・ 強姦
一人の女性が、街灯もまばらな人気のない通りを歩いている。仕事を終えて、自宅に向かっている途中である。
物影から不意に男が現れた。その男に「声を出すと殺すぞ!」とナイフで脅され、押し倒される。
男は覆面をしていて、どこの誰だか分からない。恐怖のあまり体が硬直して動くこともできない。男に抵抗する術もなく、泣く泣く強姦される。強姦された後、口封じのためにナイフで首を刺され、命を奪われてしまう。
自分の欲望のために人の命を平気で奪う悪人が、今夜も獲物を狙っている。どこかで息を殺して潜んでいる。捕まらないのをよいことに、味を占めた輩が再び犯そうとしている。
外国では、幼い少年少女が犠牲者になる事件が結構ある。見知らぬ男に騙されてついて行き、その後、見るも無惨な姿で発見されている。まったく聞くに堪えない話である。
最近、日本で話題になったレイプ事件があった。加害者は、大学のサークルに所属する男子学生である。コンパで一人の女性を意識が無くなるまで泥酔させて、みんなで輪姦したのである。
後日、被害者の訴えで、犯行に加わった学生たち全員が逮捕される。彼らは「合意で行った」と言い訳をするが、被害者や目撃者の証言で嘘がばれる。
被害者は、泣き寝入りしなかった。自分が晒し者になるのを覚悟で、果敢に訴え出ることを選んだ。
決心させたのは、加害者に対する大きな憤りや憎しみである。さらには、屈辱に対する報復もあるのかも知れない。
いずれにしても、被害者は、心に深い傷を負うことになる。忘れようとしても忘れられないトラウマである。
このような被害者の中には、結婚式が数日後に控えているのに、暴漢に強姦されて精神に異常をきたした女性もいると聞く。
被害者の両親のショックも大きい。最愛の娘が暴行されて黙っていられる親はいないのであり、犯罪者に対する憎しみや憤りは被害者以上かも知れない。
実際、外国のレイプ事件で、「父親が憎しみのあまり、護送中の犯人を射殺した」という話もあるくらいで、それほど卑劣な行為なのである。
逮捕された加害者たちは、「自分たちは、本当に悪いことをした」とは悔いていない。減刑のために反省のポーズはとっても、本心は「ドジを踏んだ」くらいにしか思っていない。
もし、逮捕されていなかったら、間違いなく同じ事を繰り返しているはずである。
しかし、こういう輩でも、自分に娘ができて、その娘が自分のしたことと同様の仕打ちを受けたなら黙ってはおられまい。烈火のごとく怒り狂うに違いない。
自分がされて嫌なことは、他人も嫌なのである。そういう意識がないから、人の心を平然と傷つけることができるのである。
このような人非人は、重い刑罰を科すべきである。身勝手な欲望によって人の前途を破壊するような行為は、断じて許してはいけないのである。
・ 麻薬
一口に麻薬と言っても、個人的な快楽だけに使われる非合法的なものから、医療現場で鎮痛剤として処方されるものまで多種多様にある。
元々は、ケシの実を原料とした薬剤のことを示していたが、現在では、モルヒネ、ヘロイン、コカイン、LSD、MDMA、MDEA、マジックマッシュルームなど様々な薬物が麻薬と指定されている。
その毒性や依存性は、人体や社会に悪影響を及ぼすのであり、ほとんどの国で禁じられている。中には、使用はもちろん、所持するだけで死刑になる国もある。
麻薬の起源は、宗教儀式で使われた幻覚性植物であると言われる。幻覚性植物を聖なる植物とし、深い瞑想のために使用したのである。
現在では、本来の使用目的とはかけ離れ、刹那的な高揚を得るための薬物として使われることが多い。密売によって多額の利益が得られる事から、ギャング、マフィアなどの重要な資金源となっているのが現状である。集団犯罪組織の他に反政府勢力やテロリストなどが生産に関わっているとも言われている。
所持すれば死刑になる国がある一方で、国家産業として国を挙げてコカインの生産をしている国もある。コロンビアである。「国益のために、貧しい国民を救うために」と政府も認めている。「麻薬を輸出して、自国に利益をもたらす。輸出先の国民がどうなろうと知ったことではない」という考えである。いくら国益の為とはいえ、このようなことが許されてよいのだろうか。
公にはしていないが、アメリカもベトナム戦争当時、兵士に対して士気を高めるためにコカイン摂取を認めていたようである。「勝つためには、なりふり構わず」である。
戦後、日本で流行ったヒロポンも、戦争中に旧日本軍に配布されたことから始まった。前線で戦う兵士の戦闘意欲を高めたり、特攻隊員が死の恐怖心を持たぬように使用したりしたのである。
同盟国であるドイツの軍事工場においても、疲労時に耐性を高め、生産効率を上げるために従業員に配布されていた。
終戦を向かえてその使用目的はなくなるが、減るどころか常用する者が増え出し、たくさんの中毒患者がでた。当時は、薬局で簡単に手に入れることができたのである。
ヒロポン(メタンフェタミン)は、明治時代に日本の製薬会社が開発した薬物である。眠らなくても、また空腹であっても元気でいられるという活力剤であった。
それが後に、世界各国に覚醒剤として広まっていった訳である。ちなみに、「ピロポン」の名前の意味は、ギリシャ語の「仕事が好きである」ということであるらしい。
マリワナは、ほとんどの国で禁止されているが、オランダでは合法的に売られている。人体への影響がさほどないと容認されていて、普通に手に入るようである。
実際のところ、その安全性は疑わしい。日常的にマリワナを吸うと、妊婦の胎児に悪い影響を与えるという説があったり、トリップした為にビルから飛び降りて重傷を負った者の話も聞いたりする。
そんな物がなぜオランダで合法になっているのかというと、マフィアの資金源にさせないためであるらしい。実際、その成果もあるようである。国によって合法になったり非合法になったりする厄介な代物である。
どんな物でも、過剰の摂取は人体にとって良くない。昔から「百薬の長」と言われている酒も、過剰に摂取すれば病気や事故を引き起こす原因になる。自制の意識が低ければ、飲酒で奈落に落ちる確率が高くなるのである。
最近では、有害な物として煙草も対象になってきた。禁煙場所が増え続け、愛煙家にとっては、非常に肩身の狭い思いを強いられている。これも仕方がないことである。
このように、合法的に売られている物でさえ人体に悪影響を及ぼす危険性があるのだから、マリワナのように安全性の疑わしいものは尚更である。たとえ少量でも、摂取すべきではない。もちろん、麻薬のような人を廃人にする薬物などは論外である。
そのような麻薬の害をメディアが毎日のように訴えているのにもかかわらず、世界中でコカイン、ハシシなどの麻薬が売買され使用されている。
麻薬が、人の体をボロボロにすることは誰もが知っている。なのに、手を出す者が後を絶たないのは何故なのか。
人は、弱い生き物である。精神的に大きな負担がかかったり、ストレスがたくさん貯まったりすると、何かに頼ろうとする。何かで逃れようとする。
