」

「奴か・・」

と言いながら、慧隆禅師は目を閉じた。そして、袈裟の胸の部分を右手で掴み、グイとはだけて見せた。

「あっ」

2人は、目を皿のようにして驚いた。はだけた所から、彫り物らしき絵柄が見えたのである。

「実はな。奴は儂じゃよ」

「尊師・・」

「まあ、びっくりするのも無理はない。これも、若気の至りという事じゃな」

「・・・」

「どうした。儂が怖くなったか?」

「い、いいえ、そんなことはありません。正直なところ驚きましたが・・」

「この彫り物は、今となっては自分の愚かさの証になっている。肌から消すことはできぬが、背に負った代紋は、跡形もなく消し去るように努力しているつもりじゃ」

「はい。それは、尊師の普段のお人柄から感じられます」

「私もです。これまでに、尊師が威圧的な言動になるのを一度も見たことがありません」

「寺に入るのを許された時、『ならず者のような真似は、金輪際すまい』と自分に誓ったからな」

「おそらく尊師が出家されるにあたって、尋常でない波風があったと思います。それでも、それらを跳ね除けて、想いを貫ぬかれたのですね」

「いや、それは儂ひとりの力だけではない。なき先代の尽力がなければ、今の儂はなかっただろう」

「先代のご住職も立派な方だったのですね」

「常に親身に接してくれて、『苦境を乗り越える唯一の道は、御仏に仕えることだ』と諭して頂いた」

「そうでしたか」

「周りを見回すと、信じられる者が誰一人といない。裏切り行為は日常茶飯事であり、『こんな殺伐とした世界では到底生きては行けぬ。これからどうすればよいのか』と思案に暮れていたのだが、仏の加護によって自分を取り戻すことができたのじゃ」

「尊師、私たちも同じです。自分の力だけではどうにもならないと思ってこの寺に来ました」

「そうか。儂も最初は、自分の為だけであった。しかし、修行をして行くうちに、『己を高めて、悩める衆生を救いたい』という願いが強くなってきた」

「それは、まさに尊師が問われている『慈悲の心』ですね」

「仏によって救われた我が身じゃ。今は、そのご恩を返す時である。それには、仏のご意志に応えなければならん」

「尊師、仏のご意志とは、どのような事なのですか」

「それは、人が人として誠実に生きていけるような世の中に変えていくことに他ならん。それが我々僧侶の唯一の使命であり、我が身を投げ打ってでも成し遂げたいと願う」

「尊師、やっぱり貴方は、本当の意味で尊師と呼ぶに相応しい人です。益々素晴らしい方と思えてなりません」

「私も同じ思いです。過去がどうであっても、私たちにとって最も信頼できる師であることに変わりはありません。厳しい苦難に遭いながらも、このように立派なご住職になられたのですから」

「そうか。そのように思ってくれれば、儂も出家した甲斐があったというものだ」

そう言って禅師は、はだけた袈裟をきちんと整えた。その顔は、先ほどより幾分穏やかになっていた。

 

「尊師、他愛もないことですが、私の叔父が会うたびに、『自分の若い頃はこうだった。こんなことをして人に褒められた。少しはお前も私を見習え』と言ってきます。これも、煩悩なのでしょうか?」

「そうじゃな。それはお前への励ましなどではなく、単なる自慢話じゃ。少しならまだ可愛げがあるが、あまりに諄いと嫌味になる。聞いている者は、堪ったものではない」

「段々腹が立ってきますよね」

「実際のところ、このような自慢が災いの元になることも多い。本人は、素直に喜んでいるつもりであろうが、傍にとっては癇に障ることになるのでな。結果、さっきのような妬みや嫉妬を引き起こすことになる」

「自分が不合格になったオーディションで、合格した人が人目を憚らず燥ぐ姿には、憎しみさえも感じるでしょうね」

「人は、何かにつけて自慢をしたがるものじゃ。他人より自分が優れていればな」

「身体能力、容姿、学歴、地位、財などですね」

「それらを褒められれば、どんなに泰然自若に振る舞おうと、顔に出さぬだけで腹の中では優越感に浸っておるわ」

「理知的な人であれば、その場の空気を読んで自重しますが、感情的な人であれば、もろストレートに出しますよね」

「儂が小学生の頃である。同級生が『日曜日に家族で遊園地に出かけて楽しかった』と周りに言いふらしおった」

「余程、嬉しかったのでしょうね」

「それを耳にした儂は、奴にこう言ったのじゃ。『それがどうした』とな」

「癪に障ったのですね」

「儂の家は非常に貧しかったので、遊園地に行くことなどなかった。羨ましいだけでなく、それを自慢する同級生に対して腹を立てた訳じゃ」

「幼心に傷ついたということですか」

「昨今、問題になっている教育現場の『いじめ』も、このような自慢から起こることがある」

「何気ない一言が、いじめを受ける原因になってしまうのですね」

「いじめる側に問題があるのは言うまでもない。しかし、感受性が強い時期であるから、ちょっとしたことでも気に障るのじゃな」

「無神経な言動と思われて、周りから疎まれるのですね」

「そうじゃな。分別盛りであるはずのお前の叔父さんも、そういう意味では『まだまだ未熟』と言わざるを得ないな」

「まるで子どものようですね」

「しかし、お前も年を取れば、その叔父さんのようになるのかも知れんぞ」

「はは・・」

 

   慧隆は、さらに話を続けた。

「最後にもう一つ、どうにもならない『煩悩』がある」

「まだあるのですか」

「ああ」

「何でしょうか?」

「贔屓じゃ・・」

「・・贔屓ですか」

「お前たちも、オリンピックを見て応援したことはあるだろう」

「はい。あります」

 

 

「競技中、どこの国が勝っても良いと思ったか。それとも、日本を応援したか」

「それはやはり、母国を応援しました」

「そうだろう。それが正直な気持ちである」

「格闘技などの競技では公平な判定を望みますが、どうしても自国の選手を贔屓目に見てしまいます」

「『審判は、どうしてあれを有効に取らないのか。明らかに優勢だったのに、なぜ敗者にしたのか』などと、応援する側に偏って判定してしまいますね」

「公正であるべき審判の方も、やはり人間なので多少の肩入れがあるのかもな」

「そういう意味では、過去にあった『世紀の誤審』や『疑惑の判定』というのも、贔屓が要因なのかも知れませんね」

「身内が関わるようなことを客観的に捉えるのは、大変難しい事と言える。感情が優先してしまうからな」

「子どもの運動会で、母親が必死で我が子を応援するのがそうですね」

「勝ち負けで、一喜一憂しますものね」

「懸命に応援するのはよいが、それも程々じゃ」

「度が過ぎた応援は、見苦しいですからね」

「儂が出家する前のことであるが、こういうのがあった」

「尊師がまだお若い頃のことですね」

「プロ野球好きの兄貴分に誘われて、球場で試合の観戦をしたのだが、観客の応援の仕方が少し気になったのじゃ」

「はあ・・」

「ファンは、自分が応援するチームの選手に対しては好意的である。反対に、他のチームの選手に対しては厳しい言葉を浴びせる」

「ぼろ糞に貶しますよね」

「時には、子どもに聞かせたくない汚い言葉も飛び交います」

「ある年、応援していたチームの選手がトレードによって他のチームに移った。彼に対するファンの意識は、それで一転した」

「手のひらを返したように、その選手を貶したのですね」

「つまり、選手の立場が変わって、ファンの意識も変わった訳じゃ」

「現金な人たちですよね」

「まったく」

「スポーツのようにあからさまではないにしろ、日常生活においてもそれはある。特に自分自身や家族、親類縁者、親しい友人に対しては、赤の他人とは異なる意識を持つ」

「確かに身内であれば、特別扱いしますものね」

「それは、宗教、政党、企業などにおいても同様である。自分と所属が同じであるか異なるかによって意識が大きく違ってくる。民族、国家となれば、尚更である」

「自分と何らかの繋がりがあると、どうしてもそうなるのですね」

「そのような繋がりを作るために、裏工作をする輩もおる」

「企業の政治家への賄賂がそうですね」

「名目は献金であっても、明らかに賄賂じゃ」

「それによって、便宜を図ってもらうのですからね」

「人は贔屓をするものだ。意識してもしなくても、自然にそのような気持ちになる」

「そうですね・・」

「場合によっては、過度な贔屓が破滅的な生き方を招くこともある」

「そんな人生を送った人もいるでしょうね」

「身内の恥を晒すことになるが、儂の妹がそのようになりかけた」

「尊師には、妹さんがおられたのですか」

「儂の妹は、儂と一緒で育ちも見た目も良くない女でなぁ。若い頃は内気で無口だったこともあって、女友達すらいなかった」

「おとなしい方だったのですね」

「そんな妹に言い寄ってくる男が出て来た。兄である儂がやくざ者であることを知っていたにも関わらずな」

「妹さんは、大変嬉しく思ったでしょうね」

「儂も自分のことのように喜んだ。ところがそいつは、とんでもない食わせ者だった。ろくに仕事をしない上に、『飲む打つ買う』の3拍子揃った最低の男だった」

「まるで極道のような男ですね」

と、義心が言った後でハッと気付くが、慧隆禅師は気にも留めずに話を続けた。

「心配になった儂が、妹に何度も男と別れるように言ったのだが、まったく聞こうとはしなかった」

「心の隙間を狙われたのでしょうか」

「妹は、その男に貢いだ。貯めていた金を全部その男に渡した」

「気を許してしまったということですね」

「さらに、男のために一日中働いた。非合法の風俗店で、ほとんど寝ずに働いた。ついには、その過労によって、ある日突然倒れてしまった」

「かなり無理をされたのですね」

「それでも男は、妹に無心を繰り返した。シャブ欲しさにな」

「最悪ですね」

「男にとっては、妹など自分に貢いでくれる金蔓でしかなかった。ところが、妹にとっては、自分のことを初めて構ってくれた男であり、大切な存在であった」

「そんな仕打ちを受けても、まだその男を信じていたのですか」

「体を弱らせた妹は、もう以前のように働くことができなくなった。しかし、男のために金を工面したい。その思いから、とうとう他人の物に手を出してしまうのじゃ」

「かけがえのない愛情も、時には人を盲目にさせるのですね」

「好きな男のためなら悪人にもなる。度を越えた贔屓は、善人を悪人にするという顕著な例じゃな」

「尊師、その後の妹さんは・・」

「儂と同じじゃ。刑期を終えてからは改心して、福祉関係の仕事に就いた。それを今も続けている」

「そうですか。良かった。男の方は・・」

「儂が鉄槌を下す前に自ら墓穴を掘り、廃人になって死んだわ」

「まさに天罰ですね」

 

「贔屓による弊害は多い。贔屓も少しばかりなら許せるが、それが高じてしまうと差別にもなる」

「人権に関わることに発展するのですね」

「近年、『誰もが平等であり、公平に接しなければならない』と言われているが、裏を返せば、実際に差別があったからである」

「それは、人種差別や民族差別のことでしょうか」

「そうじゃ。事実、多くの白人が、有色人種に対して上から目線になっていた」

「人権が守られないどころか、奴隷として扱われた人たちもいましたね」

「『自分の民族は、他の民族より優秀である。自分の国は、他の国より格が上である』そのような意識を持つと、決まって差別に繋がる」

「昔は、それが酷かったのですね」

「今でこそ法律によって人権が守られているが、当時は差別によって酷い扱いを受けた人がたくさんいたのじゃ」

「日本においても、そんな差別がありましたね」

「在日や同和問題がそうじゃな」

「この他にも、様々な差別があると思います」

「少し前に、女性に対する差別がありましたね」

「選挙権がないとか労働条件が悪いとかじゃな。男尊女卑の時代ではそれが当たり前だった」

「他に、障害者に対する差別もあります」

「『障害者は、障害があるから健常者とは違う』という意識じゃな」

「思いやりの心ではなく、見下げた気持ちですよね」

「そんな奴は、自分が事故か病気か何かでそうならないと、気がつかんのだろうな」

「後天的な障害もそうですが、先天的に障害がある人は、本当に気の毒に思います」

「同じような思いを持っていても、異なる行動を余儀なくされるのですから」

「その通りじゃ。この社会を自力で生きて行くには非常に困難な人もいるのであり、そのように考えると、『人は平等ではなく、不平等である』と言わざるを得ない」

「そうですね・・」

「そもそも、人はそれぞれに先天的なものや生まれた環境が異なっている。障害がない人とある人、裕福な家庭と極貧の家庭など、決して同じように生まれたのではない」

「確かにそうですね」

「言うまでもないが、人は五体満足であることを望んでも、障害があるのを望みはしない。極貧の家庭に生まれた人も、願わくは裕福な家庭に生まれたかったと思うに違いない」

「誰もがそう思いますよね」

「それでも、現実は容赦をしない。そのような立場にある人は、その事実を受け入れるしかないのである」

「厳しいですよね」

「勿論、障害があっても、それを克服しようと努力している人もいる」

「スポーツや芸術面で活躍した人もたくさんいますよね」

「しかしながら、生まれながらに全盲である人は、どのように努力しようと車両の運転はできないのである」

「自分や他人の命を危険に晒すことになりますからね」

「つまり、憲法や法律において『人は平等である』と謳われていても、『人は皆、平等に扱われる権利がある』ということであって、『人は、すべてにおいて同じである』ということではないのである」

「なるほど・・」

「尊師が『不平等』と言われるのは、そういう意味だったのですね」

「もし神や仏がいるならば、『なぜこのような不平等さを人類に背負わすのか』と問いたくなるわ」

「宗教家の中には、『前世の行いが悪かったからだ』と言う人がいますが・・」

「それは、人を納得させるための方便である。たとえ生まれ変わりがあるとしても、来世で業を背負わしてはならん。天罰は、罪を犯したその者に与えればよいのである」

「そうですよね。まるで連座のようではいけないですよね」

「とにかく、この世は不平等なことばかりである。身体能力だけでなく、階級、貧富の格差も出てきて、それによる差別もある」

「不平等なことが差別へ、また、差別が不平等さを生み出すという悪循環ですね」

「今日では、表立った差別は少なくなったが、水面下ではまだまだ根強く残っている」

「差別が隠れているだけなのですね」

「その通り。このような差別意識は、一旦なくなってもまた現れる。人に煩悩がある限り、差別の対象が変わるだけで、それは必ず起こる」

「尊師、そう考えると、人は煩悩によって悪行を繰り返すことになります」

「人が生きている以上、煩悩を生じさせる要因はなくならない。煩悩という悪の種が尽きないから、必ず繰り返す」

「すると、人の争いもずっと続くのですか?」

「そうじゃ。この先どのような社会体制になっても争い続ける」

「それは、未来永劫にですか?」

「残念ながら、そう言わざるを得ないな」

「なんとも虚しい限りですね・・」

「我々は、人類が誕生したばかりの時代にはもう戻れない。複雑に多様化したこの世界で生き続けるしかない」

「確かにそうですね・・」

「数多の誘惑が飛び交っている世界で、煩悩を断ち切るのは容易なことではない」

「断ち切るどころか、煩悩にまみれた人たちも結構います」

「政治家などは、その最たるものじゃ」

「はは・・。まさにそうです。野心家ばかりですものね」

「反対に、自分の身を投げうってまで人や国のために尽くした政治家は、ごく僅かじゃな」

「政治家ではありませんが、ナイチンゲールやマザーテレサなどは、本当に稀な存在と言えますね」

「博愛や慈悲に満ちた人たちではあるが、彼女等とて、生理的な欲求には負けてしまうであろう」

「断ち切ると、生死に関わりますからね」

「それでも、自分の事は後回しにして、人のために尽くそうとしたのじゃ」

「まるで菩薩のような人たちですね」

「偉人の中の偉人と言えますね」

 

