・ 悪行の数々
絶対に許せないという悪人が、過去にも現在にもたくさんいる。「よくまあ平気で、そんなことができるものだ」とあきれるくらいの悪行をしている。
中には、「本当に人としての心があるのか」と憤りさえ覚える鬼畜もいる。そのような輩の悪行の数々を挙げていくことにする。
・ 死の商人
殺人犯やテロリストは、悪人である。人命を奪う恐ろしい極悪人といえるが、その行為にいたるには、何某かの理由がある。
がまんできないくらい侮辱されたとか、自国の利益しか考えない大国に対する抵抗であるとか様々な理由が考えられる。
しかし、そんな理由もなく、「自分さえよければ他人はどうなろうと知ったことではない」という人非人がいる。その人非人とは、死の商人である。
戦争を奨励して、戦争をする国にその武器を売りつける。それで莫大な利益を得て、自分たちは安全な所で贅沢三昧をして暮らしているのである。
日本にも、朝鮮動乱によって莫大な利益を得た財閥があるらしいが、太平洋戦争時の教訓が生かされることなく、同じ過ちを繰り返しているのである。
このような極悪人は、戦争によって何人死のうが、建物がどれくらい破壊されようが一向にお構いなしである。派手にドンパチして双方のミサイルがなくなり、また買ってくれるのを望んでいるだけである。
こういう奴らは一度、銃弾が飛び交う最前線に送って、死の恐怖と悲惨さを嫌と言うほど味合わせてやりたいと思うのであるが。
・ 兵器輸出国
国全体が死の商人である場合もある。これから戦争を始める国に兵器を売りつける国である。平和を唱える国でありながら、一方では戦争を煽るようなことをする。
軍事産業によって自国が富むのを期待しているのであるが、日本も過去に他国の戦争につけ込むような商売をしている。
当時、経済的な危機に直面していたとはいえ、それを「人がたくさん死ぬ戦で乗り越える」というのは頂けない。
いかなる場合でも、戦争を奨励する国ではなくて、間に入って戦争を阻止する国であって欲しいと願うのである。
・ 戦争
殺伐とした砂漠の中、小学生ぐらいの子どもが銃を持って立っている。大人の兵士に混じって、虚ろな目をして遠くを眺めている。そんな映像を見ると、何ともやりきれない思いがする。
居並ぶ兵士の中にも、心の中では「戦争はしたくない」と願う者がいるに違いない。人の命を奪うことに平気でいられる人ばかりではないはずである。
しかし、戦場では、そんな気持ちもふっとんでしまう。たとえ敬虔なキリスト教徒や仏教徒であっても、一旦戦場に出向けば、敵兵に銃を向ける。「殺さなければ、自分が殺される」そういう状況によって、何のためらいもなく敵兵を殺していくのである。
慣れてしまうと、人を殺すという罪悪感が消えていく。中には、殺すことに快感すら覚える者もいる。正常な精神が完全に麻痺しているのである。そういう人間を作り出すのが戦争なのである。
日本も、大きな戦争を経験した国である。銃や大砲、爆弾によってたくさんの人が死に、たくさんの物が破壊された。
私自身は、戦争を経験していない世代ではあるが、戦争の悲惨さを訴える資料を目にすると、「戦争は、絶対にしてはならない悪行である」と痛感する。
たくさんの老若男女を一瞬で遺体にする戦争。自然物や建造物、文化遺産を根こそぎ灰にしてしまう戦争。常に死の恐怖で心が休まらない戦争。たとえ命が無事であっても空しさだけが残る戦争。
その惨状を見て、日本はもちろん、世界中の人々が反戦を訴えるのであるが、それでも無くならない。何故なのか。
・ 戦争の原因
戦争が起こる原因は、様々である。利権が絡む侵略行為、民族性の違い、人種の違い、宗教の違い、主義主張の違いなどであるが、それが複雑に絡む場合もある。
・ 侵略
侵略戦争は、過去にたくさんあった。もちろん仕掛けた国に非があるのは言うまでもない。
しかし、それを受けて立った国はどうなのか。つまり、応戦しなければたくさんの血が流れなかったのではないかという疑問である。
侵略の目的は、国益の為に領土や資源、労働力を手に入れることである。植民化した国の民族性を否定し、文化を壊していく。さらに、自国の言語や文化を強要する。
強要された人たちにとっては、それは屈辱であり、許すことができない。自国のアイデンティティを守るために、結果、自分や家族が死ぬことになっても抵抗する。我慢して相手の言いなりに生きるより、死の覚悟を持って戦う道を選んだ訳である。
第三者的な国から見れば、「無益な戦争などしなくてもいいのに」であるが、当事者にとっては、その戦いが「正義のための戦い」になるのである。
・ 民族性
自分の民族を貶されて平静でいられる人はいない。自分も貶されることになるのであり、場合によっては貶した人に対して激しい悪意を持つこともある。
民族間の争いは、自らの民族の優越性を主張し、他民族を貶すことから始まる。発端は一対一であっても周りを巻き込み、さらには国全体までに拡大していくのである。
地域が隣接すればするほど頻繁に起こりやすく、どちらの民族も「先に仕掛けたのは向こう側である」と主張する。
・ 宗教
宗教の違いが原因になる戦争は、今尚起こっている。過去を振り返ってみて、戦争に関わらなかった宗教は皆無と言ってよい。
キリスト教に関しては、聖地回復のために十字軍による異教徒への弾圧があった。
また、教会主導のもとで「魔女狩り」と呼ばれた徒党による虐殺行為もあった。根拠もなく「魔女である」と密告された者が、火あぶりの刑になったのである。
その犠牲者の中には、誰かに陥れられた人もいたようである。これなどは、宗教を利用した卑劣な悪行と断言できる。
さらには、新旧の教会の対立による争いもあった。「カトリックとプロテスタントのどちらが正教であるのか」という判断は容易にはできないが、分が悪いのは、権威主義と非難されている側であるように思う。
イスラム教は、戒律を重んじる宗教である。それを破ると我々が想像する以上の重い罰が科せられる。また、その神に仇なす者には、厳しい沙汰が下る。
紀元前に書かれたハムラビ法典の中に、「目には目」「毒には毒を」という言葉がある。「罪を犯した者には、それ相当の罰を与えなければならない」という意味であるが、イスラム教においてもそれが反映されているようである。
たとえ犯した行為に理由があっても、情状酌量は許されない。もしイスラムに敵対すれば徹底した報復が行なわれるのであり、一部の過激派に至っては、テロも平然と行う。
イスラム圏内の紛争もある。同じイスラムの教義を持ちながら、利害のために反目するのである。傍からすると内輪揉めに見えるが、時には血を血で洗うこともある。
そのような緊迫した事態であっても、片方が新たに異教国と対立した場合には、もう一方に、「アラーの名のもとに団結しよう」と、矛先を異教国に向けるよう呼びかけるときもある。
釈迦が開祖である仏教界においても同様である。元は同じ宗派であるのに主導権争いのため分裂してしまい、今では異なる宗派となって存在する団体がほとんどである。
また、同じ宗派内でも、誰をトップにするかで意見が分かれて対立し、双方が暴挙にでるような激化した事件もあった。
その事件では、死傷者まで出て軍隊が出動する騒ぎになったが、「慈悲」を説いて人命を重んじる宗教団体が、それとは逆の行いをした訳である。