音楽を聴いたり、大声で歌ったり、酒を飲んだり、旅行に出たりとその対処の仕方は人によってまちまちであるが、とにかく息抜きや気晴らしをするのである。
ところが、そんなことでは満足できない人もいる。そういう人たちは、常に刺激的で即効的な物を求め、それによって大きな高揚感を持とうとする。探し求めてたどり着く先は、非合法的な薬物になる。それが麻薬なのである。
酒に依存してアル中になるのも良くないが、麻薬はもっと悲惨な結果になる。値段が高いので、買えなくなると犯罪に走り出す。恐喝や強盗、果ては殺人まで犯し、一生を台無しにするのである。それほど恐ろしい物なのである麻薬という代物は。
きっかけは、密売ルートを知る友人の勧めである。その友人も知人の紹介で知る。所謂口コミである。
最初はこわごわであっても、一回、二回と使用するたびにその魅力にはまり、ついには常用することとなる。
麻薬の売人は、客になりそうな輩を目聡く見つける。一度でも使用すればリピーターになる確立が高いので、あの手この手で買わす。物が高額であっても頻繁に買ってくれる客は、売人にとっては良い常連と言える。
中毒者は、捕まるリスク、人体への悪影響、高い値段を承知の上で使用し続ける。破滅に向かうことが分かっていながら、手を出さずにはいられないのである。
疲労回復の薬と騙されて、麻薬を飲まされた女性の被害者もいる。シャブ漬けになって男のいいなりになるお決まりのパターンである。最後はソープなどの風俗店で働かされるという、テレビのドラマで見るようなことが実際にあるのである。
奴らは、女性の体が麻薬でどうなろうと知ったことではない。廃人になったら、また次の代わりを探す。稼ぎは、自分の懐に入れる。女性を資金源の道具としか見ていない最悪の輩である。
こんな悪人は、捕まえたら一生牢獄から出られないようにすべきである。そうしないと、また同じような犯罪を起こす可能性があるからである。
近年、麻薬撲滅運動がメディアなどで宣伝されているが、効果は非常に薄い。「手を出すな」と言っても、誰かが手を出している。「馬の耳に念仏」なのである。
このような現象は、理性より麻薬の誘惑の方が勝るということなのだろうか。麻薬で儲けている輩の論理はこうである。
「医療で麻酔として使用されている物の起源は、麻薬である。肉体に対してだけでなく、精神的な苦痛のある者に対しても対処が必要だ。需要があるから供給がある。だから、製造を続けるのだ」
盗人にも三分の理である。人の弱点をついた商売であるから、どうしても成り立ってしまうのである。それでも、なんとか止めさせなければならない。
それには、世界中の麻薬を根こそぎなくすしかない。密輸ルートを遮断して、工場をすべて壊す。現存するすべての麻薬を処分する。そして、製造や売買に関わった者を徹底的に罰する。それに尽きる。
これを実現するのは、非常にハードルが高く困難であると思うが、この先、麻薬に関わる犯罪が起こらないようにするにはこれしかないのである。
・ 賄賂
その昔、私が教職についていた頃の話である。
学校では、生徒が使うテストやドリルなどの教材は、指定の業者から一括して買うことになっていた。その支払いは、担任が保護者から預かり金という名目で集金して、その中から行った。帳簿も作成し、担任にとっては時間のかかる煩わしい職務であった。
学校には複数の業者が出入りしていて、当然競合になった。業者にとっては、注文が入るか入らないかは死活問題になるので、「どこの業者にするか」という担任の選択が気になっていた。特に生徒数の多い大規模校は、かなりの収益が見込まれたので、自分の店のアピールに躍起となったのである。
彼らの中には、注文がもらえるように担任に対して過剰な接待をする者もいた。豪華な飲み会や食事会への招待、土産物のプレゼント、時にはリベートもあったと聞く。結果的に保護者から預かった金の一部を懐に入れることになる。
修学旅行で泊まる旅館の女将も同様である。毎年行われているその下見では、続けて定宿にしてもらうためにと、豪勢な食事でもてなしてくれた。
土産物屋もアピールのためにわざわざ旅館に出向いて、たくさんの土産物を持たせてくれたものである。
これらのサービスは、お歳暮やお中元のような「お世話になっている方への感謝の意を込めた贈り物」ではない。はっきり言って、便宜を図ってもらうための賄賂である。
このような賄賂は日常的にあって、誰もが見て見ぬふりをしていたのであり、当然のように許されていた。当時は、そういう時代であったのである。
まあ、土産として饅頭一箱であるなら賄賂とは言い難いのかも知れないが、目論見は賄賂と同じであり、今なら犯罪行為と批判されても仕方がない。
近年では、「どんな些細な贈与物も受け取ってはいけない」というお達しがあり、特に公務員はそれを破った場合、厳しい処罰が科せられることになった。
それでも、賄賂はなくならない。それも教材屋や旅館の女将の取るに足らない賄賂ではなく、驚くような金額の賄賂である。
毎年のように、巨額の賄賂に関わった会社の重役や政治家の名前が報道されているが、表に出ているのは氷山の一角であり、実際は夥しい数になると予想する。
「利権を得るための賄賂や裏取引は、誰もがしていることだ。正直者は馬鹿を見るのであり、バレなければいいのである」
競争社会では、そのような邪な考えが必然的に出てくる。不正なことをしてまで、見返りを貰うのである。そうすることが、唯一の手段だと思い込んでいる。
賄賂は、世界中のどこの国においてもある。社会主義国や共産主義国においてもある。処罰が厳しいので抜け道をつくって表にでないようにしているだけであり、現実にはある。
賄賂で有名だったのが、中華人民共和国になる前の中国である。まだ皇帝が存在していた時代である。官僚への賄賂は当たり前で、逆に賄賂を渡さない者は、一般常識がない不届き者と言われたらしい。
アメリカ合衆国も、賄賂が頻繁に行われていた。特に警察官への賄賂が酷かったようである。見返りは、マフィアに機密情報を流したり、犯罪者をわざと逮捕しなかったりと公僕としてあるまじき行為であった。後にマフィアとの繋がりが明らかにされ、警察の信用がガタ落ちになってしまう。
ある料亭の一室における密談
頭巾を肩まですっぽり被った代官に、大店の商人がずっしり重い菓子箱を差し出す。中身は、言わずと知れた山吹色に輝く小判である。それを手にして代官は言う。
「越後屋、お主も悪よのう」
「いいえ、お代官様こそ」
双方の利害が一致したことに、二人は含み笑いをする。
「魚心あれば水心」とは、よくいったものである。世の中には、このようにあからさまでないにしても、それらしき事は星の数ほどある。
会社で昇級したいが為に、上司に気に入られるよう高額なお中元やお歳暮を贈ることはよくある話である。もしこれが犯罪となるなら、大半の会社員が犯罪者となってしまう。どこまでが許されるのかその線引きは難しい。
まあ、菓子折一つなら、なんとか許される範囲である。それが、明らかに高額な物となるとそうはいかない。