 

「そのような人はさておき、気になるのは、他人を犠牲にしてまで自分の欲望を満たそうとする輩の存在じゃ」

「欲深く、自己中心的な人ですね」

「悪行をするために生まれてきたのではないかと思ってしまいます」

「世の中には、そんな輩がなんと多いことか」

「それが、『人の本性』なのでしょうか?」

「いいや、違う。そうではない」

「では、何なのでしょう?」

「お前たちは、昔の中国の思想である『性善説』と『性悪説』を知っているか」

「はい。はっきりとは覚えていませんが、何かの授業で習った記憶があります」

 

 

「前者は、『人は生まれた時点では善で、大人になるにつれて悪になる』という考え方であり、後者はその逆である。お前たちは、どちらが正しいと思う」

「そうですね。私はどちらかというと、『性悪説』の方だと思います」

「惠淳は?」

「私は逆で、『性善説』を取りたいです」

「尊師、どちらが正しいのですか?」

「そのどちらも正しくない」

「えっ・・・」

「お前たちに再び問う。『悪』とは何なのか。『善』とは一体何であるのか」

「・・・」

「それが分かっていないと、『人の本性』を理解することはできぬ」

「はあ・・」

「軒下の蜘蛛は、糸を張り巡らせて獲物がかかるのをじっと待つ。その蜘蛛には、善悪の意識などまったくない。ところが、蝶にとっては、蜘蛛は悪になる」

「網にかかれば、蜘蛛の餌食になるのですからね」

「人も同じだ。誰もが他の生命を犠牲にしている。もし、それを悪行とするならば、全人類が悪人となる」

「そうなりますね」

「でも、生きるためには、そうするしかないのでは・・」

「そうじゃ。それが命を持つ物の摂理である」

「はい・・」

「しかし、他の命を犠牲にするのは仕方がないとしても、同類を犠牲するのは断じてならぬ」

「それが、悪なのですね」

「そうじゃ」

「そもそも、生まれたての赤ん坊というのは、子猫と同じで善悪の意識など全くない」

「確かに」

「ただ単に、糧を取って排泄するだけであり、生きることに懸命な生き物と言える」

「そうですね」

「成長すると、自我の意識が芽生える。そして、様々な事象を経験して、それまでなかった煩悩が生じてくる」

「周りの状況が、煩悩を生み出すのですね」

「人は生まれて死ぬまでに、その『煩悩』によって悪に走ることもあれば、逆に『同類の意識』によって人助けをすることもある」

「悪と善が同居しているのですね」

「つまり、『人の本性』というのは、『状況によって悪にも善にもなりうるもの』と言うべきなのである」

「なるほど・・」

「人が悪になるのは、簡単である。逆に善になるのは、簡単ではない」

「この世を見れば、そう言わざる得ないですね」

「誰もが自分の思う通りに生きたいと望むからな」

「できれば苦より楽を選びたいですよね」

「人は目的を持たない限り、自分に厳しい試練を課す事はしないのでしょうか」

「いや、目的を持っても、安易な方法や非合法な方法で達成しようとする輩もたくさんおる。そんな奴らにとって、道徳観や倫理観などは無力になる」

「只の綺麗事に過ぎないとでも思っているのですね」

「そうじゃろな」

「無力にならないように、教育の現場でもっと道徳を教えるべきではないですか」

「現在において、煩悩を抑制しているのは道徳ではない。いくら道徳観を浸透させても、煩悩は出てくる」

「では、何が抑制しているのですか?」

「それは、法律や刑罰じゃ。不本意ではあるが、それに頼っているのは事実である」

「悪が蔓延らないのは、刑罰があるからですか」

「そうじゃ。もし、刑罰がなければ、やりたい放題の世の中になっているはずじゃ」

「力のある者だけが生き残れる弱肉強食の世界ですね」

「今は、そのような社会を認めない国がほとんどであるが、合法的に悪行をするズル賢い奴もいて、真によい社会とは言えない」

「見た目は善人でも、正体は悪党という輩が蔓延っていますものね」

「そんな輩は、あの手この手で煩悩を満たしていく。また、煩悩を満たしたとしても、新た煩悩を持ち出す」

「煩悩には、限りがないのですね」

「果ては、並みのことでは満足しなくなる」

「麻薬患者が、より強い薬を求めるのと同じですね」

「それは、まさに無間地獄である。ある意味、苦痛じゃな。生きること自体が苦痛であるが、煩悩はさらにそれを大きくする」

「まるで破滅へ導く魔物のようですね」

「このように百害あって一利無しの煩悩じゃが、人であるならば誰もが持つことになる。非常に厄介なものなのじゃ」

「結局、人は、『煩悩』と常に向き合わなければならないのですね」

「そうじゃ。『煩悩滅却』という言葉は、そのためにある。裏を返せば、『人は必ず煩悩を持つのであり、それに心を惑わされてはならない』ということである。それは、どのような時代になろうと変わるものではない」

「・・・」

「仮に今、すべての人に煩悩がなくなり、この世が極楽浄土のようになっても、その状態は続かない。なぜなら、人はいつか死ぬのであり、後から生まれてくる子どもたちが、煩悩を持たないとは限らないからじゃ」

「すべての人が、仏のような境地になるのは不可能なのですね」

「そうじゃな。たとえ、悪人が一人だけになったとしても、その者がその者以外の人たちに禍をもたらすのは明らかである」

「・・・」

 2人は、『人の本性』とは何であるのかを知ることはできたが、何か割り切れない心境になっていた。さらに、追い打ちを掛けるように禅師の言葉が続く。

 

「悪が生まれる要因は、もう一つある」

「何でしょう?」

「人の持って生まれた性質というのは、それぞれ異なるということじゃ」

「人は皆同じではないということですね」

「感情的になりやすい者がいれば、そうでない者もいる。当然、感情的な人間ほどよく争いを起こす」

「大人になっても理性より感情が勝ってしまう人は、反社会に走ったり犯罪に手を染めたりすると非常に危険ですよね」

「そのような輩の中には、矛先を妬む相手ではなく関係のない人たちに向ける馬鹿者もいる。だから、自分に関わりがなくとも用心が必要となる」

「すべての人が安心して暮らせる社会など、あり得ないということですか」

「ああ。まかり間違えば、平和な楽園が修羅の地獄になるのだからな」

「恐ろしい限りです」

 

「尊師、もし、人が耐え難い苦しみを持つことになれば、それを乗り越えるためにどうすれば良いのでしょうか」

「苦痛や苦悩は、誰もが持つものである。たとえ富める者であっても美しい者であっても、その人なりに持つものじゃ」

「苦痛や苦悩がまったく無いという人などいないのですね」

「また、それを自ら克服できる者がいれば、できない者もいる」

「意思の強い人ばかりではないですものね」

「つまり、誰もが『凡夫』や『迷える子羊』であって、常に『救い』を求めているのじゃ」

「私たちも同じです」

「宗教は、そのために存在するのであり、キリスト教もイスラム教も目的は皆同じじゃよ。儂が仏に帰依するのも、『その教えによって衆生を救いたい』という思いによる」

「分かります」

「並みの苦痛や苦悩なら、時が解決してくれるはずじゃ」

「いつしか、和らいだり消滅したりすることを信じるだけですね」

「しかし、どうしても解決できない問題が生じた場合、人はどうするのか」

「・・・」

「たとえば、自分が不治の病になった時である。また、自分の大切な家族が危篤になり、医者にも見放された時である。その時、人は、何に頼ろうとするのか」

「・・・」

「神や仏でしょうか・・」

「正解。行き着くところ、最後は神仏にすがるしかないのじゃ」

「誰もが絶体絶命の窮地になれば、確かに祈りますよね」

「たとえ無神論者であっても、無意識に手を合わせる。それが何か漠然としたものであっても、そうすることが心の支えになるのじゃ」

「普段から信心している者なら、尚更ですね」

「自分の信じる神や仏に向かって、懸命に祈るであろうな」

「私たちも、そのような時には、御仏の加護を祈ると思います」

「しかし、只祈るだけでは仏には届かん。雑念のない純粋な気持ちでなくてはならん」

「私益を考えてはいけないのですね」

「そうだ」

「神社や寺の中であれば、その祈りが届きやすいのでしょうね」

「いいや、それはない」

「御神体や御本尊が目の前にあってもですか?」

「ああ。神社や寺に、神や仏の実体と呼べるものは存在していない。神像や仏像は、所詮、人が作った物に過ぎず、偶像である」

 

 

「神や仏が宿っているのではないのですか」

「そうであって欲しいが、それをどうやって証明するのじゃ」

「うーん・・」

「できないであろう。もし、本当に宿っているのなら、火災などで焼けるはずがない。盗まれて、どこかで売買されることもない。だから、真の本尊であるかどうかは、大変疑わしいと言えるのじゃ」

「それはそうですけど・・」

「毎日欠かさず仏前で手を合わせている尊師が、そのようにおっしゃるのは意外です」

「お前たちは、『仏像が、すべてを超越した絶対的な存在である』とでも思っているのか」

「・・・」

「そんな仏像など、どこを探しても見つからんだろう。もし、『これがそうである。ご利益があるので、崇めて金品を奉納せよ』と断言する坊主がいたら、そいつは紛れもなく売僧(まいす)である。営利目的だけのエセ宗教家じゃ」

「はあ」

「では、『そのような疑わしい仏像が、なぜ寺に置かれているのか』と疑問に思うじゃろ」

「はい」

「なぜですか」

「それは、見えない物よりも見えている物の方が、信仰の対象にしやすいからじゃ」

「はあ・・」

「儂が仏像に手を合わせる理由は、2つある。その1つは、それを作り上げた人への敬意である」

「敬意ですか・・」

「ほとんどの仏像は、作者の願いが籠っている。その願いとは、亡くなった人の菩提だけでなく、『民衆の救済』である場合が多い」

「そうですね。薬師如来や阿弥陀如来などは、民衆を救済するという願いから作られたのでしたね」

「つまり、仏像はその願いの象徴であって、儂とて、それを無下に踏みにじるような行為はしたくない」

「それは、分かります」

「そして、もう1つの理由は、所謂、懺悔じゃ」

「はあ・・」

「仏像を前にすると、鏡に映し出されるかのように、自分の姿が頭の中に浮かんでくる。もし、悔い改めることがあれば、それを仏が叱ってくれるように思えてならんのじゃ」

「なるほど、仏前ではそれが自然にできるということですか」

「気持ちが落ち込んでいても、懺悔によって少しは安らぎが持てる。その安らぎによって、一縷の望みが見えてくる時もある」

「一筋の光ですね」

「仏の教えは、その光を鮮明に浮かび上がらす。『人はどうあるべきか』を常に提示してくれる」

「争いのない世界に導くのは、その教えなのですね」

「そうじゃ。それが御仏の真の志ということじゃ」

   慧隆禅師の真摯な想いが伝わり、いつしか2人の眼は、吹っ切れたように清々しくなっていた。

 

「お前たちが言うように、この世では、戦争、テロのような殺戮が幾度となく繰り返されている。その終わりは、未だに見えない」

「悲惨な報道を聞くたびに、『いつになれば争いのない平和な社会になるのか』と、腹立たしくなります」

「この他にも、偽装殺人、誘拐殺人のような悪行もあり、このままでは、人が信じられない世の中になってしまうと懸念します」

「金欲しさに、尊い人の命を躊躇なく奪っているのだからな」

「さらに、放火、窃盗、恐喝、詐欺、盗撮、強姦、暴走、麻薬などの事件が日常茶飯事に起こっていて、どうにもこうにもきりがありません」

「そんな悪行が日常的にあると、『正直に生きるのが馬鹿らしい』と思う人が増えてくるのではないでしょうか」

「確かに悪が蔓延る社会では、普通に生きるのが難しくなるじゃろな」

「だから、益々反社会的な輩が出てくるのでしょうね」

「やくざのような輩がな」

禅師が苦笑いをしながら言った。

「いえいえ、そんな人たちもある意味、社会の犠牲者だと思います。何らかの理由で、真っ当な生き方を諦めるしかなかったのですから」

「つまり、その理由を作った張本人が、一番の元凶になるということじゃな」

「世の中には、何が何でも自分の思う通りにしないと気が済まない人がいます」

「表向きは良識人であっても、裏では卑劣な行為をしている輩もいます」

「反社会に向かう大本の要因というのは、このような輩の存在が大きいだろうな」

「どうにかならないのでしょうか」

「お前たちは、この地球上にいる人間が、どれくらいの数になるのか知っているか」

「えーと」

「おそらく、70億以上ではないでしょうか」

「そのような数多の人が、この世に生きているのじゃ。その中に我儘で不誠実な輩がいるとしても、何ら不思議なことではない」

「・・・」

「この世では、様々な人間が、様々な状況の中で、様々な思いを持って生きている。老いも若きも男も女もな」

「はい・・」

「そして、その誰もが『自分の存在を認めてもらいたい』と願っている」

「確かにそうですね・・」

「また、何かにつけて他人より抜きん出ようとしたがる」

「富や栄達ですね」

「他人より優れていれば調子に乗るし、劣っていれば落ち込む」

「人の性というものでしょうね・・」

「それに伴う嫉妬、劣等感、孤独感は、人を奈落に落とす」

「際限のない疎外感に襲われて、禁断の領域に入ってしまうこともあるでしょうね」

「煩悩と煩悩との衝突は数知れず。悪が出てくる条件は嫌でも揃うのであり、神や仏でもない限り、それを止めることはできないのじゃ」

「・・・」

「実際、人に禍をもたらすのは、悪意からの悪行だけではない。善意から生じた悪行や偶発的な悪行もある」

「自然災害が原因で起きた悪行もありますものね・・・」

「つまり、それらすべての悪行をなくすというのは到底無理な話であり、どうにもならないことじゃ」

「・・そうですね」

「しかし、である」

慧隆の声が一際強くなった。その声に、義心、惠淳は、まっすぐに目を向けた。そして、禅師の次の言葉を待った。

「なくすのは不可能であっても、大事に至らぬようにするのは不可能ではない!」

「おお!」「おお!」

感嘆した2人の声が、ほとんど同時に重なった。

「そのためには、仏の教えを守り、日々実践するしかないのじゃ」

「はい!」「はい!」

 