これら宗教に関わる争いの直接の原因は、宗教家同士の反目である。互いに他を邪教と非難して、啀み合った挙げ句の果てに、流血の争いに至るのである。
醜い骨肉の争いの末に、誰かが主導権を握り、神のように崇められる。そのトップが、博愛や慈悲を第一としているのならよいが、私利私欲の固まりのような者では頂けない。
権力を傘にして、何事も鶴の一声で決める。収賄や汚職といった教義に反する事を平然とし、政治に大きな影響を及ぼす。庶民に無理難題を躊躇なく押しつけるのは必然である。
元来、宗教というのは、人類の博愛や慈悲を信条とするものである。困窮する庶民に手を差し伸べたり導いたりすべきものなのである。
これでは、宗教を利用して庶民を苦しめているとしか言いようがない。宗教が政治的な権力を持とうとすると、ろくなことがないようである。
・ 主義主張
朝鮮戦争、ベトナム戦争の記憶はまだ新しい。それぞれ、一つの国が異なる主義主張のために二つに分かれて戦ったのであるが、元々同じ母国であった人間を敵として殺すというのは、どのような気持ちであったのだろう。
親類縁者が敵味方に分かれ、兵士の中には、やりきれない思いで戦場に行った者も多かったはずである。
ベトナムは終戦後、一つの国に戻ったが、朝鮮は、未だに南北に分かれている。国境の三十八度線では兵士が銃を持って監視していて、一触即発の状態なのである。
資本主義と共産主義、自由主義と共同体主義。人類にとって、どちらの方が理想的な体制といえるのか。かなり難しいテーマであり、簡単には決められない。
明らかなのは、双方に長所と短所があるということである。資本主義国の自由競争による弊害、共産主義国の表現の自由への弾圧など、それぞれに大きな問題が山積する。
国の成り立ちには、その国の歴史的な経過と社会的な背景がある。資本主義国も共産主義国も、そこに至るまでに何らかの理由があったのであり、今の状態を安易に否定できるものではない。
たとえば、某大国である。その成り立ちは波乱に満ちていて、共産主義国にならざるを得なかった事情も少しは理解できる。
大国であるが故に頻繁に起こる内乱、それに付け込む他国の侵略行為など、それらを止めるためには国を強固に統一しなければならず、それを可能にする体制が共産主義だった訳である。
反対勢力を容赦なく粛清し、他国から「まるで独裁国家である」と批判されてもその確立を目指した。
当時は、搾取で成り立つ資本家本位の社会体制ではなく、労働者の目線に立った社会体制を選んだことは、それなりに意義があったのかも知れない。
しかしながら、人の「真の幸福」を考えたとき、その体制が本当にそれをもたらすのかどうかは疑問である。
完璧でないとはいえ、人の本能に則しているのは、資本主義体制の方だと思うのであるが如何なものか。
・ 戦争の火種
戦争というのは、その火種がある以上はなくならない。たとえ火種がなくなっても、新たな火種ができて、新たな戦争が始まることになる。
そう考えると、戦争は永遠になくならないことになってしまう。残念なことではあるが、過去を振り返るとそう言わざるを得ない。
しかし、たとえそうであっても、なんとかして火種を消したい。消せないまでも極力小さくしたい。新たな火種ができたとしても、それ以上大きくならないようにしたい。
人が人を殺し合う戦争など認めないのであり、誰もが平和で安全に暮らせることを願っているのは言うまでもない。
ところが、そういう思いを持っていても、今、どこかで起こっている戦争をすぐに止めることはできないのである。
自分を含めたほとんどの人が、戦争のニュースを目にしても、「気の毒には思うが、他国の争いなので自分とは関わりないこと」という意識しか持たない。結局、他人事なのである。
いや、たとえ反戦の活動をしても、実際にはどうすることもできず、空しさだけが残ってしまうのが落ちである。情けないが、事実である
・ 独裁者
歴史的に見て、独裁者はたくさんいる。
古代ローマのカエサル、ローマ皇帝ネロ、ローマ皇帝ガイウス、フランスのナポレオン、ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニ、旧ソ連のスターリン、カンボジアのポル・ポト、ルーマニアのチャウシェスク、ウガンダのアミン、フィリピンのマルコス、イラクのフセインなどが周知である。
上記の中には、悪名を世界中に知らしめた者もいる。何故、そうなったのか。それは、その独裁ぶりに原因がある。
政治においての絶対的な権限はもちろん、自分の気に入らぬ者や考えに反対する者に対する弾圧を徹底的に遂行する。そのやり方が、極めて非人道的だったのである。
ヒットラーのユダヤ人大虐殺は、その最たる例と言える。反ユダヤ主義によって、ユダヤ民族の壊滅を企み実行に及んだ。人道主義を唱える人々は、その残虐な行為と共にその独裁者の名を決して忘れないようにと敢えて口に出すのである。
独裁者であっても、自分の考えを押し通すことで大衆が幸せになれるという確信があるならまだ許せる。私利私欲ではなくて、本当に国家や国民の為に尽力する独裁者であればその者を認めても良い。
他民族を犠牲にしたり、他国を攻撃したりすることなく、その国全体が実際に良い方向に進んでいるのなら、誰もがその独裁を認めるであろう。
しかし、そのような独裁者は、ほとんどいない。最初は、国家や国民の為だったのかも知れない。次第にその思いが薄れて行き、最後は自分の欲望や地位の確保のために暴政に陥ってしまうのが常である。
独裁者は、大衆に自分をカリスマとして崇めることを強要する。そして、崇拝する者には温情を与え、刃向かう者には、容赦なく地獄行きの沙汰を下すのである。
ルーマニアのチャウシェスクは、反対勢力には武力で抑圧した。貧困で苦しむ国民を尻目に、自分は巨大な宮殿を建ててそこに住み、贅沢三昧の暮らしをしたのである。
その独裁に反抗したクーデターによって即時に処刑を受け、生涯を閉じる。国民の生活を改善しないで私利私欲に走る大統領など誰も望まないのであり、当然の報いである。
毛沢東の文化大革命においても、そのような独裁がみられた。名目は、それまでの封建的文化や資本主義文化の批判とその一掃であるが、実際は、中国共産党指導部内の暴力的行為を伴った権力闘争であったと言われている。
敵対する勢力を失脚させて、自らが主導権を握るための画策であり、幾人もの政治家や学者が糾弾され犠牲者となった。その数は数千万人に及ぶようである。
朝鮮民主主義人民共和国の体制は、独裁政治ではなく専制政治という。次の指導者が世襲によって決まるという、まるで皇帝や大名のような引き継ぎ方である。
現在の最高指導者である金正恩が、どのような人物なのかはまだ分からない。国民にとって良い指導者であるかどうかはかなり疑わしいが、仮にそうだとしても次の後継者もそうであるとは限らない。
世襲制にするのは権力闘争を避けるためなのかも知れないが、無能で国を滅ぼすような後継者になる可能性もあり、リスクが高いと思われる。
指導者になれる資格のある者なら誰がなっても良いのに、一族に限る。世襲に拘るその中に、「一族の名誉」と「独裁」という文字が見え隠れしてならない。
トルコ共和国のアタテュルクは、 後世でも称えられる大統領であったと聞く。肯定的に評価されている唯一の独裁者である。
実際にどのような人物であったか知らないが、常に国民を思い、国民の為の政治を心がけていた人物に違いない。最後まで自分の思いを貫いた偉人といえる大統領である。