この程度に抑えておこうと決めても、「ライバルよりも上の物を」という思いはその一線を過剰に上げていく。気がつけば、遥かに度を超していることもあり、そうならないように、歯止めをかけて欲しいものである。
・ 有害物質
過去に、ヒ素という有害物質が乳製品に含まれていたために、取り返しのつかないことになった事件があった。
会社にとっては大量に売るための開発商品であったが、責任者は、製品化する過程で使われていた薬品の安全性を点検せずに、そのまま市場に出してしまったのである。
その結果、これを飲んだ一万人以上の乳児がヒ素中毒になり、百人以上の死亡者が出てしまう。
事件が発覚した当初、会社は責任が自分たちにあるのではなく、薬品を製造した薬品会社側にあると言い逃れた。
しかし、販売する上でその製品の安全性を確認しなかったということで、世論から非難を浴びる。
我々が日常的に口にする食品に関することであり、しかも、乳児の食品である。口にして異常を感じれば、大人ならはき出すことができるが、乳児はできないのである。
故に、幼い子ども用の食品の製造には、格別な細心の注意が必要となる。それを怠るというのは、利益を追求することしか頭にない経営者側のまさに悪行なのである。
この事件を契機に、食品に対する安全性への意識は高まった。ところが、その後も同じような不祥事が起こってしまう。同会社の乳製品による食中毒事件である。
発症者が一万人にも達したのであり、原因を調査した結果、その中に黄色ブドウ球菌による毒素が含まれていたことが分かる。
「なぜ黄色ブドウ球菌が紛れ込んだのか」
そのことを追及していく中で、工場のずさんな温度管理、品質保持期間の改ざんなどの実態が明らかになる。
前の事件における会社側の弁明と改善の決意は、一体何だったのか。結局のところ、教訓がまったく生かされていなかったのである。
子どもの頃、近所の駄菓子屋に行って駄菓子をよく買ったものである。そのほとんどに、「チクロ」という添加物が入っていた。
チクロは、安価で甘味料に適していたが、発癌性の疑いが指摘されたため、日本では食品添加物の指定を取り消され使用禁止になった。
それでも、世界中で使用禁止になった訳ではなく、チクロの発癌性を否定するカナダ、中国などでは依然使用されている。
確かに発癌性が立証されるには、時間がかかる。現段階では、発癌性の有無を断言できない。
しかしそうであっても、「疑わしきは、使用せず」であり、発癌性の疑いのあるものを認める訳にはいかない。いくら原価が安いからといって、そのような危険性のある食品を安易に売るのはどうかと思う。
企業は利潤を求めるものである。確かに商品を売らなければならない。その一方で、より安全な食品作りを目指さなければならないし、その責任がある。
懸命に育児をする母親を失意のどん底に落としてしまうような食品は、絶対に作ってはいけないのであり、ヒ素事件のような不幸が再び起こらないように、最大の注意を払って欲しいと願う。
・ 食品偽装
賞味期限や消費期限が過ぎている食品の日付を改ざんして、再び商品として売り出していた会社が摘発された。
摘発されたのは、有名なチョコレート製造会社や老舗の餅のメーカーである。さらに、輸入した外国産の食材を日本産と偽って販売していた精肉会社も摘発される。他に、普段我々が口にする牛乳も製造工場においてこのような改ざんが行われていたのが発覚する。
その後も、様々な食品の偽装が明るみになったが、こんなことが頻繁におこると、「世の中には、安全な食品など全くないのではないか」と疑心暗鬼になる。
ある焼き肉チェーン店での話である。客の何人かがその店のユッケを食べて食中毒にかかり、四人の死亡者を出すまでに至った。
その店は、価格破壊というふれこみで人気があったが、この食中毒によって店の裏事情が判明する。
社長は、客を呼ぶ手段として商品の激安を図った。そうして利益を出すために極安のカス肉を出した。食すれば人体に悪影響を及ぼす最悪の肉をである。そうとも知らずに客は、安全な肉と思って食べたのである。
このような偽装行為は、この店だけではない。他にも同様の悪徳な店が摘発される。アメリカ産の肉を和牛と偽るのは、まだましな方であり、
・ 粗悪な肉に脂肪を注入して霜降りに見せかける。
・ 出産を繰り返してもう産めなくなった廃用牛の肉や奇形の牛の肉を使う。
・ 果ては病気であった牛の肉やただ同然の腐りかけた肉を出す。
など、非常に悪辣な手口もあった。こんなことをよく考えついたものだと、ただただ呆れるしかない。
それにしても、なんという倫理観であろうか。自分の利益のためには、他人がどうなろうと知ったことではないのである。そんな輩は、夜な夜な「騙される奴が馬鹿である」と、ほくそ笑んで札束を数えているに違いない。
食品は、我々が生きていくのに不可欠なものである。その食品に安全性が欠けているのであれば、摂取してはいけないのは言うまでもない。
もし、有害物質が含まれているなら、人体に悪い影響を及ぼすのはもちろん、右記のように死に至る危険性もある。
それを平然とやってしまうような経営者には、営業停止にするどころか、二度と食品に携われないような重い処罰を課すべきである。
さらに当局には、このような営業をする店が出て来ないように、商品の品質検査を抜き打ちで徹底的にしてもらいたいものである。
・ 使い回し
名の通った老舗の料亭が、客の食べ残した料理を使い回したり、消費期限の切れた食材を使用したりしたことが内部告発により発覚した。
しかもそれが、料亭のオーナーの指示で行われたというので、当時、話題になったのである。
それを知った常連の客は、「まさかあの店に限って」と耳を疑った。多少高めの価格ではあるが、「良質の食材を一流の料理人が手間暇かけて調理している」と思い、長年ひいきにしてきた店なのである。
安心できるはずの老舗が、そんな不始末をするとは全く信じられないことであった。結局、その告発によって、店の信用がガタ落ちになったのは言うまでもない。
何故こんなことが起きたのか。それは、店の経営の悪化である。このままでは経営を維持できないからと、使い回しなどによって経営難を打開しようとしたのである。
いくら経営難であるからといっても、そんなことは許されない。料理を出す店である以上、食品の安全性を第一に考えなければならないのは当然のことである。
ファーストフードのバーガー店でさえも厳しい品質管理を行っているのであり、長く続いた老舗であるなら尚更、その信用をなくすようなことはしてはいけないのである。
食料が不足していた戦中・戦後の日本では、賞味期限や消費期限という言葉は、ほとんど使われなかった。消費期限が過ぎていても、食べられる可能性があるものはすべて食べたのである。
もったいないからと、地面に落としたものでも土を払って食べていた。そんなことをしても、非難の眼で見られることはなかったのであり、そういう時代だったのである。
