・ 強姦                              

   一人の女性が、街灯もまばらな人気のない通りを歩いている。仕事を終えて、自宅に向かっている途中である。

   物影から不意に男が現れた。その男に「声を出すと殺すぞ!」とナイフで脅され、押し倒される。

   男は覆面をしていて、どこの誰だか分からない。恐怖のあまり体が硬直して動くこともできない。男に抵抗する術もなく、泣く泣く強姦される。強姦された後、口封じのためにナイフで首を刺され、命を奪われてしまう。

   自分の欲望のために人の命を平気で奪う悪人が、今夜も獲物を狙っている。どこかで息を殺して潜んでいる。捕まらないのをよいことに、味を占めた輩が再び犯そうとしている。

   外国では、幼い少年少女が犠牲者になる事件が結構ある。見知らぬ男に騙されてついて行き、その後、見るも無惨な姿で発見されている。まったく聞くに堪えない話である。

   最近、日本で話題になったレイプ事件があった。加害者は、大学のサークルに所属する男子学生である。コンパで一人の女性を意識が無くなるまで泥酔させて、みんなで輪姦したのである。

   後日、被害者の訴えで、犯行に加わった学生たち全員が逮捕される。彼らは「合意で行った」と言い訳をするが、被害者や目撃者の証言で嘘がばれる。         

   被害者は、泣き寝入りしなかった。自分が晒し者になるのを覚悟で、果敢に訴え出ることを選んだ。

   決心させたのは、加害者に対する大きな憤りや憎しみである。さらには、屈辱に対する報復もあるのかも知れない。

  いずれにしても、被害者は、心に深い傷を負うことになる。忘れようとしても忘れられないトラウマである。

   このような被害者の中には、結婚式が数日後に控えているのに、暴漢に強姦されて精神に異常をきたした女性もいると聞く。

   被害者の両親のショックも大きい。最愛の娘が暴行されて黙っていられる親はいないのであり、犯罪者に対する憎しみや憤りは被害者以上かも知れない。

  実際、外国のレイプ事件で、「父親が憎しみのあまり、護送中の犯人を射殺した」という話もあるくらいで、それほど卑劣な行為なのである。

  逮捕された加害者たちは、「自分たちは、本当に悪いことをした」とは悔いていない。減刑のために反省のポーズはとっても、本心は「ドジを踏んだ」くらいにしか思っていない。

  もし、逮捕されていなかったら、間違いなく同じ事を繰り返しているはずである。

   しかし、こういう輩でも、自分に娘ができて、その娘が自分のしたことと同様の仕打ちを受けたなら黙ってはおられまい。烈火のごとく怒り狂うに違いない。

  自分がされて嫌なことは、他人も嫌なのである。そういう意識がないから、人の心を平然と傷つけることができるのである。

  このような人非人は、重い刑罰を科すべきである。身勝手な欲望によって人の前途を破壊するような行為は、断じて許してはいけないのである。

 

・ 麻薬

   一口に麻薬と言っても、個人的な快楽だけに使われる非合法的なものから、医療現場で鎮痛剤として処方されるものまで多種多様にある。

  元々は、ケシの実を原料とした薬剤のことを示していたが、現在では、モルヒネ、ヘロイン、コカイン、LSD、MDMA、MDEA、マジックマッシュルームなど様々な薬物が麻薬と指定されている。

   その毒性や依存性は、人体や社会に悪影響を及ぼすのであり、ほとんどの国で禁じられている。中には、使用はもちろん、所持するだけで死刑になる国もある。

   麻薬の起源は、宗教儀式で使われた幻覚性植物であると言われる。幻覚性植物を聖なる植物とし、深い瞑想のために使用したのである。

   現在では、本来の使用目的とはかけ離れ、刹那的な高揚を得るための薬物として使われることが多い。密売によって多額の利益が得られる事から、ギャング、マフィアなどの重要な資金源となっているのが現状である。集団犯罪組織の他に反政府勢力やテロリストなどが生産に関わっているとも言われている。

   所持すれば死刑になる国がある一方で、国家産業として国を挙げてコカインの生産をしている国もある。コロンビアである。「国益のために、貧しい国民を救うために」と政府も認めている。「麻薬を輸出して、自国に利益をもたらす。輸出先の国民がどうなろうと知ったことではない」という考えである。いくら国益の為とはいえ、このようなことが許されてよいのだろうか。

   公にはしていないが、アメリカもベトナム戦争当時、兵士に対して士気を高めるためにコカイン摂取を認めていたようである。「勝つためには、なりふり構わず」である。

   戦後、日本で流行ったヒロポンも、戦争中に旧日本軍に配布されたことから始まった。前線で戦う兵士の戦闘意欲を高めたり、特攻隊員が死の恐怖心を持たぬように使用したりしたのである。

   同盟国であるドイツの軍事工場においても、疲労時に耐性を高め、生産効率を上げるために従業員に配布されていた。

   終戦を向かえてその使用目的はなくなるが、減るどころか常用する者が増え出し、たくさんの中毒患者がでた。当時は、薬局で簡単に手に入れることができたのである。

   ヒロポン(メタンフェタミン)は、明治時代に日本の製薬会社が開発した薬物である。眠らなくても、また空腹であっても元気でいられるという活力剤であった。

   それが後に、世界各国に覚醒剤として広まっていった訳である。ちなみに、「ピロポン」の名前の意味は、ギリシャ語の「仕事が好きである」ということであるらしい。

   マリワナは、ほとんどの国で禁止されているが、オランダでは合法的に売られている。人体への影響がさほどないと容認されていて、普通に手に入るようである。

  実際のところ、その安全性は疑わしい。日常的にマリワナを吸うと、妊婦の胎児に悪い影響を与えるという説があったり、トリップした為にビルから飛び降りて重傷を負った者の話も聞いたりする。

   そんな物がなぜオランダで合法になっているのかというと、マフィアの資金源にさせないためであるらしい。実際、その成果もあるようである。国によって合法になったり非合法になったりする厄介な代物である。

   どんな物でも、過剰の摂取は人体にとって良くない。昔から「百薬の長」と言われている酒も、過剰に摂取すれば病気や事故を引き起こす原因になる。自制の意識が低ければ、飲酒で奈落に落ちる確率が高くなるのである。

   最近では、有害な物として煙草も対象になってきた。禁煙場所が増え続け、愛煙家にとっては、非常に肩身の狭い思いを強いられている。これも仕方がないことである。

  このように、合法的に売られている物でさえ人体に悪影響を及ぼす危険性があるのだから、マリワナのように安全性の疑わしいものは尚更である。たとえ少量でも、摂取すべきではない。もちろん、麻薬のような人を廃人にする薬物などは論外である。

   そのような麻薬の害をメディアが毎日のように訴えているのにもかかわらず、世界中でコカイン、ハシシなどの麻薬が売買され使用されている。

   麻薬が、人の体をボロボロにすることは誰もが知っている。なのに、手を出す者が後を絶たないのは何故なのか。

   人は、弱い生き物である。精神的に大きな負担がかかったり、ストレスがたくさん貯まったりすると、何かに頼ろうとする。何かで逃れようとする。

  音楽を聴いたり、大声で歌ったり、酒を飲んだり、旅行に出たりとその対処の仕方は人によってまちまちであるが、とにかく息抜きや気晴らしをするのである。

  ところが、そんなことでは満足できない人もいる。そういう人たちは、常に刺激的で即効的な物を求め、それによって大きな高揚感を持とうとする。探し求めてたどり着く先は、非合法的な薬物になる。それが麻薬なのである。

  酒に依存してアル中になるのも良くないが、麻薬はもっと悲惨な結果になる。値段が高いので、買えなくなると犯罪に走り出す。恐喝や強盗、果ては殺人まで犯し、一生を台無しにするのである。それほど恐ろしい物なのである麻薬という代物は。

   きっかけは、密売ルートを知る友人の勧めである。その友人も知人の紹介で知る。所謂口コミである。

  最初はこわごわであっても、一回、二回と使用するたびにその魅力にはまり、ついには常用することとなる。

  麻薬の売人は、客になりそうな輩を目聡く見つける。一度でも使用すればリピーターになる確立が高いので、あの手この手で買わす。物が高額であっても頻繁に買ってくれる客は、売人にとっては良い常連と言える。

  中毒者は、捕まるリスク、人体への悪影響、高い値段を承知の上で使用し続ける。破滅に向かうことが分かっていながら、手を出さずにはいられないのである。

   疲労回復の薬と騙されて、麻薬を飲まされた女性の被害者もいる。シャブ漬けになって男のいいなりになるお決まりのパターンである。最後はソープなどの風俗店で働かされるという、テレビのドラマで見るようなことが実際にあるのである。

  奴らは、女性の体が麻薬でどうなろうと知ったことではない。廃人になったら、また次の代わりを探す。稼ぎは、自分の懐に入れる。女性を資金源の道具としか見ていない最悪の輩である。

  こんな悪人は、捕まえたら一生牢獄から出られないようにすべきである。そうしないと、また同じような犯罪を起こす可能性があるからである。

   近年、麻薬撲滅運動がメディアなどで宣伝されているが、効果は非常に薄い。「手を出すな」と言っても、誰かが手を出している。「馬の耳に念仏」なのである。

  このような現象は、理性より麻薬の誘惑の方が勝るということなのだろうか。麻薬で儲けている輩の論理はこうである。

「医療で麻酔として使用されている物の起源は、麻薬である。肉体に対してだけでなく、精神的な苦痛のある者に対しても対処が必要だ。需要があるから供給がある。だから、製造を続けるのだ」 

  盗人にも三分の理である。人の弱点をついた商売であるから、どうしても成り立ってしまうのである。それでも、なんとか止めさせなければならない。

  それには、世界中の麻薬を根こそぎなくすしかない。密輸ルートを遮断して、工場をすべて壊す。現存するすべての麻薬を処分する。そして、製造や売買に関わった者を徹底的に罰する。それに尽きる。

   これを実現するのは、非常にハードルが高く困難であると思うが、この先、麻薬に関わる犯罪が起こらないようにするにはこれしかないのである。

 

・ 賄賂

   その昔、私が教職についていた頃の話である。

  学校では、生徒が使うテストやドリルなどの教材は、指定の業者から一括して買うことになっていた。その支払いは、担任が保護者から預かり金という名目で集金して、その中から行った。帳簿も作成し、担任にとっては時間のかかる煩わしい職務であった。

  学校には複数の業者が出入りしていて、当然競合になった。業者にとっては、注文が入るか入らないかは死活問題になるので、「どこの業者にするか」という担任の選択が気になっていた。特に生徒数の多い大規模校は、かなりの収益が見込まれたので、自分の店のアピールに躍起となったのである。

  彼らの中には、注文がもらえるように担任に対して過剰な接待をする者もいた。豪華な飲み会や食事会への招待、土産物のプレゼント、時にはリベートもあったと聞く。結果的に保護者から預かった金の一部を懐に入れることになる。

  修学旅行で泊まる旅館の女将も同様である。毎年行われているその下見では、続けて定宿にしてもらうためにと、豪勢な食事でもてなしてくれた。

   土産物屋もアピールのためにわざわざ旅館に出向いて、たくさんの土産物を持たせてくれたものである。

   これらのサービスは、お歳暮やお中元のような「お世話になっている方への感謝の意を込めた贈り物」ではない。はっきり言って、便宜を図ってもらうための賄賂である。

  このような賄賂は日常的にあって、誰もが見て見ぬふりをしていたのであり、当然のように許されていた。当時は、そういう時代であったのである。

   まあ、土産として饅頭一箱であるなら賄賂とは言い難いのかも知れないが、目論見は賄賂と同じであり、今なら犯罪行為と批判されても仕方がない。

   近年では、「どんな些細な贈与物も受け取ってはいけない」というお達しがあり、特に公務員はそれを破った場合、厳しい処罰が科せられることになった。

   それでも、賄賂はなくならない。それも教材屋や旅館の女将の取るに足らない賄賂ではなく、驚くような金額の賄賂である。

  毎年のように、巨額の賄賂に関わった会社の重役や政治家の名前が報道されているが、表に出ているのは氷山の一角であり、実際は夥しい数になると予想する。

「利権を得るための賄賂や裏取引は、誰もがしていることだ。正直者は馬鹿を見るのであり、バレなければいいのである」

  競争社会では、そのような邪な考えが必然的に出てくる。不正なことをしてまで、見返りを貰うのである。そうすることが、唯一の手段だと思い込んでいる。

 賄賂は、世界中のどこの国においてもある。社会主義国や共産主義国においてもある。処罰が厳しいので抜け道をつくって表にでないようにしているだけであり、現実にはある。

   賄賂で有名だったのが、中華人民共和国になる前の中国である。まだ皇帝が存在していた時代である。官僚への賄賂は当たり前で、逆に賄賂を渡さない者は、一般常識がない不届き者と言われたらしい。                                    

   アメリカ合衆国も、賄賂が頻繁に行われていた。特に警察官への賄賂が酷かったようである。見返りは、マフィアに機密情報を流したり、犯罪者をわざと逮捕しなかったりと公僕としてあるまじき行為であった。後にマフィアとの繋がりが明らかにされ、警察の信用がガタ落ちになってしまう。

  ある料亭の一室における密談

   頭巾を肩まですっぽり被った代官に、大店の商人がずっしり重い菓子箱を差し出す。中身は、言わずと知れた山吹色に輝く小判である。それを手にして代官は言う。

「越後屋、お主も悪よのう」

「いいえ、お代官様こそ」

双方の利害が一致したことに、二人は含み笑いをする。 

「魚心あれば水心」とは、よくいったものである。世の中には、このようにあからさまでないにしても、それらしき事は星の数ほどある。

  会社で昇級したいが為に、上司に気に入られるよう高額なお中元やお歳暮を贈ることはよくある話である。もしこれが犯罪となるなら、大半の会社員が犯罪者となってしまう。どこまでが許されるのかその線引きは難しい。

   まあ、菓子折一つなら、なんとか許される範囲である。それが、明らかに高額な物となるとそうはいかない。

   この程度に抑えておこうと決めても、「ライバルよりも上の物を」という思いはその一線を過剰に上げていく。気がつけば、遥かに度を超していることもあり、そうならないように、歯止めをかけて欲しいものである。

                                                  

・ 有害物質

   過去に、ヒ素という有害物質が乳製品に含まれていたために、取り返しのつかないことになった事件があった。

  会社にとっては大量に売るための開発商品であったが、責任者は、製品化する過程で使われていた薬品の安全性を点検せずに、そのまま市場に出してしまったのである。

   その結果、これを飲んだ一万人以上の乳児がヒ素中毒になり、百人以上の死亡者が出てしまう。

  事件が発覚した当初、会社は責任が自分たちにあるのではなく、薬品を製造した薬品会社側にあると言い逃れた。

   しかし、販売する上でその製品の安全性を確認しなかったということで、世論から非難を浴びる。

   我々が日常的に口にする食品に関することであり、しかも、乳児の食品である。口にして異常を感じれば、大人ならはき出すことができるが、乳児はできないのである。

  故に、幼い子ども用の食品の製造には、格別な細心の注意が必要となる。それを怠るというのは、利益を追求することしか頭にない経営者側のまさに悪行なのである。

   この事件を契機に、食品に対する安全性への意識は高まった。ところが、その後も同じような不祥事が起こってしまう。同会社の乳製品による食中毒事件である。

  発症者が一万人にも達したのであり、原因を調査した結果、その中に黄色ブドウ球菌による毒素が含まれていたことが分かる。

「なぜ黄色ブドウ球菌が紛れ込んだのか」

  そのことを追及していく中で、工場のずさんな温度管理、品質保持期間の改ざんなどの実態が明らかになる。

  前の事件における会社側の弁明と改善の決意は、一体何だったのか。結局のところ、教訓がまったく生かされていなかったのである。

   子どもの頃、近所の駄菓子屋に行って駄菓子をよく買ったものである。そのほとんどに、「チクロ」という添加物が入っていた。

  チクロは、安価で甘味料に適していたが、発癌性の疑いが指摘されたため、日本では食品添加物の指定を取り消され使用禁止になった。

   それでも、世界中で使用禁止になった訳ではなく、チクロの発癌性を否定するカナダ、中国などでは依然使用されている。

  確かに発癌性が立証されるには、時間がかかる。現段階では、発癌性の有無を断言できない。

  しかしそうであっても、「疑わしきは、使用せず」であり、発癌性の疑いのあるものを認める訳にはいかない。いくら原価が安いからといって、そのような危険性のある食品を安易に売るのはどうかと思う。

  企業は利潤を求めるものである。確かに商品を売らなければならない。その一方で、より安全な食品作りを目指さなければならないし、その責任がある。

  懸命に育児をする母親を失意のどん底に落としてしまうような食品は、絶対に作ってはいけないのであり、ヒ素事件のような不幸が再び起こらないように、最大の注意を払って欲しいと願う。

 

・ 食品偽装

   賞味期限や消費期限が過ぎている食品の日付を改ざんして、再び商品として売り出していた会社が摘発された。

  摘発されたのは、有名なチョコレート製造会社や老舗の餅のメーカーである。さらに、輸入した外国産の食材を日本産と偽って販売していた精肉会社も摘発される。他に、普段我々が口にする牛乳も製造工場においてこのような改ざんが行われていたのが発覚する。

  その後も、様々な食品の偽装が明るみになったが、こんなことが頻繁におこると、「世の中には、安全な食品など全くないのではないか」と疑心暗鬼になる。

  ある焼き肉チェーン店での話である。客の何人かがその店のユッケを食べて食中毒にかかり、四人の死亡者を出すまでに至った。

   その店は、価格破壊というふれこみで人気があったが、この食中毒によって店の裏事情が判明する。

  社長は、客を呼ぶ手段として商品の激安を図った。そうして利益を出すために極安のカス肉を出した。食すれば人体に悪影響を及ぼす最悪の肉をである。そうとも知らずに客は、安全な肉と思って食べたのである。

  このような偽装行為は、この店だけではない。他にも同様の悪徳な店が摘発される。アメリカ産の肉を和牛と偽るのは、まだましな方であり、

・ 粗悪な肉に脂肪を注入して霜降りに見せかける。

・ 出産を繰り返してもう産めなくなった廃用牛の肉や奇形の牛の肉を使う。

・ 果ては病気であった牛の肉やただ同然の腐りかけた肉を出す。

など、非常に悪辣な手口もあった。こんなことをよく考えついたものだと、ただただ呆れるしかない。

   それにしても、なんという倫理観であろうか。自分の利益のためには、他人がどうなろうと知ったことではないのである。そんな輩は、夜な夜な「騙される奴が馬鹿である」と、ほくそ笑んで札束を数えているに違いない。

   食品は、我々が生きていくのに不可欠なものである。その食品に安全性が欠けているのであれば、摂取してはいけないのは言うまでもない。

   もし、有害物質が含まれているなら、人体に悪い影響を及ぼすのはもちろん、右記のように死に至る危険性もある。

   それを平然とやってしまうような経営者には、営業停止にするどころか、二度と食品に携われないような重い処罰を課すべきである。

  さらに当局には、このような営業をする店が出て来ないように、商品の品質検査を抜き打ちで徹底的にしてもらいたいものである。

                                                  

・ 使い回し

   名の通った老舗の料亭が、客の食べ残した料理を使い回したり、消費期限の切れた食材を使用したりしたことが内部告発により発覚した。

しかもそれが、料亭のオーナーの指示で行われたというので、当時、話題になったのである。

  それを知った常連の客は、「まさかあの店に限って」と耳を疑った。多少高めの価格ではあるが、「良質の食材を一流の料理人が手間暇かけて調理している」と思い、長年ひいきにしてきた店なのである。

   安心できるはずの老舗が、そんな不始末をするとは全く信じられないことであった。結局、その告発によって、店の信用がガタ落ちになったのは言うまでもない。

   何故こんなことが起きたのか。それは、店の経営の悪化である。このままでは経営を維持できないからと、使い回しなどによって経営難を打開しようとしたのである。

   いくら経営難であるからといっても、そんなことは許されない。料理を出す店である以上、食品の安全性を第一に考えなければならないのは当然のことである。

   ファーストフードのバーガー店でさえも厳しい品質管理を行っているのであり、長く続いた老舗であるなら尚更、その信用をなくすようなことはしてはいけないのである。

   食料が不足していた戦中・戦後の日本では、賞味期限や消費期限という言葉は、ほとんど使われなかった。消費期限が過ぎていても、食べられる可能性があるものはすべて食べたのである。

   もったいないからと、地面に落としたものでも土を払って食べていた。そんなことをしても、非難の眼で見られることはなかったのであり、そういう時代だったのである。

   しかし、今はそんな時代ではない。物資が豊富にある今日では、食料に関してはより高い安全性が求められている。摂取することで人体に害を及ぼす可能性のある物は、絶対に認めてはいけないのである。

  賞味期限が切れた程度では、人体に害を及ぼす可能性はまずない。しかし、「最上級の食材を客に提供する」という謳い文句を看板にする料亭の料理である。店のプライドにかけても最善の料理を出さなくてはいけないのである。

   ところが、「この代で『のれん』をたたみたくない」「長く続いた老舗の意地がある」という理由で、経営者主導によるペテンまがいの悪行が行われていたのである。

   そこまでして店を続ける必要はないのであり、それができないのなら、さっさと店を閉めるべきであった。

   信用第一で続いてきた老舗であっても、順風満帆な時はよいが、逆境で追いつめられてしまうとこのような悪行に手を染めてしまうという見本である。

 

・ 虐待     

  最近、親が子どもを虐待して、死なせることが多いように感じる。

   暴行した上、栄養失調になるまで食事を与えなかったり、冬の寒いベランダに長時間放置したりとまさかと思うようなことが行われているのである。

  メディアによって、そんな事件が毎日のように伝えられるが、どう考えてもやりすぎとしか思えない。

  行儀やマナーを身につけさせるための躾として叱るのは分かる。しかし、そうであっても、死んでしまう危険性のある折檻を何故するのだろうか。過失だったでは、済まされないのである。

   状況から、「ひょっとしたら、子どもが邪魔に感じて、育てるのが嫌になったのではないか。子どもが死ぬのを密かに望んでいたのではないか」という邪推まで起こってくる。

  言うまでもないが、人が子どもを儲けるというのは、その子が成人になるまでしっかり育てるということを前提としている。それが親としての責任である。

   それを途中で投げ出して、虐待によって命を奪うことなど言語道断である。たとえ義理の親であっても、そのことは絶対あってはならないのである。

  実際、母親の再婚相手である義理の父親が、連れ子を疎ましく思って辛くあたり、虐待によって死に至らしめた事件があった。

  夫の言いなりである母親は、それを見て見ぬふりをするどころか、同じように虐待に加わっていたという。子どもをかばうはずの実の母親がである。なんと嘆かわしいことか。

   さらにこんな惨い事件もあった。若い母親が、二人の幼い子どもをマンションに置き去りにして餓死させてしまったのである。

   食べ物もなく、泣き叫びながら母親の帰りを待ち続けた子どもたちが、力尽きてしまうという悲惨な光景を想像すると、その母親に対する憤りが止まらなくなる。

  自分が働きに出るのは仕方がない。しかし、帰らなければ子どもたちが死んでしまうのは分かり切ったことであり、何日も放っておくというのは、はっきり言って殺人行為である。なんという母親であろうか。

   本当なら、「自分は食べなくても、子どもだけはひもじい思いをさせない。子どもに危険が迫ったら、身を制して守る」というのが、子どもに対する母親の気持ちではないだろうか。

  この母親も、子どもを産んだ当初は、「大事に育てて行こう」という気持ちであったと思いたい。思い描いた家庭が壊れ、シングルマザーになり、育児に疲れ、頼りたい親にも頼れず、次第に自爆自棄になっていったのかも知れない。

  しかしそうだとしても、自分の産んだ子どもである。親としての責任は、決して失ってはいけない。這いつくばっても、子どもたちを立派に育てなくてはならないのである。

   こんな事件が頻繁に起こると、「親子の絆というものは、こんなに脆いものなのか」と悲しくなってしまう。          

 

・ いじめ                   

  中学生の女の子が、ビルの屋上から飛び降り自殺をした。遺書が見つかって、その文面には自分をいじめていた同級生の複数の名前が書かれてあった。

   最近、教育現場において、このような「いじめ」による事件がよく起こる。死に至らないまでも、「いじめ」によって不登校になったり、ひきこもりになったりすることが毎日のように起こっている。

   学校では教師が、家では親が、「いじめはいけない」と子ども達に言い聞かせているにもかかわらず、起こるのである。

  なぜ、起こるのか。なぜ、いじめるのか。理由は簡単である。それは、自分の気に入らない者に仕打ちをするためであり、弱者を憂さ晴らしのターゲットにするためである。

   では、なぜこのようなことを起こす子が出てくるのか。なぜ、このような性格の子になってしまうのか。

   その理由の一つは、その子の生まれ持った性質である。

   幼稚園児を観察すると、それぞれの性格の違いがよく分かる。大人しい子、活発な子、自己主張の強い子などその違いがはっきりしている。

   生活経験が少なく、それほど環境の影響を受けていないにも関わらず、既に性格が出来上がっている。これは、持って生まれた性質がその子の性格を形成する大きな要素となっていることを証明している。

   そのことについては、同じ家庭で育った兄弟、姉妹を見ても分かる。同じ家庭で育っても必ず同じような性格になるとは限らない。同じ両親から生まれても、異なる性質である場合も多いのである。片方の親の遺伝子を強く引き継いでいるとか、祖父母の遺伝子を引き継いだ隔世遺伝であるとかということである。

   以前に、カッコーの「宅卵」の話をしたことがあるが、「宅卵」は遺伝子に関する如実な例を表している。

   カッコーの親鳥は、自分の卵を違う種類の鳥の巣に産み落とすのであるが、卵からかえった雛は、自分だけが成長できるように里親になる鳥の本当の卵を巣から落としてしまう。

  幼児もこのカッコーの雛のように、教えてもらっていないことを本能的に行うのである。そして、このような本能を非常に強く持って生まれた子どもが、問題を引き起こすようである。