このような人の存在は、極めて希である。上に立つ者の中には、取り巻きによって人格が変わってしまう者も多い。最初は国民の為の政治をしていても、最後は暴走してしまうという皇帝ネロのような独裁者もいる。
独裁者も人間である。どんなに意志が強靱な者でも、周りの甘い誘惑や裏切りによって精神が破綻してしまうことだってある。
結局、独裁というのは、その者の意向によってすべてが決められ、支配されることになる。最後は独裁者の都合の良いものだけが望まれて、その他は排除されるのである。結果、多くの犠牲者が出てしまうのである。
意向が不合理であっても、誰もその暴虐を止めることができないのであり、まさに恐怖政治と言える。
・ 非人道的行為
漢の呂后、唐の則天武后、清の西太后の三人は、中国の三大悪女と言われている。
彼女たちは、皇帝の后となる為に、策略によって自分のライバル達を蹴落としたことで有名である。そのライバルの中には、両手、両足を切断され壺づけになった者もいるらしい。見せしめのために、惨たらしい姿のまま生かされたのである。
罪を犯した者が、磔のような刑罰を受けるというならまだ分かる。刑法に従って刑罰が執行されたのであり、合法的である。そうではなく、自分の宿敵を策略によって倒した上、無残な姿にしてそれを見て喜ぶというのは、どうもいただけない。
何故そこまで冷血になる必要があるのか。何故そこまで残虐になるのか。自分に敵対すればこのような姿になるという周りの者への脅しだけでは、こんな残虐なことはできない。
生まれ持った性質からか。幾度もくぐった修羅場からできた性格からか。長年の積もり積もった恨みや嫉妬からか。
いずれにしても尋常でないその仕打ちは、非人道的行為と非難されても仕方がない。
世の中に自分の敵となる者は、十人いると言われる。たとえその敵と争うことになっても、ルールに則した争いであるべきである。
勝負では、勝つこともあれば負けることもある。もし勝っても、完全に負けた相手に追い打ちをかけることはしたくないものである。いかなる場合でも、人の道から外れた行動は避けたいものである。
・ 人身売買
十七世紀後半頃、アメリカ合衆国では、アフリカから連れて来られた黒人が奴隷として売買された。
奴隷達は人としての扱いを受けず、過酷な労働をさせられる。厳しい差別や酷い仕打ちを受けることになるのである。
日本でも、寒村の娘たちが身売り同然で遊郭で働かされた事実がある。娘たちは、不本意ながらも家のためにそれを承諾したのであるが、生涯、凄惨な日々を過ごした者もいると思われる。
「このような人身売買は、非人道的である」という声が次第に上がり、世界的に非難され、法律で禁止されることになる。
しかし、実際は未だに人身売買が行われている。特にターゲットになっているのは、子どもである。その方法は、売り手(親)と買い手の双方の合意によるものもあれば、仲介者が誘拐によって手に入れたものを買い手に売りつけるものもある。
親が知らぬ間に自分を売ったと知った子どもは、どれだけのショックを受けるのだろう。自分を守ってくれるはずの肉親が、自分を見捨てたのである。すべての人間に対し、計り知れない不信感を持ったに違いない。
人は、売ったり買ったりできるものではない。それは、人間の尊厳を踏みにじる行為である。
しかし、今でもそのような売買が行われているのは事実である。買われた人は、商品として扱われ、所有者の意のままに従わなければならないのである。それは、まさに人権の侵害といえる。
・ 臓器売買
正規に臓器移植をしてもらうためには、ドナー登録をしている人の死を待たなければならない。
順番待ちの人は多く、いつ提供されるのかはほとんど分からない。早くしないと手遅れになる場合もある。それに目を付けたのが臓器売買である。
ブローカーの中には、誘拐だけでなく、「裕福な家庭に里子として預けてあげる」と親を巧みに騙して子どもを手に入れる輩もいる。目的は、子どもの臓器であり、それを高額で売ることである。
臓器を取られた子どもたちは、ほとんど殺されていると聞く。当然、臓器を買う方にはそんなことは知らされていない。
大金を得るために、幼気な子どもの命を平気で奪うという極悪人。一握りの倫理観も持たず、人間性の欠片もないのであり、絶対に許せない行為である。
非常に残念なことであるが、このような闇取引が存在しているのは事実である。これ以上犠牲者を出さないように、なんとか対策を考えて欲しいものである。
・ 猟奇殺人
連続殺人事件は、過去に何度かあった。犯人が捕まらず、未解決のままの事件もある。その犯行の中には、動機がまったく不明なものもある。
動機がない殺人事件。一体、何のための殺人なのか。それはただ単に、「快楽」を求めるためである。人を殺すことで快楽が得られるという普通では考えられない理由なのである。
なぜ、殺人によって快楽が得られるのか。思うにそれは、獣を狩る猟と同じような感覚ではないだろうか。
本来、猟というのは糧を得るための行為ではあるが、食料にする以外に、ゲームとしても昔からよく行われている。猟の大会では、射止めた獲物の数を競うこともあった。
しかし、その対象となるのは兎や鹿などであって、決して人間ではない。間違っても人間を標的にすることはない。
ところが、それを平然と犯す殺人鬼がいて、奴らは捕まるまでそれを続ける。そして、その度に犠牲者が増えていくのである。
こんな極悪人は、捕まえたらすぐに極刑にすべきである。処罰から逃げるための「精神異常」という言い訳など認めてはならない。釈放すれば、また巧妙な手口で人を毒牙にかけるに違いないからである。
・ 無差別殺人
逮捕された犯人は、こう語る。
「殺す相手は、誰でもよかった。」
「以前からの鬱積が犯行の動機だ」
こんな言葉を聞いた被害者の家族は、悔やんでも悔やみきれないに違いない。殺された本人も、たまたま居合わせたためにこんなことになるとは、夢にも思わなかっただろう。
アメリカではコロンバイン高校銃乱射事件、日本では秋葉原通り魔事件がよく知られているが、特に幼気な小学生を執拗に追いかけ回して殺傷した池田小学校での事件は、非常に痛ましい思いがする。
自分の置かれた劣悪な環境、親からの抑圧、クラスメートのいじめ、孤立などで世を恨み自爆自棄になるのは分からないではないが、何の関係もない、何の落ち度もない、何の罪もない者を犠牲にするのは非常に憤りを感じる。
自分の鬱積した気持ちの解消のために、関係のない人々に矛先を向けるべきではない。自分の境遇をアピールするために、誰かを犠牲にすべきではない。そんなことは言うまでもないが、それが分からずに大罪を犯してしまう。
それはまるで、駄々をこねてわめき散らす幼い子どものようである。自分の思う通りにならないと、周りの迷惑も考えずに感情のままに悪態をつく悪童のようである。
そんな輩には誰も同情しないのであり、それどころか暴露した稚拙さに対し嫌悪さえも起こる。
同じ犠牲にするのなら、世の中に良からぬ災いをもたらす者や偽善者を対象にすればまだ納得もできた。
そうしないで弱い者を狙ったのは、反対に自分がやられるのを恐れたからである。典型的な自己中心型の人間といえる。
こんな奴らは、また出現する。運が悪ければ、自分自身や家族が犠牲者になる可能性だってあり、油断がならないのである。