「遠い昔、ろくに文字の読み書きができぬ人たちにとって、僧侶は何でも教えてくれる良き指導者であった」

「学校の先生のような存在だったのですね」

「博学で親身であり、民衆はもちろんのこと、村や国のために貢献した僧もたくさんいたのじゃ」

「行基上人や良寛和尚のような方々ですね」

「今日では、そのような役割はなくなった。しかしながら、唯一、昔から変わらぬ役割が残っておる」

「はい」

「それは、一体何か。それは、悩める衆生を救済することに他ならぬ」

「それが、僧侶としての普遍的な役割なのですね」

「そうじゃ。そのためには、先ず我々自身が手本となって民衆に示すことじゃ」

「はい!」

「たとえ、それが徒労に終わろうともな。そう思わぬか、義心、惠淳よ」

「まったくおっしゃる通りだと思います。真っ直ぐな尊師のお気持ちが切々と伝わり、私の心に強く響きました」

「私もです」

「おお、そうか!」

「今は若輩ですが、これから修行を積んで、僧侶として少しでも社会に役立てるよう努めていきたいです」

「うん、うん」

「尊師の教えに従い、争いのない平和な世界を築くことに微力ながらも貢献できればと思います」

「そうじゃな。それが仏の道というものじゃな」

                                      

テレビ東京・制作室

 

「磯川主任、前回の特番は、非常に評判が良かったですね。視聴率もかなり上がったと聞いています」

「お陰様でね」

「何しろ、情け容赦なく人を殺していく極悪人たちの話でしたからね。身に迫るものがありました」

「だから、視聴者を釘付けにしたんだろうな」

「特に、キラー・クラウンと呼ばれたジョン・ゲイシーの事件は、今聞いても寒気がします」

 

 

「チャリティー活動に熱心な資産家が、実は殺人鬼だったからな」

「人殺しが快感になるというのは、信じられないですね」

「その事件もそうだが、デッド・バンディと呼ばれたセオドア・バンディもシリアル・キラーだ」

 

 

「彼は、たくさんのレイプ殺人をしておきながら、裁判では熱弁をふるって自分の正当性を主張したんですよね」

「動かぬ証拠があったり目撃者がいたりするのに、懸命に言い逃れをする姿は滑稽に見えるよ」

「また、グリーンリバー事件の犯人であるゲイリー・リッジウェイも恐ろしいですよね。まるで趣味のように女性を殺していくんですから」

 

 

「殺された売春婦は、48人になるらしいよ」

「怖いですよね」

「まったくだ」

 

「しかし、スタッフも大変だったでしょう。あれだけの資料を集めるのに、かなり苦労したんじゃないですか」

「そうなんだよ」

そう言いながら、制作主任である磯川は、カバンに入れていた事件のリストを出した。

「殺人鬼がテーマの特番だったが、主な連続殺人や大量殺人の事件はこれだけあった」

 

海外

1870年~  アルバート・フィッシュ事件   アメリカ        連続殺人

1888年~  切り裂きジャック事件      イギリス    連続殺人 未解決

1913年     ワグナー事件            ドイツ     大量殺人 

1913年     ペーター・キュルテン事件    ドイツ     連続殺人

1918年~  アックスマン事件                    アメリカ        連続殺人 未解決

1919年~  フリッツ・ハールマン事件      ドイツ           連続殺人

1922年     ヒンターカイフェック事件    ドイツ     大量殺人 未解決

1929年       血のバレンタイン事件              アメリカ        大量殺人 未解決

1935年~    クリーブランド胴体殺人事件     アメリカ    連続殺人 未解決

1954年~  エド・ゲイン事件          アメリカ    連続殺人

1960年     ボドム湖殺人事件            フィンランド  大量殺人 未解決

1962年~    ボストン絞殺魔事件                 アメリカ    連続殺人

1963年~  天使の牧場事件                       メキシコ    連続殺人

1964年~  ハマースミス殺人事件              イギリス    連続殺人 未解決

1964年~  エド・ケンパー事件                 アメリカ    連続殺人

1968年~  ゾディアック                          アメリカ        連続殺人 未解決

1969年     シャロン・テート殺人事件        アメリカ    大量殺人

1972年~  キラー・クラウン事件      アメリカ    連続殺人

1972年~  アーサー・シャウクロス事件   アメリカ    連続殺人

1974年~  イル・モストロ事件       イタリア    連続殺人  未解決

1974年~  デッド・バンディ事件      アメリカ    連続殺人

1975年~  ピーター・サトクリフ事件        イギリス    連続殺人

1978年     人民寺院事件                          ガイアナ        集団自殺

1978年~  ジェフリー・ダーマー事件      アメリカ        連続殺人

1978年~  アンドレイ・チカチーロ事件   ロシア     連続殺人

1982年~  グリーン・リバー事件      アメリカ    連続殺人

1986年~  華城連続殺人事件          韓国      連続殺人  未解決

1993年     ブランチ・ダビディアン事件   アメリカ    集団自殺

1997年     ヘヴンズ・ゲート事件      アメリカ    集団自殺

1999年     コロンバイン高校銃乱射事件   アメリカ    大量殺人

2000年     ウガンダ終末教団殺人事件    ウガンダ    大量殺人

2001年     ネパール王族殺害事件        ネパール    大量殺人

2010年     ブラッドフォード殺人事件    イギリス    連続殺人

  

日本

1926年   鬼熊事件          千葉県      大量殺人

1938年   津山事件          岡山県      大量殺人

1945年~  小平事件            東京都      連続殺人

1968年~  永山則夫連続射殺事件      広域       連続殺人

1971年~  大久保清連続殺人事件    群馬県      連続殺人

1971年~  山岳ベース事件         群馬県        連続殺人

1972年     あさま山荘事件       長野県                大量殺傷

1972年~  勝田事件            広域                   連続殺人

1979年~  北関東連続幼女誘拐殺人事件 栃木・群馬          連続殺人 未解決

1979年~  長岡京殺人事件       京都府                連続殺人 未解決

1979年     梅川事件          大阪府                強盗殺人

1981年     ロス疑惑事件          ロサンゼルス           保険金殺人

1981年~  トリカブト保険金殺人事件      大阪府                保険金殺人

1989年   坂本弁護士一家殺害事件   神奈川県             一家殺害

1992年   市川一家4人殺害事件    千葉県                強盗殺人

1993年~    埼玉愛犬家連続殺人事件         埼玉県                連続殺人

1994年~  青酸連続殺人事件                  大阪・兵庫・京都    保険金殺人

1995年   地下鉄サリン事件        東京都        大量殺人

1998年   和歌山毒物カレー事件      和歌山県             大量殺人

2000年       世田谷一家殺害事件               東京都                一家殺害 未解決

2001年   新宿歌舞伎町ビル火災事件      東京都                放火殺人 未解決

2002年       久留米看護師連続殺人事件      福岡県                保険金殺人

2008年       秋葉原通り魔事件        東京都                大量殺人

2012年       九頭竜湖冷凍庫遺体遺棄事件 福井県                連続殺人

2013年       向日市殺人事件       京都府      保険金殺人 

 

「へえ~。結構たくさんあるんですね」

広報部の課長補佐である小川は、事件の多さに少し驚いた。

「一応、報告されている事件はこれだけだ。しかし、実際は、これらと同様の事件が他にもあるに違いない。我々が知らないだけで、世界中を探せばもっとあると思うよ」

「国家の情報を一切外に漏らさない国もありますものね」

「某国のようにな」

磯川が、薄笑いを浮かべながら呟いた。

 

「この中にある集団自殺というのは?」

「宗教絡みの事件であり、教祖が『もうすぐ世紀末が来る』と信者を騙して自殺させている。自殺を嫌がって逃げる信者を無理やり殺している教団もあって、いわば大量殺人事件になる訳さ」

「なるほど」

 

 

「予言の辻褄を合わせるために、大勢の信者を焼き殺した教祖もいたな」

「なんとも酷い教祖ですね」

小川の顔が、呆れ返ったと言わんばかりの表情になっていた。

「連続殺人や大量殺人というと戦争による殺戮もそうなるが、国同士がそれを認め合っているので、ここには含めていない。異宗教や国と国との揉め事が原因になるテロも、報復を大義名分にしているので外しておいた」

「戦争やテロを含めてしまうと、そうとうな数になってしまいますよね」

「だから、ここでの連続殺人や大量殺人は、個人が起こした事件に限定している」

 

「日本の連続殺人事件は、『永山則夫事件』が有名ですね」

「その当時、彼が拳銃を持って逃亡していたので、現場近くの住民は、自分も撃たれるのではないかと心配したようだ」

「ビクビクして、夜も寝られなかったでしょうね。あれからもう半世紀近く経っているのですね」

 

 

「逮捕後、永山が未成年だったので、裁判官がどのような判決を出すのか注目されたが、結局、死刑になった。この事件の判例は永山基準と呼ばれ、この後の未成年による殺人事件において参考にされたんだ」

「未成年でも、理由なく多くの人を殺すような重罪は、死刑にすべきですよね」

「確かに」

「その後に起こった『大久保清連続殺人事件』も、多くの若い女性が犠牲になりました」

「犯人の身勝手な欲望のためにね」

「女性の心理をついた巧妙な手口でしたね」

「最悪のペテン師だよ」

「それから、『あさま山荘事件』が衝撃的でしたねえ。人質を取って立て籠もった連合赤軍と機動隊との攻防が、生中継で放送されましたからね」

「あの事件で、機動隊員2名と民間人1名が撃たれて亡くなった。重軽傷を負った者もたくさん出ている」

「犯人逮捕後、彼らの自白により『山岳ベース事件』が明るみになったんですよね」

「リーダーが気に入らない同志を独断で殺すという所謂、内ゲバだな。『自己批判』や『総括』という言葉が、一般庶民に知れ渡るようになった」

「理想を掲げた革命家であるはずが、独裁者になっていたのですね」

「協調より支配ということだね。人の性だろうな・・」

 

 

「三浦和義が犯人だと疑われた『ロス疑惑事件』も記憶に残っていますね」

「事件直後、メディアは『重体の妻に必死で名前を呼びかける夫』と悲劇の様子を報じていたね」

 

 

「しかしその後、三浦の不自然な証言や妻に多額の保険金をかけていたこともあって、疑惑の目が向けられたのですね」

「その事件が起こる以前に、三浦の妻が頭部を誰かに鈍器で殴打されていた。三浦の愛人が『その襲撃は、彼に頼まれて自分がやった』と告白したために、疑惑はより大きくなった」

「新聞紙にそれが出たのでしたね」

「さらに、事件の2年前に三浦が交際していた女性も謎の死を遂げていて、それも三浦が関与しているのではないかと疑われた」

「もしそうだとしたら、保険金目当ての計画的な犯行になりますよね」

「被害者を装って、悲劇の夫を演じた最悪の男だな」

「金の亡者ですね」

「続いて、猟奇殺人事件のリストだ。海外では、先のリストと重複している事件が多い」

 

海外

1870年~ アルバート・フィッシュ事件  アメリカ    猟奇殺人

1888年~ 切り裂きジャック事件       イギリス    猟奇殺人 未解決

1947年      ブラック・ダリア事件       アメリカ    猟奇殺人 未解決

1954年~ エド・ゲイン事件       アメリカ    猟奇殺人

1964年~ エド・ケンパー事件                アメリカ    猟奇殺人

1972年~ アーサー・シャウクロス事件  アメリカ    猟奇殺人 

1978年~ ジェフリー・ダーマー事件       アメリカ    猟奇殺人

1978年~ アンドレイ・チカチーロ事件    ロシア       猟奇殺人 

1981年  パリ人肉事件         フランス      猟奇殺人

 

日本

1988年  名古屋アベック殺人事件    愛知県      強盗殺人

1988年  女子高生コンクリート詰め殺人事件  東京都      監禁殺人

2000年  ドラム缶女性焼殺事件     愛知県      監禁殺人

2002年  三島女子短大生焼殺事件    静岡県      強姦殺人

2009年  島根女子大生死体遺棄事件   広島県      猟奇殺人 未解決

 

「猟奇的といえば、『ブラック・ダリア事件』ですよね。犠牲者はたった一人ですが、まさに異様な事件だったと思います」

「遺体の状態だね」

「何しろ、腹部を真横に切断されて、体が上下2つに分かれていたんですから」

「まるで胴から腰を引き抜かれた人形のように捨てられていたな」

 

 

「最初に発見されたときは、マネキンだと思われたんですね」

「体の中の血が全部抜かれ、洗浄されていたこともあってね」

「それが人だと気付いた発見者は、腰が抜けたでしょうね。もし私だったら、失禁してたかも」

「はは」

「胃には、排泄物が入っていたようですね」

「脅されて、無理やり食わされたんだろうな。さらに、肛門と膣に大腿部の肉片が詰め込まれていたようだ」

「犯人は、何のためにそんなことをしたのでしょう」

「惨い殺し方からして、復讐のためじゃないか」

「復讐ですか・・」

「口元の状態がそれを如実に表している。口が左右に耳の近くまで裂けていたが、まだ生きている間にやられたようだ」

「うへぇー、現場を想像するだけで、鳥肌が立ってしまいます」

実際、小川は、自分の背筋がゾッとするのを覚えた。

「『エド・ケンパー事件』も悲惨だった。何しろ、被害者の首を切断して、その遺体を屍姦した後に食べたのだからな」

「犯人は、『異常』としか言いようがないですね」

「まさにサイコパスだよ」

 

 

「人肉食事件は、この他に、『アルバート・フィッシュ事件』『アーサー・シャウクロス事件』『ジェフリー・ダーマー事件』『アンドレイ・チカチーロ事件』『パリ人肉事件』がありますね」

「それら6つは、どれも人道に反する事件だ。もちろん、殺人だけでも重罪ではあるが、殺した上にその人の肉を食べるというのはどうもなぁ・・」

「かの『アンデスの聖餐』のように、生きるために止むに止まれず食べたのならまだ許せますが、自分の欲望を満たすために食べるというのは許せないですよね」

「絶対に許せんよ」

「一体、何がそうさせるのでしょうね」

「我々のような凡人には、到底理解できない衝動さ」

「その中に日本人も含まれているのが、残念ですよね・・」

「残念だ。ああいう奴は日本の恥だ。精神に異常があるとしか思えないよ」

「生かしておくと、また何をしでかすか分からない要注意人物ですね」

 

「日本では、未成年者たちが犯人だった『名古屋アベック殺人事件』や『女子高生コンクリート詰め殺人事件』も非人道的だったな」 

「両方とも、殺し方が猟奇的でしたからね」

「特に『名古屋アベック』の方は、女性の首に縄をかけ、綱引きのように左右から引っ張って殺したようだ」

「苦しむ女性をニタニタ笑いながら殺していくなんて、良心の欠片もないですよね」

「まったく」

「『女子高生コンクリート詰め』の方も、女の子が加害者から受けた扱いは、惨たらしいものだった」

「ここで言うのも憚ってしまう内容ですね」

「最近の若い連中は、自分たちが面白ければ非人道的なことも平気でするな」

「今の学校の教師は、一体何を教えているのかと問いたくなりますよね」

「同様に、親も無責任だと責められるべきだわ」

「同感です」

「大体、子どもをしっかり教育しないから、こんな悲惨な事件が起こるんだ」

「教育は大事ですよね」

「一番大事だよ」

「この後に起こった『ドラム缶女性焼殺事件』と『三島女子短大生焼殺事件』も悲惨な事件でした」

「何しろ、生きたまま焼かれたんだからな」

「まるで、火炙りの刑です」

「拉致された女性たちは泣きながら命乞いをするが、犯人は容赦しなかった。彼女らは、長時間絶叫しながら死に至ったに違いない」

「何の落ち度もない人たちが、犯人の身勝手極まりない行為で殺されるのは聞くに忍びないですね」

「本当にそうだ。次は、それに輪をかけたような幼児・児童殺人事件のリストだ」

 