   幼児は、ストレートに感情を表す。言葉で表現できにくい子でも、その表情によって心理状態が顕著に分かる。好きなものは好き、嫌なものは嫌とはっきりしている。

   対人関係もはっきりしている。本人を目の前にしても、「誰々ちゃん嫌い」と平然と言える。このような集団の中でリーダーシップをとるのは、より自己主張の強い子になる。

  そんな子は、遊びにおいても主導権をとってみんなを従えさせる。自分が気に入った遊具は他の子に渡さず、チーム対抗のゲームになれば自分のチームが有利になるように味方を選び、ルールもゲーム中にもかかわらず都合の良いように変えてしまうのである。

  そのように自己中心的なことばかりすると、それに反発する子が大人に訴えることになる。訴えられた子は当然叱られるが、それでも自分が悪いとは思っていない。悪いのは、訴えた子になる。逆恨みである。

   叱られた子は、訴えた子に仕返しをする。訴えた子を仲間はずれにする。「あの子と遊ぶな」と、他の子どもたちに命令する。そして、集団での「いじめ」に発展するのである。

  幼い子によるいじめは、小中高生に比べてそんなに悪質ではない。隠れてしないので、大人たちにすぐに気づかれてしまうからである。再びいじめるとまた叱られるという恐れもあって、終わることが多い。

   しかし、小中高生になるとそうはいかない。普段は、その悪意を露骨には出さず、大人に気づかれないように上手く立ち回る。陰で根回しをして誰かを陥れるようなことをする。たとえ気づかれても、自分は主犯でないと主張するのである。

  もし、「いじめ」によって自殺者が出ても、主犯の人は、「まさか死ぬとは思わなかった」と弁明したり、「自殺した人から、以前にこんな仕打ちを受けたからその仕返しである」と、正当化したりするかも知れない。

   人は成長するにつれて、自我を理性によって抑えられるようになる。大抵の人が、理性を優先させてくる。

   ところが、分別がつく時期になっても、そうでない人がいる。その人は、自我の意識が理性に勝り、常に自己中心的であり続ける。

   このような人は、自分の性格の悪さを自覚しないし、人から指摘されてもなかなか改めようとはしない。いつも何かにつけて自分がトップでいるのを望み、もし誰かが自分より上に行くと悪意を持つ。

   特に恋愛において三角関係の場合であれば、恋敵に険悪な悪意を持つようになる。いわゆる僻みや嫉妬である。その人が少しでもはしゃぐと、「調子に乗っている」と腹立たしく思ったりもする。「いじめ」はその報復であり、卑劣な手段で相手を陥れようとするのである。

   自己中心的な人は、社会人の中にも時たま見かける。年を重ねても、それが直らない。持って生まれた性質が起因した性格の悪さが、死ぬまで続く。

  親分肌なら、まだ許せる。煽てれば人のために働いてくれるので、頼り甲斐もある。ところが、自分のことしか考えない我が儘な人になるとそうはいかない。周りとのトラブルも多く、非常に厄介な存在になる。

   そうならないように、自我を制御できる強い意志を持ってもらいたい。他人と折り合いがつけられる柔軟な理性を培ってもらいたい。

   このように持って生まれた性質が人格形成の要因になるが、取り巻く環境も大きな影響を及ぼしている。

  まず、家庭である。家庭内に様々な問題が存在する場合である。

  両親が不仲で夫婦喧嘩が絶えず、家の中が常に修羅場であるとか、親のしつけが厳し過ぎるとか甘過ぎるとか、親が過度に自分を期待する重圧があるとか、兄や姉、弟や妹と比較されるとか、両親から愛情を受けてないとか、極度の貧困であるとか様々な状況が考えられる。

  このような家庭環境では、子どもの心が荒んでくる。安らぎがなく、ストレスを持つ。ストレスを自分自身で解消できればいいが、できない場合、気の弱そうな者や自分より弱い者をいじめて、その憂さ晴らしをする。

   それが、「いじめ」を起こす理由であり、いじめる方にとっては、快楽になる。そして、一度この快楽を味わうと何度も繰り返す。

   いじめられている方は、何故いじめられているのか分からない。何故自分がターゲットにされるのかまったく見当もつかない。

  いじめる側は、「あの顔を見るだけでもむかつく」「死ねばいいのに」など、ターゲットの悪口を友達にさんざん言う。「いじめ」を正当化するためであり、友達に加担させるためである。

   靴隠しなどは、まだましな方である。エスカレートすると黒板に名指しで悪口を書いたり、「お前なんか死んでしまえ」と匿名の手紙やメールを送ったり、ネットの掲示板に罵詈雑言を書いたりと言動がかなり過激になってくる。

  そうすることで、いじめの対象にする人の心を傷つけているのであり、落胆した様子を想像して喜ぶのである。こんな連中は、「卑劣であり、悪人である」と非難されても仕方がない。

   もちろん、いじめられる方に理由がある場合もある。しかし、「そんなことぐらいで」という程の些細なことである場合も多い。

  要するに、いじめる側にとっては、気にいらない者に制裁を加えないと気が収まらないのであり、憂さ晴らしにもならないのである。そんな人がクラスの中に一人でもいると、必ず陰湿な「いじめ」が起こる。

  友達の中には「いじめ」は良くないと思っている人もいる。しかし、そんなことを言うと自分も同じような目にあう恐れがあるので、加担したり、見て見ないふりをしたりする。それが良くないことと知りながら。

   現在起こっている「いじめ」は、多種多様である。様々な要因があって、大人の視点では掴みにくいこともある。

  実際に起こった「いじめ」の中に、こんなケースがあった。

  小学生の女の子の中での「いじめ」であるが、いじめられた女の子が、親に相談するくらい深刻なことになった。「いじめ」の内容は、女の子の悪口を書いた手紙を自分の机に入れられたということである。

  いじめられている女の子Aといじめている女の子たちは、もともと仲良しグループだった。

   しかし、ある日、Aがグループの人たちと遊ばなくなってしまう。グループの人たちはAが自分たちと遊ばなくなった理由が分からない。本人に聞いても言葉を濁すだけではっきり答えない。そのうち、グループ内でAの悪口を言うようになってくる。それがエスカレートして、悪口の手紙をAの机に入れてしまったのである。

   Aがグループの人たちと遊ばなくなったのは、理由がある。それは、Aの親である。Aの親が、「グループの人たちとつきあうな。特にBとは遊ぶな」とAに言ったのである。

  Bは、どちらかという活発なタイプで、グループ内では中心的な存在であった。影響力は強いが、決して不良ではない。

   グループのメンバーも真面目な人たちの集まりで、問題はなかった。それなのに「遊ぶな」と釘を刺したのである。何故か。

  それは、Aの親が、Bの親の事をあまり良く思っていなかったからである。

   Aの母親から連絡を受けて面談した時、母親がBの父親に対する不満をもらした。詳しくは語らなかったが、Bの父親がまるで反社会であるかのような口ぶりであった。

   つまり、自分の娘がBだけでなく、Bの父親とも関わるとそれが娘の将来に悪い影響をもたらすと恐れた訳である。

  Aが、みんなの前でそのことを言えなかったのは仕方がない。ところが、グループの人たちは、Aの行為を自分たちへの裏切りだと思ったのである。

   このときは、親同士が感情的になっていたので、冷却期間を設けて解決の方向に持って行くようにした。最終的には収まったが、根本的な解決には至らなかった。

   親は子の将来を思うものである。悪い友達とつきあって欲しくないという親の気持ちは分かる。しかし、親が反社会であるから子も悪いという考えは間違っている。親はどうあれ、子に罪はない。親の偏見がこのような事態を起こしたのである。

   もう一つ、特筆すべき例がある。これも小学校の女の子の中で起こった「いじめ」である。

  クラスの女の子たちにいじめられていた女の子Cが親に相談して、親は担任にそのことを言う。担任は、いじめていた子を集めて事実確認をすると、全員があっさり「いじめ」を認める。

   しかし、そのことに謝罪はしなかった。なぜなら、以前にあった「いじめ」の主犯がCであったからである。Cは、いじめられる前は「いじめ」の中心にいて、みんなに指図していたのである。それまでに、複数の人が順送りに「いじめ」の対象になっていた。

  立場が逆転したのは、Cの自己中心的な言動が周りの者にとって次第に疎ましくなったからである。誰からとなく「今度はCを無視しよう」という相談になり、実行する。

  担任は愕然とした。被害者が、加害者であったことにである。被害者意識の強いCの親にどのように説明したらいいのか。「貴方のお子さんは、以前いじめの主犯であったから、今回いじめられても仕方がないのです」とは言えない。あくまでも「いじめは良くないから、みんなに止めるように指導します」としか言えないのである。

   担任は、力のなさを深く反省しなければならない。これまでの「いじめ」に、まったく気がつかなかった自分自身を責めなくてはならない。そうしなければ、再び同じようなことが起こってしまうのである。

   ついでに、もう一つ例を出そう。これは中学校で起きた「いじめ」である。

   DEFの三人の女の子は、同じクラスであって、常にいっしょに行動するほど仲が良かった。

   しかし、Dは、EといるときはEの気を引くためFの悪口を言い、FといるときはFの気を引くためEの悪口をいった。

   そして、そのことが二人にばれる。Dの信用はなくなり、二人から無視されるようになる。さらに他の友達にもそのことが知られ、孤立してしまう。Dは学校に行くのが嫌になり、引きこもってしまう。

  結局、Dの自業自得であるが、このような人はどこにでもいる。大人になっても直らない。損な性格である。 

   どこかで仕入れた誰かの良くない情報を、誰彼構わず言い触らす癖がある人。信用がなくなって孤立しても、懲りずにそれを繰り返す人。自分自身が原因を作ったにもかかわらず、被害者意識は人一倍持っているので非常に厄介な存在になる。

   このように、「いじめ」といっても様々である。その要因が複雑に絡んで、子どもがすでに大人の言うことを聞かなくなっている場合もある。親や教師の力ではどうにもならない状態になっているのであり、容易には解決できない。それでも、諦めずに粘り強く手立てを打たなくてはいけないのである。

  難しい問題を対処するにあたって、必ず頭に入れておかなければならない事がある。

   それは、「いじめ」を受けている方の受け止め方である。精神的にタフな人であれば、ちょっとした「いじめ」なら受け流すこともできるが、非常に感受性の強い人なら、かなり深く傷ついてしまう。思い詰めて、自殺に至る可能性もある。

  同じような「いじめ」を受けても、人によって受け止め方が異なるのであり、自殺した人に、「何もそんなことくらいで死ななくても」とは責められないのである。

   いじめをする大半の人は、相手を自殺させようなんて思っていない。自殺すれば自分が悪者になるのは分かっているので、自分が判断するぎりぎりの線で抑える。

   ところが、目の敵にしていじめることしか眼中にない者にとっては、そこまで考えない。取り返しのつかないことになってから、初めて事の重大さに気づくことになる。

  報復であれ憂さ晴らしであれ、いずれにしても、「いじめ」を受けるのは、非常に辛いものである。靴を隠される程度ならまだしも、長期にわたって大勢から仲間はずれにされたり、無視されたり、中傷誹謗されたり、暴行を受けたりしたら、どんな人でも落ち込んでしまうに違いない。

  特に、一番親しくしていた友達から突然そんな仕打ちを受ければなおさらである。人によっては、「生きるのが嫌になる」という気持ちも起こってくるだろう。 

  しかしそうであっても、死ぬことが「いじめ」の解決策にはならない。「死ぬ勇気があるのなら、死ぬ気でいじめに立ち向かいなさい。いじめは、いつまでも続かない。今生きるのが辛くても、生きていて良かったと思える日が必ず来るはずだ」と叱咤激励したいものである。

   昔も「いじめ」はあった。その中には、今以上に卑劣で、人権を侵害するものもたくさんあった。対象となった人は、主に身障者や外国人、親が犯罪者の子どもたちである。   

   彼らは、屈辱的な言葉や暴力的な行為を受けながらもなんとか堪え忍んだ。中には、それをバネにして精神的に強くなった人もいる。もちろん、いじめる側に非はあるが、いじめられる側もそれに負けない強い精神を宿してほしいと願う。

   将来、社会に出てもそれはある。いじめるどころか他人を蹴落とそうとする者さえいる。嫉妬や妬みだけでなく利害関係が絡んでいるために、裏切りや陥れが日常茶飯事に起こっている。ただ、露骨に現れないだけであり、裏を探れば必ずある。

   そんな熾烈な修羅場に比べたら、「いじめ」など大したことではない。逆に自分を鍛えてくれる試練と思えばいいのである。だから、安易に「友達に無視されたから自殺したい」なんて思わないで欲しい。

   確かに、子どもの力だけではどうにも解決できない問題もある。また、自分から大人に相談するというのもなかなかできないことである。

   自分で解決したいという思いがある内は良いが、どうにもこうにも抜き差しならない状態で苦しんでいる場合は、大人が助け船を出したり、防波堤になったりしなければならない。

  実際、自殺するまで日常的に暴行を受けていたという悲惨な事件もあった。なんとかならなかったのかと非常に悔やまれる。

   周りの大人が、そのことを敏感に関知していれば、最悪の事態は防げたはずである。ちょっとした日常の変化に素早く気づいて、最良の対策を立てていれば、大事に至らなかったように思う。至極残念である。

   とはいえ、「いじめ」は見つけにくいものである。いつどこで起こるのか予想もできないのであり、未然に防ぐ方法などないに違いない。

   また、解決策としての虎の巻や特効薬もないのであり、その状況に応じた最良の手立てを探し出すしかない。ケース・バイ・ケースなのである。

   場合によっては、その場しのぎの応急処置でもよい。結果、大団円にならなくても、根本的な解決ができなくても、しこりが残ったままであっても、傷口が広がらなかったら「良し」とするのである。

  どのような問題にしても解決しようとするその姿勢が大切なのであり、特に教育現場にいる教師にとっては、このような心構えが必要であると思う。

一  子ども達の人間関係をしっかり捉える

二  子どもの本音を知る

三  問題の本質をつかむ(いじめが起こった原因)

四  この人に相談すれば解決するかも知れないという信頼感を得る

五  問題を起こした張本人であっても、愛情を持って叱る

  以上の五つである。言葉で表すと簡単であるが、それを実行するのはなかなか容易ではない。並大抵でない努力が必要である。

   難しい問題は、周りの大人達が協力しなければ解決できない。困難さのあまり、親は教師のせいにし、教師は親のせいにするといった責任のなすり合いもよく見られる。

   たとえどんなに拗れていても、なんとか手がかりを発見して、諦めずに解決して欲しいものである。

                                                              

・ 必要悪

   世の中には、こういう悪はあっても仕方がないという悪や、必要であるという悪が存在する。周りを見渡すと結構ある。

 

・ 贔屓

  例えば、贔屓である。世界中どこの国でも、「贔屓は倫理的に良くない。誰に対しても依怙贔屓なく平等に接しなさい」と教えられる。宗教の教義の中でも、よく否定される言葉である。

  しかし、実際は違う。自分の身内と他人では、同じようには接していない。また、親しい友人や恋人に対しても同様である。当たり前のことではあるが、平等と言うことから反しているのは事実である。

   野球の観戦をしていても、贔屓するチームとそうでないチームでは思い入れがまったく違う。贔屓のチームは熱烈に応援するが、反対に相手チームの選手に対してはボロクソに野次る。「三振しろとかエラーしろ」などはまだましな方で、個人の容姿に関わることまで野次ることもある。

  なぜ、野次るのか。それは、相手を精神的に落ち込ませ、実力が出せないようにするためである。

   もちろん、人権に関わるような野次は行き過ぎであるが、その場の雰囲気によってテンションが高揚し、罵声を平気で浴びせてしまうことはよくある。時には、子どもには聞かせたくないような内容もよく飛び交う。

  人というものは、何か勝負がかかると理性をなくしてしまう生き物のようである。自分の贔屓チームが勝つためには、相手チームをトコトン貶す。

   このような贔屓は、何事でも公平・平等にしなければならないというフェア精神から反するが、スポーツにおいては、そのことが如実に表れる。

   果たしてそれは、いけないことなのか。敵対する選手に対して、贔屓する選手と同じように応援する人はまずいない。そんなことは、心情的に無理である。たとえ、公平に振る舞う人がいても、表面上だけであって腹の中では違っている。

  オリンピックは、参加している国の国民が競技の勝敗によって一喜一憂する世界的な大会である。もし自国の選手が金メダルでもとれば、狂気乱舞する国もあるくらい関心が高い。

  そんな大会で自国の選手を応援するのは当然のことであり、さらに自分の身内や親類が出場していればもっとその気持ちが強まってくる。他国の選手の結果次第で勝負が決まる時には、その選手のミスを祈ることさえある。

   審判のように公平・公正さを求められる者は別として、応援する者の中に「どこの国が勝ってもいい。誰が優勝してもいい」という人がいたら、本当にそんな気持ちで応援できるものなのかと疑ってしまう。

   もし、そんな人がいるとしたら、競技そのものに対して非常に冷めている感じがする。スポーツであろうと何であろうと、人が争うことに対して否定的な意見を持っているのではないだろうか。

「何事においても、好戦的なのはいけない」というのは分かる。確かにスポーツにおいても、勝つことに異常にこだわりすぎるのはどうかと思う。

   勝つためには、ルール違反までする。禁止されている薬物を使う。審判を金品で買収し、偏ったジャッジをさせる。このような行為は、論外である。

   しかし、ルールに基づいて正々堂々と勝負するのであれば、その争いは認められるのではないか。

  時には我々に感動を与えてくれて、「その場にいてよかった」という気持ちにさせてくれるスポーツである。競技である。そして、その応援である。

   すべての観衆が我を忘れて一体になり、贔屓する選手やチームを必死で応援するのは、許される悪ではないか。

 

・ 競争 

  社会通念として、「争い」という言葉は否定的な意味で使われるが、「競争」は肯定的な意味で使われることが多い。

   競争を肯定的に捉えるのは、スポーツ界である。勝者のインタビューで「ライバルがいたから切磋琢磨して向上できた」いう言葉がその例である。

   世の中には、いろんな競争がある。かけっこ、早食い、売り上げ、価格、技術、偏差値、学歴、富、社会的地位、オーディションでの選考など、数え上げるときりがない。

  人は、どんなことでも他人と比べたがるようである。そして、他人より抜きんでようとするために、必然的に競争心が起こる。その競争心が自分を向上するためのモチベーションとなる訳である。

   しかしその一方で、競争心が悲劇の原因となる時もある。熾烈な競争のために大きな賭に出て、その結果、立ち直れない状態になり、裏社会に首を突っ込むということもよくある話である。

   日本の大学受験は、受かる者と落ちる者がはっきりする競争である。定員があって、テストの成績の上位の者から合格していくのであり、テストの成績が良ければ誰でも受かるというシステムではない。

   他の受験者の成績が自分より良ければ、必然的に自分が落ちてしまうことになる。そういうことから、自分のテストの出来具合を心配するだけでなく、他の受験者の不出来を願う輩も出てくる。

   中には、他人を蹴落とす策略を練って実行するダーティな受験生もいるらしい。勉学だけを励めばいいものを、余計な悪巧みを考えることに余念がないという馬鹿者である。

   さらに、高望みによって裏口入学をする輩もいる。自分の能力にあった大学を受験すればよいのに、そうしないのである。

   このような不正行為は、努力すれば何とかなる人より、まともに勝負すると負けてしまう人の方がする傾向にある。

   見栄の方が理性より勝ってしまうのであり、そんな人が競争心を持つと、ろくなことにならない。過度の競争心は、悪を生み出す可能性があるという例である。

 

・ギャンブル

 ギャンブル関連の遊技場も必要悪である。

 日本では、公営ギャンブルとして競馬、競輪、競艇、オートレースが行われているが、そのファンはかなりの数になる。

また、遊技場としてのパチンコ店が全国各地にあり、利用する客の数は、公営ギャンブルに勝るほどである。

パチンコ店では、原則として金銭のやり取りは認められてはいない。しかし、実際は間接的にしている。所謂、勝つか負けるかの賭博場になっているのである。

 ギャンブル性の強いパチンコ店が流行る理由は、三つある。

 一つは、元手を数倍にできる可能性があることである。そうなれば優越感が持てて、刹那的ではあるが少しの幸福感も味わえる。逆に負けた場合は、注ぎ込んだ金のすべてがなくなるのであり、かなり刺激的である。

 二つ目は、ストレス解消である。台に向かって座ると、毎日の仕事や家事でのストレスや人間関係の煩わしさなどを忘れさせてくれる。

  三つ目は、社交場としての利用である。常連になると顔なじみもできて、雑談をするだけでも楽しくなる。店員もお金を落としてくれる客には優しいし、気さくに声もかけてくれる。

日本中のどこにでもあり、毎日営業しているパチンコ店。このような所は、大衆にとって手っ取り早い娯楽の場所となる。

客層を見れば、年寄りが結構多い。やることがない年寄りにとっては、そこは憩いの場であり、仲間と会えて一喜一憂できる唯一の所になる。  

もし、突然このような場所がなくなると、どうなるのだろうか。これといった趣味のない者にとっては、唯一の楽しみがなくなるに違いない。生きていることが辛くなり、無気力になってしまう人もいるだろう。何か違う刺激を求めて、とんでもない悪行に手を染める者も出てくるかも知れない。

それほど、パチンコ店は重要な役割を担っていて、お客にとっては有難い存在になっているのである。

このように重宝なパチンコ店ではあるが、店のオーナーは、そんな人たちの為に営業をしているのではない。言うまでもなく店の利益の為であり、奉仕目的で営業している店など皆無なのである。

どのパチンコ店も、たくさん客が来て、たくさんお金を落としてくれることを願う。あの手この手を使って常連客を増やし、利益が拡大することしか考えていない。

時には、大喜びするような設定も入れて、客が店から飛ばないように工夫する。中には、不正に遠隔操作をしている店もあるらしい。

一度大勝ちをして良い思いをした客は、その味が忘れられずにまた来る。常連になって、お金を湯水のように使い出す。負け続けても尚、通い続ける。気がつけば非常に大きな額になっていることもある。あくまでも、「お客は、大切な金のなる木」なのである。

痛い目にあっても、頭を抱えるほどの窮地になっても、懲りずにまた行きたい。サラ金で借金をしてまでも、パチンコがしたい。人間の心理をついた巧妙な罠と言っても言い過ぎでない。

常連客は完全にパチンコ依存症に陥っているのであり、まるでパチンコに取りつかれた中毒患者のようである。そうして得た利益は、一部暴力団に流れているという噂もある。

このような中毒患者はパチンコ店だけではなく、公営ギャンブルや裏カジノにおいてもいると聞く。

人生を台無しにするようなリスクを背負ってまで、何故彼らは博打をするのか。かなりの痛い思いをしてまで、何故その行為を止めないのか。

ギャンブルではなく、もっと良い趣味(人によって異なるが)を持って有意義に生活すればいいと思うのであるが、それができない人種にとっては、ギャンブルが一番の生き甲斐なのである。

ストレスの多い社会において、それを解消するのにちょっとした刺激が欲しい。運が良ければ大金を手に入れられる可能性もある。

最初は、「自分は破滅には絶対向かわない」と思っている。「負けても生活に支障のない程度に抑えられる」と思っている。

ところが嵌って、大きな借金を抱えることになる。中には、一財産をなくして一家離散という憂き目にあった者もいる。自殺者も毎年のように出ている。本人にとっては自業自得であるが、その家族にとっては地獄である。

少しの遊びで終わればいい。それで終わらない人は、必然的に破滅へと向かう。歯止めが効くか効かないかは、その人自身の意志が左右するのである。

 

・ 風俗

   刺激を求めるという点では、風俗も同じである。金さえ出せば、通常では無理な事も出来きて、目的が達せられるのである。

   昔、日本では、遊郭や赤線というのがあった。そこは、性のはけ口の場所であり、お上も公然と認めていた。悪の温床になりかねないものを何故に認めていたのか。その理由はこうである。

  もし娼婦がいなかったら、男の生理的な欲望から強姦が多発する恐れがある。場合によっては、その口封じに殺人にまで及ぶ可能性もある。遊郭や赤線は、そのような犯罪を抑える防波堤のような役割を担っていたのであり、お上としては認めざるを得なかった訳である。

  もちろん、娼婦たちの経済的な部分を助けていたことは言うまでもない。娼婦の中には、自ら進んでというより家族の犠牲になって、身売り同然で嫌々遊郭で働かされた者が多い。

   女性の職業が限られた時代では、生きて行く為の収入を得るのは非常に困難であり、このような業しか手段がなかったのである。

  実際、売春禁止法が施行されるまで遊郭や赤線は続いていて、終戦後、進駐軍が、日本の女性を襲わないようにと赤線を奨励したという話もあるくらいである。

  現在では、人権擁護のため禁止されているが、遊郭や赤線の代わりをしている風俗は、公然と認められてはいないものの、雨後の筍のようにたくさんある。自衛官や警察官の中にも、そのような風俗店に通った者がいるのではないだろうか。 

  風俗嬢の中には、生活費や学費、あるいは病人の医療費を稼ぐために仕方なくしている者もいる。家族が作った借金の返済という者もいる。小遣い欲しさから安易な気持ちで援助交際をする女子高生とは、ちょっと事情が違うのである。

  客の中に「安易にこんな仕事をせずに、誰もが認める仕事をしなさい」と説教する人もいるらしいが、それができるくらいならこんな仕事はしない。第一「そんな風俗を利用しているあんたはどうなのか」と問い返したくなる。

   確かに娼婦というのは、褒められた仕事ではない。世間から後ろ指をさされる業である。もし身内にそんな事をしている者がいれば止めてほしいと願うだろう。

   特に敬虔な宗教信者たちは、「愛情がないその行為は、神や仏に対する冒涜である」と非難するに違いない。その言葉に、風俗嬢はこう反論する。

「私たちは、人の物を盗んだり、人を騙したりという悪事はしてはいない。自分の体を売っているだけであり、芸人が芸を売るのと同じである。誰にも迷惑はかけていない」

  おそらくこの反論は、娼婦たちの本心ではない。できればこんな仕事はしたくないのである。自分に子どもができて、大きくなったその子どもに「お母さんは、何の仕事をしているの」と尋ねられたとき、胸を張って「立派な娼婦よ」とは答えられまい。