用心することなく安心して暮らせる世の中になるのは、まったくいつのことになるのやら。
・ 保険金殺人
保険金目当てに家族を殺すという事件が世界中で起きている。
日本でも、母親が実の娘を保険金目当てに毒殺しようとした事件があった。元看護婦の母親は、病院で娘を看病するふりをして食事に毒を盛っていた。それに娘が気づき、犯罪が発覚したのである。
母親の犯行の動機はこうだった。その当時、母親には愛人がいた。その愛人が自分から離れないようにするためには金が必要であった。それで娘を殺して保険金を手に入れようとしたのである。
自分の欲望のために実の娘を殺そうとするとは、なんという母親であろうか。娘は、一番信頼すべき母親に殺されると分かったとき、どのような気持ちになったのであろうか。
この事件は未遂で終わったが、親が保険金を得るために実の子を計画的に殺した事件は、過去に幾度もあった。すべて、自分の欲望のためである。なんと嘆かわしいことか。世も末である。
・ 独善
自分だけが絶対に正しい思う人ほど厄介である。
今から四十年程前に、浅間山荘事件というのがあった。連合赤軍と言われる極左翼の活動家たちが起こした衝撃的な事件である。
指名手配になっていたグループの数人が、人質を捕って山荘に立て籠る。彼らとその居場所を知った機動隊との攻防がリアルタイムに放送され、国民がテレビの前に釘付になった。
犯人たちの逮捕後、事件の全容が明らかになる。グループに内ゲバがあって、その中には、目も背けたくなるような陰湿で悲惨な殺人が含まれていた。
犯行にはリーダー格の男女二人が関わっていたが、特に女の方が指図をしたと言われている。その女が殺人を指図した理由は、考えられないようなことであった。
思想に違いが生じたからではない。単に、「自分の意に添わない」「世俗的である」「目立つ」「自分より容姿が良い」ということに対する悪意や嫉妬からである。そんな理由で、自分の気に入らない者を「総括」という名の下に暴行したり、殺したりという私刑を繰り返したのである。
リーダー達は、自分の示す方向や方法が絶対であり、それ以外は認めないということを強固に主張した。そして、そのような独善が、自分の気に入らない者は即処刑するといった独裁者のような暴走を引き起こすことになったのである。
殺された者の中には身重の妊婦もいたが、彼女を殺害した後で、嬰児を引き出して放置するという残虐な行為にまで及んでいだ。
指図されて殺害に加わった者やそれを見ていた者は、「総括」に対して内心は肯定的でなかったようである。しかし、逆らえば自分も同様になる恐れがあり、その絶対的な命令に従うしかなかった訳である。
元は、「世直し」という同じ考えを持つ集団であったはずである。中には、「世界に革命を起こす」という純粋な志を持って挑んだ若者もいたに違いない。
そんな思いを持つ集団の指導者たる立場の者が、私怨によって仲間を殺すという「理想の実現」とは全くかけ離れた惨劇を起こしてしまったのである。
その後、彼らはその惨劇を「革命を遂行するための試練だ」と弁明する。反省はまったくないのである。数年後、一人は獄中で自殺し、もう一人は、延命の為か自己批判をしだす。
結局このような事件が起きたため、世間から「革命と叫ぶ輩の真意は、単なる自己満足の為のパフォーマンスである」と言われてしまうことになる。独善が悲劇を作った悪い事例である。
・ 洗脳
一九九五年、東京の地下鉄で毒ガスが発生し、たくさんの利用客が犠牲になった。
原因を調査した結果、毒ガスはサリンという化学兵器であることが判明する。この事件は、戦後で最大級の無差別テロ行為となり、全世界に衝撃を与えた。
警察は、すでに犯人の目星をつけていて、ある宗教団体の強制捜査を実施する。結果、事件との関与が明白になり、毒ガスを仕掛けた幹部たちを逮捕する。
警察の取り調べの中で、毒ガスを製造した者や事件当日の実行犯が判明する。さらに、以前に起こった弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、公証人役場事務長拉致監禁致死事件などが、彼らの手によって行われていたことも明らかになっていく。
「弁護士一家殺害事件」
一九八九年に、ある宗教団体の問題に取り組んでいた弁護士とその家族が忽然と失踪した事件である。
当時、弁護士は、ある女性から相談を受けていた。その相談とは、彼女の息子が出家信者であり、教団から脱会させたいということであった。
それをきっかにして、彼は、一九八九年の五月から教団の反社会性を追及し批判するのである。
教団の教祖は、弁護士の活動が翌年の総選挙の出馬や今後の教団の発展の障害となると考え、信徒に彼の殺害を命じる。その命によって、弁護士一家は自宅で殺害され、それぞれ山中や林道に埋められる。
「松本サリン事件」
一般市民に対して、初めて化学兵器が使用されたテロ事件である。
一九九四年、長野県松本市の住宅街において、何者かが猛毒のサリンを散布する。その結果、死者八人・重軽傷者六百六十人を出すこととなる。
当時、松本市に右記の教団の支部があったが、その立ち退きを周辺住民が求めていた。裁判が行われ教団側の敗訴が濃厚になるが、教祖は状況を打開するために裁判を担当する判事の殺害を信徒に指示した。
これを受けた信徒が、長野地方裁判所松本支部官舎に隣接する住宅街にサリンを散布したのである。
当初、警察のずさんな捜査やマスコミの報道によって、無実の人が犯人扱いされてしまう。
しかし、その後「教団が真犯人である」という怪文書が出回ったり、目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件の捜査で教団幹部が自供したりしたこともあり、教団の仕業である事が判明する。
「目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件」
一九九五年、教団が、当時目黒公証人役場事務長だった男性職員を拉致・監禁し、死亡させた事件である。
この被害者には妹がいて、教団に入信していた。彼女は教団に数千万円の布施をしていたが、さらに彼女が所有する「目黒公証人役場」の土地・建物を布施するように強要されたため、教団から逃げ出し兄に匿まわれたのである。
教団幹部らは、妹の居所を知るために兄を拉致し、教団施設の中に連れ込む。結局、兄から居所を聞くことはできなかったが、そのまま解放すると教団にとって都合が悪いと判断した教祖の指示により、麻酔薬を過剰投与して死亡させてしまう。
・ 最悪の教団
この教団の前身は、ヨーガの道場であった。ヨーガは原始仏教における悟りを開くための修行の一つであり、そのこともあって道場主は、道場を宗教団体に変えてしまう。
自らが教祖になり、「あらゆる宗教・神秘思想を包含する真理を追求していく」ということを表向きにした。
仏教の教義の主な趣旨は、「悩める衆生の救済」である。それにも関わらずその教祖は、勢力を拡大するために本来の目的に反することも平然と行った。
普及の妨げとなる者は全て抹殺しようとしたのであり、その実行犯は、幹部的な立場にあった信者たちであった。
信者の中には、その手段に疑問を持った者もいたはずである。普及のためとはいえ、罪もない人々を殺して良いものかと。