海外

1870年~ アルバート・フィッシュ事件     アメリカ        児童殺害

1957年      ボーイ・イン・ザ・ボックス     アメリカ        児童殺害 未解決

1968年    メアリー・ベル事件         イギリス        幼児殺害

1972年~ アーサー・シャウクロス事件   アメリカ    児童殺害

1996年    ジョンベネ事件         アメリカ    児童殺害 未解決

2008年    ケーシー・アンソニー裁判    アメリカ    幼児殺害

 

日本

1988年~ 宮崎勤事件                            東京・埼玉      幼児殺害

1997年  酒鬼薔薇事件                         兵庫県      児童殺害

1999年      てるくはのる事件       京都府        児童殺害

2001年  付属池田小学校事件      大阪府      児童殺害

 

「『アルバート・フィッシュ事件』と『アーサー・シャウクロス事件』は、連続殺人、猟奇殺人、児童殺害と3つ揃った最悪事件だったのですね」

「そうだ。『アルバート』の方は、殺されて食べられた数は400人にのぼり、ほとんどが子どもだった。アメリカ犯罪史上、最悪の殺人鬼と言われている」

 

 

「殺人の動機は、一体何だったんでしょう?」

「『幼少期に受けた虐待だ』と彼は言っている。それに、『神が殺人を指示したこと』とも言っている」

「『神が』ですか・・」

「まあ、精神に異常のある者が言うことだからなあ」

「『アーサー』の方は、何が動機ですか」

「そっちは、ある意味で『ベトナム戦争の犠牲者』と言えるな・・」

「戦争体験による後遺症ですか?」

「そのようだ。当時は、同じような精神障害を持った帰還兵がたくさんいたと言われている」

「社会復帰しても周囲に溶け込めず、かなり苦しんだようですね」

「彼らをモチーフにした映画も作られていたな」

 

 

「6歳の女の子が自宅で殺されたジョンベネ事件は、謎が多いですよね」

 

 

「一時、身内が犯人ではないかと疑われていたが、結局、分らず終いだった」

「後に、自分が犯人だと名乗り出た者もいましたね」

「ところが、自白内容がデタラメでシロだった」

「犯人になっても何のメリットもないのに、一体何が目的だったんでしょう」

「変質的な夢想家だったんじゃないか」

 

「変質的な夢想家という点では、日本の宮崎勤が挙げられますね」

「殺した子どもの頭蓋骨を骨董品のように扱っていたからな」

「宮崎勤は、逮捕されてからもまったく反省しなかったんですよね」

「そのようだ。宮崎勤にしろ他の犯人にしろ、まったく反省していない。それどころか、自分の両親のせいにしたり、世間のせいにしたりして同情を求めている」

「中には、警察をあざ笑うかのように、声明文や挑戦状を出した犯人もいますよね」

「まるでゲーム感覚だわな」

「しかし、幼い子どもが殺されるのは、心が痛みますよね」

「幼気な子どもをよく殺せるものだと、憤りすら覚えるな」

   磯川は、少し顔を強張らせ、テーブルの上の冷めた珈琲に目を向けた。それを一旦飲みかけたが止めて、その横に置いてあった愛用のライターに手を伸ばした。そして、煙草に火を点け、徐に吹かした。

 

「当分、ネタには困らないですね。次回の特番も、また殺人鬼の話ですか」

「いや、次回は前回と違って、未解決事件の特集だ」

「はあ、未解決事件ですか」

「視聴者というのは、同じことを続けてやると『二番煎じだ、マンネリだ』と批判してくる。だから、残りの殺人鬼の話は、一年後にすることになった」

「そうですか。視聴率というのは、生半可なことでは取れないのですね」

「ライバル局があるからな」

「思った以上に厳しいですね」

「まあ、そういうことなんで、未解決事件に決まった。いうまでもなく、事件が未解決なので真相は分かっていない。だから、それを視聴者にも推理してもらおうということさ」

「視聴者参加型ですね」

「うん。それが狙いなんだよ」

 

   一息ついて、珈琲を手にした小川は、テーブルの上に並べられたこれまでのリストを繁々と見た。

「未解決事件は、連続殺人や大量殺人、猟奇殺人や幼児・児童殺人のリストの中にもありますよね」

「かなりあるね」

「未解決事件で代表的なものと言えば、やっぱり『切り裂きジャック事件』ですよね」

「あの事件は、娼婦ばかりが狙われたが、残忍極まりない殺し方だった。様々な犯人説が出たが、未解決のままになっている」

「殺し方が異常でしたよね。バラバラにしたり内臓を持ち去ったりと、解剖の実験台にしたのではないかと思うような殺し方ですよね」

「後にこれを真似た事件も起こっていて、世の中に悪影響を与えた事件と言える」

「『ハマースミス殺人事件』と『ブラッドフォード殺人事件』ですね」

「他には、『ゾディアック』と『華城連続殺人事件』が挙げられる。目撃者がいるにも関わらず、犯人は捕まっていない」

 

「日本の未解決事件では、『世田谷一家殺害事件』が有名ですね」

「犯人がたくさんの遺留品を残していたので、すぐに逮捕されると思ったのだが・・」

「そうはいかなかったのですね」

「警察は大々的な捜査を行ったが、結局、犯人を特定できなかった。なぜ一家が被害にあったのかも、分かっていない」

「それほど、難しい事件だったのですね」

「ああ」

「犯人の異常な行動は、未解決になった要因の一つといえますね」

「通常、犯行後の犯人はすぐに現場から立ち去るものだが、そうしなかった。被害者宅に長時間居続けたようだ」

「単なる強盗殺人ではないのですね」

「キャッシュカードや貴金属類が盗られていなかったから、金品目的ではなさそうだ」

「パソコンを触ったり、冷蔵庫にあったアイスクリームを食べたり、さらに仮眠もとったみたいですね」

「並みの心臓ではできないことさ」

「犯人の本当の目的は、何だったんでしょうか」

「宮澤さんの命を狙ったのかも知れないな。そのために、彼の家族も巻き込まれた。暴走族とのトラブルによる怨恨説や宮澤さんを敵視する団体に雇われたプロの殺し屋説もある」

「その辺りが、なんとなく臭いますね」

「今挙げた事件の他にも、殺人に関わる未解決事件はたくさんある。そうでない未解決事件まで含めると非常に多くなるが、これがそのリストだ」

 

海外

1841年  メアリー・ロジャース事件  アメリカ  殺害    未解決

1865年  リンカーン大統領暗殺事件    アメリカ  暗殺

1929年  血のバレンタイン事件    アメリカ  大量殺人 

1962年  マリリン・モンロー事件   アメリカ  自殺

1963年  ケネディ大統領暗殺事件   アメリカ  暗殺

1965年  マルコムX暗殺事件       アメリカ  暗殺

1971年  D.B.クーパー事件      アメリカ  ハイジャック   未解決

1971年  林彪事件          モンゴル  飛行機墜落 未解決 

1981年  ナタリー・ウッド事件    アメリカ  事故死

1982年  グレース・ケリー事件    フランス  事故死

1982年  プリンセス・ドウ事件    アメリカ  撲殺

1983年  ベニグノ・アキノ暗殺事件  フィリピン 暗殺 

1985年  ダイアン・フォッシー事件    ルワンダ  斬殺     未解決

1991年  ヨアン・クリアーノ暗殺事件 アメリカ  暗殺  

1997年  ダイアナ元妃事件      フランス  事故死    未解決

2004年  アラファト議長事件     フランス  毒殺

2006年  リトビネンコ暗殺事件    イギリス  毒殺     未解決

2006年  ポリトコフスカヤ殺害事件  ロシア   暗殺    

 

日本

1949年  下山事件           東京都   失踪・轢死  未解決

1949年  三鷹事件           東京都   列車暴走   未解決

1949年  松川事件           福島県   列車脱線   未解決

1962年  草加次郎事件                        東京都   爆破・脅迫  未解決

1968年  三億円事件                           東京都       窃盗     未解決

1973年  金大中事件                           東京都   拉致       未解決

1977年  青酸コーラ無差別殺人事件      東京・大阪   毒殺     未解決

1978年  轢き逃げ連れ去り事件    大阪府     誘拐     未解決

1981年  新宿ラブホテル連続殺人事件       東京都   絞殺     未解決

1984年~ グリコ・森永事件      兵庫・大阪 誘拐・脅迫  未解決

1985年  パラコート連続毒殺事件     広域      毒殺     未解決

1985年  豊田商事会長刺殺事件    大阪府     刺殺     未解決

1987年  朝日新聞阪神支局襲撃事件      兵庫県     射殺           未解決

1988年  名古屋妊婦切り裂き殺人事件   愛知県     絞殺           未解決

1989年  徳島県男児行方不明事件   徳島県     行方不明   未解決

1991年  悪魔の詩訳者殺人事件    茨城県         助教授殺害  未解決

1991年  千葉市女子中学生誘拐事件      千葉県   誘拐           未解決

1994年  名古屋支店長射殺事件            愛知県     射殺     未解決

1995年  警察庁長官狙撃事件               東京都     殺人未遂   未解決

1995年  八王子スーパー射殺事件         東京都   射殺     未解決

1998年  赤城神社主婦失踪事件      群馬県   行方不明     未解決

2000年  女性漫画家殺人事件     東京都   絞殺     未解決

2001年  広島一家失踪事件      広島県   一家失踪   未解決

2001年  歌舞伎町ビル火災事件    東京都   放火           未解決

2004年  茨城大女子学生殺害事件         茨城県   窒息死    未解決

2007年  女性ネイリスト変死事件         茨城県   自殺     未解決

2008年  岩手17歳女性殺害事件         岩手県   高所落下     未解決

2010年  神戸市高校生刺殺事件            兵庫県   刺殺           未解決

2011年  南相馬女子高生行方不明事件 福島県   行方不明     未解決

2013年  王将社長射殺事件        京都府   射殺     未解決

 

「この中には、既に時効になっている事件もある」

「解決していない昔の事件は、そうなりますよね」

「号外が出た『ケネディ大統領暗殺事件』は、犯人とされる者がすぐに逮捕されたが、護送中に射殺された。口封じと単独犯にするためと思われる」

「銃を撃った者はマフィアと関わりがあって、暗殺の裏に誰かがいると憶測されましたね」

「暗殺を命じた黒幕がね。しかし、『死人に口なし』さ。真相は闇の中だ」

「そういう意味では、未解決事件と言えますね」

 

 

「ケネディ大統領と関係があったと噂されていたマリリン・モンローも、殺されたのではないかと言われている」

 

 

「一応自殺とされていますが、違うんですね」

「彼女は、映画の主演も決まっていて自殺する理由などなかった。『彼女との不倫関係が大統領のイメージを壊す』と恐れた取り巻きが、仕組んだのかも知れないな」

「英国のダイアナ元妃も単なる事故死ではなく、殺されたと聞きました」

「比較的オープンな王室とはいえ、やはりプライドは高い。当時は、皇太子のスキャンダルがあって、それが表に出ることを恐れたための所業という説がある」

「チャールズの不倫ですね」

 

 

「また、ダイアナが親密にしていた相手が、王室にとっては気に入らない存在であったとする説もある」

「もしそうだとしたら、王室と関係のある誰かが依頼者になっていて、回りまわってパパラッチが引き受けたことになりますね」

「直接手が出せない誰かの代わりにね」

「こうして見ると、海外では暗殺事件が結構多いですよね」

「そうだな。もし犯人が逮捕されても、絶対に口を割らない。誰が黒幕なのか、明らかになることはない」

 

「日本では、1949年に国鉄絡みの事件が立て続けに起こっていますよね」

 

 

「組合関係者が疑われたが、真相は謎のままだ。GHQが仕組んだ組合潰しの謀略という説もある」

「GHQですか。その理由とすれば、日本の共産主義化を恐れたことが考えられますね」

「おそらくな」

「当時は、労働組合による運動が盛んでしたね」

「組合の中には、権力者側のスパイもいたようだ」

「目的遂行の為には、何でも有りですね」

「世の中では、我々が知り得ない所で醜い駆け引きが行われている」

「まさかと思うことが、たくさんあるんですね」

「この中の『豊田商事会長刺殺事件』は、一応犯人が逮捕されているが、非常に怪しい」

「殺害現場における犯人2名の様子がリアルタイムで放送されましたが、口封じのための雇われかも知れませんね」

「会長が殺されたことで、豊田商事に関する不正の真相が解明できなかったからな」

 

 

「真相は、神のみが知るですか」

「神もたまに騙されるよ」

「神より悪人のほうが一枚上手ですね」

「現状では、そう言わざるを得ないな」

「残念ですね・・」

小川は、少し薄くなった頭を右手で撫でながら力なく呟いた。

 

「ここには載せていないが、もう一つ大きな未解決事件がある」

「何ですか」

「某国による拉致事件だ」

「拉致事件・・。なるほど、そうですね。拉致事件がありましたね」

「1970年頃から始まり、約10年の間にたくさんの拉致被害者が出たが、その問題は未だに解決されていない」

「ほとんど目撃者もなく、手がかりもない事件でしたよね」

「ある日忽然と、神隠しのように人がいなくなるんだからなあ」

「特に若い人が狙われましたね」

「某国に連れて行かれたのなら、警察も手の打ちようがなかっただろな」

「ここにある『徳島県男児行方不明事件』なんかも、時期的に考えてそうですか?」

「父親が40秒間ほど目を離したすきにいなくなったんだから、誰かに誘拐されたと思うな」

「警察は、状況から誘拐ではなく男児が道に迷ったとして、辺りを大々的に捜索したんですよね」

「身代金の要求がなかったこともあってね」

「ひとりで山道を歩いて行ったとしても、大声で名前を呼べば返事をするはずですよね。道に迷ったとは、到底思えませんね」

「確かにね。ただ、誘拐だったとしても、某国があんな幼い子を本国に連れて帰るだろうか。ある程度の分別がないとスパイにするには不向きだし、日本の情報も得られんのだからな」

「そこは、人によって意見が分かれるところですね」

「そうだな。これ以外に、幼児の行方不明事件はたくさんある。ほとんどが未解決で行方不明のままか、遺体で発見されたかのどちらかになる」

「拉致ではなく、身内や変質者の犯行もあったのですね」

「ああ。これが幼児ではなく中高校生あたりなら、拉致された可能性が高くなるがね」

「現状では、連れ去られた人の一部しか戻っていませんよね」

「被害者の家族は、『一刻も早く返して欲しい』と願っているんだが、全く進展がない」

「日本の政治家は、一体何をやっているんでしょう」

「何もできないのさ」

「また某国の国民は、自国の工作員によって日本人の家族が離れ離れになっているという事実をどう思っているのでしょうか」

「拉致のことなど、何も知らされてないだろうな」

「嘆かわしいことですね・・」

「うん」

頷きながら磯川は、最後のリストを出した。

「最後に、『冤罪である』もしくは『冤罪ではない』といわれた事件だ」

 