   真っ当な仕事ではないと思いながらもせざるを得ないのであり、その言い訳によって自分自身を納得させているにすぎない。そうとでも言わなくては、自分たちが惨めなままなのである。

   しかし、そんな不本意な仕事をしてでも、生きて行こうと努力しているのは事実である。自分の境遇をなんとか変えて、這い上がろうとする力強さは感じる。

   実際問題、家庭の事情を抱えた女性が普通に生きていくのは難しい。女手一つで病気の家族の面倒を見るのは、大変なことである。特に莫大な費用が必要になるときは、普通の仕事では無理である。それを可能にする為には、それ相当の収入が必要になり、限られた仕事になってくる。

   だから、良くないことと承知の上で、嫌な思いも我慢して風俗に身を置くのである。それを責めることは、誰もできないのではないか。

   日本ではないように思うが、ある国では、貧困のために幼い女の子が体を売っていると聞く。義務教育を受ける年令の女の子がである。

   身寄りもなく、面倒を見てくれる者は誰もいない。自分が稼がなくては、生きていけない。頼りにしたい政府は、全く知らん顔である。

   このように世の中には、過酷な状況にある子どもがたくさんいる。その日その日を生き延びるのに体を張っているのである。そんな子どもたちの将来は、とても暗い。生きる力があるとはいえ、この先、破滅的な方向に走りそうである。

   国は、子どもたちを反社会に向かわせてはいけない。社会人として希望が持てるような支援をしなくてはならない。たとえ経済的に窮地であっても、せめて最低限の義務教育だけは、保障してやって欲しいと願う。

 

   風俗もギャンブルも悪である。風俗嬢の貞操観念のなさや安易にそれを利用する客の意識、ギャンブラーの強欲さは責められても仕方がない。

   しかし、本人たちはそれを承知の上で、そのような悪に走っている。そうせざるを得ないからである。

   万人が何の苦労もなく生きていくなど、有り得ない話である。この先、どんなに素晴らしい世の中になっても、人それぞれに何らかの壁が立ち塞がる。

   その結果、社会的な敗者や落伍者になる場合もある。その重荷を背負って生まれてくる人も少なからずである。

   閉塞感を持った人や精神的に追い詰められた人は、逃げ場を探す。刹那的であっても一時の刺激を求める。

   それが、風俗やギャンブルがこの世の中からなくならない理由である。

 

・ 裏物

   裏物とは、公に売買できない非合法的な商品のことを言う。そういう物を作ったり売ったりすると、当然、摘発され処罰を受けることになる。

  裏物は、表向きは普通の看板を掲げた店舗が、秘密裏にそれを置いている所が多い。ほとんどが暴力団と絡んでいて、その資金源になっているようである。

   裏物の購入は、反社会である暴力団に協力することになり、必然的にその存在を認めることになってしまう。できれば関わりを持ちたくないと思っていても、実際には手を貸すことになっているのである。

  このような背徳行為は、あまり褒められたものではないが、この程度なら許されるのではと自己判断して買う人も多い。

   悪いことと分かっていながら、「生理的欲求はどうしようもないのであり、煩悩は止められない」と居直ってしまうのが常である。それを説教しても、「馬の耳に念仏」なのである。

 

・ ポルノ

   四十年ぐらい前に、ビニール本というのがあった。ビニールで出来ているのではなく、立ち読みできないように雑誌がビニールで覆ってあったのでそう呼ばれた。

   内容は、裸体や性交場面の画像ばかりで、かなりいかがわしい。当然、局部は、分からないように黒く塗りつぶされている。これらは、主にアダルト専門の店で売られていたが、普通の書店にも置いてあった。

   それとは別に、裏本というのもあった。局部がもろに見えていて、その辺の書店では売られていない代物である。

   もし、売っているのがばれると、店主が逮捕される非合法の雑誌であり、買うのには少しの勇気と骨折りがいったのである。

   どうしてこんな非合法な物が売られているのか。それはニーズがあるからである。多くの男性が、露わな画像を見たいと望んでいるからである。

   大昔、人は裸で生活していた。大人であろうと子どもであろうと、性器は丸出しであった。成長して大人の機能が備えれば、生理的要求からくる行為、つまり「種の存続」のための性交が必然的に行われた。それは、発情期に入った野良犬や野良猫と同じと言える。

   長い年月の中、人は知恵をつけて防寒や防傷のために衣服を纏うようになる。また、文明の発展に伴って、裸でいることに羞恥心を持つようになる。さらに、裸や性器を見せることが、法律で禁止されるようになってくる。

   なぜ禁止されるようになったのか。その理由は、普段目にしない異性の裸や性器を見ると発情状態になるからである。

   人は、犬や猫とは違って理性によって行動する。ところが、生理的欲望が過激に起こると理性が負けてしまうこともある。強姦などの犯罪は、理性が欲望に負けた結果であるといえる。

   日本のポルノは、このような理由もあってまだまだ規制が厳しい。法律的に解禁になっていないので、その売買は公然とはできないのである。

   しかしながら、実際のところはオープンになりつつある。今ではネット上で、そのような猥褻画像や動画が簡単に見ることができるし、DVDなどの裏物も販売サイトにアクセスすればすぐに買える。大昔のブルーフィルムのように、危ない橋を渡って大金をはたくこともなくなったのである。おそらく、それを取り締まる警察官さえも秘密裏に買っているはずである。

  こういった現状なので解禁を主張するのも今更ではあるが、裏物である以上罪を問われる可能性もあるので、そうならないようにとそれを望む声も多い。

   海外では、普通にポルノが売られている国がある。メイン通りにポルノを扱う店があり、隠れて商売をする陰湿な店というイメージはほとんどない。

   当然、未成年者は買えない。「ポルノに耽って学業が疎かになってはいけない。余計な事に目を向けず、今やるべき事をして欲しい」ということである。その点は、「寝た子を起こさないように」という配慮が徹底していると思われる。

   日本でもポルノをオープンにすればそれが当たり前となり、イメージの悪い「裏」という言葉も使われなくなるに違いない。誰に咎められることなく公然と買えるからである。

   人である以上、誰にも生理的欲求はある。どんなに修行を積んだ高僧でもそれはある。裸体を前にして平静でいられても、周りに悟られないだけであって、実際は高揚した気持ちが体中に血液のように流れているはずである。

   さらに、「それを見てはいけない」と言われると、人は余計に見たくなる。禁断の物であればあるほど、それを覗いてみたくなるものなのである。その欲望が罪の意識に勝ってしまい、禁断の地に足を踏み入れることになる。

   つまり、禁止することが欲望を助長させるのであり、罪を犯してでも手に入れたいという意識が出てくるという論理である。

   実際、そのような人の心理につけ込んで荒稼ぎをする輩もいる。その一部がヤクザの資金源になっていることもある。

  先ほど述べたように、ネット上では様々なポルノサイトがある。アクセスもかなり多く、その中には、敬虔なカトリック信者に「神への冒涜である」と非難されるような際物(レズ、ゲイ、乱交、スカトロ、獣姦など)も売られている。

   それらはかなり過激な内容ではあるが、それでも、それが摘発されたというのは聞かない。欲望の赴くままの何でも有りの状態が放任されている訳である。

   しかし、児童ポルノに関しては別である。公然と売り買いすると、厳しい処罰を受けることになる。

   まだ幼い子どもを欲望の対象にするのは、倫理的に良くないのであり、子どもを露わな姿にした制作者や親の責任が問われてくる。当然、それを所持した者も同罪になる。

  未成年者は、成人するまでは大人が諭さなければならない。あらゆる毒牙から、守らなければならない。それは、どこの国においても同じはずである。

   ところが、幼児が売春するのを摘発しない国もあって、現実は守られていない。貧困という事情がそうさせるのであるが、国が黙認するのではなく、なんとか解決の策を考えて欲しいものである。

   私自身、児童ポルノの規制に対して異論はない。当然のことだと思う。生きるためとはいえ、幼気な子どもが体を売るのは可哀そうである。

   ポルノは、何か後ろめたい気持ちで見るものではない。大人の娯楽なのであり、児童ポルノ以外であれば解禁しても良いのではないだろうか。

   それでも解禁できないというのなら、その裏物の存在を「必要悪」として認めるしかないと思う。

 

・ 裸が見える眼鏡

   子どもの頃の縁日の話。

   綿飴、たこ焼き、金魚すくいなどの屋台が立ち並んだ神社の参道では、たくさんの参拝客が行き交い賑わっていた。

   そこから少し離れた所で、胡散臭そうなおっさんが、不思議な物を売っていた。

  おっさんは、棒切れで地面に半円を描きながら、居並ぶ中学生や小学生に向かってこう言った。

「ええか。この線から中に入ってきたらあかんで」

「今から見せるモンは、警察に知られると危ないモンなんで、ここだけの秘密にしといてや」

そう言って、おっさんが薄汚い鞄から取り出したのは、厚紙で作ったようなチャチな眼鏡だった。

「これはなあ。何でも透き通って見える眼鏡や。この眼鏡をかけると、裸が見える。服を着てても透き通って見えるんや」

  おっさんがおもむろにその眼鏡をかけて、ギャラリーみんなの股ぐら辺りをじっと見た。

「ほーれ、見えるわ、見えるわ。みんなの裸がよう見えるわ」

  ギャラリーは一斉に自分の股間を手で隠し出したが、それぞれの目は、その眼鏡から離れられなくなっていた。

 「どや、欲しいやろ。七百円や。ちょっと高いけど、どこにでもあるモンやないしな。今やったら特別に五百円にしといたるわ。早よ買わんと売り切れるで」

   ギャラリーの中の何人かがポケットから金を出した。手持ちがなかった私の友人は、家に走って帰り、貯金箱をたたき割って戻ってきた。

   おっさんは、お金を払った友人に紙袋に入った眼鏡を手渡しながらこう言った。

「今ここで、袋から眼鏡を取り出さんといて。家に帰ってからにしてんか。もしここで裸を見たことが警察に知れると、わしが捕まってしまうから、絶対やめてや」

  そう言われた友人は、その場で袋から眼鏡をとり出さず、心をドキドキさせながら急ぎ足で家に帰っていった。   

   翌日、その友人に「あの眼鏡は本当に裸が見えるのか」と聞いたら、半分ふくれたような顔でこう答えた。

「見えた。どこを向いても同じ女の裸が見えた」

  インチキだったのである。騙されて大金をはたいてしまったのである。

  数日後、友だちに現物を見せてもらったが、呆れるほど粗悪な物だった。その眼鏡は、レンズの代わりに赤色のセロハン紙が貼ってあり、そのセロハン紙に小さなヌード写真が貼ってあるだけのものであった。そのヌード写真も、外国の女性の色あせた古臭い物であった。

   当時の五百円は、子どもにとって大金である。たぶん、長い月日をかけて貯めた虎の子のお金か、お年玉としてもらったお金に違いない。それを大人に騙し取られたのであるが、どこにも文句の持って行きようがないのである。

  おっさんはとっくに逃げているだろうし、親にも警察にも言えない。偽物とはいえ、そんな不謹慎な物を買った自分が責められる。周りに知られたら恥ずかしい。泣き寝入りするしかないのである。

  裏物を手に入れようとした故の天罰なのかも知れないが、その友だちがそれを欲しがった気持ちも分かる。もしその時、自分のポケットにも五百円があったとしたら、すぐに買っていたに違いない。

   それにしても、上手いことを考えたものである。人間の欲望を見透かして、それを利用するとはなかなか頭が良い。

   詐欺まがいの犯罪といえるが、何となく憎めない犯罪である。騙された方も苦笑いするしかないのである。                             

 

・ 偽物

  世の中には、偽札、偽造パスポート、偽造免許書、偽造カードなどたくさんの偽物が出回っている。それら偽物のために被害を受けるという事件は、後を絶たない。

   偽造に関わった者はもちろん、使用した者も犯罪者として処罰されるが、摘発されて逮捕された者の中には、再び同じことを繰り返す者も多いと聞く。

   その理由は、捕まってもさほど重い罪にならないことと、少しの苦労で大金を掴めることである。

  偽造カードによって、自分の口座から知らぬ間に現金が引き落とされるというのは、非常に恐ろしいことである。苦労して貯めたお金が、一瞬にして無くなってしまうのであり、もし、その犯罪者が目の前にいたなら、憤りでぶん殴ってしまうかも知れない。それほど迷惑な犯罪なのである。

   偽造品は、その存在自体が犯罪であるが、中にはさほど迷惑にならない偽物もある。ブランド物のコピー商品がそうである。時計、アクセサリー、バッグ、服などちょっと見ただけでは、偽物と分からないくらい本物そっくりに作ってある。

   非常に安く、本物の百分の一の価格で売られている物もある。主に韓国や中国の工場で作られているようである。

   ブランド物は、裕福でない者にとっては憧れである。いつかは手に入れたいと思うのであるが、如何せん非常に高い。そこで、コピー商品が出回ることになる。

   たとえコピーであってもそれを身につけることで、豊かな気持ちになれる。自慢にもなる。それを欲しがる気持ちは、何となく分かるような気がする。

   ところが、本物を売る会社としては、そんな紛い物を売られてはたまらない。会社の利益と信用に関わる問題であると主張して、当局に取り締まりの強化を訴えてくる。

  実際の所は、どうであろうか。本当に利益に関わるのであろうか。本物を買える裕福な人が、安いからといって偽物を買うだろうか。

   偽物はあくまでも偽物である。そんな偽物を持ったところで喜べないのである。そういう人たちにとっては、本物を持ってこそ意味があるのである。

  一方、偽物を買うのは、本物を買えない人たちである。本物にこだわらない人たちである。だから、偽物が買われたところで、あまり会社の利益には影響がないと思われるのである。

  問題になるのは、信用である。熟練した職人が優れた技術をもって作り上げた最高級の商品をいとも簡単に真似されては、プライドが許さない。長年の努力による血と汗の結晶を他人に持って行かれるというのは、はらわたが煮えくり返る思いに違いない。

  偽物を偽物として売るのならまだしも、偽物を本物として売るのは本物への冒涜である。これは、明らかに詐欺であり、犯罪である。紛い物に高いお金を払った人が気の毒である。

   そのような詐欺行為には、断固厳しい処罰を科して欲しいものである。

 

・ 特許

   近年の中国は、偽物が氾濫する国と批判されている。

   ニュースなどでよく取り上げられているのが、遊園地のキャラクターである。米国や日本の人気アニメを真似たものであるにも拘らず、独自のキャラクターとして平然と使用している。

   また音楽においても、明らかに盗作であると認められる曲をオリジナル曲として流しているのである。

  海外メディアがそれらを指摘しても、「知らぬ、存ぜぬ」と白を切り通す。悪いことをしたという反省の気持ちなど微塵もなく、まさに「盗ったもん勝ち」の無法の国なのである。ここまでくると、呆れかえるしかない。

   ところが、このような行為は、日本も過去に行っていたという事実がある。欧米の進んだ技術や文化を許可無く模倣していたのであり、盗むことで日本が発展できたと言っても過言でない。

   当時は、著作権がやかましく言われていない時代で、さほど問題にされなかったようである。

   確かに、著作権の保護は必要である。そうしなければ、「鳶に油揚げ」が横行して、開発した者の苦労が報われないことになってしまうからである。

   しかし、それを放棄した方が良い場合もある。例えば、医薬や医療方法である。研究者は、「病気で苦しむ人々を何とかしたい」という思いで、寝る間も惜しんで努力を重ねている。もし、癌の特効薬ができれば、一刻も早く量産してたくさんの癌患者を救おうと純粋に思っているはずである。

   ところが、その製造権を誰かが買い取り、非常に高い値段がつけられたら、救える者も救えなくなってしまう。万民の為を思って開発された物が金儲けの手段になり、本来の救済活動にストップがかかるのである。

   そのような事態は、避けなければならない。コストに高い費用がかかるのなら仕方がないが、そうでないなら、誰もが容易に受けられる医薬や医療方法でなくてはならない。そういう物こそ、特許を解放すべきであると思う。

                        

・ 裏物になった酒

  一九二〇年から一九三三年までの間、アメリカ合衆国では酒の醸造と販売が禁止された。所謂、禁酒法時代と呼ばれる十三年間のことである。

   酒は、麻薬と同様に病気やトラブルを引き起こす原因とされ、当局は、国民が飲酒することを法律によって止めさせようとした。

   ところが、酒を求めて止まない者は、法律を破ってでも手に入れようとする。それに目をつけたマフィアは、組織的に酒の密造を行い、その売買によって大きな利益を得ようとした。つまり、法律がマフィアの資金源を作る手助けをした訳である。

   酒の取引におけるマフィア同士の揉め事が、次第に増えてくる。殺し合いになるまで激化する。取り締まる警察への賄賂も横行する。結果、犯罪が依然より増えてしまうことになる。

  そういうことから、「禁酒法は悪法である」という世論が起こって廃止になる。再び酒が公然と飲めるようになった訳である。「世の中には、裏物にしてはいけない物もある」という顕著な事例である。

  酒以外にも、解禁した方が良い裏物があるかも知れない。解禁にできなくとも、認められてもよい裏物があるのではないだろうか。そのような裏物を、一度考えてみるのも面白いように思う。

 

・ 暴力団

  顔役、やくざ、マフィアなどといろいろ呼び方があるが、どの国にも暴力団はある。社会主義や共産主義国にも存在している。ルーツを探れば、それぞれ異なるが、日本では任侠ということになる。

   江戸時代、権力を傘に横暴な行為を繰り返す旗本たちに対し、暴力によって対抗しようとした町衆の集団がいた。時には弱者の頼み事を聞いて、その解決法として恐喝や暴行、殺人までも行ったらしい。

   弱者の味方ということで周りから慕われ、その集団のトップは、親分と呼ばれることになる。その後、そのような任侠を看板にした集団は、全国各地にできる。

   つまり、元々暴力団というのは、無理難題を強いられて泣いている弱者に同情し、横暴な権力者に体を張って対抗する侠客たちなのである。

   しかし、現在ではその任侠のあり方が、本来のものとは全くかけ離れたものになっている。

   やくざも生活していかなければならない。食べなければならない。家族ができれば養わなければならない。といって普通の勤めはできない。真面目な仕事をするのでは、もうやくざではなくなるからである。

   だから、非合法な賭博の開帳や麻薬の売買、合法すれすれの風俗店の経営などをすることになる。自分の生活や組を成り立たせるためには、それなりの稼ぎが必要となるのである。

   資金調達の為には、素人を泣かすことも平然とする。「素人には手を出さない」と言いながら、素人を巻き込む。実際、ゆすりや恐喝によって泣かされた人もたくさんいる。また、政治家と癒着して、政治の裏側で暗躍することもある。

  他に、ライバルとの抗争もある。お互いに勢力を伸ばそうとするので、血で血を洗う終わりなき争いになる。その準備に、ドスや拳銃だけでなくダイナマイトや手榴弾まで買い込んだ組もあるらしい。極道どうしの喧嘩に一般人が巻き込まれて亡くなるという事件も起きている。

   このように「百害あって一利無し」の暴力団が、何故必要悪なのか。理由は二つある。

  一つは、アウトローの引き受け所である。

   どこにでも「はみ出し者」はいる。世間を斜に見て、頼る者は自分しかないと孤立している輩である。世の中の常識に従えず、時には、権力に対して力で立ち向かおうとする。そういう者は、放っておくと何をしでかすか分からないので、その面倒を一家がみているということである。

   二つ目は、一般人が増長するのを防ぐ役目である。

   一般人の中には、ルールやマナーを平気で破る者もいる。人を見下した言い方をする者もいる。そういう輩にルール違反を注意すると、逆に食ってかかってくるだけである。

   しかし、もしそこに暴力団がいると、好き放題にはできなくなる。やくざは、筋の通らないことを嫌う。筋を通すことに命をかけるときもある。そんなやくざの前で「肩で風を切る」ようなことをすると、どんな目にあわされるか分からないのである。

  電車の中でそれまで好き放題に騒いでいた中学生が、厳つい顔をした暴力団風の男が乗ってきた途端に大人しくなってしまうというのは、よくあることである。

   頼りにしたい警察官は、そこら中にいる訳ではない。トラブルが起こっても、呼ばなければ来てくれない。犯罪でも起きない限り、動いてはくれない。

   ちょっとしたイザコザでは、事情を聞いた後、少しのお叱りで終わりである。だから、そんな優しい警察より揉めると厄介な暴力団の方が、その抑制になっているのである。

   このような理由から、「暴力団は必要悪である」とされるのであるが、これは、誰もが納得できるものではない。

   組の幹部が言うように、組事務所がアウトローの引き受け所であるなら、反社会ではなくて社会に貢献できるような者に育てて欲しいものである。

   また、一般人の増長に対する抑制効果があるとしても、実際は、暴力団に泣かされることがほとんどである。

   暴力団に泣かされる例として、「みかじめ」という決まり事がある。昔から続く縄張り内のしきたりである。息のかかった店は、毎年、組から正月用の門松を買わなくてはならないが、その値段が非常に高額なのである。

   何故かというと、その中には門松代だけではなくシャバ代も含まれていて、何かトラブルが起きたときは、組員が解決してくれる保険金になっているからである。もし、それを断ったら、営業ができなくなるくらいの嫌がらせを受けることもあるらしい。

   経営が思わしくない店にとっては、「みかじめ」は重荷である。いくら要求されても「ない袖」は振れないのであり、そんな窮地を組は分かろうとしないし、助けてもくれない。ただ見捨てられるだけであり、結局、店をたたむことになる。

   これではもはや、「弱気を助け、強気を挫く」任侠道とはかけ離れたものになっていると言うしかない。

   さらに、暴力団の暴挙は一般市民をも巻き込む。一時期、組同士の抗争がニュースなどでよく報じられたが、近隣住民は不安で仕方がなかったに違いない。

   暴力団全国制覇を野望とする大規模な組は、勢力下に入らぬ組を潰そうとする。抵抗する組を力でねじ伏せようとする。

   長引いて損失が大きくなると判断した場合は、仲介者をいれて手打ちをする。手打ちになれば、その抗争で死んだ者はまったくの犬死になってしまう。その舎弟や家族は、どのような思いでそれを聞くのであろうか。これもやくざ者の因果とあきらめてしまうのだろうか。

 

・ 任侠   

  全国的に見て、暴力団の組織は二千ぐらいである。広域指定されている組もあれば、構成員の少ない小規模の組もある。繋がりはあっても、それぞれに組の方針が異なる。また、同じ組に所属していても、組員の考え方にかなりの差があるように思う。

  やくざも様々であり、すべての暴力団が同じであるとは言えない。しかし、何事も脅しや暴力によって成し遂げようとする輩である。所詮、反社会なのである。世間から何かと疎まれているのは間違いない。

   このように嫌われ者のやくざではあるが、中には律儀で温和な人も稀にいる。

   子どもの頃に近所の銭湯でよく見かけた人であるが、どちらかというと気さくで大人しい方であった。

   顔見知りの人には笑顔でよく話をして、権太くれの子どもたちを大声で叱ることもなく、いつも穏やかな様子で湯船に入っていた。

   彫り物をしていたので、「普通の人ではない」と子どもながらも感じたが、「任侠の人」と分かるのは後からである。

   おそらくその人は、気質の人を強面で睨んで威圧的になるのを好まなかったのではないだろうか。自分がやくざ者ということで周りが気を遣うことを嫌ったのではないだろうか。

  それでも、時折見せる鋭い眼光は、近寄り難いものがあって、その胸の奥には「筋の通らないことは絶対に認めない」という強い意志があったように思う。

   そんな人が、裏で人を泣かしているとは到底思えないし、たぶん、幹部から頼まれない限り、自分から進んで悪行をすることはなかったと思う。        

   その人がやくざになった理由は、分からないもし、その時に聞いていれば、「若気の至りだ」と答えたかも知れない。若い頃は、結構やんちゃをしていたらしいが、逆に理不尽なことには、人一倍許せない性格の人だったようである。

   生まれた時からやくざである人なんていない。やくざの家に生まれたとしても、その人の将来の生業は、その人自身が決めることであり、またその親も、子どもだけは気質になって欲しいと願うのが普通である。

   たぶん、子どもから大人になる段階で何らかの事情があって、自分は普通の社会人としては生きられないと判断し、その世界に身を置いたのではないか。

   世の中のすべての人が、順風満帆に生きていける訳ではない。特に競争原理の働く社会においては、勝者と敗者にはっきり分かれて行く。みんながみんな、勝者になれる訳ではないのである。

「どうせ自分は、日陰者である。表舞台には上がれない」と判断した者が、裏の舞台で勝者を目指す。「畳の上で死ねなくても構わない」という並々ならぬ覚悟で盃を貰い、命を張って裏街道を生きていく決意をするのである。

   そういう意味では、必要悪というより必然悪と言った方が良いのかも知れない。

「世渡り上手に生きたくない。波風立っても、筋を通す」であり、

「力づくで来たら、力づくで返せ」

「所詮世の中、食うか食われるかで、食われる方には金輪際ならん」

「汚い仕打ちを何度も見てきた。綺麗事言って飯が食えるか」

「誰の説教も聞く耳持たん。我が身一代、ご意見無用である」

  たとえやくざであっても、人間である。怒りもすれば泣きもする。理不尽なことには、はらわたが煮えくりかえる人もいる。他人事でも見捨てておけずに、「なんとかならんのか」と嘆く人もいる。案外、そんな気持ちの強い人ほど、任侠の世界に入る動機があるのかも知れない。

  しかし今となっては、昔見た映画のような任侠道を貫く集団は、遠い存在になってしまったようである。

 

・ 右翼団体                    

   公道において、騒音を撒き散らしながら我が物顔で走行する車を見かける時がある。不運にも自分の車が街宣車に横付けされると、その喧しさに、「警察は、何故こんな迷惑な集団を取り締まらないのか」と文句を言いたくなってくる。