しかし、彼らにとって教祖は絶対的な存在であり、教祖の言うことはすべて正しいと洗脳されていた。だから、そんな疑念を問うことよりも服従することを選んだのである。
この教団の信者たちをインタビューすると、意外なまでも素直で真面目であるという。普段は温和で良識のある人たちばかりで、高学歴の人も結構いるのである。
解決できない問題に直面したとき、自分を導いてくれる指導者を求めたり、絶対的なものを求めたりする傾向があるのは、優柔不断な人たちよりこういう人たちなのかも知れない。
上からの言葉に何の疑問も持たずに従い、それが偽物であろうと、その結末が最悪になろうと、いったん信じてしまうとどこまでもついて行こうとする。そんな人ほど騙されやすいということなのだろうか。
結局、犯行に関連した幹部たちの自白から、すべては教祖の指示であったことが判明するが、教祖は、「幹部たちが勝手にやった」と弁明する。
このとき、彼らは教祖をどのように思ったのであろうか。今まで信じ切っていた教祖が、責任を自分たちに押しつけたことに対してである。
仮に幹部たちが勝手にやったとしても、その団体の長としての責任は重いものになる。自分の指導の甘さと不徳を反省して、すべての責任をとらなくてはならない。
にもかかわらず、自分ひとりなんとか逃げようとしているのである。こんな奴は、教祖でもなんでもない。ただのペテン師であり、極悪人である。
現在、世界に存在する宗教は、キリスト教系・イスラム教系・仏教系など数え切れないほどある。それぞれの団体において、分裂したり枝分かれしたりして、教義も異なっている。
新旧含めて様々な宗教団体を十把一絡げにはできないが、どの宗教においても果たすべき本来の役割がある。
「宗教とは何か」については先に述べたが、「宗教は、どうあるべきか」を考えると、この教団が行った殺戮は、それとは真逆の行為であることは言うまでもない。
私利私欲のために宗教を利用する。独裁者のような教祖が世界制覇を目論み、果ては、罪のない人々を犠牲にする。言語道断である。
おそらく開祖の釈迦は、このような輩の暴挙を見て嘆いているに違いない。いや、烈火ごとく怒っているかも知れない、
人非人ともいえる極悪非道な輩に騙されぬように、何が本当で何が嘘なのかを判断できる眼を誰もが持たねばならないと真に思う。
・ エセ宗教家
世間を惑わした宗教団体は、上記の教団以外にもたくさんある。
宗教団体は、あの手この手で信者を増やし、その信者から「お布施」などと称して金銭をまきあげる。中には、マルチ商法のような詐欺紛いのことをして信者を増やす教団もある。
教祖は、まず自分がこの世の救世主であるようなことをいう。そして、その証拠としていろいろな超常現象を見せる。
信者のプライベートな事を言い当てる。予言をして、それを的中させる。病人の患部を祈祷するだけで治す。果ては、空中浮遊までして見せる。
もちろん、これらのすべてがトリックである。信者の情報を集めたり、さくらを使ったり、手品同様の仕掛けなどによってそれを可能にしているのである。
信者は、教祖に超能力があると信じ込む。教祖の言うことのすべてを鵜呑みにしてしまう。教祖は言う。
「近い将来、貴方に大きな災いが来る。その災いは、間違いなく癌である。その災いを払うためには、この霊験あらたかな壺を買って家に置くしかない」
言われた信者は、法外な値段にも関わらずその壺を買うことになる。まさに霊感商法である。
エセ宗教家は、このような方法で莫大な利益を得て、さらに組織の拡大を目論むのである。
・ 自己開発セミナー
名ばかりのインチキセミナーも、結構多いようである。
まず、ガイダンスを開き、参加者に実際に成功を収めたという者(さくら)の体験談を聞かせて会を信用させる。
入会を希望した者にはさらに功利心を煽り、様々な名目を作って高額の登録料や参加料を払わせるように洗脳していく。
騙されたことに気がついたときには、かなりの金額を取られている人も多い。被害者の中には、そのショックで二度と立ち上がれないくらい精神的に落ち込む者もいるようである。
当然、その団体や幹部は被害者から訴えられるが、逮捕されても反省することはない。罠にかかった人たちが、この先どうなろうと知ったことではないのであり、失った現金が被害者に全額戻ってくることはまずない。
人の弱みや欲を利用して、金儲けをしようとする輩は後を絶たない。彼らは、これまでの方程式が使えないとなると新手を考えてくる。金儲けになると天才的な考えが浮かぶようである。
悪魔は、我々の油断を狙っている。ちょっとした隙間でも強引に入り込んでくる。
窮地に陥り、「藁にもすがりたい」状況であっても、甘い言葉に誘われて罠にかかってしまうことのないように注意しなければならないのである。
・ 少年犯罪
その犯罪の重大性によって、未成年であるにも関わらず被告に極刑を求める世論が起こった忌まわしい事件がある。
「永山則夫連続射殺事件」
昭和四十三年に、東京、京都、函館、名古屋に渡って起こった未成年者による連続射殺事件である。
アメリカ海軍基地で、何者かにピストルと実弾が盗まれる。そのピストルによって、四人の犠牲者が出る。殺害されたのは、ホテルのガードマン、神社の警備員、タクシー運転手である。
いずれも金銭目的による殺害であるが、死に至るまで執拗に撃つという残忍な事件であった。
その後、犯人の身元が分かり実名で指名手配されるが、犯人は十九歳の未成年であった。
捜査により翌年に逮捕されて、取り調べを受ける。彼は、犯行の動機が社会への復讐であると息巻いた。
当時は、両親の育児放棄、極貧の家庭環境、未就学などから、彼に対する同情の声もあったが、それらが殺人を起こす決定的な原因とは断定できないとされた。
さらに、殺害された被害者の数、殺害方法の執拗性、残虐性、動機などから死刑の判決が出て、二十八年後に執行される。
以後、未成年による殺人事件に関しては、この判例を参考にすることが多くなった。
・ 二つの悲惨な事件
昭和六十三年と六十四年に、二つの悲惨な殺人事件が日本で起こっている。
「名古屋・アベック殺人事件」と「女子高生・ドラム缶詰殺人事件」である。いずれも主犯格が未成年であり、その殺害の手口が非常に残忍であったことが印象に残っている。
「名古屋・アベック殺人事件」
夜中、公園で車中デートの男女が、突然二台の車に前後を挟まれる。車から出てきた男女六人の不良グループに、二人は襲われる。不良グループは、日頃から、恐喝、暴走行為、シンナー吸引などをしている札付きだった。
男性は車から引きずり出され、暴行され金銭を奪われる。女性も暴行され、四人にレイプされる。その後、被害者二人はグループに拉致される。
翌日になって、処置に困ったグループが二人を殺害することを決める。そして、その日の深夜に決行される。
目隠しされた男性が首にロープを巻き付けられ、綱引きのように左右に分かれて絞められる。男性は、命乞いをするが無視され、じわじわと時間をかけて殺される。
その間、男性が殺されたことを知った女性は、海に身を投げて自殺をしようと試みるが捕まってできず、裸にされて男性と同じ方法で殺される。
その時、主犯格のAとBは、「早く殺して。死んで恋人のもとに行きたい」と願う女性の気持ちに反して、時間をかけて鼻歌交じりで綱引きをする。
その後、二人の遺体は、山林に埋められる。
「女子高生・ドラム缶コンクリート詰殺人事件」