しかし、今はそんな時代ではない。物資が豊富にある今日では、食料に関してはより高い安全性が求められている。摂取することで人体に害を及ぼす可能性のある物は、絶対に認めてはいけないのである。
賞味期限が切れた程度では、人体に害を及ぼす可能性はまずない。しかし、「最上級の食材を客に提供する」という謳い文句を看板にする料亭の料理である。店のプライドにかけても最善の料理を出さなくてはいけないのである。
ところが、「この代で『のれん』をたたみたくない」「長く続いた老舗の意地がある」という理由で、経営者主導によるペテンまがいの悪行が行われていたのである。
そこまでして店を続ける必要はないのであり、それができないのなら、さっさと店を閉めるべきであった。
信用第一で続いてきた老舗であっても、順風満帆な時はよいが、逆境で追いつめられてしまうとこのような悪行に手を染めてしまうという見本である。
・ 虐待
最近、親が子どもを虐待して、死なせることが多いように感じる。
暴行した上、栄養失調になるまで食事を与えなかったり、冬の寒いベランダに長時間放置したりとまさかと思うようなことが行われているのである。
メディアによって、そんな事件が毎日のように伝えられるが、どう考えてもやりすぎとしか思えない。
行儀やマナーを身につけさせるための躾として叱るのは分かる。しかし、そうであっても、死んでしまう危険性のある折檻を何故するのだろうか。過失だったでは、済まされないのである。
状況から、「ひょっとしたら、子どもが邪魔に感じて、育てるのが嫌になったのではないか。子どもが死ぬのを密かに望んでいたのではないか」という邪推まで起こってくる。
言うまでもないが、人が子どもを儲けるというのは、その子が成人になるまでしっかり育てるということを前提としている。それが親としての責任である。
それを途中で投げ出して、虐待によって命を奪うことなど言語道断である。たとえ義理の親であっても、そのことは絶対あってはならないのである。
実際、母親の再婚相手である義理の父親が、連れ子を疎ましく思って辛くあたり、虐待によって死に至らしめた事件があった。
夫の言いなりである母親は、それを見て見ぬふりをするどころか、同じように虐待に加わっていたという。子どもをかばうはずの実の母親がである。なんと嘆かわしいことか。
さらにこんな惨い事件もあった。若い母親が、二人の幼い子どもをマンションに置き去りにして餓死させてしまったのである。
食べ物もなく、泣き叫びながら母親の帰りを待ち続けた子どもたちが、力尽きてしまうという悲惨な光景を想像すると、その母親に対する憤りが止まらなくなる。
自分が働きに出るのは仕方がない。しかし、帰らなければ子どもたちが死んでしまうのは分かり切ったことであり、何日も放っておくというのは、はっきり言って殺人行為である。なんという母親であろうか。
本当なら、「自分は食べなくても、子どもだけはひもじい思いをさせない。子どもに危険が迫ったら、身を制して守る」というのが、子どもに対する母親の気持ちではないだろうか。
この母親も、子どもを産んだ当初は、「大事に育てて行こう」という気持ちであったと思いたい。思い描いた家庭が壊れ、シングルマザーになり、育児に疲れ、頼りたい親にも頼れず、次第に自爆自棄になっていったのかも知れない。
しかしそうだとしても、自分の産んだ子どもである。親としての責任は、決して失ってはいけない。這いつくばっても、子どもたちを立派に育てなくてはならないのである。
こんな事件が頻繁に起こると、「親子の絆というものは、こんなに脆いものなのか」と悲しくなってしまう。
・ いじめ
中学生の女の子が、ビルの屋上から飛び降り自殺をした。遺書が見つかって、その文面には自分をいじめていた同級生の複数の名前が書かれてあった。
最近、教育現場において、このような「いじめ」による事件がよく起こる。死に至らないまでも、「いじめ」によって不登校になったり、ひきこもりになったりすることが毎日のように起こっている。
学校では教師が、家では親が、「いじめはいけない」と子ども達に言い聞かせているにもかかわらず、起こるのである。
なぜ、起こるのか。なぜ、いじめるのか。理由は簡単である。それは、自分の気に入らない者に仕打ちをするためであり、弱者を憂さ晴らしのターゲットにするためである。
では、なぜこのようなことを起こす子が出てくるのか。なぜ、このような性格の子になってしまうのか。
その理由の一つは、その子の生まれ持った性質である。
幼稚園児を観察すると、それぞれの性格の違いがよく分かる。大人しい子、活発な子、自己主張の強い子などその違いがはっきりしている。
生活経験が少なく、それほど環境の影響を受けていないにも関わらず、既に性格が出来上がっている。これは、持って生まれた性質がその子の性格を形成する大きな要素となっていることを証明している。
そのことについては、同じ家庭で育った兄弟、姉妹を見ても分かる。同じ家庭で育っても必ず同じような性格になるとは限らない。同じ両親から生まれても、異なる性質である場合も多いのである。片方の親の遺伝子を強く引き継いでいるとか、祖父母の遺伝子を引き継いだ隔世遺伝であるとかということである。
以前に、カッコーの「宅卵」の話をしたことがあるが、「宅卵」は遺伝子に関する如実な例を表している。
カッコーの親鳥は、自分の卵を違う種類の鳥の巣に産み落とすのであるが、卵からかえった雛は、自分だけが成長できるように里親になる鳥の本当の卵を巣から落としてしまう。
幼児もこのカッコーの雛のように、教えてもらっていないことを本能的に行うのである。そして、このような本能を非常に強く持って生まれた子どもが、問題を引き起こすようである。
幼児は、ストレートに感情を表す。言葉で表現できにくい子でも、その表情によって心理状態が顕著に分かる。好きなものは好き、嫌なものは嫌とはっきりしている。
対人関係もはっきりしている。本人を目の前にしても、「誰々ちゃん嫌い」と平然と言える。このような集団の中でリーダーシップをとるのは、より自己主張の強い子になる。
そんな子は、遊びにおいても主導権をとってみんなを従えさせる。自分が気に入った遊具は他の子に渡さず、チーム対抗のゲームになれば自分のチームが有利になるように味方を選び、ルールもゲーム中にもかかわらず都合の良いように変えてしまうのである。
そのように自己中心的なことばかりすると、それに反発する子が大人に訴えることになる。訴えられた子は当然叱られるが、それでも自分が悪いとは思っていない。悪いのは、訴えた子になる。逆恨みである。
叱られた子は、訴えた子に仕返しをする。訴えた子を仲間はずれにする。「あの子と遊ぶな」と、他の子どもたちに命令する。そして、集団での「いじめ」に発展するのである。
幼い子によるいじめは、小中高生に比べてそんなに悪質ではない。隠れてしないので、大人たちにすぐに気づかれてしまうからである。再びいじめるとまた叱られるという恐れもあって、終わることが多い。