   右翼という言葉から、天皇を中心とした国家主義を思い浮かべてしまうが、現存するすべての右翼団体がそうであるとは限らない。

  日本の右翼思想ができたのは、明治時代になってからである。根本は、国学などに見られる自国の伝統、文化の価値を重視する思想である。

  当時の政府は、富国強兵などを掲げ日本の西洋化を目指していたが、西郷隆盛を中心とした一部の士族が反発して西南戦争が起こる。その考え方や行為が、右翼思想の始まりとするのが定説である。

   その後、時代の変遷によって、正統右翼、仁侠右翼、革新右翼、街宣右翼、宗教右翼、新右翼など様々な右翼団体が出てくる。

   それぞれが、保守主義、権威主義、全体主義、君主主義、反共主義などを中枢とする思想を持って活動しているとされる。

  これら団体の思想の違いについては、私自身あまりよく分からないので説明はできない。

   しかし、そのほとんどが暴力団と関係がある任侠系である。資本家の依頼を受けて組合を潰したり、労働者のストライキを邪魔したりと、経営者が直接手を下せない仕事を請け負っていたようである。

   西南戦争の時のような、当時の世相の流れに反発するための運動というより、思想信条とは全く関係のない利害関係で動いていたと思われる。

   戦後は、太平洋戦争の肯定、反共、北方領土問題の解決、日本教職員組合や左派的な新聞社への批判、「日の丸、君が代」を尊重する教育の推進などを主張している団体が多い。

   現在では、冒頭で述べた「街宣右翼」が一般的に広く知られているが、その大半は暴力団であり、在日の韓国人や朝鮮人も含まれている。

  本来なら、韓国人や朝鮮人は、日本の天皇を中心とした国家主義に対して批判的な立場にあるはずである。それにも関わらず、そのような擬装を認めているのは何故なのか。

   それは、一九九二年の暴力団対策法施行により、表だって任侠の看板を上げられなくなったからである。

   任侠のままでは、警察に取り締まりを受ける。名目を右翼団体にすれば、実質は暴力団であっても、解散しなくて済む。不本意ではあるが、「背に腹は代えられない」ということである。

   暴力団については既に述べたが、はっきり言って反社会である。金のためなら、恐喝、暴行、賭博、麻薬の売買、詐欺の黒幕など非合法なことを平気でする。そんな団体が、右翼の名の下で合法的に活動を認められているのは、納得できることではない。

   純粋に国家主義を唱える本物の右翼団体は、そのことに対してどう思っているのか一度聞いてみたいものである。

「命を惜しまず、国のために尽くすこと」は、戦時中によく聞かされた言葉であるが、如何に屈強な精神の持ち主でも、容易にできることではない。

   最近の若者に至っては、「昔に比べて軟弱で、自分のポリシーを待たない。実際、優柔不断で、主張を変えたり平気で仲間を裏切ったりする」と批判されていて、彼らに不屈の精神と誠実さを求めるのは難しいことになる。

  そういう意味からすると、自分を犠牲にしてまで国家のために尽くすという人は、敬意を払える人と言える。その判断が正しいかどうかは別にして、私利私欲ではなく国の為にという純粋な気持ちで行動することに共感が持てる。

   特に、理不尽なことを要求してくる諸外国に対して、真っ向から立ち向かってくれる右翼団体には、拍手を贈りたい気持ちにもなる。

   しかし、まかり間違えば、過去の不幸の二の舞になってしまうことも考えられる。過剰な国家主義は、テロを奨励したり、戦争に向ったりする危険性があることを頭に入れなくてならないのである。

   偽装右翼団体は論外であるが、純粋に「国を憂う気持ち」を信条とする右翼団体であるなら、認められる存在と言えるのではないだろうか。

 

・ 暴走族

   三十歳を過ぎても暴走族をやっている人は、多分いないだろう。そんな歳でまだやっているとしたら、周りから笑われてしまうに違いない。

   暴走族も、いつかは自分自身の生活のために働かなくてはならないのであり、いつまでも暴走族であり続けることはできないのである。

   暴走族の末路は、どんなものなのか。大抵、普通の社会人になっていると思われるが、暴力団などの反社会に向かった者もいる。暴走族がその入り口になったのである。

   他に、有名な俳優やタレントになった者もいる。また、教師になった人もいると聞く。さらには、暴走族の敵である白バイの警察官になった人もいて、驚きである。

   教師になった人は、手の付けられない生徒達を諭す時、どのように話すのか興味深い。先輩風を吹かして、「自分と同じような轍を踏まないように」とでも言うのかな。

   騒音をまき散らし、交通ルールも無視して、我が物顔で疾走する暴走族。そんな連中の行為が、「必要悪である」という者もいる。

「暴走は、若者のストレスのはけ口になっている。ストレスを貯めたままでいると、暴走以上の反社会的な行為をする恐れがある」

という考え方である。

   そして、当事者である彼らの言い分はこうである。

「暴走行為はしても、反社会的な事はしていない」

   そもそも、暴走自体が反社会的行為なのであるが、彼らは「暴走中、一般市民に対して傷害や殺人などの度を超した犯罪はしなかった」と主張する。

   バイクや車での暴走は、若者が持つ衝動からくる行為である。特に集団で行うことで、その衝動は大きくなる。

   自分一人では負けてしまう強い相手でも徒党を組めば勝てるのであり、集団=力という過剰な意識は、喧嘩やトラブルを引き起こす要因となる。

   普段は、リーダーがメンバーをまとめ従えさせるが、暴走族にも掟があってそれを破ることは許されない。破るとリンチを受ける羽目になる。

グループ同士の縄張り争いでは、それぞれのリーダーが戦って、負ければ勝ったグループの傘下に入ることになる。

   勝ち続けるグループは、複数のグループを束ねてさらに大きくなっていき、最後はその頂点に立つ総長が出てくる。

   ここのところは、暴力団の有り方と似ているが、違いは、警察との関わり方である。

   暴力団は、警察と揉めるのを嫌う。問題が起きても、できれば警察の厄介になりたくないと思っている。反社会的行為を摘発されて逮捕されるのは、避けたいのである。

  暴走族は、警察を煽る。検問があっても、強引に突破して騒ぎを大きくする。パトカーが追いかけてくるのを待っているのである。

   バイクや車を使って、「交通ルールなんか糞食らえ。警察なんか怖くない。俺たちは、お前等のように権力にシッポをふる軟な飼い犬ではない」とアピールしているかのようである。

   確かに、暴走行為は危険である。時には、やりすぎで一般市民を巻き込むこともある。

   しかし、その本来の目的は反社会行為ではなく、パフォーマンスなのである。一般市民は、パフォーマンスを見てくれる観衆であり、警察は、パフォーマンスに協力してくれる敵役になる。

  それでも我々にとっては、非常に迷惑な行為である。普通に走っている車を煽る行為は、本当に腹が立つ。仲間が大勢でいることを後ろ盾に得意顔でいるのは、虫唾が走る。「一人では、何も出来ないくせに」と怒りがこみあげてくる。

   こんな輩は、暴走族同士の喧嘩などで自分が殺されかけると、いの一番に交番に逃げ込むだろう。敵である筈の警官に「助けてくれ」と頼むのである。もしそんな者がいたなら、「なんと情けない奴だ」と罵倒してやりたいものである。

   一体、どんな若者が暴走族に走る傾向にあるのか。動機はそれぞれ異なるとしても、似たような境遇の者に違いない。

   思うに、周りから認められている人や何かに長けている人ではない。そんな人は、それまでに積み上げてきたものを壊すようなリスクを冒さないからである。

   多分、「落ちこぼれ」と言われている人たちである。学業においてもスポーツにおいても、光ることができず燻っている人たちである。

   そういう人たちは、やり場のないストレスを暴走することによって発散する。そうすることで、劣等感が優越感に変わるのである。

   自分のストレスを解消するために爆音を立てて暴走するのは、はっきり言って迷惑極まりない。軌道を外れた徒党は、取り返しのつかない危険性もある。

   社会に禍をもたらす行為は、彼らが思うほど少なくないのであり、できれば止めて欲しいものである。

 

・ スピード狂

   暴走族もそうであるが、スピード狂も迷惑な存在である。

   公道をかなりのスピードで突っ走り、これ見よがしに喜んでいる。制限速度で走っている車を追い抜いて、一体何が嬉しいのか。

   本当にスピードを求めるのなら、レーサーにでもなればよい。レースで成績を残せば自慢もできようが、公道においてレーサー気取りで他の車を追い抜いても、誰も褒めてはくれない。

   公道は、すべての車が安全かつ円滑に走れる所であり、決してサーキット場ではない。自信過剰が幼気な命を奪うことにならないように、「過度のスピード違反は、リスクを伴う愚かな行為である」と早く気づいて欲しいものである。 

 

・ 浮気

   離婚するカップルが、増え続けている。

   熱烈に愛し合っていたカップルが、半年ももたないで破局するのも珍しくなくなった。その破局のほとんどが、「性格の不一致」を表向きの理由にしているが、実際は、どちらかに愛人ができたことが本当の理由であることも多い。                                

   誰か一人だけを愛し続けるのは、なかなかできることではない。その時は、強い恋慕であっても、いつかは冷めてしまう。何故冷めるのか。それは、「飽きる」ということが、心に変化をもたらすからである。                           

   例えば、焼き肉を大好物にしている人でも、それを毎日食べ続けるのは無理である。そのうち、見るのも嫌になってくるに違いない。たまには、あっさりした茶漬けでも食べたいと思うのは否めない。

   人との付き合いも、それと同様である。長年連れ添った夫婦が倦怠期を迎えて、口をきくのも煩わしいと思うのは、仕方のないことである。

できれば別れたいと思っている夫婦もある。しかし実際にそうしないのは、世間体や子どものことを考えて我慢しているからである。

   そんな惰性の生活の中で、ある時、魅力的なビーナスが自分を誘惑してくるのである。そちらに心が動くのは、必然である。そして、それを抑えきれなくなった時、浮気という伴侶への裏切り行為となってしまうのである。

   夫婦の長い道のりにおいては、険悪な雰囲気になったり、倦怠感で冷え切ってしまったりと様々な壁が立ちはだかる。順風満帆とは行かないものなのである。

   浮気もその一つである。それは、二人が乗り越えなければならない試練とも言える。もちろん、離婚の原因になってしまうような派手な浮気はアウトである。できれば、浮気などしない方が良いのであるが、人の性は止められない。

   こんなことを言うと、浮気をされた人から手荒いバッシングを受けそうであるが、ほんの少しの浮気であれば、大目に許してあげても良いのではないか。

 

・ 動物園

  わざわざ現地に赴かなくても、異国の野獣や鳥の実物が安い入場料で手軽に見ることができる場所である。図鑑やメディアで知った獣の本物の姿を見て、子どもたちはもちろん、大人も驚く。

  しかし、当の動物たちはどう思っているのだろう。動物たちの立場からすると、捕獲されて、故郷の風土とは異なる国に送られるのは迷惑なことではないだろうか。

   身の危険や餌の心配が無いとはいえ、自由に草原を駈けたり、大空を飛び回ったりできないのである。

   キリンやゾウにとって、仲間や家族と離ればなれになった上、狭い檻の中で生活するのは退屈極まりない。

   変化のない暮らしを余儀なくされ、喧噪の中で大勢の客にジロジロ見られるのは、ストレスがたまる一方であるに違いない。

   そういうことから、「動物園は、動物たちの自由を奪う悪である」と主張する人もいる。「動物たちにとっては、生まれ故郷の自然の中で生きることが一番幸せなのである」という考えである。

  確かにそのとおりである。その考えは間違ってはいない。それを言われたら、返す言葉がない。

  動物たちにとっての動物園は、悪である。そのことは、我々も分かっている。それでも見たいのである本物を。そして、それを見て驚く子どもたちの顔を。

  誰もが高い旅費を払ったり、移動に長い時間をかけられたりできる訳ではない。そう言う意味では、動物園は本当に有りがたい存在である。檻があるとはいえ、人と動物たちが認識しあえる唯一の場所になる。

   送られてきた動物たちには申し訳ないが、その役割を果たすために不本意な境遇を受け入れてもらいたい。せめてもの罪滅ぼしに、関係者の人たちや入場者たちには、愛情を持って接して欲しいと願う。

 

・ 交通戦争

  軽傷で済んだ事故。尊い命が一瞬でなくなった事故。いずれにしても、世界中のどこかでこのような事故が、毎日、毎時間、毎分、毎秒ごとに数え切れない程起こっている。

  残念ながら、この事象は避けることができない悲劇であり、犠牲者の数は年々増えていく。

  この悲劇をもたらす必然性は、自然発生的な必然性ではない。敢えて言うなら、我々の手によって作られた必然性である。

   文明の利器の発明、複雑化した社会のシステム、競争の原理など、それらはすべて、我々人類の需要から生まれたものである。

   その結果、新たなリスクが身の回りに潜むことになった。それは、我々の想像を超えてしまう場合もある。まさかと思うことが、現実に容赦なく起こっているのである。

 

・ 痛ましい事故

  今までの命に関わった事故の中で、非常に後味の悪い悲惨な事故がある。それは、保育所にいる幼児のお迎えの帰りで起こった悲劇であった。

   母親は、一番下の子をお迎えに行くので、自分の小学生の娘と自宅で一緒に遊んでいた同級生の子ども二人を車に乗せた。

   保育所に寄って幼児を乗せ、自分の家に向かった。車には当時流行っていたサンルーフがついていて、天気が良かったこともあり開けていた。三人の小学生は後部座席に立ち、そこから後ろ向けに首を出してはしゃいでいた。 

  高架下にあるトンネルにさしかかった。通い慣れたトンネルで、スピードを落とさず通り抜けようとした。そのトンネルは、その車がギリギリ通れる高さであった。それに早く気づくべきだったのである。

「ゴン」という鈍い衝撃音と共に、子ども二人が倒れた。間一髪助かった自分の娘の泣き声で母親が気づく。

   しかし、既に遅かったのである。子どもたちは、頭から血を流して即死の状態だった。その後、錯乱状態の母親は、襲ってくる自責の念で壁に頭をぶつけて自殺を計ろうとする。

   何と痛ましい事故であるか。亡くなった子どもたちも不憫であるが、その母親の心境を考えるとなんともやりきれない。良かれと思ってしたことが、自分の不注意でとりかえしのつかないことになったのである。その子どもたちの親にどのように謝罪すればいいのか。

   母親が、子どもたちに「サンルーフから首を出さないように」と事前に注意していたかどうかは分からない。もし、子どもたちがドアの窓から首を出していたなら、他の車両や電柱に接触する恐れから叱ったに違いない。

  しかし、車の上である。通常は、全く障害物がないのである。おそらく、「子どもたちは、爽快な気分を味わえて喜んでいる。まあ、大丈夫だろう」という思いがあったのだろう。

   いずれにしても、サンルーフを開けたのは母親である。母親に注意されていたとしても、子どもたちは誘惑に負けるものである。そのことを頭に入れて、トンネルの直前で確認すべきだったのである。

   母親はこの先、非常に重い十字架を背負って生きていくことになる。

 

・ 自己管理

   さらに、こんな事故もあった。

「早朝に、クレーン車が登校中の児童たちに突っ込んだ。結果、数人の死傷者が出た。運転していた男はすぐに逮捕されたが、放心状態であった」

  当初、「事故は、男の無謀な運転が原因」と思われたが、そうではなかった。実は、逮捕された二十六歳の男には、「てんかん」という持病があった。その症状は、突然発作が起こり意識を失ってしまうという極めて危ないものであった。

  彼は、そうならないための薬を常用していたが、その日は、薬を飲まずに仕事を始めた。職場や近所では、普段から真面目で大人しい若者という評判であったが、それがちょっとした油断から、大惨事を起こすはめになったのである。

  その後、過去に数回事故を彼が起こしていたことも判明する。その時は、命に関わるような事故ではなかったので、持病のことは他人に知られなかった。

   それによって仕事が続けられた訳であるが、まさかそれが原因で大惨事を引き起こすなんて夢にも思っていなかったのである。

   病気だったといえ、運転者の甘さを責められても仕方がない。何の罪もない幼気な命を奪ってしまったことは、非常に遺憾に思う。

「運転する者は自己管理を徹底しなければいけない。それができない者は、運転する資格はない」

と、改めて感じる。

  しかしながら、このような事故は、普段から健康に気を付けている人でも引き起こす可能性はある。運転中、何の前触れもなく突然、心臓発作や呼吸困難、脳卒中などに襲われる事もあるからである。

  自分は元気だと思っていても、自覚症状がないだけで病魔が潜んでいたことはよくある話で、決して油断はできないのである。

 

・ 無謀運転                                             

  十数年前に、JRの電車が脱線してビルに突っ込み、多数の死傷者が出るという大惨事が起こった。

   救出や復旧は困難を極め、近年希に見る列車事故になった。原因は、時間の遅れと過密なダイヤである。

   経験の浅い若い運転手は、事故直前にオーバーランなど複数のミスを犯していた。そのミスで動揺し、運転時に冷静さを欠いていたようである。

   彼は、遅刻による処罰の恐れもあって、何とか時間を取り戻そうとした。そのため、普段ならスピードを落とすところを落とさずに通過しようとしたのである。

   現場は、急な曲線になっているところで、脱線は必然である。いつものように乗り合わせていた人たちにとっては、思いがけない事故に遭遇することになった。

   死んでしまった運転手を責めることはできないが、会社側の責任は免れない。直接ではないにしろ、そのような過密なダイヤにしたこと、処罰によって若い運転手にプレッシャーをかけたこと、安全運転の指導が徹底しなかったことなどが事故の原因を作ったと言われても仕方がないのである。

   しかし、その贖罪は、何かをして可能になるものではない。会社がこれからどのように賠償金を積もうと、死んだ人は生き返らないのである。

   生き残った人の中にも、後遺症によって介護が必要な人もいる。この事故が、運転手を含んだ大勢の人の人生を台無しにしたといっても過言でない。

   人は追いつめられると無理をするものである。自分では大丈夫と思っても、その無理が取り返しのつかない事故を招く。

   昔に比べて時間の経過が速いと感じる今日では、その無理が当然のようになってきている。もし、尋常ならぬ拍車に気づいた誰かが、勇気を持って「待った」の声を発していたなら、この事故は防げたのかも知れない。

   これからは、二度とこのような事故が起こらないように、システムの見直しと安全管理に力を入れて欲しいと願う。

 

・ 安全意識

   サンルーフやクレーン車、電車の脱線のような事故は、極めて希である。五十年に一度あるかないかの事故である。

   しかし、人命が失われるような事故は、決して希ではない。同様の痛ましい事故は、全国各地、いや、世界中で頻繁に起こっている。

「通勤途中で急いでいた車が、集団登校している小学生のグループに突っ込む」

「母子が乗る自転車をトラックが巻き込む」    

「居眠り運転、対向車と衝突」

という記事を毎年のように見る。こんな記事を読むたびに、運転者に対して怒りが込み上げてくるのである。

   大抵が運転者の不注意又は無謀運転なのであるが、逆に被害者側に落ち度がある場合もある。横断禁止の所を渡ったとか、急な飛び出しをしたとかで、運転者が咄嗟に対応できなかったのである。

  飛び出しについては、私自身も経験がある。住宅地の中の細い道を運転中、家の中から突然子どもが飛び出てきたのである。急ブレーキをかけ事なきを得たが、冷汗ものであった。

   子どもは何かの遊びをしていたようで、車が家の前の道路を走っていることなど、まったく頭になかったのである。その時、家の中から、間延びした母親の声が聞こえてきた。

「○○ちゃん、飛び出してはダメよ」

なんという安全意識の低さか。まかり間違えば、車に衝突していたかも知れないというのに。

   とは言え、子どもは遊びに夢中になるものである。周りを見ずに行動を起こすことが多い。間近に迫る鉄の固まりに気づかずに、転がるボールを追いかけることもある。

   車を運転する者は、常にそのことを頭に入れて、安全運転を心がけるべきなのである。

 

・ 不運

  夢中になるのは子どもばかりではない。場合によっては大人も陥ることがある。

  駅のプラットホームでのことである。ひとりの主婦が、線路を挟んだ反対側のプラットホームに知り合いの主婦がいるのを見つけた。

  声を張り上げて挨拶をする。日頃、何かと世話になっているので、何度も丁寧にお辞儀をする。最後は、白線を越えてギリギリの所まで歩み出て頭を下げた。

  その時である。ホームを通過しようとしていた特急電車が、もの凄い速さで入ってきた。「コン」という小さな衝撃音と共に、主婦は倒れ込んだ。

   一瞬の出来事である。見ていた誰もが、主婦が電車の風圧で後ろに倒れ込んだだけだと思った。しかしその後、主婦が意識を取り戻すことは二度となかった。

   その主婦も「白線を越えるのは危険である」ことは、重々に分かっていたはずである。それでも、相手に気持ちを何とか伝えたいという強い思いによって近づいてしまったのである。

   特急の運転手が主婦に気づき、警笛音を鳴らしたかどうかは分からない。もし、鳴らしていなかったのなら、運転手にも少しは責任がある。

   しかし、一番の原因は、主婦の律儀な気持ちである。そのことが、無意識に危険なエリアに踏み込ませた訳である。

   現実的に、タイミングの悪さで死に至るという確率は非常に低い。それでもそうなったのは、そのような悲劇を生む様々な要因が周りに潜んでいたからである。

   少し油断をすると、奈落に落ちてしまうような危険性が身の回りにある。良かれと思ってしたことが、結果、自分の死を招くことになったのである。

   只単に「運が悪かった」だけでは済まされない事故であり、なんとも割り切れない悲劇だったと言える。

 

・ 悪魔の囁き

   居眠り運転で事故を起こした人の話。

  大ベテランのトラック運転手が、馴れた高速道路を長時間走行している。この一週間は徹夜もするくらいの仕事漬けであり、睡眠時間が充分取れていない。疲れもたまり、次第に眠気に襲われる。

「どこかで仮眠を取りたいが、時間がない。品物を早く届けなければならないので、このまま突っ走る」

  睡魔と闘いながら運転を続ける。単調な景色に溶け込んだエンジン音は子守歌になり、とうとう睡魔に負けて一瞬目を閉じてしまう。コクリと首を振った弾みですぐに気づき、目をしっかり開いて前を見る。

「おっと、危ない、危ない・・・」

  気を引き締めるが、再び睡魔が襲ってくる。そして、またもや目を閉じてしまう。その直後、激しい衝撃音と共に暗転になる。

   気がつけば見知らぬ天井が見える。自分は、どこかの病院のベッドの上にいるらしい。体の激痛を感じ、自由に身動きできないことを知って悔やむ。

「一瞬目を閉じただけなのに、どうしてこんなことになったのか・・・」           

   彼は一瞬だと思っているが、本当は結構長い時間だったのである。意識が戻った後、更なる事の重大さを聞かされて落胆する。

   居眠りが許されるのは、リビングのソファーや勉強机など誰にも迷惑がかからない場所だけである。

   教室や会議室、映画館などでも、多少怒られることはあっても事故にはならない。人を殺してしまうこともない。意識がなくなったとしても、ただそれだけのことなのである。

  ところが、運転中はそうはいかない。意識がなくなると事故は必然である。そのことは誰もが知っている。それでも、居眠り事故はなくならない。何故なくならないのか。

   事故を起こした運転手は、まさか自分が他人を死に至らしめるなんて思ってもいない。自分が悲劇の当事者になるなんて考えてもいない。しかし実際は、惨事と背中合わせの状況に置かれていたのである。

   運転手にとって、業務は馴れた仕事であり、多少の無理もどうにか通してきた。今まで無事故という自信もあり、「これくらいなら大丈夫」と高を括っていた。

   しかし、この馴れと自信が、許容の範囲を次第に広げていくことになる。つまり、原因はそこにあった。この油断こそが事故を起こさせた張本人だったのである。

   自信過剰は、事故を危惧する意識を薄れさせる。一つ間違えばそれが現実となるギリギリの所に落とし入れる。境界線を越えるのは時間の問題であり、起こるべくして起こった悲劇だったといえる。

「暗闇の中、ベッドの上に悪魔がいて手招きをしている。その甘い言葉に釣られて、次第にベッドに近づいていく。すぐ前には、落とし穴が隠されているが、そうとも知らずに更に接近する。片足を踏み入れた瞬間、否応なく落下する。その穴は、地獄へ直行する穴であった」

  本当に安全意識の強い人なら、どんなに急いでいてもパーキングエリアで休憩する。自分は絶対に眠らないと自信があっても、万が一ということがあるので仮眠を取る。

   事故に繋がる可能性が少しでもあるなら、それを避ける選択をするのであり、事故を起こした者は、その選択ができなかった訳である。

   この責任は、本人自身だけではなく、会社側にもあった。運転手が睡眠不足で過労ぎみと知りながら、無理を承知で彼に仕事を頼んだからである。

   彼は、「今回だけ」という上司の強い言葉に押されて、断ることができなかったのである。結果、本当に今回限りになってしまう。

   事故によって壊れた物は、なんとか造り直せることはできる。しかし、死んだ人を再び生き返らすことは出来ない。それを肝に銘じてハンドルを握る者が、果たして何人いるのだろうか。

   人は、不注意や油断によって失敗をするものである。その失敗は、大抵が許されたり、改められたりできるものである。

   ところが、このような状況での失敗は、取り返しのつかないことになる。ちょっとした不注意や油断が、悲惨な結果になってしまうという事例である。

 

・ 人の能力

   事故に関して、もう一つ問題になることがある。それは、人の能力である。

   人の能力は、みんな同じではない。思考力、判断力、瞬発力、筋力などにおいて、それぞれ異なっている。

   反射神経の鋭い人は、反応が早いし、そうでない人は、当然遅くなる。その違いは、先天的なことはもちろん、年令的なことによっても出てくる。

   路上で車を走らせていると、「こんなに注意散漫でせっかちな人が、よく運転免許の試験に合格できたものだ」と思わせるような運転者を見かけることがある。

   おそらく何度も落ちてようやく合格できたのだと思うが、心配でならない。周りを見ない非常に危なっかしい運転は、いつかどこかで必ず事故を起こすと懸念する。

   試験に一回で合格した人と何回も受けてやっと合格した人では、事故を起こす可能性は異なる。また、若い人と高齢者でも同様のことが言える。

   腕に自信のある人や若い人ほど無謀な運転をしたがり、結構事故を起こしているのかも知れないが、普通に運転した場合、やはり下手な人や高齢者の人の事故率は高くなるに違いない。