夕方、自転車でアルバイトから帰る途中の女子高生が、見知らぬ男Bに蹴られて転倒する。通りがかった別の男Aが「大丈夫ですか。送りましょう」と声をかけるが、途中から態度が急変して「俺はやくざだ。逃げたら殺す」と脅し、グルであるBの家に無理矢理連れ込む。
そこで、仲間二人が加わり、四人で女子高生に乱暴する。輪姦したあと、殴る蹴る、タバコの火を押し付けるなどの暴行を繰り返し監禁する。この間、この家のBの両親は、女子高生に気づいていたが、Bの暴行を恐れて何もしなかった。
主犯格のAらは、女子高生が「家に帰して欲しい」と哀願しても聞き入れず、さらに暴行を繰り返す。時には、女子高生に食事やトイレを満足にさせないこともあった。(小便を飲ませたり、大便やゴキブリを食べさせたりしたこともあったようである)そんなことが一ヶ月以上も続く。
ある日、Aがギャンブルに負けてその腹いせから女子高生を暴行する。憂さ晴らしの暴行は止まらず、ついに女子高生は死亡する。Aらは、盗んできたドラム缶に女子高生の遺体を入れセメントを流し込む。翌日、公園にドラム缶を捨てる。
・ 残忍性
この二つの事件に共通することは、殺人を平気で犯す残忍性である。ゲームでもするかのように楽しんで人の命を奪っている。まったく人の命を何だと思っているのか。
自分が面白ければなんでもいい。人が泣こうが死のうが関係ない。いや、むしろ泣き叫ぶ姿や死ぬ間際の苦しむ様子を見て喜んでいる。残忍極まりなく、「こいつ等には、人の心のかけらもない」と憤りが込み上げるのである。
一体何が原因で、このような残忍性を持つようになったのか。単に、「生まれ持った性質」では済まされないように思う。
全員の身の上を調査すると、似たような家庭環境だったことが分かった。もし、それが原因なら、このように育てた親の責任は重大である。
しかし、親の責任だけではない。彼らのほとんどが未成年とはいえ、分別がつく年令である。普通なら、「これだけはしてはいけない」という抑制の意識があるはずなのにそれがなかった訳であり、彼ら自身の責任も大きいのである。
逮捕後の彼らに、罪の意識はまったくない。反省どころか平然とした態度であったようである。特にアベック殺人事件の主犯であるAは、逮捕されても「少年だから死刑は受けない」とうそぶいている。実際、一審ではAに死刑の判決がでたものの、その後、少年であることによって無期懲役になってしまう。
この結果、被害者やその家族だけが苦しみ、罰せられるべき加害者が保護されるというなんとも理不尽なことになってしまった。また、被害者の遺族に対する加害者達からの謝罪と賠償は、ほとんど無いという。
現在、彼等の一部は既に仮出所して社会に復帰している。また同じような犯罪を起こさないことを願うばかりである。
・ 止まらない少年犯罪
上記の事件と同様の少年による残虐な殺人事件が、さらに二つある。
「市川一家四人殺人事件」
平成四年、千葉県で当時十九歳の少年に一家四人が殺害される。
事件前、少年は、フィリピン人のホステスと性的関係を持ったことで、暴力団関係者から二百万円を要求されていた。工面に困った少年は、その数日前に交通事故を装って強姦した女子高校生の家に強盗目的で押し入る。
最初に、女子高校生の祖母から金銭を奪い絞殺する。その後、帰宅した女子高校生を監禁する。さらに帰宅した母親を包丁で刺殺する。再び女子高校生を強姦するが、その最中に帰宅した父親も同様に殺害し、預金通帳を奪う。
翌日の朝に、女子高校生の妹四歳を同じく包丁で刺殺する。通報により警察が駆けつける。少年は、女子高生に包丁を持たせて被害者を装うが、逮捕される。
残虐な犯罪をしたにも関わらずその少年には、逮捕された後もその裁判においても、全く反省した態度が見られなかった。
少年の父親は、事業の失敗やギャンブルで多額の負債を抱え、暴力団からの借金返済に迫られる毎日だった。それが原因で両親が離婚し、少年は、親の愛情を受けることない孤独な生活を送った。成長するにつれて凶暴になり、暴行事件や強姦事件を繰り返していた。
地裁で、「少年の恵まれない環境は情状酌量の余地はあるが、犯行の計画性や残虐性は死刑に値する」と判決が言い渡された。
「光市母子殺害事件」
平成十一年、当時十八歳の少年が、排水検査を装って強姦目的で社宅アパートに押し入る。居間に侵入した少年は、女性を強姦しようとしたが抵抗されたために、首を締めて殺害する。その傍らで泣いている十一カ月の乳児も殺意をもって床にたたきつけ失神させる。
少年は、殺害した女性から漏出した排泄物をふき取って屍姦するが、乳児が再び泣き叫び這って母の死体に近寄ろうとしたので,ひもで首を絞めて殺害する。
その後、冷静に指紋をふき取り,女性の遺体と天袋に入れた娘の遺体を押入れに隠し、居間にあった財布を盗んで逃走する。
少年は、盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり、友達の家に寄ったりしていたが、事件から四日後に逮捕される。
この事件が報道されて、「こんな残虐な行為は、未成年であっても死刑にすべきである」という世論が多数あったが、判決は無期懲役であった。
判決を下した裁判長に非難の声が挙がる。彼は、過去の判例に従って無難に済まそうとしたようである。自分の経歴に汚点と成りうる「未成年者に死刑」という判決を下したくなかったのである。
さらに少年側の弁護士たちも問題になった。彼らは死刑廃止論者であり、それを盾に少年を擁護した。そして、このような少年の弁明も聞き入れた。
「強姦目的ではなく、優しくしてもらいたいという気持ちで抱きついた」
「乳児を殺そうとしたのではなく、泣き止ますために首に紐を蝶々結びしただけ」
果たして、こんなことが弁明として認められるのであろうか。
強姦目的でないのなら、排水検査を装う必要はない。「優しくしてもらいたい」という気持ちであるのなら、殺しはしない。抵抗されて逆上して殺したのであれば、屍姦はしない。乳児が泣き止むぐらいに首に紐を強く結べば、窒息死するのは誰でも分かる。乳児の泣き声で誰かに気づかれないように殺したのは明白である。さらに、冷静に指紋を拭き取っていることからして、衝動的に犯したのでないことが分かる。
無期懲役が決まったとき、少年は拘置所で知り合った友人に手紙を送っている。その内容は、こうである。
「(裁判に)勝った。生まれ育った環境によって逃げられた。今の世の中は、最後に悪が笑う。強姦しようとしたことは生理的要求であり、責められることではない。死刑を求める被害者の夫は、マスメディアに出過ぎであり、気にくわない。」
罪の意識など全く感じられない。それどころか、犯行の正当性を主張し、被害者の夫を非難しているのである。何という奴であろうか。
愛する妻や子を惨たらしく殺された夫が、その犯人を死刑にして欲しいと願うのは当然である。犯人の欲望のために何の落ち度もない家族を殺された夫の心情は、とても分かる。もし、自分がその夫なら同じことを望むに違いない。
少年は、そんな被害者の家族の気持ちなど全く顧みないし、自分が助かることしか考えていないのである。助かるためには、荒唐無稽なことも平気で言う。
「殺害後に屍姦したのは、そうすると生き返ると思ったから」
「押入れに入れたのは、ドラエモンが生き返らせてくれると思ったから」