海外

1908年  オスカー・スレイター事件  イギリス           老婦人撲殺

1932年  リンドバーク愛児誘拐事件  アメリカ           幼児殺害

1961年  A6号線殺人事件        イギリス           殺害・傷害

1973年  マイケル・パルデュー事件      アメリカ           連続殺人

1993年  ウエスト・メンフェス3   アメリカ     男児殺害

1994年  O・J・シンプソン事件       アメリカ     元妻殺害

2005年  マイケル・ジャクソン裁判      アメリカ     児童性的虐待

2007年  ペルージャ留学生殺害事件      イタリア           強姦・殺害  

 

日本

1948年   帝銀事件         東京都      大量殺人

1951年   八海事件           山口県                夫婦殺害

1955年   五番町事件                       京都府                 刺殺

1961年   名張毒ぶどう酒事件    三重県        大量殺人

1963年   狭山事件                          埼玉県       誘拐殺人

1966年   袴田事件                          静岡県         強盗殺人

1967年   布川事件                          茨城県         強盗殺人

1968年~ 小野悦男事件       千葉・埼玉・東京 連続殺人

1974年   甲山事件                          兵庫県      園児死亡  

1990年   足利事件                          栃木県      女児殺害

1994年   藤田小女姫殺害事件           ハワイ        射殺

1994年   松本サリン事件       長野県        大量殺人

1995年   東住吉事件         大阪府        女児焼死

1997年   東電OL殺人事件                東京都        OL殺害     

2003年   志布志事件           鹿児島        選挙違反

2002年   氷見事件          富山県        強姦・強姦未遂

2008年   地下鉄痴漢捏造事件     大阪府        痴漢

2009年   凛の会事件         大阪府      制度不正利用

 

「元妻とその友人を殺したとして、O・J・シンプソンが逮捕されたのはびっくりしましたね」

「当時は俳優だったが、それまではアメリカン・フットボールのスーパースターだったので、全米が注目したよ」

「フリーウェイでの逃走劇もテレビで生中継されたんでしたね」

「状況から有罪確定と思われたが、刑事裁判では無罪となった」

「ドリーム・チームと呼ばれる優秀な弁護士たちを彼が雇ったからですね」

「彼らは、人種問題を盾にしたんだ。この逮捕は人種差別だとね」

「ところが、民事裁判では有罪となったんですね」

「その時はもう、シンプソンに優秀な弁護士を雇う金がなかったからな」

 

 

「持っている財によって、有罪・無罪が決まるというのはアメリカならではですね」

「いや、アメリカだけじゃないよ。どこでもそうだよ。金を持っている者が勝つんだよ」

「『地獄の沙汰も金次第』ですか」

「ああ」

「でも、弁護士というのは因果な商売ですね。薄々犯人と分かっていながら、犯人ではないと弁護するのですから」

「そうだな。彼らにとって一番重要なのは、事実や正義ではなくて実績さ」

「黒を白にするという手腕ですね」

「もし、同じような事件が2つあって、一方では原告につき、もう一方では被告についた場合、まったく異なる事を言うだろうな」

「そのことを誰かが指摘しても、『仕事ですから』と言うのでしょうね」

「割り切った顔で、平然とね」

 

「しかし、調べると結構あるものですね」

「日本においても冤罪らしき事件がたくさんあるな」

「これなんかは、映画にもなっていますよね」

「終戦後すぐに起こった『帝銀事件』や『八海事件』だね」

「『帝銀事件』の方は、犯人は別にいて冤罪だと言われていますね」

「当時、『元陸軍関係者が真犯人』という説が有力だったが、画家の平沢貞通が逮捕されてしまった」

「運悪く逮捕の条件が揃っていたのですね」

 

 

「しかし、被害者の中で生き残った誰もが、『平沢が犯人だ』とは断言しなかった。それでも警察は、平沢を犯人だと決めつけた」

「後に矛盾が出てきても、それを無視したのでしたね」

「面子をかけた警察の意地だな」

「『八海事件』の方は、共犯とされた者たちが裁判で無罪になりましたね」

「結局、単独犯であることが分かったからね」

「この事件を基にして、『真昼の暗黒』という映画が作られたのでしたね」

「監獄の中で、必死に無罪を叫ぶ主人公が印象的だったな」

「私もかなり前に観ました」

「この事件が起こってから数年後、京都の歓楽街で殺人事件が起こるが、真犯人はこの映画を観て自首をするんだ」

「五番町事件ですね」

「事件の発端は喧嘩だった」

「たまたま通り合わせた少年たちが怪しいとされ、逮捕されたんでしたね」

「最初は無実を訴えていたが、連日の警察の厳しい取り調べによって少年の一人が自白してしまう」

「『もうどうでもいい』と思ったんでしょうね」

「しかし、自白した場所から凶器のナイフは出なかった」

「それでも警察は、少年たちが犯人だと決めつけたのですね」

「ところが、少年たちとは全く関係のない真犯人が、自ら名乗り出た」

「もし、名乗り出なかったら、少年たちは犯人のままだったのですね」

「『自白が唯一の証拠になり得るのか』その信憑性に疑問を投げかけた事件だったな」

「警察の取り調べ方が問題ですよね。過去の事件では、強要された自白で有罪になり、服役した後で冤罪を主張する人もいましたね」

「『狭山事件』だね。あれは、事件に関連する人たちが次々と死んでいく不可解な事件だった」

「無実を信じた同和団体などが、彼の救援運動を行いましたね」

「それでも、判決は覆らなかった」

 

「逆に裁判で無罪になっても、真相がはっきりしていない事件もありますね」

「『甲山事件』なんかがそうだ」

「西宮市の知的障害施設内で起きた事件ですね」

「そこの女児が突然行方不明になるが、その2日後にも男児が行方不明になるという異様な事件だった」

「捜索によって、二人は浄化槽の中で発見されますよね」

「二人とも溺死だった」

「事故の可能性もありましたが、警察は殺人と断定し保育士を逮捕したんですよね」

「現場の状況からね。彼女のアリバイも疑問視されていて、さらに『彼女が男児を連れ出すのを見た』という園児たちの証言もあってね」

「その後、『女児の方は、自分たちがやった』という園児の証言が出てきたのでしたね」

「『殺そうとしたのではなく、手を引っ張ったら浄化槽に転落した』という事故だね」

「園児たちの証言をどう捉えるかが問題になりますね」

「証言の信憑性だね」

「最初の園児の証言は、警察が誘導したものだという声もありました」

「だとしたら、予断による見込み捜査になるな」

「何としても、容疑者を自白に追い込みたかったのでしょうか」

「おそらくね。結局、長い裁判の末に無罪となるが、何とも釈然としない事件だった」

 

 

「『松本サリン事件』では、8人の犠牲者が出ましたよね」

「死に至らなくても、猛毒によって重い後遺症が残った人もたくさんいたな」

「後になってオウム真理教の仕業であることが分かりますが、それまでに犯人扱いされていた方は、本当に気の毒でしたね」

「自分の妻が被害者になった上、自分自身が疑われたからね」

「メディアでも、容赦なく実名が挙がりましたよね」

「『松本サリン事件』以外に、真犯人が捕まって冤罪がはっきりした事件は、『氷見事件』『地下鉄痴漢捏造事件』『凛の会事件』などがある。他は、『冤罪かも知れない』もしくは『冤罪でない』と意見が分かれる事件ばかりだ」

「『地下鉄痴漢捏造事件』は、示談金目的の罠でしたよね」

「痴漢の被害届を出した女性が、実は犯人とグルだったからね」

「警察は当初、まさか被害者が共犯だとは思ってもいなかったでしょうね」

「警察も騙されるところだったよ」

「この事件のように、冤罪であることがはっきり分かった事件は稀ですね」

「誰もが事件に巻き込まれる可能性はある。巻き込まれたときに、無実を立証しにくい状況も考えられる」

「そうなると、犯人だと決めつけられますね」

「客観的な物証が乏しいと有罪にはなりにくいが、逆に無実と断定するのも難しい場合もある」

「『藤田小女姫殺害事件』なんかは、殺害の動機や証拠が揃っているにも関わらず、逮捕された男は、未だに自分の無実を主張し続けていますね」

「『自分は手伝っただけで、主犯が他にいる』と言ってるな」

「でも、その名前を出さないのですね」

「『出すと、自分の家族が殺される』と言うんだよ」

「真相は、どうなんでしょう」

「被害者の藤田小女姫さんは、よく当たる占い師として人気があった。顧客がたくさんいて、その中には著名な政治家もいたんだ」

「現職の総理大臣もいましたね」

「そういうことから、政治の裏側のこともよく知っていたようだ」

「ということは、それを世間に知られたくない政治家の誰かが、彼女と息子さんの命を狙ったということになりますね」

「その可能性もあることはあるが、非常に薄い。もし、依頼主が政治家なら、素人ではなく玄人を雇うはずだ」

「プロなら、証拠を残さないですからね」

「大体、犯行時の防犯カメラには、彼しか映っていなかったからな」

「単なる言い逃れかも知れませんね」

「多分そうだろうな。いずれにしても、彼が犯行に関わっていたことは否定できないのであり、終身刑は当然だ」

「こう見ると、冤罪が疑わしい事件もありますが、冤罪らしき事件も結構ありますよね」

「ああ。もし冤罪だったのなら、犯人にされた人の人生が狂わされたことになる」

「そんな人は、本当に気の毒ですね」

「無実で牢獄に入れられ、最悪の場合は死刑だからね」

「潔白の叫び声が、神や仏には届かなかったのですね」

「確かにな。しかし、そんな事件がある一方で、それとは真逆の事件もあった」

「『小野悦男事件』ですか」

「そうだ。首都圏女性連続殺人事件だ」

 

 

「この事件は、異例でしたね」

「彼は、逮捕された後も一貫して無実を訴え続けた。獄中から人権団体に手紙を出し続け、その甲斐あって救援会も結成されるようになった」

「確か、文化人や弁護士、宗教関係者たちも参加したんですよね」

「裁判で無罪になって彼が釈放されたときは、冤罪のヒーローになったものだ」

「誰もが彼の無罪を信じて支援したその結果ですからね」

「ところがその後、再び彼の周りで殺人事件が起こる」

「首のない遺体が発見され、被害者は彼の同居人の女性でしたね」

「さらに、女児が首を絞められるという事件が起こり、目撃情報から小野が逮捕される。彼の家を捜索すると、裏庭から腐乱した首が出て来た」

「『万事休す』ですね」

「動かぬ証拠が出て来たんだからね」

「これを知った支援者たちは、どう思ったでしょうね」

「『どうも自分たちが間違っていたようだ』では済まされないよな。断崖絶壁に立っていて、後ろから不意に突かれて落とされたような気持ちだったろうな」

「まさかの犯人ですからね」

「誰も人を信じられなくなったんじゃないか」

「そんな心境になりますよね」

「人は、見かけだけで判断してはいけないという見本のような事件だったな」

「小野以外にも、清廉潔白を装った真犯人がいるかも知れないですね」

「いるだろうな」

 

   龍神伝説                                                             仲代 章

 

   2017年 東京・井の頭公園

 

「今日は、やけに星がはっきり見えるじゃないか」

「本当ねぇ」

「あれがはくちょう座のデネブ、あれがこと座のベガ、そして、あれがわし座のアルタイル」

「夏の大三角ね」

 

 

「ベガの隣にかすかに見えている星があるだろ」

「どこよ?」

「ベガの右斜め下だよ」

「う~ん。あっ、あった、あった。あれね。あのオレンジ色の・・・」

「そうそう」

「あんなところにも星があったんだ」

「3等星なんで見つけにくい上に、ベガのために目立たないんだ」

「地味な星ね。何という星なの?」

「ミリカというんだよ」

「ミリカ?」

「うん」

「初めて聞く名ね」

「あまり知られてないからね」

「かなりマニアックな星なのね」

「そうだな。実はあの星、今はもうないんだよ」

「ええ、ない?」

「ああ」

「でも、見えてるじゃない・・・」

「確かにあったんだけど、数年前に消滅したことが最近分かってね。地球から遙か遠くにあるため、消滅する前の姿が今、届いてるのさ」

「ふ~ん」

 

 

   1979年 三重県伊勢志摩・麦崎の沖合

 

「おーい、姉貴。今、向こうの方で稲光がしたみたいだよ」

「そうか」

「真っ黒な雲がこっちに来てる。ちょっと危ないんじゃないか」

「まあ、夕立だろうけど、通り過ぎるまで小屋に戻ってお茶でも飲むか」

「うん。そうしようよ」

   この後すぐに、バケツをひっくり返したような豪雨が襲ってきた。雷鳴も間近に響いて、磯桶を持った2人は、慌てて小屋に逃げ込んだ。

「目を開けてられない程、きつかったな」

「雨も痛いが、雷が嫌さ」

「海ん中なら気にならんけど、浮き出たときはちょっと怖いな」

「腰に付けてる磯ノミに落ちたら、まず助からんわ」

濡れた顔を手ぬぐいで拭きながら、良恵が早紀の磯桶を覗いた。

「こう何日も不漁が続くとダメだな」

「数も少ないけど、型も良くないからな。これじゃ、どうにもやっていけんさ」

「やっぱり女だけの漁じゃ、しんどいな」

「いくら男勝りと言っても、男の力には負けるよ。姉貴、早くいい旦那を掴まえなよ」

「早紀、お前もだよ。『どっちが先に酔い潰れるか』なんて、男と勝負するんじゃないよ。それじゃ男が逃げちゃうよ」

「へへっ、こりゃ血筋だな」

「バーカ」

 

『ピカッ』

『バリバリ~』

 

 

「きゃっ」

   小屋の近辺に雷が落ちた。2人は身を伏せ、暫く固まったまま沈黙した。

   日頃から剛気で気丈夫な姉妹ではあるが、このときばかりは、臆病で気弱な海女になっていた。

 

   5分後、早紀が小屋の窓から外を見ると、雨は幾分弱くなって、空も明るくなってきた。雷も遠ざかったようだ。ひと安心した良恵が、水筒に入れてあったお茶を飲みながら話し始めた。

「今晩、美津の家に行って、念を押すつもりさ」

「この前持ち掛けた話の事だね」

「ああ・・」

少し小声であったが、その顔は、覚悟を決めたような表情になっていた。

 

 

   2005年 神奈川県・私立成城高校 

 

「ドサッ!」

   湿ったような鈍い音が構内に響き渡った。

 

「えっ?」

学活の時間で、所在なく窓の外を眺めていた男子生徒が、思わず大きな声を出した。

「何だ? どうした?」

学級担任が、その生徒の方を見た。

「今、上から人が落ちて来たような・・」

「何!」

   すぐに窓を開けて下を見ると、ひとりの女子生徒が中庭の隅に横たわっていた。どうやら、校舎の屋上から飛び降りたようである。

「きゃっ」

女子生徒たちが、甲高い悲鳴を上げた。それは、ドス黒い血が頭部から流れ、片方の眼球が飛び出るという凄惨な光景だった。

 