   下手な人がバックしてそのまま後ろの川に落ちたとか、高齢の人がアクセルとブレーキを間違えて人身事故を起こしたということもよく聞く。

  実際に、私自身もそういう人に車を当てられた経験がある。当てた当事者は、周りをまったく見ずに運転していて、あまりの不注意さに憤りを覚えたくらいである。

  だから、「運転している人は、みんな同じ能力であって、必ずこのように運転してくる」という思い込みは危険である。

「ひょっとすると、前の車がこちらを気づかずに急な進路変更をするかも知れない」という警戒心も必要になる。

   危険を回避する咄嗟の反応が鈍い人も結構いるのであり、「想定外のことが起った時は、こう対処する」という柔軟さも持ち合わせなければならないように思う。

 

・ 事故が起こらない車

  自動車業界は、業績を追求するあまり、安全性を疎かにしてきた。速度、燃費、耐久性、外観、コストなどを最優先に考え、人命は二の次にしたのである。

   その結果、数限りない事故が起こり、たくさんの死傷者が出たことは言うまでもない。

   本来なら、人命を守るための装置を第一に考えるべきだった。それなのに、実際はそうしなかった。売らんがために数だけを増やし続け、それに連れて犠牲者も増えていったのである。

   事故がなくなり死傷者が零人になるまで、一体どれ程の犠牲を払わなくてはならないのだろうか。

   これ以上、死傷者を出さないために、「事故が起こらない車」を何とか作って欲しいと願う。

・ 居眠りをすれば、人の脳波を関知して車の速度を落とす装置

・ 瞼を数秒閉じれば、警告音がなる装置

・ ぶつかりそうになると自動的に急ブレーキがかかる装置(後に開発された)

・ 人にぶつかっても怪我をさせないような柔らかなフェンダー

など、本気で考えれば開発できそうに思うのであるが、未だに実現化していない。

  業界は、尊い命が一瞬で奪われている事実をどのように思っているのだろうか。責任を問うのはそれを使う運転者であって、我々には一切関係のないこと割り切っているのであろうか。

   これからは収益よりも、人命の尊重という観点から、安全性に目を向けていくことを真摯に考えてもらいたい。

 

・ 代償

  確かに、車の便利さは否定できない。車によって、長い道のりも短時間で行くことができ、重い荷物も難なく運ぶことができる。

   もし、車が使えなくなると、非常に困ることになるに違いない。もはや、車のない生活は考えられないのである。

  ところが、そのような車の便利さと引き替えに、たくさんの尊い命が犠牲になっているのも事実である。この事象は起こるべくして起こっているのであり、必然的な悲劇と言わざるを得ない。

  それは、人類にとって有益な文明が発展する一方で、その代償として犠牲を伴うという一種の必要悪と言えるのかも知れない。

   しかしながら、その数があまりにも多過ぎるのであり、簡単に「必要悪」として片づけてしまうのは、許されないようにも思う。 

 

・ 諸悪の根元

  悪の行いは、日常茶飯事に起こる。自分の欲望の為に争ったり殺し合ったりと、修羅場に向かうことも頻繁にある。

   何故に悪行が起こるのか。飢饉によって食べ物がない時代ならまだしも、物が豊富にあるにもかかわらず、卑劣な犯罪が多発するのは何故か。

   それは、いくら同種であっても、「自分は自分であり、他人は他人である」という意識による。

   人が悪行に至る根本的な要因は、自我である。自我から起こる他人への悪意である。様々な悪行を振り返ってみると、悪に手を染めた者たちに共通する点があることに気付く。

 

・ 嫉妬                      

   嫉妬心は、誰にでもある。そのような状況に置かれると、大きい小さいの差はあっても、老若男女、すべての人に必ず起こる。 

  例えば、何かのオーディションで競った時である。さほど優秀でもない他人が受かり、並々ならぬ努力と覚悟で挑んだ自分が落ちる。そのとき「才能もないのに、なぜ彼奴が受かるのか」という嫉妬心がおこる。さらに、受かった人が勝ち誇った態度を見せれば、その人に悪意を持つようにもなる。

   このような嫉妬心は、誰にでも起こりうる。上記のような状況だけでなく、普段の日常においても、嫉妬心は出てくる。

「同僚の○○さんは、今度課長に昇進するようよ。誰かさんとは大違いだわ」

と、妻から嫌味を言われた夫

「お父さんは、国立の○○大学を主席で卒業なのに、貴方は三流の大学か・・」

と、母に睨まれた息子

「君の姉さんは、愛想が良く勤勉で近所でも評判だった。君は真逆だな」

と、隣人に咎められた妹

「○○君は、今月も売り上げトップだ。君は今月もビリか。しっかりしろよ」

と、上司に叱責された部下

「○○店のホステスは美人揃いだが、ここはどうもしょうもないな」

と、客に悪口を言われた店長

「昨日、○○さんに付き合いたいと告白された」

と、嬉しそうにはしゃぐ恋敵

   このような言葉を言われて、傷つかない人はいないはずである。たとえ、自分に非があったとしてもである。

  家族内でも嫉妬心は見られる。兄弟、姉妹で、片方が優等生である場合によく起こる。優等生である方は褒められ、そうでない方は愚痴られるのである。

   親にしては叱咤激励のつもりであっても、本人にとっては、贔屓と感じてしまう。そこに嫉妬心が生まれる。場合によっては、ただの兄弟喧嘩では済まされない結末になることもある。

   何を思ってか、無神経に嫉妬心を生み出す輩もいる。あるテレビ番組で、リポーターが人気のある子役の俳優にこんな質問をした。

「お父さんとお母さんでは、どちらが好きですか」

その子は困った顔になり、しばらく考えた挙げ句、「どっちも」と答えた。

   もし、どちらかを選んだら、選ばれなかった方は、選ばれた方に嫉妬していたはずである。家庭の不和の原因を作る馬鹿なリポーターもいるものである。

   車に乗っていた時のことである。信号待ちをしていたら、横に高級な外車が止まった。学生のような若い男が運転し、隣に女の子を乗せている。二人とも人目憚らず「ケラケラ」と笑っている。

「毎日一生懸命働く自分は国産の中古だというのに、何故あんな奴が外国の高級車に乗れるのか。おそらく親が金持ちで、せがんで買ってもらったのだろう。それにしても、自慢げである。苦労も知らないくせに」

という嫉妬心が起こるのである。もし自分が彼と同じ境遇であったら、多分同じようなことをしていると思われるのであるが。

 

・ 大阪のたこ焼き屋の話

   数年前、繁華街に架かる有名な橋の近くで、屋台のたこ焼き店が二つ並んで営業していた。

   一つは常に行列ができるほど繁盛していたが、もう一つは「これで営業が成り立つのか」と心配になるくらい客がいなかった。

   同じ屋台が隣に並ぶのは、何か理由があってのことだろう。おそらく店主同士に血縁関係があったか、親交が特に深かったかのどちらかだと思われる。

   この二店が営業している土地は、市有地である。終戦から数年後のどさくさの時代、空き地に勝手に営業を始めた訳であるが、市側も屋台ということで特別咎めもしなかったのである。

   生活のために、同じ思いで営業を始めた二つのたこ焼き屋。お互いに助け合うこともあったのではないか。ところが、一方が繁盛しだすと、

「味も材料も値段も変わらんのに、なんで隣だけが売れるんや。何か卑怯な手を使っているんとちゃうか」

と、売れない方の店主は、顔に露骨な表情を出して嘆き出したという。

「値段は同じでも、味や材料が違うわ。繁盛したんは努力した結果や。その違いを認めんと文句を言うのは、お門違いやで」

と、売れている方の店主は反論する。さらに、店の看板に「隣の店とは一切関係がない」と表記するほど仲は悪くなっていった。

   売り上げにおいて、少しの差ならまだこんな風にはならなかったのである。隣の店は飛ぶように売れているのに、自分の店はほとんど売れない。それでも、たこ焼きを作り続ければならない。店主は、隣の客の行列を尻目に、非常に悔しい想いで毎日を過ごしていたに違いない。

  人は、容姿、年令、知的能力、運動能力、家庭環境、家系、学歴、社会的地位、財産において、みんな同じではない。それらにおいて誰かと比較される場合、相手の方が優れていれば嫉妬するものである。    

   特に恋愛に関しては、そのことが如実に表れる。三角関係から、一人の男性を巡って、二人の女性が血で血を洗うような醜い争いを起こしたというのは、よく聞く話である。

   普段は虫も殺さぬ顔をしている女性が、罵り、掴み合いの激しい争いをするのである。この三角関係から起こった目も覆いたくなる話がある。

  富も社会的地位もある中年の男が、浮気をする。妻がいるのに自分は独身だと偽って、若くて可愛い女の子と関係を持つ。

   しかし、妻がいることがばれてしまう。女の子は男から逃げようとする。それでも、男は執拗に女の子に迫り、「逃げれば殺す」と脅す。

   その後、妻が夫の浮気に気づく。マフィアを数人雇って女の子の居場所を探しだし、女の子に殴る蹴るの暴行をさせる。薄笑いを浮かべてその様子を見ていた妻は、横たわっている女の子の血まみれの腫れ上がった顔に、用意していた劇薬をかける。

   外国で起こった実際の話である。原因が夫にあるにも関わらず、妻は女の子の所為にした。その嫉妬心は、恐ろしく異常である。可哀想なのは被害者の女の子である。幸いにも命は助かったが、二目と見られない焼け爛れた顔になってしまった。

   嫉妬心から起こった悲惨な事件であるが、これと似たような悲劇は、過去を遡ってみるとかなりあるようである。

  最近では、人の幸福そうな姿を見て自分の置かれた境遇を恨み、そのやり場のない怒りから人に危害を加えるという悲惨な事件も起こっている。いわゆる無差別殺人事件である。

   たまたま居合わせたために、犯人とはまったく関わりのない人が犠牲になるのであり、非常に気の毒に思う。日本はもちろん、欧米でも起こっている。

   このように嫉妬心から起こる犯罪は、結構多い。殺人のような大事件に至らずとも、誰かを陥れたり、傷つけたりとなると数限りない。   

   残念ながらこの世には、嫉妬心が起こる状況が多すぎる。釈迦やイエスのような人ばかりならそうはならないのだろうが、状況によって心が動いてしまう人がほとんどであり、誰もが必然的に嫉妬心を持ってしまうことになる。

「あの人は、どんな時でも冷静さを失わない」と言われている人でさえも、嫉妬をする。平常心を保っているように見えても、本当は表に出さないだけなのである。

   それは、人間なら誰しもが持つ性であって、どうすることもできない。そう考えると、嫉妬心によるトラブルは、どんな時代になってもなくならないことになってしまう。

   なくならないのなら、せめて、それが悲劇に向かわないように努めなければならない。争いになりそうなときであっても、「最低限これだけは守っていく」という固いポリシーで、それを抑制しなければならない。決して、心の赴くままではいけないのである。

   闘うべき相手は、嫉妬心である。非常に厄介なものではあるが、我々は、どのような状況下であっても、常に理性を優先させ、それに打ち勝たなくてはならない。

 

・ 我慢

  言っている人に悪意がなくても、その言葉に傷つくことはよくある。特に自分のことや家族のことを貶されるのは、傷つくものである。

   それでも、我慢する。いちいち怒っていればきりがないから、堪え忍ぶ。大人としての自覚が、怒りを抑制するのである。

   ところが、それにも限界がある。限界を超えたときは、迷惑を憚らずに大爆発することになる。

   我慢の限界は、みんな同じではない。人によって異なる。極めて忍耐強い人がいる一方で、ちょっとしたことで憤る人もいるのであり、そういう人は扱いにくい。

「瞬間湯沸かし器」とあだ名が付く人がいるが、非常に近寄りがたい存在である。常に気を使わなければならず、冗談のつもりであっても誤解されて、こっぴどく叱られることにもなりかねない。

   このような我慢弱い人は、常にトラブルの原因とされ、周りから疎まれてしまうことになる。損な性格であるが、世の中には結構いるものである。

 

・ 許容の範囲・

   周りを見ると、些細な事でも気にする人、重大な事でもまったく気にしない人がいて、みんな許容の範囲が異なっている。先ほどの怒りっぽい人などは、許容の範囲が非常に狭い人であると言える。

   この位なら許せるという境界線は、人それぞれである。あることに対して、「まあ、その程度なら」という人もいれば、「いや、絶対許せない」という人もいるのである。

   これは、生まれ持った性質や環境、受けた教育などの違いによるのであるが、その意識の相違は対立を生む。

   物事の捉え方において、両極端同士では相容れるはずがなく、結果、争いに発展する。

   この世には、そんなことが多すぎる。何かにつけて、極論ともとれる意見が飛び交い言い争う。双方、自分の非を認めず、面目を守り通すことだけしか頭にないのである。

 

・ 自尊心

「自尊心」という言葉は、肯定的にも否定的にも使われていて、非常に厄介である。

   自尊心が何かの決断にブレーキをかけている場合、「そんなプライドは捨てなさい」とか「プライドなんか糞食らえ」とか言われる。

  逆に、自尊心がないのも非難される。何をされても何を言われてもヘラヘラしているのは、「もっと自分のプライドを大切にしろ」とか「プライドを持って行動しろ」とか注意されるのである。

   自尊心が強すぎるのは、トラブルを引き起こす元である。高慢という言葉があるが、何かにつけて自慢したがる嫌味な人を指す。他人を見下して、自己満足に浸る。そうすることで他人が傷つくことなどまったく考えていない。

   高慢な態度を繰り返していると、他人から悪意を持たれるのであり、友だちも離れていく。時には言い争いになって、果ては傷害沙汰にまで発展することもある。

  自尊心は持つべきであるが、ほどほどが望ましい。つまり、「卑屈になるなかれ、高慢になるなかれ」であり、このバランスが難しいのである。

 

・ 見栄

   歌舞伎の見せ場、舞台で役者が両目を中央に寄せて一瞬動きを止めた。感情を強くアピールするための動作であって、所謂、「見得を切った」のである。

  これとは別に、「見栄を張る」という言葉がある。こちらの方は、「人を意識して自分を良く見せようとする態度」という意味である。

   金持ちでもないのに高級な物を身につけたり、かなり辛かったのに「全然平気である」と強がりを言ったりするようなことである。

   この「見栄を張る」というのは、どちらかというと他人に迷惑をかけるより、自滅に向かうことの方が多い。他人に自慢するために欲しいと思う物を借金してまで買うのは、後々厄介なことになって自己破産に陥ることもある。

   閑散としていたイベント会場のことである。催し物終了後に、主催者側が実際に入った人の数とは異なる数を公表した。つまり、かなりの水増しをしたのである。

  体裁を考えた主催者側の気持ちも分からないことはない。しかし、誰が考えても明らかに異なる数を公式に発表するのは、如何なものであろうか。

   見栄を張りすぎるのは、信用性を失うことになると危惧するが、それは、余計な老婆心であろうか。

 

・ 裏切り

   信じていた者に裏切られるほど、ショックなことはない。友人、同僚、愛する人、家族にまで裏切られるというのは、人間不信に陥り、もう誰も信じられなくなるに違いない。

   しかし、現実にはそのような裏切りは日常茶飯事にある。人は心変わりをするものであり、固い信頼で結ばれていても、状況によっては壊れてしまうことも多々ある。競争が付きまとうこの世の中では、裏切りが起こるのは必然なのである。

   そして、誰かに裏切られた者は違う誰かを裏切る。それまで同じ目的を持って行動していた同胞さえも。

   それは、裏切られたことに対する報復であり、罪悪感などは既になくなっている。生きるための術として、平気で行うようになってくる。

  道義的によくないことであっても、利害関係で物事を計り実行する。すべてを天秤にかけて、重い方につくのである。

  このような裏切りによる悲劇も、数えきれない程起こっている。

 

・ 支配

   人は、操られるより操る方を選ぶ。

  自分の思う通りに生きたいという気持ちは、誰にでもある。できれば人の指図は受けたくないものである。

  それには、大きな権力を持たなければならない。ピラミッドの頂点に上りつめなければならない。社会的地位を上げれば上げるほど、自分の思う通りにできるからである。

   邪魔する者は、力でねじ伏せる。抹殺する。それが、過去にあった大きな悲劇の要因の一つである。

   支配は、自然界にも見られる。猿でも、野犬でも、野鳥でも、群れなす集団にはリーダーが必ずいる。ライバルに勝ち頂点に立った者が、ボスとなって他を従えるのである。

   人間界も、同様である。支配する側になって人を操ろうと目論む輩が、当然のように出現してくる。結果、悲劇が起こる。その最たるものが戦争である。

   たとえ同じ民族であっても、トップを狙う者たちによって戦争は起こる。勝ち残った者が独裁者として君臨し、「統一」という名のもとに他国をも侵略するようになる。

  既に述べたが、人間には他の種と同様に、「種の存続」が意識の根底にある。人は、同種の「人」とは争わずに共存しなければならないのである。

   しかし、現実はちがう。捕食し合うことはなくても、殺し合うことはしてきた。自分の欲望のままに、強奪、迫害、拘束、監禁、傷害などの悪行はもちろん、自分に弓引く者には、抹殺によって報復した。

   その惨事は、どのような社会体制においてもあった。流血の争いは、支配という野望を持った者によって、幾度も起こっているのである。

 

・ 争い

  争いは、この世に生命を授かる前から始まっている。

   受精時、数億の精子は、一つの卵子を目指して競う。卵子にたどり着けなかった精子は、すべて滅してしまう。

  巣の中、生まれたばかりの雛たちは、親鳥に餌が欲しいとしきりに啼いて訴える。また小屋の中では、まだ目が見えぬ子犬たちが、母犬の乳首を我先に奪い合う。

  精子も雛も子犬も、他を蹴落としたいという意識によって競っているのではない。生き続けたいという内なる意識によって、そうしているだけである。

   象やシマウマの群れを見ると、何の争いもなく平穏な暮らしをしていて幸せそうである。しかし、生命の糧の絶対数が減ると、おとなしい象やシマウマでも仲間同士が争うことになるに違いない。いくら仲間意識があっても、結局は自分自身が最優先なのである。

   子孫を残すパートナーの争奪もある。ライオンも熊もメスの取り合いでオス同士が争っている。結果、双方が傷ついたり、死に至ったりする場合もある。

  人も過去に同じような事をしていた。三角関係になって決闘が行われ、負けた方は死に至ったのである。今日では、殺し合いはなくても、恨んだり、憎んだりの修羅場は日常的にある。

   誰もが、「自分が選んだパートナーと子孫を残したい」という思いを持つ。そこにライバルがいると、必然的に争いが起こる。

   この先、どのような時代になっても、このような争いがなくなることはない。

 

・ 新世紀エヴァンゲリオン

  若い人の間でブームになった「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメがある。このアニメのテーマの一つが、「争い」であるように思える。

「他人がいるから争いが生まれる。人類の魂と体を一つにすれば、その争いもなくなる」という考えから、人類補完計画なるものが遂行される。

   その計画が完結される間際に、「命が一つになるより、他人の恐怖と向き合って生きることの方が、人間らしい生き方ではないか」という主人公の思いによって、その計画が阻止されるのである。

  確かに全世界の人の命を一つにすれば、争いはなくなる。意識が単一であるから、反目することはない。

  しかしそうであっても、この世に自分ひとりしか存在しないというのは、どうなのであろうか。まるで無人島に生存する一人きりの漂流者や独房に入れられた囚人のようであり、半端ない孤独感に襲われるに違いない。他人の意識を認識できないというのは、やはりやりきれない気持ちになるのではないか。

   物語においては、主人公は迷った末に元の争いのある世界を選ぶ。地球上のすべての命が一つになるよりも、複数の命と意識があった方が良いと判断したのである。

   実際、その判断が正しかったかどうかは分からない。ひょっとしたら、人類補完計画の遂行によって、争いの起こらない理想の世界が築けたのかも知れない。

   しかしながら、それは荒唐無稽のアニメの世界だからこそできるのであり、現実の世界では不可能なことである。

   結局、我々は、後にも先にも他人と向き合って生きていくしかないのである。

  

・ 葛藤

   現代のように複雑な社会情勢の中で、何の支障もなく生きていくのは難しいことである。

   支配欲、裏切り、陥れ、妬み、嫉妬が渦巻く修羅場の中では、生きるか死ぬかの選択を迫られることもある。それは、油断すれば食われてしまうという弱肉強食の世界であり、そこに我々は否応なく生かされているのである。

  他人が蹴落とされるのを喜ぶような状況の中で、本当に人類全体の為に自分を犠牲にする人は滅多にいるものではない。私も含めて、自分本位の人間がほとんどである。 

  それでも、脳細胞のどこかにインプットされている「種の存続と同種との共存」の意識が、「自分本位」の意識と葛藤するときがある。そのどちらかが勝つと、善になったり悪になったりする訳である。

  

・ 進むべき道

   あえて結論を言うのであれば、「何が悪で何が善なのかという判断は、簡単にはできない」ということになる。

   考え方や立場によって変わるのであり、今、正義であると思っていたことが、悪に変わることだって有り得るからである。

  しかし、これだけは言える。悪とは、「自己本位で他人を認めないこと。さらに、他人を支配したり犠牲にしたりすること」である。逆に、善とは、「自己を犠牲にして、他人を優先させたり助けたりすること」になる。

  人は、環境によって変わる。その時々、悪人になったり善人になったりする。悪人になるのは簡単であるが、善人で有り続けるのは容易でない。窮地に追い込まれても、他人を助けたり他人を優先したりするのは、なかなかできることではないからである。

  確かに「種の存続」と「同種との共存」という意識によって、そのような行動を起こす時もあるが、厳しい状況の中では、同胞という意識は薄くなってしまう。

「人は、人口の数だけいる。そして、それぞれに願望や欲望がある。その衝突は、必然である」

  人は、ひとりで生きているのではない。多くの人たちと共に生きている。家族や友人、同僚、他人などすべての人にそれぞれの思いがあり、時にはその思いが反目することもある。

   どんなに仲の良い兄弟姉妹であっても、何かで揉めることはある。遺産相続で裁判沙汰になり、果ては絶縁状態になったというのはよく聞く話である。「血は水よりも濃い」という諺が、虚しく思えてくる。

   同じ家や地域に住む人であってもそうなのであるから、異なる国、民族、人種、神であれば、揉めるのは必然的である。

   だからこそ我々は、そのような衝突を最小限に抑える努力をしなければならないのである。それが、我々人類の永遠のテーマといえる。

   これまでに、暗中模索の結果としての悲劇が、数え切れない程起こった。生き延びるためには、それが悪であると知りつつも他人を犠牲にすることもあった。

   人類は、そのたくさんの「過ち」から学び、繁栄のための進むべき道を選択しなければならない。

   もちろん、その選択は難しい。その時点でベストと判断した方法が、結果的には間違っていたということもあるだろう。

   しかしながら、それは仕方のないことであって、そのような紆余曲折を経て、さらにベターな判断をすれば良いのである。

   願わくは、世の中のすべての「悪」がなくなって欲しい。しかしその思いに反して、悪を作りだす環境やシステムというのは、なかなかなくならない。たとえなくなったとしても、再び現れてくる。

   また厄介なことに、一度反社会に走った者は、なかなか改心しないのが現状である。捕えられても真に反省などせず、保身のために言い訳をしたり改心のふりを装ったりするだけである。再犯をする輩がほとんどなのである。

   悪に染まった輩の言い訳は、こうである。

「ライオンが、動物愛護の意識を持って、目の前の獲物を見逃すことはない。見逃せば、自分の死を招くことになるからである。それが自然界の厳しさであり、人間界も同じである」

   つまり、「蹴落とさなければ自分が蹴落とされるのであり、その意識が人を踏み台にしたり犠牲にしたりするのだ」という論理である。

   このような意識がなくならない限り、悪が悪を呼び、悪人は増え続けていくことになってしまう。

   そう考えると、「この世は悪人だらけになる」と言わざるを得ないが、なんとか善人ばかりの世の中にならないものだろうか。

   いや、たとえ地球上にいる人間すべてが善人になったとしても、「悪」は出てくる。悪行は人の意識とは無関係に起こるのであり、故意でなくても、殺人や傷害、事故や火災などの悲劇は起こるのである。

「悪」は、いつの世にも出てくる。「世に盗人の種は尽きまじ」と大泥棒の辞世の句にあるように、悪の種が尽きないからである。

   残念ながら、未来永劫、どのような世の中になっても、「悪」はなくならないと言わざるを得ない。

  しかしそうであっても、「悪」が蔓延る世の中ではなく、「善」が「悪」を凌駕する世の中であることを切に願うばかりである。        

 

   人は、誰もが平等なのであろうか。本当は、不平等なのではないだろうか。

 

   歴史を顧みると、これまでに様々な差別的事象が起こった。そこから生じた悲劇は、数え切れないほどである。

   差別に苦しみ憤った人々は、その理不尽な扱いを訴えて、闘争を起こしていくこととなる。

   尊敬すべき先人達は、公平かつ平等な社会を目指した。奴隷解放などはその極みであり、その実現化にあたっては、並々ならぬ尽力があったように思われる。

   日本国においても、基本的人権という観点から、「女性の参政権」をはじめ、「職業の選択」「居住の自由」「教育の機会均等」といった市民的権利が確立されていった。

   それは何人にも保障されるべきものであり、日本国憲法の第十四条の中では、このように記されている。

「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

   つまり、人はいろいろ異なることがあっても、そのことによって差別されてはならないのであり、平等であることは法律によって定められているということである。

   確かに、誰もが差別されてはならない。万人が平等であって欲しいと願う。しかしながら、裏を返せばそのことを法律に定めなければならないほど、実際は不平等だらけなのである。