犯行当時の自分の精神が未成熟であったことのアピールである。情状酌量を狙いとするのがはっきり分かる。自分のしたことは棚に上げて、なんとか処罰から逃れようとする狡さが見えてならない。
池田小学校の児童殺害事件の犯人も、当初同じように精神異常を装って罪を逃れようとしたが、最後は居直って「俺をすぐに死刑にしろ」と訴えた。その点では、まだ潔いように思える。
その後、最高裁は、検察側の上告を受け高裁の判決を破棄し、審理を差し戻す。高裁は、弁護側主張を全面的に退け、被告に死刑の判決を下す。
・ 弁護士
あまりにも大きな犯罪を起こし、世間の風当たりが強い被告の場合は、その弁護を断る弁護士もいると聞く。しかし、被告に弁護士がつかないと裁判ができないので、誰かが引き受けることになる。
上記の事件もそうであるが、過去の凶悪事件の被告についた弁護士というのは、どのような気持ちでその弁護を引き受けているのであろうか。
罪相当の罰を受けるべき被告を助けるなど、被害者やその家族のことを考えれば普通はできないことである。それにもかかわらず、弁護する。「被害者の家族が嘆こうと悲しもうと、自分とは一切関係ない」と割り切っているのだろうか。
過失や怨恨で人を殺した場合、本人がそのことを本当に後悔したり、動機に情状酌量の余地があったりするのなら弁護も許せよう。検察や弁護士によって犯罪に至るまでの事実が明らかにされ、被告は犯した罪に相当する罰を受け入れればいいのである。
ところが、素直に自分の罪を認めない被告たちなのである。さらには、「何が悪い」と居直る輩なのである。自分の欲望のために人を平気で殺し、捕まっても反省もせず、それでいて罰を逃れようとする極悪人の弁護である。
弁護によって、そいつらが無罪になったり、軽減したりすることに何か罪悪感を持たないのだろうか。道義的に間違っているし、理不尽である。「それが仕事であるから」と言ってしまえばそれまでであるが、実際、因果な生業だと思えてならない。
もし、同じような二つの事件が起こり、一つ目は被告側に、二つ目では原告側についたとしたら、全く正反対のことを言うだろう。被告につく裁判では原告の不当性を主張し、原告側につく裁判では被告の不当性を主張するのである。その矛盾点を指摘したら、「立場が違うから当然である」と一蹴されてしまうに違いない。
弁護士が目指すものは一体何か。本当なら重刑であるべき犯罪者を軽刑にするという手腕なのか。あの弁護士に頼めば何とかなるという実績作りなのか。
すべてがそうだとは言わないが、中には原告や被告の印象を悪くするために、事実を誇張したりねつ造したりする弁護士もいると聞く。
さらには、被告が有罪になる決定的な証拠をつかんでも公表せずに隠して、何としても無罪を勝ち取ろうとする正義感の一欠片もない弁護士もいるらしい。
このような悪徳弁護士は、勝利した瞬間、落胆したり傷ついたりする人たちを尻目に、これ見よがしにガッツポーズをするのである。自分の評価を上げるために、「何が何でも勝つ」「勝つためには手段を選ばない」という勝利至上主義に陥っているように思えてならない。
弁護士も生きるための生業であることは分かる。ライバルとの熾烈な競争の中で、信頼を得て生き残らなければならない厳しさも分かる。自分の依頼人の要望に少しでも応えたいという気持ちも分かる。時には自己アピールも必要となるだろう。
しかしそうであっても、公正かつ誠実な裁判を目指す法廷においては、社会正義の実現を使命として自分の役割を果たすことが第一と考えなければならないのである。
それは、法律に疎い被告や原告の代弁者になり、真実を明らかにして裁判官が正当な判決を下す手助けをすることである。決して、黒を白にしたり、白を黒にしたりすることではないはずである。
・ 訴訟の国
米国は、訴訟の国といわれる。何かにつけて訴えられて、賠償金を取られるようである。
あるバーガー店での話である。コーヒーをこぼして火傷をしたという理由で、その店が訴えられた。
こぼしたのは客本人であるが、「火傷するくらい熱いコーヒーを出した店に責任がある」と原告は主張する。被告である店側は、「暖かいコーヒーを出すための工夫であり、責任はこぼした本人である」と言い返す。
この両方の言い分からすると、分が悪いのは原告側と思えるが、判決は意外にも、原告側の主張を認める内容になった。
裁判はまさに戦いである。訴えた方、訴えられた方は、勝つためにあらゆる手段を使う。その訴訟に関してスペシャリスト的な弁護士を複数雇うこともある。高額な弁護料など惜しまない。勝てば天国、負ければ地獄になるからである。
そんな法廷で、社会正義を口にすれば笑われてしまうだろう。勝利至上主義を批判すれば、逆に「それがなぜ悪い」と言われてしまうのが落ちである。
勝つことしか頭にない彼らには、安っぽい人道主義など通用しないのであり、同情を求めても無駄である。しかし、それで良いのだろうか。
・ 誤解
子どもの頃、母親の財布からお金を抜き取ったとして、母親に叱られたことがある。身に覚えのないことなので否定したが、母親はそれを認めず、尚も責めたてた。
ところが、その最中、父親が帰ってきて、「犯人は自分である」と母親に告げた。「どうしても買いたい物があったが手持ちがなかったので、その財布から抜いた」と言い訳をした。
その時、母親は私に謝るどころか、「普段の行いが悪いから疑われるんだ」と叱った。誤解は解けたが、なんともやるせない気持ちになったものである。
しかし、この程度のものならまだ許せる範囲である。世の中には、大きな迷惑を蒙ったり、罪を負わせられたりする誤解もあって非常に厄介である。現実に、そのような被害者がたくさんいて、気の毒に思う。
人生が破滅に向かうような誤解など受けたくもないし、誰もがそのようなはめにならないようにと願うのである。
・ 冤罪
再審が行われ、最高裁から無罪の判決がでた。死刑と言われた初審から、二十年も経ってからのことである。
被告を応援する団体の全員が、この時を待ち望んでいたように喜んだ。当然、被告自身も笑顔を見せた。しかしながら、その喜びは、芯からの喜びではない。
確かに無実は実証された。刑罰を執行されない安堵感はある。それでも、空白の二十年は戻ってこない。
有罪になってから、必死に無実を訴え続けた二十年間。死刑執行の恐怖で一時も気持ちが休まることがなかった二十年間。汚名を着せられ、家族や親類、友人たちにも迷惑がかかった二十年間。その間、両親は、自分の無罪を知ることなく逝ってしまっている。
人生は、一度きりである。その一度きりの人生が、冤罪によって奈落へと落とされたのである。無実の罪によって自由のない牢獄に押し込められ、落胆のまま生きてきたのである。自分をこのような目に遭わせた者たちへの恨みというより、無駄に二十年間を失ったことの悔しさが込み上げるのである。
戦後の日本における冤罪や冤罪の疑いのある事件は数々あるが、その中でも帝銀事件、松川事件、三鷹事件、八海事件、狭山事件、甲山事件、足利事件などが有名である。
いずれにおいても犠牲者が出て、真犯人は逮捕された人ではなく、他にいる可能性が大きいとされる。
冤罪事件の中には、服役後に真犯人が自白した事件や、死刑が執行された後に真犯人が名乗り出た事件もある。悔やんでも悔やみ切れない結末である。
このような冤罪が、今までにどれくらいあったのかを調べてみたが、殺人以外の事件も含めると、毎年のように起こっているようである。