お通夜

   しめやかに読経が行われる中、参列していた弔問客の焼香が始まった。

   祭壇にある遺影は微笑んでいたが、母親は始終泣いていて、顔を伏せたままだった。学校長や担任が弔問に訪れた時は、怒りが込み上げたのか肩が震えているようにも見えた。

   同級生の弔問は、ほとんどが男子生徒で女子生徒は極わずかだった。週刊誌「文麗」の記者である木崎は、このことが自殺の原因を表しているように思えた。

   式場の外では、報道関係者以外に刑事も目を光らせていた。遺書がなかったことから他殺の可能性もあり、弔問客を見定めているのである。

 

「やあ、『文麗』さん。今日は、一番乗りですか」

「はい。この前は『宝准』さんに先を越されましたからね」

「いやぁ、あれはたまたまですよ」

「最近、よく編集長から大目玉を食らいます。『宝准』さんを見習えってね」

「申し訳ありません。競争なので仕方がないとはいえ、ご迷惑をかけます」

「まあ、お互い因果な商売ですが、なるべくお手柔らかに頼みますよ」

「はいはい。承知致しました」

「まったく口先だけなんだから。目が笑っていますよ」

「はは」

 

「ところで、何か掴めましたか?」

「ダメです。こういう状況じゃ真面にインタビューもできないですよ」

「ご家族の心中を察すると傷口を広げるみたいで、少しためらいますよね」

「実際、このような事件は取材がしにくいです」

「なにせ、事実を掌握するのが難しいですからね」

「事実であっても下手に載せると、後でえらい目に遭う恐れもあります」

「確かに」

「おっ、たった今、弔問を終えたばかりの人たちが出てきましたね」

「少しお話を聞くことにしましょう」

 

講文社 編集部

「亡くなった生徒さんは、どんな女の子だったんだ?」

編集長の丸山が、木崎に尋ねた。

「近所の評判では、礼儀正しい大人しいお嬢さんということでした」

「人に恨まれるようなことは?」

「それもなかったようです。ほとんどの男子生徒が、『誰にも親切で、飾らない素直な女の子だった』と言っています」

「女子生徒はどうだった?」

「それが、口を濁してあまり語りたがらないのです」

「そうか・・」

「写真で見る限り、彼女は美人というより可愛い女の子に見えますね」

「そうだな」

 

「只今、帰りました」

「おお山口君。待ってたよ」

   木崎と同じ部署の記者である山口が戻ってきた。

「木崎さんの思った通りでした。いじめが原因です」

「やはりな」

「亡くなった大野奈々子さんには、A子さんという親友がいました。中学時代からの友達で、高校でも同級生になって何をするのもいっしょでした。部活も同じ美術部に所属していて、とても仲が良かったんです」

「ふーむ」

「ところが、最近になって2人の関係は、険悪になりました。奈々子さんがA子さんに話しかけても返事がなく、そっけない態度で避けるように離れて行ったようです」

「その理由は?」

「男女の三角関係です」

「・・・」

「奈々子さんは、同じクラスの男子たちから好かれていました。その中にB君という男の子がいたのですが、やはり、奈々子さんに対して好意を寄せていたようです」

「そんなB君を、A子さんが好きだったということか」

「そういうことです」

「お決まりのパターンだな」

「A子さんは、苛立ちを覚え始めました。日頃の男子の奈々子さんに対する接し方と自分に対するそれとがかなり違っていることに」

「うーん」

「さらに、自分の想いがB君には届かないと分かり、憤りの矛先が奈々子さんに向いてしまったのです」

「逆恨みだな」

「そうですね・・」

 

「奈々子さんは、クラスでアイドル的な存在だったんだな」

「A子さんもそこそこ美人だったのですが、勝ち気な性格が災いしたようです」

「どちらをとるとなれば、大半が奈々子さんをとるよな」

「他の女子もA子さんと同じような気持ちだったので、みんなで寄ってたかっていじめたようです」

「嫉妬からの女のいじめというのは、陰湿だからな」

「担任は、そのことを知っていたのかね?」

「それが一番の問題ですね」

「知っていて何も手を打たなかったとしたら、責任が問われるな」

「もしそうなら、担任が責められます」

 

   事件から5日後、緊急の保護者説明会が行われた。

   会場の体育館はすぐに保護者で埋まったが、誰一人としてしゃべらず、重苦しい雰囲気に包まれた。

   進行役は、教務主任が務めた。教頭は職員室で留守番をしたが、始終、電話の対応に追われていた。

   開始時間になり、学校長と生徒主任が席に着いた。担任は欠席であった。理由は、体調不良である。

   教育委員会の指導主事が見守る中、学校長が最初に発した言葉は謝罪であった。途中、その声を遮るように、学校に対する不信感と責任を問う厳しい声が飛び交った。

   進行役の教務はあたふたするばかりで、「このような会の進行役など、頼まれても引き受けるものではない」と心底後悔した。

 

 

   1988年 山梨大学構内・人文科学研究会


「最近は、研究会の活動費が出ないこともあって、現地での調査ができないですね」

「仕方がないよ。部員が少ない研究会だからな」

「大学側も見放しているんだろ」

「でも、根っから興味をもっている人の集まりだから、面白いですよね」

「まあ、それだけがこの会の取り柄と言えるな」

「真鍋先生、今日はどのようなテーマになるのですか」

「今日は、『未解決の事象について』です」

   このような話題については誰もが興味を持っているのであり、この会の中心になる真鍋助教授に視線が集まった。

「この地球上では、今までに様々な事象が起こっています。原因が明らかになったものがあれば、未だに分かっていないものもあります」

「仮にタイムマシンができて過去に行けるとしたら、みなさんはいつの時代に行って、何を調査したいですか」

「タイムマシンで過去の調査ですか。うーん」

   メンバー全員が暫く考え込んだが、20秒ほどたってから4回生で部長の小倉が口火を切った。

「そうですね。過去の事象の中で是非とも調査したいのは、30億年前の地球の状態ですね。そのことによって人類の進化のプロセスが解明できるのではないでしょうか」

「小倉君は、人類の進化のプロセス」

と、口にしながら、真鍋がゆっくり白板に書き記した。

「僕は、ナスカの地上絵を調べたいです。あのような巨大な絵が、何のために描かれたのか知りたいです」

小倉と同じ4回生の牧田が述べた。

 

 

「動植物を描いた幾何学的な絵は、かなり大きいものです。飛行機やヘリコプターから見ないと、全体が分からないくらいです。ですので、宇宙人との交信のために描いたという説がありますよね」

「そういえば、イースーター島のモアイ像も全部空に向かっているね」

「あれも謎だな」

「いや、あれは多分、祭礼のためだと思うよ」

「祈りや感謝という神様への意思表示だね」

「とりあえず牧田君は、ナスカの地上絵」

真鍋は、また同じように声に出しながら白板に書いた。

「田中君はどうです?」

「私は、未解決事件を調査したいです。未だに解決できていない連続殺人事件や神隠しのような事件が、日本だけでなく世界中で起こっています。その真相を解明したいです」

「真相が分からない事件が、多すぎるよな」

「まったく」

「田中君は、未解決事件の真相」

同じように、真鍋が白板に書き記した。

「近藤君は?」

「私は、冤罪事件を調査したいです。犯人が捕まって解決した事件の中には、本当にこの人が犯人なのかと思われる事件もありました。もし、冤罪ならば、事件は解決していないことになります」

「なるほど、そういう意味では未解決事件になりますね」

「私も彼の意見に賛成です。罪を犯した者が罰せられずに、罪を犯してない者が罰せられるのは非常に不合理です。このような事件の真犯人を是非とも知りたいです」

研究会では紅一点になる山下珠美が、熱く述べた。

「確かに、冤罪ではないかと疑われるような事件が過去にありました。日本では、明治、大正、昭和、平成に渡って、そのような事件がたくさん起こっています」

「近世の江戸時代では、無理やり犯人にされることもあったようです。毎日のように拷問が行われて、その苦しみから逃れるために、嘘の自白をした人も少なくないと聞いています」

「真犯人は、誰かが自分の身代わりになったことをほくそ笑んだに違いありません」

「そんな奴は、見つけ次第同じような拷問を味あわせなければ、犯人とされた者の気が収まるものではないですよね」

「いや、真犯人より、犯人だと決めつけた者たちに何らかの処罰があるべきです」

と、小倉がきっぱりと言った。

「近藤君と山下君は、冤罪事件の真犯人」

真鍋は、頷きながら白板に書き記した。

「山崎君、君はどうです」

   会の中では一番寡黙な2回生の山崎が指名された。

「私ですか・・・。私は、龍神伝説を調べたいです」

「龍神・・伝説?」

「はい」

「何ですか。それは?」

 

 

1998年 三重県 麦崎

 

「それじゃ、荷物はこの辺りに置いておこう。みんな、自分の荷物を置いた所を覚えておくように」

「はぁーい、分かりました」

「足元に気をつけてね。それから、あんまり遠くへ行かないように」

「はぁーい」

子どもたちは、早く磯観察をしたいのであり、返事もそこそこに下に降りだした。

 

 

「荷物はそこより、こっちの方がいいよ」

   頭の上の方から、声がした。見上げると、灯台の真下に見知らぬ老人がいた。古ぼけた麦わら帽子をかぶったその老人は、石段に腰をかけて海をぼんやり見ていた。

「はあ?」

「津波が来たら、あっという間に全部さらわれるから、そこは危ないよ」

「そうですか。でも、今日は天気もいいし・・・。ここでいいです」

「わしの言うとおりにしなさい」

   老人は、あごひげを左手でこすりながら言葉を続けた。

「わしは、ここで生まれて、何十年もこの岬を見てきた。だから、麦崎の事は何でも知っている。わしの言うとおりにした方がいいよ」

「はぁ、そうですか・・・」

『もし津波が来たら、荷物どころではない』と思いながらも、地元の人とのトラブルは本意ではないので、渋々従うことにした。

「おーい、みんな。悪いが、荷物の場所をここより上に変えるので戻って来てくれ」

「えー、また上に戻るの」

「すまん、すまん」

「その方がいい」

   老人の顔が、先程の硬い表情とは明らかに違っていた。

「どうもすみません。何も知らなくて。こちらの灯台を管理されている方ですか?」

「いいや、違う。わしは、そんな者じゃない。見ての通り、只の老いぼれた漁師じゃよ」

「はぁ」

「今は引退して漁には出てないが、毎日ここに来て海の様子をじいっと見てる。わしの仕事は言わば、岬の番人じゃな」

「そうでしたか」

「向こうの沖合に、旗があるのが見えるじゃろ」

   200m程先に、赤い色の旗が数本はっきり見える。海面から2mぐらい出ている竹の棒の先に付けられていた。

「ああ、あれですか」

「そうだ。あの旗の色によって、ここらの漁師が仕事をするのじゃよ。だから、旗がしっかり立っているかどうか、ここで見張ってるんだよ」

「そうでしたか。それはご苦労様です」

「うん」

老人は、軽く首を振った。

 

 

「どこから、来なすった?」

「京都です。宿泊の野外活動で来ています」

「そうだろうと思ったよ」

「初めての引率で来ましたが、ここは観察にはもってこいの場所ですね。広々として見晴らしも良く、潮だまりも多いですから」

「そうじゃな。今日は日和もいいし、遠くの船までよーく見える」

「この麦崎では、どんなものが獲れるんですか」

「ひじきなどの海草やタコ、サザエ、アワビだね」

「アワビもですか」

「ああ」

老人は、ゆっくり頷いた。

「ここのアワビはな。とても型の良いものばかりなんだよ」

「それはうらやましい限りですね」

 

 

   アワビは、魚介類の中でもかなり高級な食材になる。さらに、『それが良質である』と聞いて、桜井の顔が少しほころんだ。

「あんた、アワビが好きかね?」

「はい。でも、値段が高いから、口にすることはめったにありません」

「わしもそうじゃよ」

そう言いながら、老人は苦笑した。

「昔は、アワビも獲り放題だった。ここは、もともと網元がいなかったので、獲った物は、すべてみんなで分け合っていたんだ」

「そうですか」

「じゃが、それももうできなくなった」

「どうしてですか?」

「組合ができたからな」

「漁業組合ですね」

「ああ。組合ができてからというもの、我々漁師でもそう簡単には口に入らんようになった。密漁でもすれば別じゃがな。しかし、そんなことがバレれば、村八分になってしまうわ」

「それは、いけませんね・・」

   真顔になった桜井が、首に掛けていたタオルで額の汗を拭いた。

「あっ、そうじゃ。もし、アワビが欲しいなら、わしが組合に頼んであげるよ。わしは漁師の中でも一番古株なので、組合には顔がきく。街で売っている値より安く手に入るよ」

「本当ですか」

「ああ。わしの名を出せば、この辺の魚市場でもいくらかは安くしてくれるはずじゃ。わしは、三木谷というんじゃがな」

「三木谷さんですか。じゃあ、家族への土産に、干しアワビを少しばかり買うことにします」

「それがいい」

 

    2人の間を心地良い潮風が通り過ぎる。桜井は、潮だまりの子ども達を注意深く見守りながら、老人の話にまた耳を傾けた。

 

「アワビやサザエ獲りは、昔から海女の仕事だった。海女たちは、数を獲ることよりも、型の良さを競っていたんだ」

「ベテランの人は、見つけるのが上手いのでしょうね」

「そうだよ。若い海女より年のいった海女の方がいろんな場所を知っている。型の良いアワビがありそうな所をね。特に、竜宮井戸付近は、格別のアワビがあるらしい」

「竜宮・・・」

「竜宮井戸だよ。この麦崎の沖合には、井戸のような縦穴になっている深い所がある。その壁面には格別のアワビがびっしりと並んでいるという」

「アワビがびっしりですか」

「うん。良い漁場ではあるが、あまりにも深いので、誰もそこへは行かないがね」

「もったいないですね」

「昔からこんな言い伝えがある。この辺りに村ができた頃、9人の海女たちがそこへ行きよったらしい」

   老人は、その方向に目を向けて指差した。

「目的は、やっぱりアワビですよね。大漁で戻ってこられたのでしょうね」

「いいや、海女たちは、昼過ぎになっても戻ってこなかった。心配した村人たちが、夕方、9人を探しに出たが、その近くの海面で9つの桶が浮いているのを見つけたということじゃ」

「桶だけですか・・。海女さんたちに何かあったのでしょうか」

「おそらくな。誰も行きたがらないような深い所だったからな」

「でも、いくら深い所とはいえ、9人とも溺れたとは考えにくいですね。ひょっとして、鮫か何かに襲われたのでは」

「そうかも知れん。しかし、たとえそうだとしても、9人の内の誰かは海岸にたどり着き、助かっていたに違いない」

「それはそうですね」

「海女の家族は、幾日も9人の帰りを待ったが、結局、誰一人戻ってこなかった。それで村人たちは、『全員が竜宮に連れて行かれた』と噂し始めた。それからは、そこを『竜宮井戸』と呼ぶようになったようじゃ」