   近年、人権に関わるフォーラムも世界中で行われて、啓発活動が盛んになってきた。「人は、生まれながらにして平等であり、人の権利は法律によって守られるべきである」と主張する知識人も増えてきている。未だに強い差別意識を持つ人々もいるが、我々が理想とする方向に進んでいるのは間違いない。

   ところがその一方で、法律だけではどうにもならない不平等さが存在することを我々は認識しなくてはならない。

   法律の中に「法の下に平等」を唱える国は多いが、その主旨は、「人は皆、平等に扱われる権利がある」ということであって、「人は、すべてにおいて同じである」ということではない。 

   人は、それぞれに先天的なものや生まれた環境が異なっている。障害がない人とある人、裕福な家庭と極貧の家庭など、決して、同じように生まれた訳ではない。

 

・ 先天的な要因   

   人は、自分の意志で生まれてくるのではない。生まれる所を選んで出てくるのでもない。

   世の中には、何の障害もなく五体満足な人がいる一方で、生まれながらにして脳に障害がある、眼が不自由である、肢体不自由であるという人もいる。

  そのことに対して、「それは単に運が作用した結果であり、平等とか不平等とかという問題ではない」という反論の声があるかも知れない。

  確かにその通りである。障害があって生まれた人は、不運である。しかし、その不運によって、人生におけるスタートを健常者と同じようにはできないのである。

  もし、人類が神や仏によって作られたものであれば、「神や仏は、なぜ人を平等に作らなかったのか」と非難されることになるだろう。

  新生児に障害があることを望む人などいない。その家族にすれば、非凡な才能でなくとも、せめて人並みの状態で生まれて欲しいのである。ところが、その思いとは裏腹に不本意な生まれ方をした訳である。

   後天的な病気や事故による障害ならまだしも、生まれながらというのは、本人にとって素直に納得できることではない。

  その境遇を「何故、自分はこのように生まれたのか」と恨んだりする人もいるだろうし、目の不自由な人が目の前の景色の素晴らしさを聞いたり、足に障害がある人が楽しそうに走る健常者を見たりするのは、とても辛いものがあると察する。

   しかし、それを嘆くだけでは、どうにもならないのであり、生きていくためには、その障害を受け入れて克服しなければならない。前に進むためには、試練を乗り越えなければならないのである。

   実際、ほとんどの障害者は、どんなに過酷な境遇であっても生きるための努力を懸命にされている。「障害者は障害者なりに、健常者に引け目を取らぬ生き方をすればよい」という励ましの声もある。

  社会も以前と比べて、バリアフリーなど障害者に対してより配慮されたものに変わってきた。また、障害のあるアスリートにとって最高峰であるパラリンピックも開催されるようになり、活躍の場が増えてきた。

  それでも、制限された範囲の中での生きるための選択は、非常に厳しいものがあるのは言うまでもない。

  その昔、米のメジャーリーグでジム・アボットという投手がいた。並々ならぬ努力の結果、片腕というハンデを乗り越えて、メジャーの試合で活躍した人である。

  日本においても、自閉症の女の子が、書道において非常に優れた才能を発揮しているとニュースで報じていた。

  障害があっても健常者にも勝る評価を受けたことは、多くの人に希望と勇気を与えたに違いない。「障害者にも可能性がある」「何事も予断と偏見で判断してはいけない」という戒めにもなった。

  しかし、こういう人たちは希である。努力すればいつかチャンスが掴めるという希望すら持てない人がほとんどであり、障害によって夢が断たれるのが現状である。

  生まれながらに全盲である人が、どのように努力しようとアボット投手のようにはなれないし、生まれながらに両腕のない人が、いくら努力しようとNBAのプロバスケットボールの選手にはなれない。

   障害のある人がいくら望んでも努力しても、将来、健常者のアスリートの最高峰であるオリンピックには参加できないのである。

   そのことは、スポーツ界だけではない。芸術の世界においても同じことがいえる。

  ピカソの抽象的な作品を観て、「訳が分からん」と思う人もいるかも知れない。一見、幼稚園児が描いたような稚拙な作品に見えるが、実際はそうではない。

顔が歪んでいようが、あり得ない構図であろうが、「泣く女」にしたって「ゲルニカ」にしたって、人を引きつける何かがある。観る側に何かインパクトを与える絵であることには間違いない。

   それは、ピカソの努力と才能によるものであり、決して偶発的なものではない。卓越した技術の裏付けによってできた作品であることは、初期の絵画やデッサンを見れば分かる。

  ここに、ピカソのような才能のある画家Aが描いた絵と、重度の知的障害があるBが描いた絵があるとしよう。誰が描いたかは伏せておいて、その二つの絵を百人に選んでもらう。

   百人中のほとんどの人がAの絵を選ぶに違いない。「Bの絵も、障害が重いにも関わらず精一杯描いたのだから評価されるべきである」とするのは、障害者を思いやる気持ちであって、作品自体の評価にはならない。いくら純粋無垢な気持ちで描かれていても、Aには勝てないのである。つまり、Bは、Aと同じ土俵には上がれないということである。

   このような不平等さは、障害者だけに限ったことではない。健常者においても同様のことが存在する。

  例えば容姿についてである。見るたびに、なぜ、あのような容姿で生まれてきたのだろうと同情せざる得ない人がいる。美意識の違いの問題ではなく、本当に可哀想に思えるくらいの醜さなのである。

   こういう人が大人に成長しても、モデルや女優など容姿に関わる仕事はできない。いくら歌やダンスが上手になっても、オーディションで選ばれることはない。生まれた時から将来つくべき職業が制限されていて、選択の自由がないのである。

   昔、モーツァルトの生涯を描いた「アマデウス」という映画を観たが、ラストシーンは、それを象徴するものであった。ライバルであった年老いたサリエリが、若い神父に嘆く。

「彼の曲は、今でも大衆の記憶にある。それにひきかえ、私の曲は誰も知らない。悔しい思い

  のままで生き長らえるのは、まるで地獄である。神は、何故このような不公平さを人に与え

  賜うたのだ」  

と、自分の凡庸さを恨むのである。

  誰もが非凡な才能を持っている訳ではない。努力だけでは、成し得ないこともたくさんある。

  このように、生まれながらの違いはどうすることもできないのであり、どのような状態であっても、残念ながらそれを受け入れるしかないのである。

 

・ 格差

  世の中を見れば、様々な格差があることに気づく。上部の上流階級、真ん中の中流階級、底辺の下層階級というように、社会的な地位や財産がピラミッド型で表されているのである。

   いくら法律上で平等であっても、これらの格差は、現実的に不平等さを生んでいると言わざるを得ない。

   人は、年を重ねれば重ねるほど他人に指図されることを嫌うのであり、自分の意のままにすることを望む。

   そのことを可能にするのは、地位や権力、財産である。自由競争の中では、必須のアイテムであり、それらが大きければ大きいほど実現に近づけられる。だから、誰もがそれらを求め、獲得に努力する。 

   地位や権力、財産に繋がる職業に就けるというのは、本人の希望だけで決まるものではない。現実には、それなりの資格が必要になってくる。

  医師は医師の免許、弁護士は弁護士の免許、教員は教員の免許を取得できなければその生業には就けない。免許を取得するためには、それ相応の学歴が必要になるのである。

   その獲得に有利になるものは、持って生まれた能力と家庭環境である。能力があっても家庭環境が厳しい場合、よほどの努力をしないと難しい。

   実際、国の援助だけではどうにもならず、最高学府の教育を望んでいても、家庭の事情で断念せざるを得なかった人も少なくない。もし、希望通りになっていたら、その人の人生の選択肢は、間違いなく増えたはずである。

  結局、この不平等さの原因も、元を正せば能力や環境といった先天的なことになる。先天的な要因が、人の運命を決めているということである。

   もちろん、先天的に恵まれていても、誰もが成功者になれる訳ではない。トップになるのはほんの一握りであり、負け組になることだってある。

  その反対に、逆境をバネにして努力によって成功を収めた人もいるのであり、一概に決めつけることはできない。それでも、不利であることに変わりはない。

   数多のライバルがいる中では、強靱な意志と弛まぬ努力、そして運も味方につけられなければ成功者にはなれない。

   ハンデによって異なるスタート地点に立たされる者にとっては、そのような状況下は、より厳しい試練となる。

 

・ 本音

   日常において、何かにつけて「賢と愚」「美と醜」「卓と凡」「貴と賤」「富と貧」などと対極に分けられてしまう。その違いによって、嫌でも区別(差別)されているのである。

  大衆は、美を愛でる。卓越を求める。雑誌の表紙には、容姿端麗なアイドルやモデルが選ばれ、新聞の見出しには、活躍したスポーツ選手の記事が載る。

  絵画や音楽の世界に生きる芸術家も、より優れた作品の完成を求める。画家は、魅力ある肢体美を描き、音楽家は、美しい旋律を奏でる。

   いくら、平等を声高に叫んでも、凡庸な技術や作品、容姿には見向きもしない。ぞんざいな扱いをされるだけである。そういうものなのである、人の本心は。

  人がそれを判断する以上、それから生じる不平等さは必ず出てくる。どのような時代や社会になってもなくならない。差別というものが人の本質に起因する以上、永遠に続くのである。

 

・ 結論

   世の中には、様々な境遇によって苦難を強いられている人たちがいる。先天的であれ、後天的であれ、ハンデを背負う人たちや障害がなくても配慮が必要な人がたくさん存在する。そのことを認識しないで、「すべてが平等で同じである」などと軽はずみに言ってはならないのである。

  土台、完全な平等などあり得ない。平等な世の中と言っても、不平等さの上に成り立っているのである。

    しかし、たとえ不平等な社会であっても、幸せに生きる権利はどの人にもある。人の「個」の違いが生じるのは必然的であっても、そのことでその人の権利が踏みにじられてはならないのである。

   だからこそ、せめて最低限度の「平等の権利」が、すべての人に徹底される世の中になって欲しいと願うのである。

   そのような時代が来るのを祈って止まないが、理想だけの「絵に描いた餅」にならないように、すべての人にそのような意識を持ってもらいたいものである。

 

   言うまでもなく、誰もが生きていることに幸せを感じられる世の中である。それは、若者にとっては希望が持てて、老いたる者にとっては満足して臨終を迎えられる社会といえる。 

   残念ながら、そのような社会を実現している国というのは、私の知る限りでは皆無である。

 

・ 幸福感

   世界を見渡すと、戦争や飢餓、疫病や災害などで怯えながら日々を過ごしている人々がたくさんいる。人命が脅かされる状況にある国が、少なからず存在するのである。

  また、そのような状況でなくても、何某かの問題を抱えていて、「誰もが生きていることに幸せを感じている」とは言い難い国がほとんどである。

   どんなに平穏な国であっても、どんなに豊かな国であっても、どんなに社会保障が充実した国であっても、必ず闇の部分が存在する。

   笑う人がいる一方で泣く人もいるのであり、すべての人が幸せであるという完璧な国など、どこを探してもないようである。

 

・ 楽園               

  我々は、誰もが楽園を求めている。楽園を築いて、そこで幸せな人生を送りたいと夢見ている。たとえ活動的な冒険家であっても、いつかは「安息の地」で落ち着くことを望んでいる。

  楽園というと、「何の不安もなく、毎日が楽しくのんびり暮らせる所」と言うイメージを思い浮かべてしまう。

  たとえば、ゴーギャンの絵のような「小鳥がさえずる魅惑的な南国の孤島」やベートーベンの交響曲のような「美しい田園風景が望める静かな田舎町」などである。

  そこでは時間の流れが遅く感じられ、ゆっくりとくつろぐことができる。都会のような喧噪もなく、仕事や煩わしい人間関係を忘れさせてくれる唯一の場所となる。

   ところが、そのような楽園であっても、長居をするとあまりの退屈さに都会の騒音が恋しくなる人もいるはずである。

   さらに、現地の人たちにとっては、それが当たり前であって、特別な感慨はないと思われる。その日の糧の確保に追われて、景色を眺める余裕などない人もいるに違いない。

   つまり、理想の地といっても人それぞれであって、素晴らしいと思う人がいる一方で、そうとは思わない人もいるのであり、誰もが同じように感じるとは限らないのである。

   どんなに素晴らしい楽園であっても、美しい風景とは裏腹に苦い試練も隠れている。そういうものなのである現実は。

「ひょっとして、この世に楽園などないのではないか。すべての人が幸福になれる世の中など、あり得ないのではないか」

という疑念が頭をよぎる。                           

 

・ 幸福度の高い国

   以前に、ブータン王国の国王が来日して、「自分の国の国民は、世界で最も幸せな国民である」とさりげなく自負した。その言葉を聞いた日本国民の中には、「本当に羨ましい」と思った人もいたはずである。

   実際に、ブータンの国民の多くが「自分は幸福である」と言う。その理由は、

 

一  リーダーに好感が持てる

     常に国民の事を考えている。

二  医療や教育などが無償である

     社会保障が充実している。

三  仏教国であり、GNH(国民総幸福)という概念が浸透している

     連帯感がある。

四  戦争をしていない

     現在、ブータンは隣接する国と何らトラブルこともなく、どこからも侵略や干渉を受けていな

     い。これからもその可能性は、ほとんどないと思われる。

五  食料が、充分足りている

    農業大国ではないが、国民が飢餓で苦しむことはない。

六  大きな自然災害を被ることがない

     干ばつ、台風、地震、噴火が頻繁に起こる国でない。

 

ということが挙げられている。

   私自身、実際に行ったことがないので「こうである」とは断言できないが、メディアで見る限り、国の様子は都会的な喧噪もなく、静かな佇まいで長閑である。

   確かにこのような環境では、何の心配もないだろう。未来に希望が持てる国であると期待できる。

   このブータン王国以外にも、幸福度の高い国としてスエーデンやノルウェイなどの北欧諸国がよく挙げられている。

   気候的に厳しく、際だった産業がない国々ではあるが、社会保障が充実していて、将来に不安を持つ人はほとんどいないと言われる。

   教育や医療を無償にするために税金が高くなってはいるが、そのことを不満に思う人は少ないようである。また、障害者のための福祉も整っていて、弱者に優しい国と言える。

   このような北欧諸国やブータン王国は、厳しい状況に置かれた他の国民から見ると「理想の地」になるようである。実際、内紛や迫害に遭った難民が望む移住先は、このような国が上位を占める。

   しかし、である。たとえどんなに幸福度の高い国の民であっても、「すべての人が幸福である」とは言い切れない。その中には、不幸を感じている人もいるはずである。

 

・ 共同体

  若い頃に、「イージーライダー」というアメリカ映画を観た。斬新なカット割りと豊富な音楽の使用が話題になり、当時は「ニューシネマ」と評された。

   ラストシーンは、ショッキングで後味の悪いものであった。放浪中の二人の主人公が、長髪であるという理由だけで、地元の者に銃で撃たれてしまうのである。

   映画の冒頭、自由を求めて勝手気ままに生きる二人は、麻薬の売買をして大金を得る。その金で大型バイクを手に入れ、遠く離れた謝肉祭の地へと向かう。

  途中、二人はヒッチハイクの男と出会う。男の行き先は、コミューンと呼ばれる小さな村であった。そこには、同じ思いを持つ仲間が移り住んでいて、共同体が組織されていた。

「荒廃した都会にはもう住めない。自分たちで理想の地を築き、そこで暮らす」

  諸悪が潜む都会に見切りをつけて、安全に暮らせる地を探し出し、仲間と共に移住したのである。

  住民は若年者がほとんどで、長髪、マリワナの所有、フリーセックスといったまるでラブ&ピースを掲げたヒッピーのような暮らしをしていた。

   物事は合議制で決められ、規則もある。自給自足を目指すが、まだまだ充分とは言えず、苦労やトラブルも多い。

   この場面を観たとき、いつか自分も「理想の地」を探しだして、好き勝手に生きてみたいと夢見たものである。

   実際、このような共同体は、アメリカのみならず世界中で作られた。その目的は、同じ様に「理想の地」を築くことである。その核になるのは、原始共産制であったり宗教であったりと様々である。

   日本でも、六十年程前にそのような共同体が作られている。原始共産制を理念として、自給自足による共同生活を信条とした。そこでは、私有財産は認められず、すべての物を共有したのである。

   基本は農業であり、主に無農薬野菜や良質の畜産物を生産した。他で生産された安全性が疑われる物は、口にしたり使用したりしないとされている。

   その共同体は、今でも存在していて、外国にも拠点がある。入会するには、全財産を団体に預けなければならないと聞く。

   理念に共感し、並々ならぬ決意を持って入会しても、すぐに退会する人もいるらしい。理由は、内情に違和感を持ったからである。理想と現実の相違である。退会の手続きは、容易ではないにしろ、なんとかできるようである。

 

・ 最悪の宗教団体

   自分の意志で退会できるのは、まだましな方だと言える。一度入会すると、なかなか退会できない団体もあり、そんな所に入ると非常に厄介である。数多ある共同体の中には、良識のない団体もあるのである。

  いや、それどころか、最悪の結果を招いた団体さえある。意向にそぐわない知名人を暗殺しようとした団体や、「この世と決別する」という理由で教祖の指示により集団自殺を敢行した恐ろしい団体も実在した。

  その教祖は、「自分には超能力がある。それによって、理想の共同体を造り拡大させる」と公言した。メディアにも頻繁に取り上げられたが、その共同体の核になる理念とは、「人種差別のない平等な社会の実現」であった。その言葉により民衆は、「教祖が本物である」と思い始めた。

  しかしそれは、信者を増やすためのアピールに過ぎず、実際は差別者であった。超能力もいかさまであり、それらが露見しかけたために全信者を道連れに自殺したのである。

   結局、教祖は「民衆よりも自分が第一」というまさに自己中心的なエセ宗教家に過ぎなかったのである。

  最近の日本においても、某カルト宗教集団が無差別テロを行っており、その驚愕の行為に国民が震撼させられた。殺戮は、すべて教祖の意志によるものであり、自分の意のままになる世界を作ろうとした結果である。

   まあ、このような宗教教団体は別として、今現在、世界中にあった共同体は一体どうなっているのだろう。

   理想を貫いて、まだ存在しているのであろうか。それとも、理想と現実とのギャップによって崩壊しているのだろうか。

 

・ 世界平和

   確かに理想はあくまでも理想であって、現実とは異なる。しかし、行き着くところ、世界中のすべての地が「理想の地」とは呼べなくても、争いのない平和な地になって欲しいと思う。万人は無理だとしても、せめて大部分の人が幸せになるような社会になることを願うのである。

  四十数年前に、有名な英国の音楽家がそのことを思って曲を作り、世界に向けて強くアピールした。日本でもメディアなどで頻繁に取り上げられ、大変話題になったものである。

  歌詞が和訳されているが、それは左記の通りである。

 

『想像してみよう、これらのことを

  この世には天国や地獄なんて無い

   天上には青い空が広がっているだけだ

  私たちは、今日という日のために生きている

  国や宗教がない世界では、殺し合うこともない

   みんなが平和な人生を送っていける

  財産なんていらない

   どん欲にも空腹にもなることもない

  人間の兄弟愛に満ちた社会の中にいること

   私たちみんなで、世界のすべてを分かち合っている

  君は私を夢想家だと言うだろう

   だけど、私はたった独りじゃない

  いつか君も私と歩んで世界が一つになったとき

   みんなが共に生きればいい』

 

  世界平和を訴える人は、たくさんいる。その中でも世界的に有名なミュージシャンということで当時注目されたのがジョン・レノンである。

「彼は、現実を見てないただの夢想家である」という批判がある一方、彼を熱烈に支持するファンも多い。

  そのメッセージが、音楽家としてのパフォーマンスなのか本意なのかは分からないが、世界中の多くの人がこの曲に共感して、今尚どこかで流れているのも事実である。

   実際、ジョン・レノンがイメージした社会は、現実的にどのような社会になるのか。歌詞の中の「無宗教・無財産」からすると共産主義社会や無政府主義社会のように思えるが、本人がそれを意識していたのだろうか。

  今となっては確かめようがないが、いずれにしても、人類すべてが助け合う平和な社会を理想としたのは間違いない。

   確かに戦争はして欲しくない。戦場を生き甲斐とする好戦的な指揮官や兵器の売買で大儲けをしている「死の商人」を除けば、誰もがそう思っているはずである。

  たくさんの命が兵器によって奪われるのは、悲しいことであり、人種や宗教の違いという理由で殺し合うことは、明らかに間違っている。

  また、諸悪の根源ともいえる過激な自由競争と熾烈な権力闘争、富める者と貧しき者の格差など、もしそれらがなくなれば、世界中のすべての人々が幸せに暮らせるのかもしれない。

   しかし、彼が思い浮かべた国の垣根や宗教をなくすことが、本当に理想郷の実現に近づくことになるのだろうか。

 

・ 人類の草成期

   元来、人類には、人種も民族も国も宗教もなかった。

   遥か昔に、一つの大陸が地殻変動によって分割し、移動することによって現在の五大陸が出来上がる。

  長い時間を経て、それぞれの風土、気候の違いから、異なる人種、民族、国、言語、宗教が確立された。同一であれば、「同胞である」と意識も自然に出てくる。

   日本もアジア大陸と陸続きであった頃は、中国、韓国などと同じ民族として存在した。それが、地層の隆起と陥没、海の水位の上昇によって分断され、島国となったのである。

   それによって、日本固有の文化が生まれる。言語も独自のものが普及する。交流もあって大陸の影響は受けるが、独立した国として存続する。

 

・ 愛国心                                          

   誰もが自分が生まれ育った地域に愛着を持つ。また、その地域を含む国に対しても、同様の気持ちを持つ。そして、その国の繁栄をも願う。

  さらに同じ地域や国に住む者たちに対しても同胞意識を持つ。人種や民族が同じであれば、それはより強いものとなる。

   もし、自分の国や民族性を他国に否定されれば、それは自分自身を否定されるのと同じことであり、否定した国を敵対視するようになる。他国からの干渉や侵略の際には、命をかけて闘うこともある。

 

・ 自国

   これらの国々が、自国の利益を考えるのは仕方がないことである。利権の対立から争いが起こることも必然である。

   状況はどうあれ、「自分の国が第一であり、他国は二の次である」というような意識が生じる時は、他国との戦争を引き起こす可能性が高くなる。

   現在に至っても、国益が絡んだ原因によって戦争をしている国がたくさんある。戦争をしていなくても、一触即発という状態の国もある。その最大の理由は、自国という意識が過剰であるためのように思われる。

 

・ 利権

   大昔から人類は、群れて生活していた。一つの集団が大きくなって村となり、その村が合併して国になった。その間、利権の獲得による争いも起こり、たくさんの血が流された。

  特に国と国との争いは壮絶であり、多数の死傷者がでた。戦によっては、負けた方の国民が皆殺しになったり奴隷になったりしたのである。

   戦争の影に利権が絡んでいるのは、明白である。宗教、主義主張、民族の違いは隠れ蓑であって、実際は利権が本当の原因であることも多い。

   この利権のすべてを手に入れようとしたのが、世界制覇を目指した歴代の権力者たちである。独裁者になることで、自分の思うままに世界を動かそうとしたのである。

 

・ 世界一家      

   複数の国が存在するから、戦争に発展する可能性が出てくる。それは、歴史を振り返れば分かる。逆に国が一つになれば、その可能性はなくなるということである。

   世界が一つになると、国益がらみの争いはなくなる。支配欲からの戦争も起こらない。干渉や侵略をする国もなくなる。理論的には正しいように見える。

   しかし、実際はどうであろうか。世界が一つになれば本当に戦争はなくなるのだろうか。

  また、そのことが理想を実現化する方法だとしても、糸も簡単に一つになれるのであろうか。

 

・ 世界統一

   国がなくなるという意味は、世界が統一されることである。複数あった国の名が、一つになるのである。

   例えば、アメリカ、ロシア、中国と呼んでいた国名がなくなり、一つの名に統一されるのである。その名は、仮に「アース」とでもしておこう。

   世界が一つになっても、アメリカやロシアであった所は、アメリカ地域、ロシア地域と呼ばれることになる。そうしないと区別がつかなくなるからである。小さな国が集まっている所は、一つの地域に統合されるに違いない。

   もしそうなれば、申請が面倒なビザやパスポートは不要になって、どこにでも意のままに旅行ができるようになる。これまで国交がなかった地域へも簡単に行ける。どこへ行っても同じ国内であるから、それが可能なのである。

   もちろん、赤道直下の熱帯、両極地の寒帯、高い山々が連なる山脈地帯といった気候風土の特色は、変わることなくそのままである。

   結局、呼び方が変わっただけで以前と変わらないように思えるが、それぞれの地域が同じ国であるという意識は、生まれてくる。

   すべての人に「同じ母国である」という意識があれば、戦争は起きない。つまり、「戦争する相手国がないから戦争は起こらない」という論理である。ちなみに、愛国心は共通の「アース」に対して持つことになる。

   もし、どこかの地域が災害を被れば、近隣の地域はその復興に全力で協力する。また、食料や資源が不足する地域があれば、国を挙げて無条件に補充することになる。

   同胞が難儀するのを知らぬ顔で見過ごす人はいないのであり、当然の支援になる。すべてのことが「アース」に関わっていて、どこまでもが自国の問題となるのである。

                                                               

・ 高いハードル

   世界が一つになるには、かなり高いハードルをいくつもクリアしなければならない。そのハードルの中には、現実的に考えて無理であると言わざる得ないものもある。

 

・ 社会体制

   まず、社会体制の問題である。

  異なる社会体制が混在する中で、人類にとってどの様なシステムが理想的なのか、どれに統一すべきなのかを考える必要がある。

  既存のものにこだわる必要はないが、とりあえず、現在とられている各国の社会体制を検証することにする。                                       

   同じ社会体制であっても国によって若干異なっていて、十把一絡げにはできない。それでも、あえて大きく二つに分けると共産主義と資本主義のどちらかになる。身分制があった封建制度や独裁的な専制制度などは、理想的な体制というにはほど遠いので対象外にする。

  共産主義国の代表格は中国であり、資本主義国の代表格はアメリカ合衆国である。ロシアは社会主義国であるが、社会主義は、共産主義に移行する一段階前の体制であるとされるので、共産主義国として扱うことにする。