しかし、小中高生になるとそうはいかない。普段は、その悪意を露骨には出さず、大人に気づかれないように上手く立ち回る。陰で根回しをして誰かを陥れるようなことをする。たとえ気づかれても、自分は主犯でないと主張するのである。
もし、「いじめ」によって自殺者が出ても、主犯の人は、「まさか死ぬとは思わなかった」と弁明したり、「自殺した人から、以前にこんな仕打ちを受けたからその仕返しである」と、正当化したりするかも知れない。
人は成長するにつれて、自我を理性によって抑えられるようになる。大抵の人が、理性を優先させてくる。
ところが、分別がつく時期になっても、そうでない人がいる。その人は、自我の意識が理性に勝り、常に自己中心的であり続ける。
このような人は、自分の性格の悪さを自覚しないし、人から指摘されてもなかなか改めようとはしない。いつも何かにつけて自分がトップでいるのを望み、もし誰かが自分より上に行くと悪意を持つ。
特に恋愛において三角関係の場合であれば、恋敵に険悪な悪意を持つようになる。いわゆる僻みや嫉妬である。その人が少しでもはしゃぐと、「調子に乗っている」と腹立たしく思ったりもする。「いじめ」はその報復であり、卑劣な手段で相手を陥れようとするのである。
自己中心的な人は、社会人の中にも時たま見かける。年を重ねても、それが直らない。持って生まれた性質が起因した性格の悪さが、死ぬまで続く。
親分肌なら、まだ許せる。煽てれば人のために働いてくれるので、頼り甲斐もある。ところが、自分のことしか考えない我が儘な人になるとそうはいかない。周りとのトラブルも多く、非常に厄介な存在になる。
そうならないように、自我を制御できる強い意志を持ってもらいたい。他人と折り合いがつけられる柔軟な理性を培ってもらいたい。
このように持って生まれた性質が人格形成の要因になるが、取り巻く環境も大きな影響を及ぼしている。
まず、家庭である。家庭内に様々な問題が存在する場合である。
両親が不仲で夫婦喧嘩が絶えず、家の中が常に修羅場であるとか、親のしつけが厳し過ぎるとか甘過ぎるとか、親が過度に自分を期待する重圧があるとか、兄や姉、弟や妹と比較されるとか、両親から愛情を受けてないとか、極度の貧困であるとか様々な状況が考えられる。
このような家庭環境では、子どもの心が荒んでくる。安らぎがなく、ストレスを持つ。ストレスを自分自身で解消できればいいが、できない場合、気の弱そうな者や自分より弱い者をいじめて、その憂さ晴らしをする。
それが、「いじめ」を起こす理由であり、いじめる方にとっては、快楽になる。そして、一度この快楽を味わうと何度も繰り返す。
いじめられている方は、何故いじめられているのか分からない。何故自分がターゲットにされるのかまったく見当もつかない。
いじめる側は、「あの顔を見るだけでもむかつく」「死ねばいいのに」など、ターゲットの悪口を友達にさんざん言う。「いじめ」を正当化するためであり、友達に加担させるためである。
靴隠しなどは、まだましな方である。エスカレートすると黒板に名指しで悪口を書いたり、「お前なんか死んでしまえ」と匿名の手紙やメールを送ったり、ネットの掲示板に罵詈雑言を書いたりと言動がかなり過激になってくる。
そうすることで、いじめの対象にする人の心を傷つけているのであり、落胆した様子を想像して喜ぶのである。こんな連中は、「卑劣であり、悪人である」と非難されても仕方がない。
もちろん、いじめられる方に理由がある場合もある。しかし、「そんなことぐらいで」という程の些細なことである場合も多い。
要するに、いじめる側にとっては、気にいらない者に制裁を加えないと気が収まらないのであり、憂さ晴らしにもならないのである。そんな人がクラスの中に一人でもいると、必ず陰湿な「いじめ」が起こる。
友達の中には「いじめ」は良くないと思っている人もいる。しかし、そんなことを言うと自分も同じような目にあう恐れがあるので、加担したり、見て見ないふりをしたりする。それが良くないことと知りながら。
現在起こっている「いじめ」は、多種多様である。様々な要因があって、大人の視点では掴みにくいこともある。
実際に起こった「いじめ」の中に、こんなケースがあった。
小学生の女の子の中での「いじめ」であるが、いじめられた女の子が、親に相談するくらい深刻なことになった。「いじめ」の内容は、女の子の悪口を書いた手紙を自分の机に入れられたということである。
いじめられている女の子Aといじめている女の子たちは、もともと仲良しグループだった。
しかし、ある日、Aがグループの人たちと遊ばなくなってしまう。グループの人たちはAが自分たちと遊ばなくなった理由が分からない。本人に聞いても言葉を濁すだけではっきり答えない。そのうち、グループ内でAの悪口を言うようになってくる。それがエスカレートして、悪口の手紙をAの机に入れてしまったのである。
Aがグループの人たちと遊ばなくなったのは、理由がある。それは、Aの親である。Aの親が、「グループの人たちとつきあうな。特にBとは遊ぶな」とAに言ったのである。
Bは、どちらかという活発なタイプで、グループ内では中心的な存在であった。影響力は強いが、決して不良ではない。
グループのメンバーも真面目な人たちの集まりで、問題はなかった。それなのに「遊ぶな」と釘を刺したのである。何故か。
それは、Aの親が、Bの親の事をあまり良く思っていなかったからである。
Aの母親から連絡を受けて面談した時、母親がBの父親に対する不満をもらした。詳しくは語らなかったが、Bの父親がまるで反社会であるかのような口ぶりであった。
つまり、自分の娘がBだけでなく、Bの父親とも関わるとそれが娘の将来に悪い影響をもたらすと恐れた訳である。
Aが、みんなの前でそのことを言えなかったのは仕方がない。ところが、グループの人たちは、Aの行為を自分たちへの裏切りだと思ったのである。
このときは、親同士が感情的になっていたので、冷却期間を設けて解決の方向に持って行くようにした。最終的には収まったが、根本的な解決には至らなかった。
親は子の将来を思うものである。悪い友達とつきあって欲しくないという親の気持ちは分かる。しかし、親が反社会であるから子も悪いという考えは間違っている。親はどうあれ、子に罪はない。親の偏見がこのような事態を起こしたのである。
もう一つ、特筆すべき例がある。これも小学校の女の子の中で起こった「いじめ」である。
クラスの女の子たちにいじめられていた女の子Cが親に相談して、親は担任にそのことを言う。担任は、いじめていた子を集めて事実確認をすると、全員があっさり「いじめ」を認める。
しかし、そのことに謝罪はしなかった。なぜなら、以前にあった「いじめ」の主犯がCであったからである。Cは、いじめられる前は「いじめ」の中心にいて、みんなに指図していたのである。それまでに、複数の人が順送りに「いじめ」の対象になっていた。
立場が逆転したのは、Cの自己中心的な言動が周りの者にとって次第に疎ましくなったからである。誰からとなく「今度はCを無視しよう」という相談になり、実行する。