最近では、電車内での痴漢行為の冤罪事件があった。逮捕された人は、一貫して無実を訴えたが、目撃者がいたために信用されなかった。
ところが、警察が調査するうちに、被害者と目撃者がグルであり、この事件そのものが示談金目当ての狂言であったことが分かる。
結局、無実が証明されて釈放となるが、もし、犯人のままであれば、社会的信用を失うのはもちろんのこと、職場から解雇を受け、家族や友人からも見放されることになっていたのではないか。それはまさに、「人生の転落」を強いられた人災である。
世の中には、このような恐ろしい罠が潜んでいる。うかうかしていると、取り返しのつかないことにもなる。まったく油断ができないのである。
誤った証拠が出るなど、偶然が左右してこのような憂き目に遭うのは不運であるが、誰かに陥れられて無実の罪で処刑されるというのは、死んでも死にきれないに違いない。
仕掛けられた罠以外に、冤罪を生む大きな要因がもう一つある。それは、警察の姿勢である。
面目を保つために、「何が何でも犯人を捕まえてみせる」と意気込むのは許されるとしても、虚偽の自白をさせたり、思い悩んで自殺させたりするような過剰な取り調べは、止めて欲しいものである。
昔の事件の中には、自白させるために拷問も行った。また、無理矢理犯人に仕立てるために警察官が証拠を捏造したこともあったと聞く。
指紋、血液、DNAなどで真犯人を割り出すことができる現代でも冤罪があるのだから、科学的な検証ができない時代においては、相当数あったはずである。
もちろん、「天地神明に誓って潔白であり、絶対に無実である」と冤罪を訴え続けた被疑者が、実際に犯人であったというケースもある。自分の本性を隠して言葉巧みに人を騙し、罪を逃れようとする輩もいるのである。
しかし、本当に無実であった場合、真犯人にされるというのは非常に口惜しいものである。大きな不安感と絶望感によって気が休まる間もないのであり、子どもが親に誤解を訴えるのとは訳が違うのである。
身に覚えのない罪を負わされ、必死に潔白を訴えても誰にも信じてもらえない。自分の人生が、自分の意思とは異なる悪い方向へ変えられてしまう。
そんな人の恨みというのは、計り知れないものがある。もし、そういう人たちの恨みを寄せ集めることができたら、そのパワーによって、富士山の大噴火を起こせるのかも知れない。
罪は、犯した者が負うべきである。潔白な人が、負うものではない。隠されていても真実は一つである。
その真実を明らかにして、冤罪という悲劇が二度と起こらないようにと願う。
・ 推定無罪
司法の原則は、「疑わしきは、罰せず」である。
確固たる証拠がない場合は、どのような被疑者もすべて無罪になるのである。それは、冤罪を作らないための方針であり、そのこと自体は間違っていない。
確かに本当にやったかどうかは、神でもないかぎり分からない。陥れによる冤罪もある。予断と偏見によって、無実の人に冤罪を背負わしてはならないのはその通りである。
しかしである。明らかに罪を犯している者をそのまま無罪にするのは、非常に悔しい気がする。百人中百人が「そいつが犯人である」と思う被疑者が、証拠不十分で無罪になってしまうのは、まったく納得がいかないのである。
こういう奴らは、平然と「私はやっていません」と主張し、罪を逃れるために有能弁護士を雇い、あの手この手で無罪にこぎ着けていく。中には、精神異常者に成りすます者もいると聞く。
そして、無罪に決まったとき、原告やその弁護団に「そら見たことか」と蔑むような目で嘲笑するのである。自分が行ったことはそっちのけで、まったく反省の気持ちなど微塵もなく、勝ち誇るのである。
実際、米国で妻殺しの容疑者が、動機、アリバイ、証拠、逃走などでかなり不利な状況でありながら、有能な弁護士の手腕によって無罪になった例もある。
その容疑者が、有名なスポーツ選手であったことで世界中が注目したのであるが、人種問題を盾にした弁護によって無罪になった。
日本では、「ロス疑惑」といわれる保険金目当ての妻殺し疑惑事件が有名である。動機、アリバイ、未遂事件の共犯者の証言、前妻の消息、普段の言動などですべて容疑者が企てたことと世間では確信を持ったが、これも証拠不十分で無罪になった。限りなく黒に近いグレーが、白になったのである。
もう一つ、日本で起きた冤罪に関する有名な事件がある。「首都圏女性連続殺人事件」といわれ、被害者は十人にも及んだ。被害者のほとんどが若い女性で、強姦されたうえに殺害されたが、中には焼殺された者もいる。
捜査の中、一人の容疑者が逮捕された。その男は、取り調べによって容疑を認めるがすぐに覆し、「自分は絶対無実である」と叫ぶ。
さらに獄中から、自分の無実を訴える手紙を人権団体に出し続ける。その甲斐あって、文化人や弁護士、宗教関係者たちが「救援会」を結成する。世論が動き、結果、殺人については証拠不十分で無罪となってしまう。
無罪釈放となった男は、メディアからインタビューを受けた際に、「自分の潔白が証明されて本当によかった。自分のような冤罪事件が二度と起こらないことを望む」と述べる。支援者たちも「冤罪事件が解決した。不当な警察や検察から勝利を勝ち取った」と喜んだ。
ところが、出所から五年後、首なし殺人事件と少女殺人未遂事件が起きる。両事件ともその男が関わっていたことがわかり、逮捕されてしまう。さらに、その男の家から動かぬ証拠(被害者の生首)が出てきて万事休すになるのである。
支援をしていた人たちが、そのことを知らされて大変なショックを受けたことは言うまでもない。その落胆は計り知れないものであり、面目も丸つぶれになった。
支援者たちの「あの男の『自分は絶対無実である』という叫びは、一体何だったのであろうか」という声が聞こえてきそうである。
結局、子羊の仮面をつけた狼に騙されたのである。無実を信じて真摯に救おうとした人たちを男が利用したという訳である。
ちなみに、以前の事件もその男の仕業であるとの疑惑が再び起こるが、判決が既に出ているので後の祭りであった。
もし先述の事件がなければ、その男は「冤罪のヒーロー」として大手を振って暮らしていただろう。たくさんの人を殺しておきながら、国からもらった大金でのうのうと遊んでいたに違いない。
結果、「悪人を裁く法が、悪人を守ってしまう」という、なんとも理不尽な現象になるのである。
悪人は、あの手この手で罪を逃れようとする。同情を得るために、一世一代の芝居もする。「人は見かけによらない」という言葉があるが、見かけで騙されてはいけないというまさに顕著な例である。
また、このような同情だけでなく、権力や財力、はたまた人脈を使う者もいる。自分の罪を素直に認めずに、力づくによって刑罰を逃れようとする者たちである。
刑法に反する談合や汚職が明らかになっても、蜥蜴の尻尾切りのように身代わりを立てる。事件の中心人物でありながら、「自分には関わりがない」と素知らぬ顔で平然としているのは、財閥や政治家に多い。
世の中には、保身のための様々な駆け引きがある。いずれにおいても、真実が握りつぶされ嘘が罷り通るのであり、とても残念でならない。
こんなことが蔓延る社会だから、フィクションのドラマに登場する闇の仕置人でもいてくれたらと心底思う。法で裁けないのだから、誰かが裏で制裁を加えてくれることを願うのは私だけであろうか。