 

・ 共産主義

  共産主義をさらに細かく分けると、無政府共産主義、キリスト教共産主義、空想的社会主義などがある。

  これらの違いについては、政治学者でもないので詳しく説明できないが、いずれもマルクス・レーニン主義の「生産手段を共同所有する」「私有財産を認めない」「資本家による労働者に対する搾取がない平等な社会をめざす」ことを掲げる。

 

・ 資本主義

  資本主義においても、大企業型資本主義、自営業型資本主義、福祉国家型資本主義などその形態に若干の違いがある。

  最近では、修正資本主義という言葉をよく耳にするが、資本主義の問題点を解決することを目指し、社会保障の充実や計画的な経済政策を取る。

  基本的に資本主義は、競争原理を認める体制である。資本家が商品の生産と売買によって利潤をあげていき、そのことによって世の中が成り立つ社会である。

  自由競争であるから、競争相手を負かさなければならない。勝つためには、手段を選ばないことも起こる。場合によっては、裏工作はもちろん、反社会的行為もある。

 

・ 二つの社会体制

   共産主義の理念は、資本家のための社会ではなく、労働者のための社会であるとする。諸悪の根源である「競争の原理から生じる歪み」を一掃しようとするものである。

   各産業において、資本主義国に見られるような過剰な競争はない。農村でも共同で作業し、牧歌的な雰囲気さえ漂う。

  国民すべてに財産を残して富豪になるという意識がなく、平等に暮らせることを目指す。青少年は、清廉な環境によって健全に育成され、非行に走ることもないという。

  一方、資本主義は弱肉強食であり、うかうかしていると弱肉になってしまう恐れがある。資本主義体制をとるどの国においても同じような弊害があり、共産主義諸国から非難を受ける要因になっている。

  代表格であるアメリカ合衆国では、差別や貧富の格差が犯罪の原因になっていて、命が奪われることもある。青少年の暴走や不純行為もたくさん見られる。

  日本においては、過去に資本家の過剰な利潤追求のために労働者が過酷な状況に置かれていたという事実がある。それに反発した労働組合や左翼団体、学生の多くが共産主義体制を支持したのである。

   このように二つの体制を比較してみると、理念的には共産主義が良さそうに見える。事実、この理念を信じて資本主義から共産主義へ移行した国が多数出てきた。そのことで内紛が起こり、分裂した国さえあった。

   ところが近年、共産主義国や社会主義国の衰退が目に付き出した。平等な社会を目指すのはよいが、経済の破綻や崩壊で、もはや理想の社会体制とは言えなくなってきたのである。大衆も、掲げた理想と直面する現実があまりにもかけ離れたものであることに気がつき始めた。

   確かに、富む者と貧しい者の格差のない社会は理想である。しかしその一方、私有財産を認めないことは、労働者の労働意欲を減退させる。

  さらに、言論の自由を規制して、体制を批判する立場の人間を弾圧し、流血事件まで起こすというのは、独裁政治と批判されても仕方がないのである。

  この二つの体制のメリットやデメリットを考えた時、「どちらがベターなのか」という判断は難しい。

  しかし、どちらか一方を選ぶことになれば、その答えを導くために、どうしても考えなければならないことがある。

  それは、「人の本性」である。そして、そのことが不可欠に関わっている「人の幸福について」である。

 

・ 人の本性

 これより前に述べた「悪と善」の章の中で、「人の本性というのは、様々な条件や環境の中で、善にも悪にもなりうるものである」と定義づけた。

  人は、飢饉になれば糧を奪うために殺し合い、死にかけている者が目の前にいれば手を差し伸べるというように、状況によって悪になったり善になったりするのである。

   人が「善」であり続けられる状況など存在しない。たとえ、衣食住足りた環境になったとしても「悪」は出てくる。その原因の一つは、人の「欲」である。

   どんな人でも大なり小なりの欲を持つ。生理的な食欲や種の存続に関わる性欲はもちろん、名声や富などの物欲、支配欲など数々の欲を持つ。そしてその欲が衝突すると、必ず争いになる。

 

・ 物欲

   ここに有名な画家の絵画があるとしよう。芸術的に素晴らしい作品であって、誰もが手に入れたいと思う。最終的に誰が所有するかは、高額な金額が支払えるかどうかで決まるのであり、金持ちが有利になる。

   仮にそれをなんとか手に入れられたとしても、それで終わりにはならない。それだけでは満足しないのである。さらに、次の絵画を見つけ、手に入れようとする。「物欲には際限がない」ということである。

  この物欲は、絵画だけではない。身の回りの様々な物にも向けられる。衝動に駆られる物は、すべて自分だけの物にしたいと思うのである。

  それは、誰もが認める芸術品かも知れない。高価な宝石かも知れない。プレミアムな楽器かも知れない。豪華な高級車かも知れない。丹念に育てられた植物かも知れない。愛らしい動物かも知れない。魅力的な異性の人かも知れない。

  もし、この世に一つしかない物であれば、それを欲する人たちによって争奪戦が繰り広げられることになる。

 

・ 争奪戦

   どんなに平等な社会になったとしても、公平に分けられないものが存在する。それが原因でトラブルになることもある。

   動物界ではライオンや熊のオスが、メスの取り合いで争っている。争いの結果、双方が傷ついたり、死に至ったりする場合もある。

   人も同様である。誰もが自分が選んだ人をパートナーにしたいと思う。恋敵が複数いれば「恋の鞘当て」になり、ライバル同志の争いになる。昔であれば、三角関係からの決闘もあったようである。

   いくら表面的に平静を装っていても、敵対視する感情は否応なく出てくる。その憎悪による衝突は必然である。

物欲と物欲との衝突。これが、諸悪の元凶である。過去における争いの原因は、ほとんどこれによると言っても過言でない。

  このような衝突は、殺し合うことはなくても、世界中のあちこちで起こっている。人類が滅亡するまで続けられるのである。

 

・ 支配欲

   猿や狼の集団には、必ずボスがいる。ボスになって集団を支配しようする。

  人も同様である。トップに立ち、支配する側になりたがる者が必ず出てくる。それはどのような集団や団体であっても、またどのような社会体制であっても存在する。

   人が多く集まる所には、それをまとめるリーダーが必要である。集団が良い方向に導かれるなら良いが、自分本位のリーダーであるならトラブルも多くなる。

  支配欲の強いリーダーであれば、他の集団との争いに勝って規模を大きくしようとするだろう。最終的には、国単位のような戦争に発展する。

   過去に、国を統一しようとした者が何人いただろう。実際にそれを成し遂げた者と途中で断念した者を含めるとかなりの数に違いない。野望が叶った天下人の中には、その国だけではなく、世界のすべての国を統一しようとした者もいる。

   その目的は、世界を統一して平和な世界を創造するということではない。ただ単にトップになって、自分の利益のために全ての人民を従わせることである。自分の欲望のままに民衆を操るという支配欲によるものである。

  支配欲に駆られた輩は、自分の意に従う者は僕として認め、反する者は武力で抑え滅亡させてしまうという手段をとる。

  このような者が複数いると、決まって悲惨な争いが起こる。今までに世界中で起こった支配欲による争いも、数知れない。

 

・ 煩悩

   仏教では、欲は執着すべきでないものと否定的に捉えられている。悪を生み出す原因である嫉妬や妬みと共に、煩悩と呼ばれている。

  悟りを得るには、この煩悩をなくさなければならないとされる。僧が修行をするのは、煩悩をなくすためである。

   裏を返せば、「人は、必ず煩悩を持つ」ということになる。仏や菩薩の境地になった者でさえも、完全には消せないのであるから、悟りの境地に入れない凡人は、煩悩だらけなのである。

   この世界は、煩悩だらけの人たちによって成り立っている。そんな人たちが煩悩の赴くままに生きると、他人を不幸に陥れるだけでなく、自滅にも向かってしまう。だから、抑制する必要があるのである。

 

・ 抑制できない煩悩

  食欲や性欲は、もしそれらを断ってしまうと死に向かうのであり、子孫を残せなくなる。故に、生理的な欲求は、不可欠な煩悩といえる。

   それでも、度を越すと災いを招くのであり、そうならないよう最小限度に抑えなければならないということである。

   このような生理的な欲求以外にも、抑制しがたい煩悩はたくさんある。例えば、優越感と劣等感である。自分はそんなつもりでなくても、他人と比較されることになれば、そのような気持ちは必然的に生まれてくる。

 

・ 優越感と劣等感

  長い人生においては、何かを他人と比べられることが結構ある。不本意ではあるが、容姿、能力、地位、富、人気などで誰かと比較される状況になれば必ず気持ちが動くものである。

   たとえどのように平静を装っていても、勝れば優越感を持ち、劣れば劣等感を持つことになる。願わくば劣等感よりも優越感の方であって欲しいが、相手がいることなのでそうなるとは限らない。

   だから、そのための努力や準備をすることになる。自分が活躍できる場や評価してくれる場、差異をアピールできる場を探すのである。

  もし、何かにおいて頂点に立てれば、鼻高々になる。下にいる者を見下す輩も出てくるだろう。

  もちろん、それは道徳に反することではあるが、私は未だかつて、イエスや釈迦のような邪な心を持たない人格者を見たことがない。

  残念ながら我々は、そのような優越感や劣等感を持たざるを得ない世界に生きているのである。

 

・ 自尊心

  さらに自尊心というのもある。人を卑下する言葉や行為は、意識するとしないに関わらず日常的にある。自分を貶す言葉を耳にすると、人はそれを聞き流すことはできない。

   何気ない言葉にプライドが傷つき、その結果、逆上しトラブルを起こすというのはよくある話である。

  それは、個人の話だけでは済まされないこともある。自分の民族、国、宗教などが貶されると、それこそ戦争に発展する可能性もあるのである。

  

・ 平等と格差

  人は、差別されるのを望まない。誰もが不平等に扱われることを嫌う。人としての権利が保障されることを常に願う。そのような思いが終結して、多くの国が平等な社会の構築を目指したのである。

   ところが、その実現を望みながら、もう一方では、他人より抜きん出たいという思いも持っている。

   自分が周りと比べて経済的に劣っていれば、同じレベルになることを願う。また、努力によって同じレベルになったとしても、それで満足はしない。今度は人より上の財を求める。

   それが、格差社会になっている原因である。この思いは、人が集団で生きている以上、なくなることはない。人の内部に潜む『性』である。

   例えば、幼稚園でのトラブルである。複数の園児が玩具で遊んでいたのであるが、しばらくして、園児Aが玩具を独り占めにしだした。当然、他の園児は怒る。

   しかし、力で勝るAには刃向かえない。仕方がないので、先生に言いつけることになる。その後は、Aが厳しいお叱りを受けることになる。 

  園児Aは、特別な子どもではない。思ったことを何も考えず、ストレートに行動するタイプの子どもなのである。

  時には、他の子どももAと同じような思いを持つことがある。それを表に出さないのは、トラブルになると分かっているからである。

   大人も同様である。ただ、表に出すか出さないかであって、独り占めしたいという気持ちは誰にでも起こる。

 

・ 個性

   人の個性についても同じことが言える。自分をアピールするパフォーマンスは、誰もが人と違うことを望む。

   能力においても、できるだけ人より優れた力を発揮しようとする。自分を抑えて低いレベルに合わす人はまずいない。これも、人の『性』である。

   実社会においては様々な個性が存在していて、その数は総人口分になる。それが時にはぶつかることもあって厄介である。

   しかしながら、すべての人の個性がまったく同じであるというのもどうかと思う。まるで大量生産されたロボットのようで、気持ちの悪いものである。

 

・ 混在

  この世は、多種多様の人間が混在している。

  もし万人に煩悩がなくなれば、世の中の悪行は激減するに違いない。争いのない平和な世界が訪れるかも知れない。

  しかし、それは到底無理な話である。煩悩が災いの原因であると分かっていても、この世からなくすことはできない。

  人は個々に違う。みんな同じではない。外見も異なるが、それぞれの思いも異なる。ただ共通することは、誰もが「我」を持っていることである。その「我」から沸き起こる欲望の赴くままにその実現を願うのである。

   ここに生まれたばかりの赤ちゃんが十人いるとしよう。どの子も無垢で可愛らしい顔をしているが、みんな同じではない。両親が異なるので、それぞれの容姿や性質も異なっている。

   さらに成長するにしたがって、性格の違いがはっきりしてくる。それぞれの家庭環境や周囲の人間関係が異なるためである。

   将来、協調性のある大人になる子もいれば、自我の強い大人になる子もいるだろう。この中の誰かが、極悪非道の輩になる可能性もある。

  このように、たった十人でもそうなのであるから、七十億の人口であれば、異なるのは当然である。

   この先、どの様な社会になろうとも、総ての国民が全く同じになることはない。

   実際、異なる世代が混在する中では、善悪の判断もできない幼い子どももいるのであり、老若男女、すべての人に煩悩がなくなるというのは、絶対に不可能である。

   仮に、すべての人々が努力によって一時的にイエスや釈迦のようになったとしても、人が死んで生まれることを繰り返す以上、必ず煩悩を持つ者が出てくる。

   また、煩悩を持つ者が一握りになったとしても、その一握りが周りに災いをもたらすのは必然である。その災いから、新たな煩悩も生まれ出る。

   そういうことから、この先、どのように世の中が変わっても、人から煩悩がなくなることはない。「万人が無欲である」ことなど、あり得ない話なのである。

 

・ 幸福論

  人の幸せというのは、人それぞれである。自分にとっては幸せなことであっても、他人にとってはそうでないこともある。

  また、たとえ大きな喜びを得て幸せを感じられても、それは一瞬のことであり、そんなに長続きするものではない。一年も続くようなことは希であって、一日や二日で終わってしまうことも結構多い。

   生まれてから死ぬまでずうっと幸福であった人などいない。山有り谷有りの人生の中では、不幸なことも経験する。まさに「人生、楽ありゃ苦もあるさ」である。何事も順風満帆には行かないのである。

  だからこそ、それを乗り切ったときの喜びが大きいのであり、真の幸福感が味わえるのだといえる。

   逆に常に順調であり続けた人は、それが当然のように思われて大した幸福感は得られないに違いない。他人から「平坦すぎるつまらない人生だ」と言われても仕方がないように思う。

  確かに苦難がないのは有り難いことである。誰もが良いことばかりを望むが、必ずしもそれが幸せの条件であるとは言い切れない。良いことばかりが続くとそれが当たり前のように思えて、幸せであるとは感じなくなるからである。

   趣味の魚釣りを例にすると、このように言える。一日中まったく当たりのない釣りは欲求不満になるが、逆に入れ食い状態が続く釣りは飽きてしまうものである。

   いつ行っても大漁になる。子どもでも簡単に釣れる。そんな釣りは、面白みに欠ける。長時間苦労の末やっと釣れた時の方が、満足感は大きいものになる。

   魚釣りはたまに釣れるのが楽しいのであって、人生における幸福感も同じである。何気なく過ぎていく日々においては、平穏に生活できることが幸せであるとは感じられなくなってくる。それに馴れてしまい、幸福感がぼやけてくるからである。

 

・ 幸福の判断

   生まれてから苦労の連続であった人が、最後の最後で成功者になり、幸福を手に入れる。たとえそれが非常に短い期間であっても、このような人は「幸せな生涯を送った」と自他共に認めるに違いない。

   逆に、順風満帆であった人が悲惨な死に方をする。それまでがどんなに幸福であっても、「幸せな生涯であった」とはなかなか言い難いものである。

   幸せの絶頂であったある日、震災によって一瞬にして命を落とす。その中には、家屋の下敷きになり、迫り来る火の手から逃れられずに生きたまま焼け死んだ人もいる。

   本人にとっては、尋常ならぬ死への恐怖心と並々ならぬ無念さによって、それまでの幸福感も帳消しになってしまうだろう。結局、人の生涯も「終わり良ければすべて良し」ということなのであろうか。

   さらに、他人の判断と自分の判断が異なる場合もある。裕福な家に生まれて他人から見ると幸福そうであっても、実際は、両親の不和で毎日が修羅場であり、常に憂鬱な気持ちでいたという人もいる。見かけと事実とは、正反対だったのである。

  やはり、幸福の判断は、本人自身がすべきものなのである。

 

・ 幸福を感じる状況

   人が生きていく上で一番に問題になるのは、糧である。生きるための最低限度の糧が必要であって、昔からその確保が生きることへの最大のモチベーションであった。苦労の末に糧を得て、生き長らえることそのものが喜びになったに違いない。

   しかし、それが容易にできるようになった今日、さらに衣食住が充実した環境の中においては、糧を得ることだけが生きることへのモチベーションではなくなってきた。

   多様な事に関心を持ち、その中から「生き甲斐」になるものを探し始めた。それが幸福につながると信じて。

   実際に、人はどういうときに幸福を感じるのか。どのようなときに生きることに喜びを感じるのか。それは大抵、自分の願いが実現したときである。願いに少しでも近づくことができた場合である。

   具体的に言うと、「恋愛をして想いが叶ったとき」「欲しかった物が手に入ったとき」「目標に到達したとき」「能力が認められたとき」「成績が上がったとき」「試験に合格したとき」「何かに感動させられたとき」「病気が治ったとき」「危機を脱したとき」「子どもが生まれたとき」「子どもが成長したとき」などである。

   さらに、「名声が得られたとき」「社会的地位が上がったとき」「偉業を達成したとき」「財産が増えたとき」「社会に貢献したとき」「趣味の世界に陶酔できたとき」なども挙げられる。

  また、誰かに愛されたり、必要とされたりするといった「他人からの想い」が分かったときも、幸福に成りうる要因となる。

   中には他人から見ると幸せそうであっても、それを意識しない人もいる。本人にとっては当たり前であって、別段、自分が幸福であるとは思っていないのである。他人から言われて、初めてそのことに気づくのである。

   このように、幸福感に包まれる状況というのは人によって異なるのであり、まさに千差万別なのである。

   そういうことから、一概に「このような人が幸せである」とは断言できないのであり、幸福感とはかなり曖昧であって、認識し難いものと言える。

 

・ 不幸を感じる状況

  逆に、不幸であることははっきりと認識できる。自分を含めて、家族や親族、親しい者に災いが降りかかって止まない時は、自分が不幸であるとはっきり分かる。

  そのような状況を挙げてみた。

 

一  戦争をしている

二  飢饉である

三  災害が頻繁に起こる

四  疫病が蔓延している

五  凶悪な犯罪が周りで起こっている              

六  不治の病にかかっている

 

   戦争、飢饉、災害、疫病、犯罪、不治の病のどれもが命を失う危険性が高いのであり、その心配が常に付きまとうのは、心底生きた心地がしないはずである。

  つまり、このような状況でないことが、幸福になるための絶対的条件となる。できれば、こんな状況で生きたくない。不幸ばかりの身の上になりたくない。誰もが、幸福感で満ち溢れるユートピアの世界で生きたいと願うのである。

   私自身、生まれてこの方、上記のことは経験しなかった。誕生したのは終戦から九年後であり、当時は比較的に物資もあったようである。また、疫病によって、家族や知人がバタバタ死んでいくようなこともなかった。

   犯罪は、毎年たくさんあった。それでも、身の危険を感じるような事件は周りでは起こらなかった。近隣で大きな地震があって驚いたが、自分が住む市内は幸いにも被災を免れた。もちろん不治の病には、かかっていない。

  戦争や飢餓によって命の危険にさらされている人々が今尚いることを思えば、かなり恵まれているのであり、幸福であるための条件は揃っている。

  しかし、そのことだけで「自分は幸福である」とは断言できない。あくまで、幸福になれる条件が揃っているだけなのであり、不幸になる可能性も充分ある。

 上記以外の不幸を感じる状況は、次のような個人的な理由も考えられる。

 

一  容姿が劣る

二  身体能力が劣る

三  思考能力が劣る

四  財がない

五  取り柄がない              

六  障害がある

七  運がない

 

   この他にもいろいろ考えられるが、これらの状況においては、大抵自分の境遇に不幸を感じるものである。

  しかし、この状況は、他人と比べて自分はどうであるという相対的なものであるから、それを意識していない場合は不幸とは感じない。

   たとえば、貧乏な家庭で育った中学生がいるとしよう。親に充分な収入がないので、小遣いがないだけでなく、必要な物もろくに買ってもらえない境遇である。

  普通なら、愚痴の一つも親に言いそうであるが、クラスの友だちや近所の人たちも同じような境遇なので、それが不幸であるとは感じていない。

  ある日、親の仕事で引っ越すことになったが、その地域は、金持ちの家が多かった。彼は、友だちの立派な家に招待されて、その豪華さに仰天し落胆する。何故こうも違うのかと、親を恨みだす。

   同じ境遇であれば意識しないことも、違う境遇になると意識してしまうというケースである。

  容姿、身体能力、思考能力、障害などについても同様のことが言える。誰かと比較されることになれば、その優劣を嫌でも意識し、優越感や劣等感、嫉妬や妬みが起こる原因となる。

  このような嫉妬や妬みは、世界中のどこにでもある。それによって起こる事件もたくさんあり、傷害はもちろん、命が奪われることさえある。

   それでは、次の状況はどうか。

 

一  差別を受ける 

二  孤独である

三  自由がない

 

   理由なき差別を受けるというのは、憤りを感じるものである。それによって、将来に希望が持てなくなることもある。

   孤独が好きな人もいるが、全く孤立するのは疎外感に襲われ、精神的にダメージを受けることになる。場合によっては、自殺に追い込まれることもある。

   差別を受けたり孤独になったりするのは、当人にとっては非常に辛いものである。その憤りや疎外感によって、反社会的行為に及ぶこともある。

   しかし、それより何より、自由がないというのは一番苦しい境遇ではないだろうか。

 

・ 自由

   奴隷制度があった時代、身の拘束と過酷な労働のため、多くの人が悲惨な人生を送った。何しろ、自由がないのである。自分の意志で行動できないのである。これほど不幸な事はないのであり、生きていることに疑問を持った人もたくさんいたはずである。

   現代では、人の自由を束縛することは禁じられている。すべての人に自由に生きる権利があるとされる。若者たちも何かにつけて、自由という言葉を口にする。

  そこで、この自由という言葉の意味をもう一度考えてみる必要があるように思った。

 

・ 本当の意味

   自由とはどういう意味なのか。そのまま捉えると、「何でも思うままにできること」ということになるが、果たして実社会においてそれが可能なのかどうか。

  社会においてはルールがある。だから、自由に生きる権利があるといっても、他人に迷惑がかかるような反社会的な行為はできないのであり、自由にできることにも制限がある。

   以前、友人の一人が、自由についてこう述べていたのを思い出した。

「誰もが自由という言葉をはき違えて使っている。その言葉の本当の意味をみんな知らない」

では、彼が知る本当の意味とは何か。

  哲学者ヘーゲルは、「自由とは、必然性の洞察である」と述べた。それを受けて、マルクスやエンゲルスは「自由とは、認識された必然性である」と定義づけた。

   エンゲルス曰く、

「我々人類は、大昔から自然に支配されていた。しかし、その法則を知ることで、その支配から解き放されるのである」

「意志の自由とは、物事についての知識を持ち、的確な判断ができる能力を身につけることである」

「物事の道理を理解しないで何かを選択するのは、ただ闇雲に選んでいるだけであり、自由ではない」

  今、チェスの対局が行われている。両者は、何十手先を読んで、勝つためのベストの一手を指そうとする。そこでは、確かに「認識された必然性」によって駒が動かされる。 

   チェスのルールを知らない者がゲームを始めても、ゲームは成り立たない。戦略を知っている者と知らない者とが対戦したとき、縦横無尽に手をさせるのは明らかに前者である。

   だから、本当に自由になれる人というのは、「必然性を認識した者である」ということになる。それは確かにその通りだし、異存はない。

 

・ 認識されない偶然性

   しかし、である。「盲目的に選ぶことは、全くもって自由ではない」というのは、どうであろうか。「認識されない偶然性も自由であり得るのではないか」と、私自身は思うのである。

   空を飛ぶ鷹を思い浮かべてみよう。鷹は、獲物を探している。もし、そこで見つからなかったら、他の場所に移動する。そのような模索を繰り返しながら、少しずつ獲物が居そうな所が分かってくる。そして、ついに獲物を獲得する。

  その過程においては、鷹は、闇雲に行動していただけである。それでも、たとえ獲物が見つからなかったとしても、そこには自分の意志が働いたのであり、自由に行動したと言えるのではないか。

   チェスにしたってそうである。人の思考力には限界がある。対局をしてすぐに、無限ともいえる変化を把握して相手のキングが詰む手筋を読むことなどできない。できないから考える。考えた末に、妙手を指すこともある。悪手を指すこともある。

  結果的に好手でなくとも、それらすべては自分の意志で指した手であり、決して横で見ている誰かに指図されたものではない。

   読み切れなくても勝てなくても、そこに自分の思いが反映されているのであり、自由であるからこそ出来うることなのである。    

   人が自由を望むというのは、そのような意味が含まれる。誰かに縛られずに自分の意志で何かを選択できることである。たとえそれが、間違った選択であってもである。

   もちろん、物事の道理が分かっていれば、たくさんある選択肢の中からベストのものを選ぶことができる。そうでない人は、暗中模索の中、試行錯誤を繰り返して答えを求めようとする。それでも、その過程はやはり自由な状態にあると思われるのである。

   自然や社会の法則をすべて知り得る人はいない。そういう意味からすると、完全に自由である人などいないことになる。

  いや、そうであるから、生きていて面白いのである。神のようにすべての真理を知っているのなら、物事に対して自由自在であるかもしれないが、面白くとも何とも感じないであろう。

                 

・ 勝負が分かっているゲーム

   子どもの頃、暇つぶしに下記の対戦ゲームを友だちとよくしたものである。黒板や自由帳などに枠を書いて、手っ取り早くゲームを始めることができた。

 

 先手は○   後手は●

 

 

① ○下段左、●真ん中

② ○上段右、●上段左

③ ○下段右、●中段右

 

   次に先手が下段中に○を入れれば勝ち

 