担任は愕然とした。被害者が、加害者であったことにである。被害者意識の強いCの親にどのように説明したらいいのか。「貴方のお子さんは、以前いじめの主犯であったから、今回いじめられても仕方がないのです」とは言えない。あくまでも「いじめは良くないから、みんなに止めるように指導します」としか言えないのである。
担任は、力のなさを深く反省しなければならない。これまでの「いじめ」に、まったく気がつかなかった自分自身を責めなくてはならない。そうしなければ、再び同じようなことが起こってしまうのである。
ついでに、もう一つ例を出そう。これは中学校で起きた「いじめ」である。
DEFの三人の女の子は、同じクラスであって、常にいっしょに行動するほど仲が良かった。
しかし、Dは、EといるときはEの気を引くためFの悪口を言い、FといるときはFの気を引くためEの悪口をいった。
そして、そのことが二人にばれる。Dの信用はなくなり、二人から無視されるようになる。さらに他の友達にもそのことが知られ、孤立してしまう。Dは学校に行くのが嫌になり、引きこもってしまう。
結局、Dの自業自得であるが、このような人はどこにでもいる。大人になっても直らない。損な性格である。
どこかで仕入れた誰かの良くない情報を、誰彼構わず言い触らす癖がある人。信用がなくなって孤立しても、懲りずにそれを繰り返す人。自分自身が原因を作ったにもかかわらず、被害者意識は人一倍持っているので非常に厄介な存在になる。
このように、「いじめ」といっても様々である。その要因が複雑に絡んで、子どもがすでに大人の言うことを聞かなくなっている場合もある。親や教師の力ではどうにもならない状態になっているのであり、容易には解決できない。それでも、諦めずに粘り強く手立てを打たなくてはいけないのである。
難しい問題を対処するにあたって、必ず頭に入れておかなければならない事がある。
それは、「いじめ」を受けている方の受け止め方である。精神的にタフな人であれば、ちょっとした「いじめ」なら受け流すこともできるが、非常に感受性の強い人なら、かなり深く傷ついてしまう。思い詰めて、自殺に至る可能性もある。
同じような「いじめ」を受けても、人によって受け止め方が異なるのであり、自殺した人に、「何もそんなことくらいで死ななくても」とは責められないのである。
いじめをする大半の人は、相手を自殺させようなんて思っていない。自殺すれば自分が悪者になるのは分かっているので、自分が判断するぎりぎりの線で抑える。
ところが、目の敵にしていじめることしか眼中にない者にとっては、そこまで考えない。取り返しのつかないことになってから、初めて事の重大さに気づくことになる。
報復であれ憂さ晴らしであれ、いずれにしても、「いじめ」を受けるのは、非常に辛いものである。靴を隠される程度ならまだしも、長期にわたって大勢から仲間はずれにされたり、無視されたり、中傷誹謗されたり、暴行を受けたりしたら、どんな人でも落ち込んでしまうに違いない。
特に、一番親しくしていた友達から突然そんな仕打ちを受ければなおさらである。人によっては、「生きるのが嫌になる」という気持ちも起こってくるだろう。
しかしそうであっても、死ぬことが「いじめ」の解決策にはならない。「死ぬ勇気があるのなら、死ぬ気でいじめに立ち向かいなさい。いじめは、いつまでも続かない。今生きるのが辛くても、生きていて良かったと思える日が必ず来るはずだ」と叱咤激励したいものである。
昔も「いじめ」はあった。その中には、今以上に卑劣で、人権を侵害するものもたくさんあった。対象となった人は、主に身障者や外国人、親が犯罪者の子どもたちである。
彼らは、屈辱的な言葉や暴力的な行為を受けながらもなんとか堪え忍んだ。中には、それをバネにして精神的に強くなった人もいる。もちろん、いじめる側に非はあるが、いじめられる側もそれに負けない強い精神を宿してほしいと願う。
将来、社会に出てもそれはある。いじめるどころか他人を蹴落とそうとする者さえいる。嫉妬や妬みだけでなく利害関係が絡んでいるために、裏切りや陥れが日常茶飯事に起こっている。ただ、露骨に現れないだけであり、裏を探れば必ずある。
そんな熾烈な修羅場に比べたら、「いじめ」など大したことではない。逆に自分を鍛えてくれる試練と思えばいいのである。だから、安易に「友達に無視されたから自殺したい」なんて思わないで欲しい。
確かに、子どもの力だけではどうにも解決できない問題もある。また、自分から大人に相談するというのもなかなかできないことである。
自分で解決したいという思いがある内は良いが、どうにもこうにも抜き差しならない状態で苦しんでいる場合は、大人が助け船を出したり、防波堤になったりしなければならない。
実際、自殺するまで日常的に暴行を受けていたという悲惨な事件もあった。なんとかならなかったのかと非常に悔やまれる。
周りの大人が、そのことを敏感に関知していれば、最悪の事態は防げたはずである。ちょっとした日常の変化に素早く気づいて、最良の対策を立てていれば、大事に至らなかったように思う。至極残念である。
とはいえ、「いじめ」は見つけにくいものである。いつどこで起こるのか予想もできないのであり、未然に防ぐ方法などないに違いない。
また、解決策としての虎の巻や特効薬もないのであり、その状況に応じた最良の手立てを探し出すしかない。ケース・バイ・ケースなのである。
場合によっては、その場しのぎの応急処置でもよい。結果、大団円にならなくても、根本的な解決ができなくても、しこりが残ったままであっても、傷口が広がらなかったら「良し」とするのである。
どのような問題にしても解決しようとするその姿勢が大切なのであり、特に教育現場にいる教師にとっては、このような心構えが必要であると思う。
一 子ども達の人間関係をしっかり捉える
二 子どもの本音を知る
三 問題の本質をつかむ(いじめが起こった原因)
四 この人に相談すれば解決するかも知れないという信頼感を得る
五 問題を起こした張本人であっても、愛情を持って叱る
以上の五つである。言葉で表すと簡単であるが、それを実行するのはなかなか容易ではない。並大抵でない努力が必要である。
難しい問題は、周りの大人達が協力しなければ解決できない。困難さのあまり、親は教師のせいにし、教師は親のせいにするといった責任のなすり合いもよく見られる。
たとえどんなに拗れていても、なんとか手がかりを発見して、諦めずに解決して欲しいものである。
・ 必要悪
世の中には、こういう悪はあっても仕方がないという悪や、必要であるという悪が存在する。周りを見渡すと結構ある。
・ 贔屓
例えば、贔屓である。世界中どこの国でも、「贔屓は倫理的に良くない。誰に対しても依怙贔屓なく平等に接しなさい」と教えられる。宗教の教義の中でも、よく否定される言葉である。
しかし、実際は違う。自分の身内と他人では、同じようには接していない。また、親しい友人や恋人に対しても同様である。当たり前のことではあるが、平等と言うことから反しているのは事実である。