「なるほど」

「9人の碑が、この近くの墓地にあるよ」

「碑があるのでしたら、只の作り話ではないようですね」

「ああ。なにぶん大昔からの言い伝えなので本当のことはよく分からんが、幾百年もたった此の方、命日になる旧の六月十三日は、『海女人日待(あまどひまち)』といって、海女さんたちが仕事を休む習わしになっている」

「その当時は、たいへんな騒ぎになったでしょうね」

「そうじゃろな。実は、ここだけの話じゃが・・」

と前置きをして、老人は言葉を続けた。

「20年程前にも同じようなことが起こっとる」

「ええっ」

「永らく御法度の場所であった『竜宮井戸』じゃが、それを『迷信じゃないか』と疑った3人の若い海女が行ってしまい、同じように戻ってこなかったんじゃ」

「やはり、全員死んだということですか」

「分からん。どこを探しても3人は見つからなかった。当時、海上警察が捜査にあたったが、遺体は見つからなかった。やはり、3人の桶だけがプカプカ浮いていたようだ」

「まさに行方不明ですね」

「この時、村の年寄りたちは、このように噂した。『3人は、竜宮に連れて行かれたのではない。御法度を犯した為に、龍神の怒りにふれて食われてしもうた』とね」


 

「龍にですか・・。今から20年前とすると、昭和53年か54年あたりになりますね」

「そうなるかな」

「その日、三木谷さんは、この岬にはおられなかったのですか」

「ああ。その頃のわしは、まだ漁船に乗っていたのでな」

「その海女さんのことは、今も分からないままなんですね」

「そうじゃ。3人が生きているのか死んでいるのか、誰も分からんままじゃ」

 

 

   2010年 大阪市立天王寺中学校

 

「君ら、この人誰か分かるか」

 

 

「なんやあれ?ベロ出してるで。けったいなおっさんやな」

「アメリカのお笑い芸人か?」

「そんなんちゃうやろ」

「お茶目なとこが、ちょっと田中君に似てへんか」

「似てへんわ、ボケ」

「この人はやね。アインシュタインという人や」

「アインシュタイン?なんか聞いたことあるなぁ」

「このアインシュタインという人は、ユダヤ人で、相対性理論を唱えた有名な科学者なんやで。日本に落とされた原子爆弾を考えた人でもあるんや」

「へーえ」

「原爆を考えた人やて」

「ほたら、悪い人ですか?その人は」

「いいや。考えたんはこの人やけど、実際に作って落としたのはアメリカやしな」

「アメリカが悪いんか」

「そうとも言えんやろ。戦争やったし、日本もアメリカも両方悪いやろ」

「ところで先生、その相対性理論って何ですか?」

「そやな・・・。簡単にいうと『世の中のすべてのものは、何かと比べることによってどうであるといえる』ということや。例えば、ウサギと亀ではどちらが速い」

「そらまあ、まともに勝負したらウサギやろな」

「じゃあ、ウサギとライオンではどちらが速い」

「ライオンに決まってる」

「ということは、何かが早いか遅いかというのは、比べるものによって変わることになるやろ」

「うん」

「こういうことを相対的に考えるというんや。つまり、この世のすべてのものは相対的に存在するのであって、絶対的なものはないんやとね」

「ふーん」

「ところがや。『この世にはたったひとつだけ、絶対といえるものがある』とアインシュタインは言っとるんや。それは何やと思う」

「さあ、何ですか?」

「ヒントは、世の中で一番速いものや」

「速いんやったら、チーターかな」

「アホ、動物とちゃう。物質や」

「ほたら、ジェット機やろ」

「そんな、遅いもんやない」

「へーえ、ジェット機よりも早いものがあるんや」

「君らも今、見てるがな」

「見てる・・?」

「あっ、先生、それって光ですか」

「ピンポン、正解」

「へーえ」

「光速ってよく聞くやろ。アインシュタインの唱える相対性理論では、『光の速さを超えられるものはなく、光が絶対的である』としているんや」

「もし光と同じスピードの乗り物を作ったら、その乗り物とその中の時間の流れは非常に遅くなり、未来に行けるようになるらしい」

「それって、タイムマシンやね」

「そや」

「タイムマシンができたら、本当に未来でも過去でもどこにでも行けるんですか?」

「未来に行くのは可能らしいけど、過去は不可能らしい。でも、もし両方行けたら、君らはどの時代にいってみたい?」

「僕は、今から十年後の未来に行ってみたいわ。自分がどんな大人になっているか見てみたい」

「そりゃいいね」

「その顔からすると、多分お笑い芸人かなんかやで」

「ほっとけよ。ほんまに・・・」

「私は、戦国時代に行ってみたい。イケ面の織田信長に会いたいなぁ。それで、本能寺の変のことを言ってあげるねん」

「そんなことしたら、歴史が変わってしまうのとちゃうのん?」

「いや、もし会うことができてもそんな話は信用されへんて。反対に人を惑わすという罪で手打ちになるかもな」

「ええっ、せっかく親切で言ってあげてるのに。そんなん嫌やわ」

「僕は、恐竜がいる時代やな。ティラノザウルスが、本当に図鑑に載っているような姿かどうか確かめたいな」

「そんな危ない時代にいったら、恐竜に食われてしまうで」

「食われる前に逃げるわ」

「そんなうまいこといくかいな。ドラエもんと違うんやで」

「ところで、先生は?」

「私か・・。私は、31年前の昭和54年8月4日にタイムスリップしたい。場所は、私の生まれ故郷になる志摩半島の麦崎や・・」

「また、なんですか。えらい具体的な日にちと場所ですね」

「先生、その日に何かあったんですか?」

「そやな。その日はなぁ・・。その日は、私の母親が麦崎の海で突然消えた日や・・・」

 

 

   1979年 美津の家

 

「まさか、あんたが和雄と所帯を持つとはね」

「そうだよ。子どもまで作ちゃってさ」

   そんな2人の言いぐさに、美津は苦笑いをした。美津の傍らには、生まれて間もない乳飲み子が無邪気に眠っている。

「和雄は遊び上手でさ、何かと噂が多かったんだけど、これで道楽も打ち止めだね」

「いやいや、和雄のことだから分かんないよ」

「そんなこと言わないでよ」

   やっかみとも取れる良恵の追い打ちに、美津は少し真顔になった。

「和雄があんたといっしょになったのは、赤ん坊ができたからだろ」

「それもあるけど、それだけじゃないよ」

「はいはい、分かりましたよ。和雄があんたに惚れたって言いたいんでしょ」

   冷やかし半分の早紀の突っ込みにも、美津はまた苦笑いをしてみせた。早紀は、美津と同い年であり、幼い頃からよく遊んだ仲である。

「しかし、こんな大事な時に組合の理事長と揉めるとはね」

「元はと言えば、雅也との喧嘩だね」

「2人で『ごん助』で飲んでいて、酔っぱらって雅也と言い合いになったんだ」

「偶然居合わせた理事長が止めに入ったんだけど聞き入れず、それどころか『出しゃばるな』と理事長を殴ったらしいよ」

「そんなことをすりゃ、仕事ができなくなるわさ」

「翌朝、2人で謝りには行ったんだけど、後の祭りさ・・」

「処分は、当然だね」

「でも、除名じゃなく、3週間の謹慎だけで済んだのは助かったな」

「その間、漁はできないけどな」

「仕方がないさ・・・」

美津が力なく呟いた。

「今夜も、また『ごん助』で飲んでるのかい?」

「多分ね・・」

「赤ん坊がいるというのに、子守の手伝いもしないんだ」

「亭主が酒飲みだと、苦労するよな」

「まったくだ」

「でも、いい所も結構あるんだよ」

「分かってるよ。だから、いっしょになったんだろ」

「うん」

少し恥らいながら、美津は頷いた。

 

「酒を飲まなきゃ、本当にいい人なんだけどね・・」

   3人のやりとりを隣の部屋で聞いていた美津の母親が、思わずこぼした。その言葉に、良恵と早紀は、申し訳なさそうに相槌を打った。

「美津、そろそろ母ちゃん、寄合に行くわ」

「うん。もし華子の母親が来てたら、出産祝いのお礼を言っておいて」

「ああ、分かったよ」

   母親は家を出て、寄合場所へと向かった。

 

   母親が、家から遠ざかったことを確かめてから、美津が切り出した。

「本当にバレないんだね」

「大丈夫、心配ないって」

「なんで、船で行かないんだよ?」

「組合の奴らに見つからないようにするためさ」

「本当なら船を使って男女(ととかか)漁をするところだけど、見つかったら言い訳できないからね」

「だから、泳いで行くしかないんだよ」

「それでも、バレたらこの村にいられなくなるよ」

「そん時は、『潮に流された』と言えばいいんだよ」

「そんな言い訳、通るかな・・」

「相変わらず心配性なんだから」

「噂じゃ、隣村の海女たちも行っているらしいよ」

「そうなん?」

「結局、正直者が馬鹿を見てるんよ」

「折角極上のアワビがあるのに、それを捕らない方がアホなんだわ」

「その通りだよ」

「そこは、かなり深いんだろ」

「ああ。だから誰も行かないんだよ」

「『深い漁場は、潮が引いた時に限る』と死んだ婆ちゃんが言ってた。明日は大潮なので、ちょいとがんばれば届くわさ」

「型が良いので、高く売れるよ」

「どこに売るのさ?」

「組合が卸している所とは別の所さ」

「それが組合に知れたら事だよ」

「組合の奴らなんか『糞食らえ』だ。自分たちだけがいい思いをしてさ」

「本当だよ。奴等は村のことなんか何にも考えていないんだよ」

「美津も赤ん坊のために稼がなきゃ」

「そりゃそうだけど・・」

「まあ、私らに任しておきなって」

「悪いようにはしないからさ」

 

 

   2016年 科学技術庁

 

「君たちの提案は、うちの篠塚から大まかに聞いている。その実現に、かなりの費用が掛かるようだが、それに見合うだけの価値はあるのかね」

不安げに科学技術庁長官の葉山が尋ねた。

「国家予算の支出としてはかなりの額になるので、失敗は絶対に許されません」

秘書の篠塚も間髪を入れずに付け加えた。

「通常、助成金を出すにあたって決定を下すのは、ここの責任者である私であるが、今回ばかりは独断で決められない」

「ですので、このようにお集まり頂いた訳ですが、皆様方には忌憚のないご意見をお願いします」

「科学技術庁とはいえ、職員の中には畑違いの者も結構いる。この説明会においても、知識どころか、全く興味も関心もない輩もいるに違いない」

   葉山の言葉に、着席していた官僚たちは、困惑した顔で苦笑した。

「野々村博士、そういうことなので、君たちのプロジェクトの詳細をもう一度、小学生でも分かるように説明してくれたまえ」

「御尤もです。内容が内容だけに慎重にならざるを得ないのは分かります。それでは、資料を基に助手の神谷が話しますので、お聞き願いします」

   野々村博士は、すべてを神谷に託した。

「神谷君、頼みますよ」

「承知しました」

   神谷は、ホワイトボードの前に立ち、落ち着きを払って視線をみんなに向けた。

「まず最初に、物が見える仕組みについて説明します」

   用意してあった液晶プロジェクターで映像を出した。

 

 

「同じ物体でも、近くにあれば大きく見え、遠くにあれば小さく見えます。それは、どうしてでしょうか」

   思いもよらない神谷の質問に、官僚たちは固まってしまった。

「それは、眼球にある水晶体が関係します」

「物体にあたって反射した太陽の光は、水晶体よって網膜に映像を映し出します。その際、映像は逆になりますが、脳はその信号をさらに逆にします。逆の逆は、正ですよね」

「だから、逆さまには見えない訳か」

「立てた鉛筆を思い浮かべてください。鉛筆には長さがあります。その最上をA点とします。最下をB点とします。A点とB点の光は、それぞれ水晶体の真ん中へ真っ直ぐに進み、交差します。その時にできる交差の角度が大きいと映像は大きくなり、小さいと映像は小さくなります」

 

 

「交差の角度は、物と眼の距離によって異なります。短いと大きくなり、長いと小さくなります。実際は巨大である星が小さい点に見えるのは、遥か彼方にあるためです」

「なるほど、そういうことか」

「それを踏まえて、これから本題に入ります」

そう言って神谷は、野々村博士の方に顔を向けた。「ここが正念場です」という合図を視線で送り、少し間をとって説明を続けた。

 

「皆様も、見晴らしの良い展望台から望遠鏡で景色を覗いたことはおありでしょう。肉眼では小さく見える遠くの建物が大きくはっきり見えますよね」

「望遠鏡にある凸レンズが映像を拡大して、眼球の網膜に映しているのです。倍率の高い望遠鏡だと、人の表情が分かることもあります」

「さらには、夜空の月や北斗七星を観たこともおありでしょう。地球に一番近い衛星である月を肉眼で観ても、ぼやけた模様しか分かりません」

「ところが、天体望遠鏡で観るとクレーターまではっきり見えます」

 

 

「もっと高性能な天体望遠鏡で見れば、表面の詳細まで分かります。もし、人がそこにいて何か作業をしていれば、何をしているのかも特定できるでしょう」

「装置が開発されれば、そんなことも可能になると言うのだね」

「はい。私たちはつい最近、そのような装置ができたことを確認しています。それは、これまでのものとは比べようがない程の超高性能なのです」

「ほぉ、もうそんな装置ができているのか・・」

 

「従来の天体望遠鏡は、ガラス製のレンズや反射鏡によって物体を拡大しますが、その天体望遠鏡は、それとは異なる画期的な方法で拡大します」

「どんな方法なのかね」

「詳細はここでは述べられませんが、拡大のループを繰り返す方法のようです」

「拡大のループ・・」

「その装置の性能は既に実証済みで、その威力に我々も驚いています」

「神谷君、その超高性能な装置を作ったのは誰かね」

「私たちと同じ研究所に所属する間宮博士です」

「間宮博士なら、やりそうだなぁ」

「その装置によって、遥か彼方の星の動向や様子まで、ピンポイントではっきり見えるようになります」

「で、それで何を見るつもりかね」

「私たちの目的は、かなり遠くの物体を見ることです。極小になっている映像をその装置によって拡大し、詳細に見たいのです」

「月をかね?」

「いいえ。月ではなくもっと遠くにある星をターゲットにします。景色を展望台で観るかのように、その星を詳しく観察するつもりです」

「もしそれが本当なら、生命体がいるかも知れない星を簡単に観察できるね」

「いや、生命の起源が分かる可能性だってあるな」

「いずれにしても、宇宙船でわざわざ行かなくて済む訳だ」

「しかしながら、この開発は、天文科学の分野だね。星を詳しく観察しても、科学技術庁にとってはあまり価値があるようには思えんのだが」

官僚の1人が不満気に言った。

「いえ、そうではありません。確かに星は観ますが、単なる観察ではありません。私たちの目指しているのは、別のことです」

「別のこと?」

「はい」

「それは一体、何かね」

「それは、地球を観ることです」

「地球?」

「はい。地球です」

「つまり、君たちは、この地球から地球を観察すると言っているのかね」

「そうです。それも過去の地球です」

「過去の地球?」

   官僚たちがそれぞれ顔を見合わせて、ざわめき始めた。

 