野球の観戦をしていても、贔屓するチームとそうでないチームでは思い入れがまったく違う。贔屓のチームは熱烈に応援するが、反対に相手チームの選手に対してはボロクソに野次る。「三振しろとかエラーしろ」などはまだましな方で、個人の容姿に関わることまで野次ることもある。
なぜ、野次るのか。それは、相手を精神的に落ち込ませ、実力が出せないようにするためである。
もちろん、人権に関わるような野次は行き過ぎであるが、その場の雰囲気によってテンションが高揚し、罵声を平気で浴びせてしまうことはよくある。時には、子どもには聞かせたくないような内容もよく飛び交う。
人というものは、何か勝負がかかると理性をなくしてしまう生き物のようである。自分の贔屓チームが勝つためには、相手チームをトコトン貶す。
このような贔屓は、何事でも公平・平等にしなければならないというフェア精神から反するが、スポーツにおいては、そのことが如実に表れる。
果たしてそれは、いけないことなのか。敵対する選手に対して、贔屓する選手と同じように応援する人はまずいない。そんなことは、心情的に無理である。たとえ、公平に振る舞う人がいても、表面上だけであって腹の中では違っている。
オリンピックは、参加している国の国民が競技の勝敗によって一喜一憂する世界的な大会である。もし自国の選手が金メダルでもとれば、狂気乱舞する国もあるくらい関心が高い。
そんな大会で自国の選手を応援するのは当然のことであり、さらに自分の身内や親類が出場していればもっとその気持ちが強まってくる。他国の選手の結果次第で勝負が決まる時には、その選手のミスを祈ることさえある。
審判のように公平・公正さを求められる者は別として、応援する者の中に「どこの国が勝ってもいい。誰が優勝してもいい」という人がいたら、本当にそんな気持ちで応援できるものなのかと疑ってしまう。
もし、そんな人がいるとしたら、競技そのものに対して非常に冷めている感じがする。スポーツであろうと何であろうと、人が争うことに対して否定的な意見を持っているのではないだろうか。
「何事においても、好戦的なのはいけない」というのは分かる。確かにスポーツにおいても、勝つことに異常にこだわりすぎるのはどうかと思う。
勝つためには、ルール違反までする。禁止されている薬物を使う。審判を金品で買収し、偏ったジャッジをさせる。このような行為は、論外である。
しかし、ルールに基づいて正々堂々と勝負するのであれば、その争いは認められるのではないか。
時には我々に感動を与えてくれて、「その場にいてよかった」という気持ちにさせてくれるスポーツである。競技である。そして、その応援である。
すべての観衆が我を忘れて一体になり、贔屓する選手やチームを必死で応援するのは、許される悪ではないか。
・ 競争
社会通念として、「争い」という言葉は否定的な意味で使われるが、「競争」は肯定的な意味で使われることが多い。
競争を肯定的に捉えるのは、スポーツ界である。勝者のインタビューで「ライバルがいたから切磋琢磨して向上できた」いう言葉がその例である。
世の中には、いろんな競争がある。かけっこ、早食い、売り上げ、価格、技術、偏差値、学歴、富、社会的地位、オーディションでの選考など、数え上げるときりがない。
人は、どんなことでも他人と比べたがるようである。そして、他人より抜きんでようとするために、必然的に競争心が起こる。その競争心が自分を向上するためのモチベーションとなる訳である。
しかしその一方で、競争心が悲劇の原因となる時もある。熾烈な競争のために大きな賭に出て、その結果、立ち直れない状態になり、裏社会に首を突っ込むということもよくある話である。
日本の大学受験は、受かる者と落ちる者がはっきりする競争である。定員があって、テストの成績の上位の者から合格していくのであり、テストの成績が良ければ誰でも受かるというシステムではない。
他の受験者の成績が自分より良ければ、必然的に自分が落ちてしまうことになる。そういうことから、自分のテストの出来具合を心配するだけでなく、他の受験者の不出来を願う輩も出てくる。
中には、他人を蹴落とす策略を練って実行するダーティな受験生もいるらしい。勉学だけを励めばいいものを、余計な悪巧みを考えることに余念がないという馬鹿者である。
さらに、高望みによって裏口入学をする輩もいる。自分の能力にあった大学を受験すればよいのに、そうしないのである。
このような不正行為は、努力すれば何とかなる人より、まともに勝負すると負けてしまう人の方がする傾向にある。
見栄の方が理性より勝ってしまうのであり、そんな人が競争心を持つと、ろくなことにならない。過度の競争心は、悪を生み出す可能性があるという例である。
・ギャンブル
ギャンブル関連の遊技場も必要悪である。
日本では、公営ギャンブルとして競馬、競輪、競艇、オートレースが行われているが、そのファンはかなりの数になる。
また、遊技場としてのパチンコ店が全国各地にあり、利用する客の数は、公営ギャンブルに勝るほどである。
パチンコ店では、原則として金銭のやり取りは認められてはいない。しかし、実際は間接的にしている。所謂、勝つか負けるかの賭博場になっているのである。
ギャンブル性の強いパチンコ店が流行る理由は、三つある。
一つは、元手を数倍にできる可能性があることである。そうなれば優越感が持てて、刹那的ではあるが少しの幸福感も味わえる。逆に負けた場合は、注ぎ込んだ金のすべてがなくなるのであり、かなり刺激的である。
二つ目は、ストレス解消である。台に向かって座ると、毎日の仕事や家事でのストレスや人間関係の煩わしさなどを忘れさせてくれる。
三つ目は、社交場としての利用である。常連になると顔なじみもできて、雑談をするだけでも楽しくなる。店員もお金を落としてくれる客には優しいし、気さくに声もかけてくれる。
日本中のどこにでもあり、毎日営業しているパチンコ店。このような所は、大衆にとって手っ取り早い娯楽の場所となる。
客層を見れば、年寄りが結構多い。やることがない年寄りにとっては、そこは憩いの場であり、仲間と会えて一喜一憂できる唯一の所になる。
もし、突然このような場所がなくなると、どうなるのだろうか。これといった趣味のない者にとっては、唯一の楽しみがなくなるに違いない。生きていることが辛くなり、無気力になってしまう人もいるだろう。何か違う刺激を求めて、とんでもない悪行に手を染める者も出てくるかも知れない。
それほど、パチンコ店は重要な役割を担っていて、お客にとっては有難い存在になっているのである。
このように重宝なパチンコ店ではあるが、店のオーナーは、そんな人たちの為に営業をしているのではない。言うまでもなく店の利益の為であり、奉仕目的で営業している店など皆無なのである。
どのパチンコ店も、たくさん客が来て、たくさんお金を落としてくれることを願う。あの手この手を使って常連客を増やし、利益が拡大することしか考えていない。
時には、大喜びするような設定も入れて、客が店から飛ばないように工夫する。中には、不正に遠隔操作をしている店もあるらしい。
一度大勝ちをして良い思いをした客は、その味が忘れられずにまた来る。常連になって、お金を湯水のように使い出す。負け続けても尚、通い続ける。気がつけば非常に大きな額になっていることもある。あくまでも、「お客は、大切な金のなる木」なのである。
痛い目にあっても、頭を抱えるほどの窮地になっても、懲りずにまた行きたい。サラ金で借金をしてまでも、パチンコがしたい。人間の心理をついた巧妙な罠と言っても言い過ぎでない。
常連客は完全にパチンコ依存症に陥っているのであり、まるでパチンコに取りつかれた中毒患者のようである。そうして得た利益は、一部暴力団に流れているという噂もある。
このような中毒患者はパチンコ店だけではなく、公営ギャンブルや裏カジノにおいてもいると聞く。
人生を台無しにするようなリスクを背負ってまで、何故彼らは博打をするのか。かなりの痛い思いをしてまで、何故その行為を止めないのか。
ギャンブルではなく、もっと良い趣味(人によって異なるが)を持って有意義に生活すればいいと思うのであるが、それができない人種にとっては、ギャンブルが一番の生き甲斐なのである。
ストレスの多い社会において、それを解消するのにちょっとした刺激が欲しい。運が良ければ大金を手に入れられる可能性もある。
最初は、「自分は破滅には絶対向かわない」と思っている。「負けても生活に支障のない程度に抑えられる」と思っている。
ところが嵌って、大きな借金を抱えることになる。中には、一財産をなくして一家離散という憂き目にあった者もいる。自殺者も毎年のように出ている。本人にとっては自業自得であるが、その家族にとっては地獄である。
少しの遊びで終わればいい。それで終わらない人は、必然的に破滅へと向かう。歯止めが効くか効かないかは、その人自身の意志が左右するのである。
・ 風俗
刺激を求めるという点では、風俗も同じである。金さえ出せば、通常では無理な事も出来きて、目的が達せられるのである。
昔、日本では、遊郭や赤線というのがあった。そこは、性のはけ口の場所であり、お上も公然と認めていた。悪の温床になりかねないものを何故に認めていたのか。その理由はこうである。
もし娼婦がいなかったら、男の生理的な欲望から強姦が多発する恐れがある。場合によっては、その口封じに殺人にまで及ぶ可能性もある。遊郭や赤線は、そのような犯罪を抑える防波堤のような役割を担っていたのであり、お上としては認めざるを得なかった訳である。
もちろん、娼婦たちの経済的な部分を助けていたことは言うまでもない。娼婦の中には、自ら進んでというより家族の犠牲になって、身売り同然で嫌々遊郭で働かされた者が多い。
女性の職業が限られた時代では、生きて行く為の収入を得るのは非常に困難であり、このような業しか手段がなかったのである。
実際、売春禁止法が施行されるまで遊郭や赤線は続いていて、終戦後、進駐軍が、日本の女性を襲わないようにと赤線を奨励したという話もあるくらいである。
現在では、人権擁護のため禁止されているが、遊郭や赤線の代わりをしている風俗は、公然と認められてはいないものの、雨後の筍のようにたくさんある。自衛官や警察官の中にも、そのような風俗店に通った者がいるのではないだろうか。
風俗嬢の中には、生活費や学費、あるいは病人の医療費を稼ぐために仕方なくしている者もいる。家族が作った借金の返済という者もいる。小遣い欲しさから安易な気持ちで援助交際をする女子高生とは、ちょっと事情が違うのである。
客の中に「安易にこんな仕事をせずに、誰もが認める仕事をしなさい」と説教する人もいるらしいが、それができるくらいならこんな仕事はしない。第一「そんな風俗を利用しているあんたはどうなのか」と問い返したくなる。
確かに娼婦というのは、褒められた仕事ではない。世間から後ろ指をさされる業である。もし身内にそんな事をしている者がいれば止めてほしいと願うだろう。
特に敬虔な宗教信者たちは、「愛情がないその行為は、神や仏に対する冒涜である」と非難するに違いない。その言葉に、風俗嬢はこう反論する。
「私たちは、人の物を盗んだり、人を騙したりという悪事はしてはいない。自分の体を売っているだけであり、芸人が芸を売るのと同じである。誰にも迷惑はかけていない」
おそらくこの反論は、娼婦たちの本心ではない。できればこんな仕事はしたくないのである。自分に子どもができて、大きくなったその子どもに「お母さんは、何の仕事をしているの」と尋ねられたとき、胸を張って「立派な娼婦よ」とは答えられまい。
真っ当な仕事ではないと思いながらもせざるを得ないのであり、その言い訳によって自分自身を納得させているにすぎない。そうとでも言わなくては、自分たちが惨めなままなのである。
しかし、そんな不本意な仕事をしてでも、生きて行こうと努力しているのは事実である。自分の境遇をなんとか変えて、這い上がろうとする力強さは感じる。
実際問題、家庭の事情を抱えた女性が普通に生きていくのは難しい。女手一つで病気の家族の面倒を見るのは、大変なことである。特に莫大な費用が必要になるときは、普通の仕事では無理である。それを可能にする為には、それ相当の収入が必要になり、限られた仕事になってくる。
だから、良くないことと承知の上で、嫌な思いも我慢して風俗に身を置くのである。それを責めることは、誰もできないのではないか。
日本ではないように思うが、ある国では、貧困のために幼い女の子が体を売っていると聞く。義務教育を受ける年令の女の子がである。
身寄りもなく、面倒を見てくれる者は誰もいない。自分が稼がなくては、生きていけない。頼りにしたい政府は、全く知らん顔である。
このように世の中には、過酷な状況にある子どもがたくさんいる。その日その日を生き延びるのに体を張っているのである。そんな子どもたちの将来は、とても暗い。生きる力があるとはいえ、この先、破滅的な方向に走りそうである。
国は、子どもたちを反社会に向かわせてはいけない。社会人として希望が持てるような支援をしなくてはならない。たとえ経済的に窮地であっても、せめて最低限の義務教育だけは、保障してやって欲しいと願う。
風俗もギャンブルも悪である。風俗嬢の貞操観念のなさや安易にそれを利用する客の意識、ギャンブラーの強欲さは責められても仕方がない。
しかし、本人たちはそれを承知の上で、そのような悪に走っている。そうせざるを得ないからである。
万人が何の苦労もなく生きていくなど、有り得ない話である。この先、どんなに素晴らしい世の中になっても、人それぞれに何らかの壁が立ち塞がる。
その結果、社会的な敗者や落伍者になる場合もある。その重荷を背負って生まれてくる人も少なからずである。
閉塞感を持った人や精神的に追い詰められた人は、逃げ場を探す。刹那的であっても一時の刺激を求める。
それが、風俗やギャンブルがこの世の中からなくならない理由である。