 

「今から半世紀以上前に、ロシアの宇宙飛行士ガガーリンが、宇宙船ボストークからリアルタイムで地球を見ました。その映像は、厳密に言うと過去の映像になります」

「地球とボストーク間の距離を光が秒速30万kmで進んだ時間分の過去ですな」

「無いに等しい時間だね」

「それはさておき、彼は、地球の海や大陸、雲の様子を見たわけですが、もし、ボストークに超高性能な望遠鏡が搭載されていたら、国や都市の様子までもはっきり見えたと思います」

「宇宙船と地球の距離が比較的短いから、それが可能なんだろう」

「はい。それよりもかなり長い距離であれば、超高性能な望遠鏡でもそれは不可能だと言えるでしょう」

「まず、無理だな」

「ところがです。それを可能にする装置を間宮博士は考え出されたのです。もし、10光年先の所に博士の装置を積んだ宇宙船があれば、10年前の地球の映像が詳細に見れるでしょう」

「ほぉ、過去の地球の映像がリアルタイムで見られる訳だ。少し興味深いことではあるな」

「でも、それは宇宙船から地球を観ることであって、地球から地球ではないだろう」

官僚の一人が口を挟んだ。

「問題はそこです。地球から過去の地球の光を追いかけるのは、今の科学技術では無理です。光速以上のスピードが出せる宇宙船でもできれば別ですが」

「では、どうすると言うのかね」

葉山長官が、少しばかり眉を曇らせて訊ねた。

「実は、驚くべきことが1ヶ月前に分かりました」

「何だね」

「これはまだ公式には発表されていませんが、地球から出た光が、かに座付近から折り返し戻っているというのです」

「野々村博士、それは本当かね」

「ええ。NASAのマーティン博士が、かに座の調査をしていて偶然気付いたそうです」

「確か彼は、2週間前まで客員として日本に滞在されていたよね」

「はい。横浜にある宇宙科学研究所で、そこの研究員といっしょに活動されていました」

「その際での事だね」

「10月14日の日没後に、マーティン博士は、かに座の惑星である55eの近くで微かに見える星を発見しました」

「新星であることを期待された博士は、詳細な調査を試みました。研究所にある天体望遠鏡では正確に捉えられないので、すでに持ち込まれていた間宮博士の装置を実験的に使用してみたのです」

「現在、マーティン博士のグループは、我々のグループと協力体制にあります。そういうことから、情報の公開や新たに開発した装置の使用については、以前からオープンにしていました」

「そうだったな」

「実際、間宮博士の装置はその星をはっきり捉えました。そして、よくよく調べてみると、それが地球だったのです」

「信じられない。光というのは、宇宙空間では真っ直ぐ進むのではないのかね」

「そうとは限りません。何らかの原因で屈折や反射する場合もあります」

「ふーむ」

「宇宙にある空間は、様々です。すべてを飲み込んでしまうようなブラックホールがあるのですから、その真逆のホワイトホールが存在する可能性も、理論上0%ではないようです」

「ですので、鏡のように光を反射する空間があっても、まったく不思議ではありません」

間髪を入れずに、野々村博士が付け加えた。

 

「光を反射する空間ねぇ・・・」

「もしかすると、空間ではなくて、鏡のような物質なのかも知れません」

「巨大な鏡が、宇宙の空間に浮いているというのかね」

「いいえ、それは巨大でなくてもよいのです。手鏡のような小さいものでも反射はしますから」

「確かに。手鏡でも角度を合わせれば、月や金星は映るからなぁ」

「1つ質問があります」

この中では若手になる官僚の一人が手を挙げた。

「何でしょう?」

「昼間ではなく夜に捉えたということは、反射した光が垂直に折り返して来たのではないということでしょうか?」

 

 

「おっしゃる通りです。もし垂直に折り返しているのなら、反射した時と同じ昼間の面に戻らなくてはなりません」

「そう考えると、折り返し点から少し角度をつけて反射しているようです」

「地球以外の星の映像は、確認されているのですか」

「いいえ。地球だけです。おそらくそこは極小のエリアであって、偶然にも地球の光だけを映し出すことができたようです」

「角度がぴったり合ったということだね」

「はい。私たちからすれば、奇跡的な事と言えるでしょう」

「しかし、地球は惑星ですよね。太陽のように自ら光を出す恒星ならいざ知らず、太陽の光が反射した地球の映像は、気の遠くなるような長い距離を進んでいくうちに極小化して、さらに劣化するのではないですか」

もう一人の官僚が、疑惑を抱いた表情で質問した。

「当初、マーティン博士は、捉えた新星が地球だとは思っていませんでした。地球にとてもよく似た惑星があるものだと非常に驚いていたようです」

「ところが、その星を調べれば調べるほど、それが地球であると分かってきました。映像を拡大した結果、地球と断定できる要素がたくさん出てきたのです」

「それほど、その映像がはっきりしていた訳か」

「つまり、その空間は、映像を反射するだけでなく、凸レンズのように増幅もするのではないかと考えられます」

「ふーむ」

   一同は、この後の神谷の話を期待するかのように静まり返った。

 

「神谷君、その映像は、今もマーティン博士の研究所にあるのだね」

「はい」

「その映像が、地球のいつ頃のものなのか分かっているのかね」

「今の段階では、まだはっきりしていませんが、色、大きさ、模様からして、そんなに昔ではないようです」

「これまでの分析によると、おそらく40年ぐらい前ではないかと言われています。そのことから、光の折り返し点は、地球から20光年ほど離れた所になります」

「その映像をさらに拡大すれば、詳細が分かるかも知れないな」

「それはできません」

「何故かね」

「遠くにあって小さく見える物体でも、その実際の光の中には様々な映像が凝縮されています。それを拡大すれば、細かい所まではっきりしてきます」

「ところが、記録した映像を拡大しても、その詳細を見ることはできません。見たままの映像が、荒くなってしまうだけです」

「だから、実際の光を捉えて拡大するしかない訳か」

「そうです」

「その光の道筋は、現在も地球に向いているのかね」

「残念ながら、今は届いてはいません。マーティン博士たちは、その日の日没から映像を40分間程捉えたのですが、その後はいくら試みてもできなかったようです」

「それなら、再び捉えるのは無理なのでは・・」

「そうとも言えません。マーティン博士が捉えた映像は、恒星や惑星、さらには衛星、彗星、塵など数多くの障害物をクリアしてきた光になります。そのような光を捉えるタイミングとして、地球の位置が問題となります」

「地球の位置・・」

「ご存じのように、地球は自転をしながら公転もしています。一年周期で太陽の周りを移動しているのでして、常に一定の位置にあるのではないのです」

 

 

「なるほど、時間がたつにつれて、光の道筋から地球が離れてしまうということか」

「はい。ですので、再び捉えるためには、マーティン博士が調査した日から1年後の同じ日の同じ時間でなければならない訳です」

「今から、11ヶ月後だね」

「はい」

「当然、その映像は、マーティン博士が捉えた地球の1年後の映像になるな」

「そうなります」

「その映像が、西暦何年の何月何日の地球になるのか、特定できないものかね」

「これから保存している映像をスーパーコンピューターで分析して、具体的な日にちを割り出していきます」

「それが分かれば、1年後の映像の日にちも明らかになるな」

「はい」

「しかし、仮に捉えられたとしても、それが日本の映像になるとは限らないのでは?」

「はい。地球が自転する24時間の中の映像ですので、日本国以外になる場合も考えられます。また、陸ではなくて海になることもあり得ます」

「外国や海だけならなぁ・・」

「あまり意味がないな」

「実際、マーティン博士の映像も、時間の経過によって模様が変わっています」

「やはりな・・」

「できれば日本の映像をキャッチしたいものですが、それが可能になるかどうかは分析次第です」

「それによって、どの国の、どのエリアになるのかも分かる訳だ」

「おそらく分かると思います。ただ、その日の調査は、マーティン博士の時のように簡単にはいきません」

「どういうことかね」

「太陽系の中だけで考えると、公転している地球は、1年後には1年前と同じ位置に戻ります」

「そうだな」

「しかしながら、宇宙は膨張しています。宇宙全体から考えると、地球は同じ位置に戻った訳ではないのです」

「ふーむ」

「ところが、光は宇宙の膨張に関係なく進んで来ます。ですので、光の道筋が少し地球から離れてしまうことになるのです」

「それでは、調査ができないではないか」

「ですので、人工衛星を使うのです」

「人工衛星?」

「はい。野々村博士の装置を搭載した人工衛星を光の道筋に待機させるのです。そうすれば、確実に映像を捉えることができると思います」

「さらに静止衛星を移動できるようにすれば、マーティン博士の時よりも数倍長く捉えることができるはずです」

「その映像を電波に変えて、人工衛星から地球へ送る訳か・・」

「そうです」

 

 

「人工衛星に装置を搭載か・・。かなりの費用がかかってしまうぞ」

「厄介だな」

   一同は、また静まり返った。

「質問をしても良いでしょうか」

中堅の官僚である河野が、ゆっくりと手を挙げた。

「何でしょう?」

「もしそれが可能だとしても、過去の地球を捉えることに何か意義があるのでしょうか。昔のことを知りたければ、古い新聞や記録を見れば済むことではないですか」

「確かにそうだな」

他の官僚たちが、一斉に視線を神谷に向けた。それでも神谷は動揺することなく、整然と続けた。

「実は、過去の地球の事と申しましても、私たちが知りたいのは普通の事ではありません。特別な事になります」

「神谷君、それは、どのような事なのかね」

「地球上においては、これまでに数えきれないくらいの事象や事件がありました。不思議な事件もたくさん起こっていて、解決できたものがあれば、未だに解決していないものもあります」

「たとえば、冤罪ではないかと噂された事件です。犯人とされた人の中には、服役してからも死ぬまで無実を訴えた人もいます。心情的に『本当はどうだったのか』という疑惑が起こります」

「もし冤罪を証明するならば、絶対的な証拠が必要です。そのためには、実際の映像を見るしかないのです」

「その映像を捉えて真実を知る訳か・・」

「そうなれば、その日に起こった冤罪事件の真相が分かるに違いない」

官僚の一人が隣の同僚にこう呟いた。

「冤罪の可能性がある事件の調査は、それなりに意義があることと思うが、すでに判決が出た事件を今更蒸し返すのはどうなんだろう」

「責任問題が生じて、かえって騒ぎが大きくなるのでは」

   そのやりとりを耳にした神谷は、力強く答えた。

「たとえそうだとしても、私たちは、真実を知りたいのです。もし冤罪であれば、それに至った原因は何だったのかが分かると思います。思い込みによる誤認を反省することは、これからの捜査に生かせると思うのですが」

「つまり、冤罪事件をなくすためですな」

「はい」

 

「まあ、雲を掴むような提案だとは思うのだが、率直なご意見を皆さんにはお願いしたい」

   葉山長官は、どう判断すれば良いのか決め兼ねた。みんなに賛否を求めたが、一同は益々考え込んでしまった。

   それを見かねた神谷が、声の調子を少し上げてこう述べた。

「さらに、冤罪だけではありません。たとえば、拉致事件のような未解決事件も対象になります」

「拉致事件・・」

「おおそうだ。拉致事件があった」

一同が再びざわめき始めた。

「我が国では、1970年代から1980年代にかけて、かなりの数の行方不明者が出ています。この中には、某国から来た工作員によって拉致されたとする人もいると言われています」

「某国は、最近になってその一部を認めてはいますが、すべての事を明らかにした訳ではありません。日本の要求に応じないことから、拉致問題が全面的な解決には至っていないのです」

「つまり、その瞬間の映像をキャッチして、動かぬ証拠を某国に見せつけてやるということだね」

「はい」

「言うまでもありませんが、この事件の解明については、我が国における重要課題となっています。拉致被害者の御家族のみならず、国民のすべてが早急に解決して欲しいと願う問題なのです」

「長官、もしその日に国内で拉致事件などの未解決事件が起こっていれば、真相が分かる可能性があります。そうなれば、国内はもとより世界中が注目します。費用はかかりますが、やってみる価値はあると思われますが」

「そうだな」

「もし、拉致の現場が捉えられれば、もの凄いことになるなぁ」

「それを見せられた某国は、どのように反論するのだろうか」

「グーの音もでないだろう」

「いや、某国のことだ。そんな映像は日本側の作った偽装工作というのではないか」

「それなら、全世界に配信すれば良い。それでも否定するなら、さらに諸国から非難されるだろうし、制裁も受けるだろうな」

「拗れると戦争になるかも」

「いや、そこまではいかないだろう」

「まあ、いずれにしても、真実が分かる訳だ」

   会議室の雰囲気が、神谷に同調し始めた。

 

「大体のことは分かった。もう一度聞くが、本当にそれが可能になるのかね」

「もちろん、100%可能であるとは断言できません。どのような映像にしろ、それを捉えるには次の条件が必要になります」

「どのようなことかね」

   プレゼンの画面を切り替えながら、神谷は続けた。

「今回対象になる映像は、当然、太陽の光を反射した地球の映像になりますが、地上の様子が分かるためには、その日が雨や曇りの天気でないことです。雲が障害物になるので、雲一つない快晴の日に限定されます」

「なるほど」

「それに、室外であることです。快晴であっても、室内で起こったことは捉えようがありません」

「・・・」

「また、室外であっても、森林などのように障害物が密集していれば、キャッチすることはできません。当然、海中や湖中も無理です」

「うーん」

「さらに、・・」

「まだ、何かあるのかね」

「捉えられる映像は、昼間のものに限定されます。折り返してくる光が、地球に反射した太陽の光であるので必ずそうなります」

「確かに夜は、光が当たっていない裏側だから捉えることはできないな」

「100%の確率でない上に昼間限定か・・・」

「それに、もし捉えられたとしても、その日に何の事件も起こっていなければ、ただの風景になってしまうのだからなぁ」

   一同はこの後、何を発言すればよいのか分からず、暫く黙り込んでしまった。重い静寂の中で、時間だけがいたずらに過ぎていく。

   そのことにしびれを切らした葉山長官は、長い沈黙を破るかのように切り出した。

「今回の野々村博士の提案は、私自身、非常に意義のあるものだと思う。確かにリスクはある。しかしながら、そのリスクを背負ってまでも、試してみる価値はあるのではないか」

   その言葉にみんなは顔を上げて、長官の方に視線を向けた。

「長官の言われる通りだと思います。リスクを恐れては何事もできません。我々は今、過去の事実を知る術を掴もうとしているのです」

野々村博士も追従した。

「うーん」

「確かにそうではあるが・・」

「私たちは、これからデータを手に入れて、ピンポイントで正確な日にちを特定したいと思っています。もし、それが分かれば、長官にご連絡します」

「是非そうしてくれ。では、ここは一旦保留にしておいて、再度検討することにしよう。野々村君、分かり次第、一刻も早く連絡してくれたまえ」

「心得ました」