  ルールは単純で、○もしくは●が三つ、縦、横、斜めの何れかに真っ直ぐに並べば勝ちになる。非常にシンプルで分かりやすいゲームであった。

   しかし、あるときこのゲームの欠陥に気づいた。それは勝負がつかないことである。戦略が分かってしまえば、必ず引き分けになるゲームだったのである。

   勝負を争うことを楽しむためのゲームのはずが、そうでないことが分かって、このゲームはまったくしなくなった。

  つまり、ゲームというのは、勝負の先行きがどうなるか分からないから面白いのであり、最初から「必ず引き分けになる」もしくは、「先手が必ず勝つことになる」ことが分かっているゲームなどゲームとして成り立たないのである。

 

・ あみだくじ

   中学生の頃、仲の良い友だち数人とあみだくじをした。将来の職業や結婚相手の名前などを下部に書いて、上部にある番号を選ぶのである。

   面白半分ではあるが、どんな職業になるのか、どんな人になるのかと少しドキドキしたものである。

 

一  四人いたら、四本の縦線を書き、横線を適当に書く。

二  上部に番号を書く。

三  下部に○○を書く。

四  それを隠す。

五  横線を何本か付け足す。(そうしないと、何番は何に

     なるということが事前に分かってしまうからである)

六  最後に、それぞれが番号を選ぶ。

 

  

   初めから何番が何であると分かって、あみだくじをする人はいない。分からないからスリルがあり、面白いのである。

 

・ サッカーの試合

  球場のピッチには、敵味方に分かれた選手二十二人が、それぞれの役割を持って動き回っている。フォワードは主に攻撃、ディフェンダーは守備、ミッドフィルダーは、攻守の連携などである。

   いざゲームが始まると、それぞれが自分の役割を果たすべく行動をとるが、時には、その役割に固執せずに動くこともある。状況によっては、ウイングが守備に回ったり、ディフェンダーがゴールを狙ったり、キーパーが攻撃に参加することもあるのである。

   つまり、役割はあっても、状況に応じて攻撃したり守備に回ったりできるということなのである。たとえその判断が間違いであったとしても、そこには自分の意志が反映されている。決して、見えない糸がついた操り人形の動きではない。

  ゲームを見ている観客も、予想もできない選手の行動に一喜一憂し、応援するチームの行方を祈るような思いで見ている。

   勝敗は流動的であり、どちらになるのか分からない。分からないからこそ、面白さがある。逆に、最初から勝敗が分かるようなゲームであれば、誰もしないし見たくもないに違いない。

 

・ 競走

   かなり以前に、幼稚園の運動会で園児たちが手をつないで同時にゴールする様子がメディアで取り上げられた。幼稚園側は、「園児が過剰な競争意識を持たないようにするためである」と弁明したが、その方針に賛否両論が起こる。

   いずれにしても、「一体何のための運動会だったのだろうか」と疑問が残った。

   運動会というのは、フィジカル面における活躍の場であるはずである。日常、メンタル面で活躍できない園児が、唯一光ることができるチャンスの場である。保護者も我が子のがんばりを目の辺りにして、一喜一憂するのである。「手をつないで仲良くゴール」これは、もはや競走ではなく、押しつけられた演技である。

 

・ 競争を認めない共産主義と認める資本主義

  共産主義国においても、競争はある。スポーツ面、芸術面などでは、むしろ競争を奨励している方である。オリンピックでは、国を挙げての応援もしている。

   認めていないのは、生産面である。資本主義のような生産における競争である。利益を生むための過剰な競争から生じる歪みを否定するのである。

  老夫婦が、小さな八百屋を細々と営んでいる。その近くに大型スーパーができる。それまでの常連客が、商品のコスト、種類の豊富さ、他の商品の陳列を考えて大型スーパーに行くようになる。当然、老夫婦は店をたたむことになる。

  財力のある者が勝つ。資本主義という弱肉強食の社会では、仕方がないことかも知れない。しかしその一方で、老夫婦の行く末が気になるのも事実である。

   人が本性のままに生きると争いが起こる。不正や反社会的な事も必然的に起こる。結果、一部の者だけが勝ち組になり、それ以外は負け組になる。

   共産主義の指導者はそのことを分かっているのであり、そのような悪が蔓延る社会を認めないのである。

   手段が独裁的と批判されても、理想を目指す。反する者は、力づくによって徹底的に抑制する。

   確かに「万人が平等に暮らす」という点からすれば、良い理念であると思う。貧富の格差が無く福祉も充実して、何の不安もないのである。

   ところがその反面、生きることへのモチベーションは、かなり希薄になるに違いない。国家によって生活が保障されているが故に、生きることにおいての一番大切な「生きる意欲」というものが持てなくなるのである。それは、ただ単に生きているだけの虚しい人生と言える。

  人は、人生においてそれぞれが主人公になる。自分の思いを持ち、筋書きのないドラマを望む。

   たとえ、先の見えない暗闇の中であっても果敢に挑むのである。「いつかは、一筋の光が自分を照らす」という希望を持って。

                                 

・ 公務員                  

   業績が悪ければクビになる民間企業とは違い、公務員は普通に勤務していれば職免になることはない。定年になるまで身分も収入も保障されていて、世の中が不況であればあるほど人気の職種になる。

  しかしそうであっても、その言葉の響きに魅力を感じる人は、あまりいないように思われる。

   現場に赴く警察官や消防隊員、教師などは別として、事務的な職務の人たちは、仕事そのものに「生き甲斐」を持っているのだろうか。「昇級だけが生き甲斐」になってはいないだろうか。

  役所勤めの人が、どんなにがんばっても大富豪や有名人になることはない。先が見えている。「がんばっても結果は同じ。だから、適当にしておく」という意識が必然的にでてくる。周囲から、「勤務態度にやる気が感じられない」と非難される所以である。

  つまり、生きるための糧を安定して得られる職業であっても、生き甲斐になり得る職業とは言い難いのである。

   逆に、自分で何かを立ち上げようとする人は、たとえ向かい風であっても、がんばって突き進もうとする。どんなに生活が苦しくとも、いつか成功することを信じて乗り切ろうとする。

   夢と希望が原動力であり、それがある限り苦労を苦労と感じない。すべてにおいて全力であり、「適当にすればいい」という意識はまったくない。

   このような意識の違いは、国の発展に大きく影響する。もし、すべての職務が国家に管理されることになれば、国民全体が倦怠感と閉塞感で充満するだろう。

   そこには、他人より優れた物を造り上げて自分をアピールしたいという情熱はなく、活気のない淡々とした社会になるに違いない。

 

・ 管理

「国民の行動はすべて、国家によって管理されている世界」

   どんなに些細な交通違反であっても、どんなに少額な商品の万引きであっても、犯罪者はすぐに検挙される。ばれずに処罰を受けない人は、誰もいない。何故なら、見えない監視カメラがどこにでも置かれ、常に国民を見張っているからである。

  空想の世界の話ではあるが、もし、現実にそうなったらどうであろう。犯罪は激減し、最後には全くなくなるに違いない。なにしろ、犯罪者は必ず公表されて捕まるのであるから。

  一見、犯罪のない理想の世界のように思えるが、よくよく考えると窮屈な世界と言える。それに、犯罪がなくなるのが人の善悪の判断ではなく監視によるというのも、あまり褒められたものでないように思う。

  日常において、麻薬の売買はもちろん、ちょっとした口論からの喧嘩や男女の怪しげな秘め事までも監視されている。国民は、常に監視の目を気にしながら行動することになる。

  もし、政府の方針に対して少しでも不満を漏らせば、反逆者と決めつけられ収容所に入れられてしまう。処刑されることはないにしろ、それは恐怖政治に近いものになる。

   そうなると人々は、「自分の意志ではなく、国家によって生かされている」という思いを持つ。「まるで、動物園の動物のようである」と。

  動物園の豹や鷲が、「草原を颯爽と走りたい」「空を自由に飛び回りたい」という気持ちを持っても、それが反映されることはない。もし、檻を破ってそのような行動をすれば、忽ち処分されてしまうであろう。

  共産主義国家は、そのような極論ではないにしろ、完全な管理的システムを目指しているように思えてならない。

   確かに人が煩悩のままに自分だけの幸福を求めるのは、良くないことである。反社会的行為が蔓延るのであり、そうならないためにはある程度の管理も必要になる。

   しかしながら、人の本性を無視してそれに関わる幸福を妨げるような管理は、到底受け入れられるものではない。

 

・ 動物の願い

   動物園の動物は、檻の中で暮らしている。そこは多少窮屈ではあるが、外敵に襲われることもなく、安全で餌も与えてくれる。

  しかし、もし檻から出られたら、喜んで出るだろう。トラもシマウマもコンドルも、不安な気持ちを抱きながらも、自分の思うままに行動するに違いない。

   ただ、生かされているだけの食事付きの安全な場所より、リスクのある自由を選ぶのである。

 

・ 選択

   人も同様である。いかに社会的に生活が保障されていようと、引かれたレールの上を走らされるのは嫌なのである。

   たとえ先の見えない荒野であっても、自分の思うままに自分の道を歩いて行きたいと思う。常に自由に生きることを願うのである。

  では、その事が可能であるのは、共産主義と資本主義のどちらになるのか。それはもう、お分かりだと思う。

「私有財産は認めない。もちろん自由競争も認めない。理念に反する者は、弾圧する。足並みを乱す者も取り締まる。職業は、個人の能力によって決定する」

「政府が描いた通りの路線に乗らなくてはならない。自分の思いは、二の次になる。個人の自由などなく、窮屈なことも我慢しなければならない。それはすべて、万人が幸せに暮らすためである」 

  この理念は、理論的には間違っていないのかも知れない。しかし、人が生きるモチベーションとなるべきものを否定している。人も他の動物と同様に「自由な生き方」を求めるのであり、抑制されるのは嫌うのである。

  つまり、共産主義はそのことを考慮していない。理念は共感できても、根本的な人間の本性を踏まえていない。「人にとって何が本当の幸福であるのか」が抜けている体制なのである。

・ 自殺の多い国

  統計によると、自殺率が最も高い国は、リトアニア、ベラルーシ、ロシアなどの旧共産圏の国々になる。その理由は明らかではないが、おそらく、下記のことからではないだろうか。

 

一  生きることへのモチベーションが低い

     生きることが無意味に感じるのは、生きていることに喜びを感じられないからで

  ある。

 

二  労働意欲が低い

     がんばってもそれ相当の報酬が得られないから、労働意欲がなくなってしまう。

 

三  自由がない

    人はたとえその選択が間違っていても、「思うままに生きたい」という気持ち

  を持つ。言論や行動の規制が厳しいと窮屈に感じる。

 

四  宗教を禁じている

    「宗教は、阿片である」とする。人を惑わすものであり、宗教によって人々の心

  が救済されることはないと考える。実際は、カトリックなどの「自殺は罪」と

  する教義が浸透している国では自殺をする人が少ないのであり、その歯止めの

  役割をしているといえる。

 

   これら旧共産圏の国々は、物資を計画的に生産しているので、「困窮のために未来を悲観して」という理由は当てはまらない。かえって、アフリカなどの困窮が深刻な国の方が、その日その日を生き長らえることに精一杯であり、自殺を考える人は少ないようである。

  つまり、どのように物資的に豊かであっても、どのように社会保障が整っていても、生きることに疑問を持たすような社会体制であっては、崩壊するのは当然である。根本的に間違っている体制と言わざるを得ないのである。 

 

・ 現状

   現在では、東側も西よりになってきたと言われている。ロシアは、資本主義のシステムを部分的に取り入れようとしているし、中国は、以前より資本主義国との交流が盛んになって、文化的にも経済的にも急激な発展を遂げた。私有財産も認められ、その様子はまるで資本主義国のようである。

  とはいえ、共産主義諸国や社会主義諸国が、「共産主義に疑問を感じたので、明日から資本主義に移行します」などと簡単に社会体制を変えることはできない。

   そうしてしまうと、「これまで続けてきた社会体制が間違っていた」と宣言することになり、面子が潰れてしまうからである。

  それらの国においては、現行の社会体制が真に正しいのであり、まず譲ることはない。変更を強固に主張すると、それこそ戦争になる恐れもある。

  この先、共産主義や社会主義の国が、自ら資本主義体制に移行することを期待するしか他ないのである。

 

・ 資本主義の問題点                                 

   社会体制は、資本主義を選ぶことになる。しかし、そのままでは、問題がありすぎる。改めるべき点が多いのである。

 

一  すべての事が、権力や財力によって決まっている

二  競争に勝った一部の人のための世の中になっている

三  大きな利益を生むために、反社会的な行為が蔓延している

四  そのことで、民衆が被害を受けている

五  上層と最下層の貧富の差が大きい

 

   資本主義は、「ジャン・ケン・ポン」の世界である。勝つ者と負ける者がはっきりするゲームであり、「アイコ」になっても勝負がつくまで行う。引き分けはないのである。

   勝つために、相手の表情や癖(情報・統計)を読み取る。常勝を目指す者は、運に頼って勝負するというリスクは犯さない。後出し(非合法なこと)も平気でする。権力のある者は、相手にプレッシャーをかけ、財力のある者は、賄賂や八百長によって勝ちを手にするのである。

  その結果、勝ち続ける組は幸福を手に入れるが、負け続ける組は不幸のどん底に落とされることもある。こんな弱肉強食は、決して理想的なシステムではないと思うのであるが、それでも魅力を感じてしまうのは、紛れもない事実である。

   華麗に見える舞台の裏側では、醜いことも行われている。しかし、我々には、表側しか見えない。虚構の世界の中、悪魔が手招きをしている。その誘惑に取り憑かれ、誰もが目を輝かせる。「がんばれば成功する」と信じて。ひたすらその実現を夢みているのである。

 

・ 矛盾

   自由競争における私有財産の容認と貧富の格差是正は、相反することである。

   人は、自由競争の中で私有財産を増やそうとする。たくさんの財を持つことは、自分の欲望を満たす可能性を大きくするのであり、そのような意識の強い人は、富豪になることを目指す。

   ところが、すべての人が富豪になれる訳ではない。競争において勝ち続けたほんの一部の人だけが、なれるのである。 

  経済の仕組みから考えると、大きな財を得るのは、他人の財を奪うことになる。資産家が生まれる一方で、破産者も出てくるのであり、結果、格差ができる。

   例えば、一つの財を十人で公平に分けるとするなら、一人の取り分は十%ずつになる。しかし、その中の一人が九十九%を取ったら、残りの一%を九人で分けることになる。さらに、一人が二百%を取ったら、マイナス分の百%を九人が負担することになる。九人は、負債を工面することになるが、できない者は自己破産になる。

   この図式模様は、資本主義社会においては日常茶飯事であり、当たり前のように出てくる。自由競争における私有財産を認めている以上、富む者はさらに財を増やし、負け続ける者は益々窮地に追い込まれていくのである。

   負けた者の自己責任であるとはいえ、その家族や周辺にも悪い影響を与えるのであり、悲劇の悪循環の原因とも言える。それをなんとか断ち切りたいという願いから、格差是正が近年叫ばれている訳である。

  しかしながら、それは無理な話である。一攫千金の夢を持つ者がたくさんいる社会で、所有している財の額が誰もが同じであるというのは、あり得ないことである。

  格差を狭くするために、「財の上限を決めれば良い」という意見もあるが、抜け道がいくらでもありそうなので、それ自体意味がないように思われる。

 

・ ブラック企業

  社会のルールに則し、正当な事業で利益を得ることは決して悪ではない。それがどんなに巨額であろうと問題はない。問題になるのは、反社会的な行為による財の取得である。

   表向きは普通の企業であるが、裏に回れば人を泣かすことも平気で行う。利益第一主義で、そのために人が犠牲になろうが死のうが全く関知しない。

  残念ながら、このような悪徳企業は今尚存在する。「世の中に仇をなしている」と非難されても、一向になくならない。

 

・ 投資

   さらに、もう一つ気になる問題がある。それは、投資である。

   最近は、株式会社への投資というより、一攫千金を狙ったギャンブル的要素が大きくなっている。

   マネーゲームによって破滅に向かう投資家も結構多く、自殺する原因にもなっているが、それは際限のない人の欲望による結果である。

   人は大きな成功を掴んでも、それで満足しない。さらにその上を掴もうとして、ゲームを続ける。奈落の底に落ちるまで。

 

・ 諸問題

   資本主義は、人の本性に沿っている体制ではあるが、このような弊害があるので手放しでは認められない。

   これら多くの問題は、自由競争と私有財産の弊害である。だから、共産主義のような体制が考え出されたのであるが、自由競争と私有財産を認めても悲劇を作り出さないシステムはできないものであろうか。

 

・ 社会主義的な資本主義国

   かつての日本がそうであった。国民にとってより良い生活ができるようにと、部分的に社会主義制度を取り入れたのである。

   当時、国民が利用する鉄道や郵便などは国営化であったが、それは、社会主義の理念に沿ったものだといえる。その理念は、現在でも医療や福祉において継承されている。

   つまり、基本は資本主義であっても、分野によっては社会主義的になることを認めた訳である。いわゆる修正資本主義と呼ばれる体制である。日本政府は、そのような柔軟性を持っていたのであり、今日においても高く評価されている。

   世界的に見て、社会保障が充実しているのは北欧諸国である。近年、そのような社会体制を目指す国が増えつつある。

   しかし、いくら社会保障が充実していても、国民がそれを当たり前のように感じてしまえば、幸福度も薄れてしまうことになる。発展途上の国にでも行って、過酷で不安な状況を経験しなければ、その良さを再認識できないに違いない。

   幸福論の章で述べたように、生まれて死ぬまで幸福であり続けた人などいない。目の前の問題が解消されても新たな問題が生じて、それが幸福感を遮るからである。

   また、新たな問題が生じなくても、現状のままで満足する人はそういるものではない。更なる幸福を求める人がほとんどであり、際限がないのである。

   そう考えると、すべての人が幸せになる完璧な社会体制など存在しないことになる。それでも、どれかを選ばなければならない。

    完全ではないにしろ、人の本性、社会保障の充実の点からすると、やはり、この体制しかないように思う。

   よって、社会体制は、問題点を改めるという条件付きで修正資本主義にする。

 

・ 法律と慣習

  次は、法律と慣習の問題になる。      

   同じ社会体制であっても、国によって法律が異なっている。そのため、ある国では罪になることが、ある国ではならないという現象が起こる。例えば、飲酒や喫煙の年令制限の違いやマリワナの使用などである。

   アメリカ合衆国では、同じ国でありながら州によって法律が異なるので、旅行者はそのことを念頭に入れる必要がある。トラブルに巻き込まれる可能性もあって、前もって調べておかなければならない。

   慣習も同様である。慣習と異なる行為をすると、周囲から手酷い仕打ちを受ける国もあって、注意が必要である。そこでは、「外国人なので」という言い訳は通らない。許しを得るには、軽率な言動をひたすら謝るしか他ないのである。

   しかし、その程度の違いならまだ許容の範囲である。許せないのは、世界が男女平等の方向に進んでいるというのに、それに反する法律が今尚存在することである。

   実際、アラブ諸国に見られる女性に対する法律は、到底認められるものではなく、差別と言っても過言でない。悪法である。

  宗教的な理由もあって、改正するのはかなり難しいと思われるが、何とか同じ方向にいってもらいたいと願う。

  国やエリアによって善悪の規準や慣習が異なるのは混乱を招く。世界が一つになれないのは、その違いが大きな原因であるように思われてならない。できれば統一して欲しいものである。

 

・ 人種と民族

  犬や猫に種類があるように人類にも種類があり、それを人種と呼ぶ。

   人類はすべてホモ・サピエンスに属するが、体型、容姿などで異種に区別される。特に肌の色では、白色人種、黄色人種などのように分けられている。

   民族は、ゲルマン民族、ラテン民族などと呼ばれるように、広大な地域に一つの同じような文化的特徴をもって存在する共同体である。外見が似通った民族もあればまったく違う民族もある。

  世界の中に存在する民族は、アジア、アングロサクソンなど百種である。使用言語の違いによって、さらに細かく分けられることもある。

   この人種や民族の違いを、特徴として述べるのなら問題はない。ところが、その優劣を決めたがる馬鹿な輩がいると、決まって争いになる。

  最初は個々の言い争いであっても、それがきっかけとなって、人種・民族間の争いに発展するのである。

  異なる人種や民族を毛嫌いして、同胞になるのを拒否する者もいる。肌の色が黒や黄であるという理由だけで、その人を見下すのである。そのような輩による差別事件も頻繁に起こっている。

   近年、理不尽な差別に対する憤りから闘争や人権運動が始まり、世界中に広がっていった。時には、その指導者が暗殺されるという事件も起こった。

   このような命がけの先駆者の尽力により、奴隷解放や反アパルトヘイトが実現され、現在に至る。完全ではないにしろ、人種問題は解決の方向に向かっていると言える。

   最近では、異国間の交流が盛んになって、国際結婚も増えつつある。白人と黒人など異なる人種間の子どももたくさん見られるようになってきた。

  この先、人種と民族の問題は、案外、容易にクリアされていく問題なのかも知れない。

 

・ 言語

  同じ国の中でも、地域によって使われる言語が異なるところがある。異なる理由は、そこに住む人種や民族の違いによることや異なる統治国に植民地化されたことによる。言語が普及するのは、まず地域からなのである。

   隣接する地域の言語が異なれば、交流が困難である。誤解も起こる。争いも起こりやすい。

  そこで、どこの地域や国にいっても、誰もが理解できる言語としてエスペラント語が作られた。残念ながら、世界共通語としては普及しなかった。

  現在、その代役になりつつあるのが英語である。イギリス、アメリカ、オーストラリアはいうまでもなく、世界各国に普及している。

   もし世界統一を目指すなら、世界中の人々がどこへ行っても何不自由なく会話できなければならない。誰もが共通語をもって会話できれば、言葉によるトラブルも起こらない。そのためには、言語の統一が必要となる。

   しかし、独自性の尊重という理由で、言語の統一に反対する意見もある。言語は、その地域に根付いたものである。特色である。文化である。歴史である。それを統一という理由だけで無くすわけにはいかないという考え方である。

   もし、それぞれの言語がなくなれば、その文化の真髄を得ることはできなくなる。書物などが共通語で翻訳されても完璧にはカバーされないし、観光客はフランスに行ってもフランス語が聞けない、ロシアに行ってもロシア語が聞けないということになる。つまり、異国の情緒を味わうことはできなくなってしまうのである。

   日本国内でも、地域によって方言がある。その方言は、地域に住む者でないとなかなか理解し難いものであり、例えば沖縄の人と青森の人がそれぞれ方言でしゃべれば会話は成り立たないものになる。

  そこで標準語が必要となり、義務教育では標準語を習うことになる。「不便な方言は止めて、できるだけ標準語を使おう」という主旨なのであるが、実際はそうはなっていない。

  使わないどころか、「自分の生まれ育った地域の方言は、大切にしよう」とする動きさえある。「方言があってこそ地域の特色があるのだ」という思いなのである。

  確かに自分の育った地域の方言を聞くと懐かしく感じる。その地域独特の方言によって、的確な言い回しや微妙な表現もできる。方言を大切にしたいという気持ちもよく分かる。

  しかし、会話中に「その方言の意味は?」といちいち聞かれるのは厄介である。勘違いによるトラブルも起こる。だから、標準語に頼ることになるのである。

  方言の中には、既に死語になっている言葉もある。よほどの年輩者でないかぎり分からない言葉もたくさんある。そのような方言は、年を追うごとに増えていくに違いない。結局、方言はなくなっていく方向にあるのだと感じる。 

  言語も同様である。方言と同じように陶太されて、残る語と消える語に別れるに違いない。さらにあと何万年もすれば、母国語はなくなり、言語が一つになるのかも知れない。  

 

・ 宗教

   最後に宗教の問題である。これが一番厄介である。

  宗教のない国は、今のところないようである。共産主義国や社会主義国においても、何某かの宗教がある。

  信仰の対象は、釈迦やイエス、アラーのような世界的に知られている仏や神の他にも、昔から続く地域のアニミズム的な自然崇拝や守護神の礼拝などがある。

   日本はというと、神道はもちろん、仏教、キリスト教、回教などたくさんの宗教が存在する。それぞれの僧侶や信者も多い。

  しかし、普段の生活においては、あまり宗教を意識しない人がほとんどである。たまに、年中行事や冠婚葬祭の儀式として関わることがあっても、信仰に対しては希薄である。日本人のような関わり方は特例であり、外国の中には、信仰が生活の全てであると感じている国も多い。

   ユダヤ教は、その信仰によって国民が成り立つ宗教である。つまり、ユダヤ教=ユダヤ人なのである。ユダヤ教を信じる者こそが、繁栄の道を歩むのであると強く考える。

  イスラム教も同様である。アラブの民は、同じ神を崇めることによって固く結束している。アッラーとアッラーに仕える神以外はすべて邪教の神としていて、反抗する者には報復がある。

紀元前からあるハムラビ法典の教義がイスラム教にも浸透していて、「目には目」「毒には毒を」を必ず実践する宗教と恐れられている。

   キリスト教は、信者が一番多い宗教になる。信者の大半が、その教義を生きる為の指針としている。裁判などで被告や原告がイエスに宣誓するほど、その存在は絶対で大きいのである。

   仏教は、釈迦の悟りであり、教えである。人間の本質を説いていて、民衆に「人はどう生きるべきか」を導く教義として引き継がれてきた。

  日本へは、インドから中国、中国から韓国と渡って伝わった。インドでは衰退したが、東南アジアでは、今も仏教国として釈迦を崇める国々がある。

  宗教は元来、人が生きていく上で指針になったり、戒めになったり、励ましになったりという役割をするものである。科学が発達していない時代、特に教育を受けられなかった人々にとっては、信仰=人生と言えるほど宗教は絶対的な存在であった筈である。

   しかし、自分の信じる神が絶対であると狂信するあまり、他の神を認めず排除する者が出てくる。時には攻撃もする。

地域や国においても、自国の宗教が正教であり、他国の宗教は邪教と主張する。邪教だと決めつけられた国は、当然怒る。それがエスカレートして衝突が起こる。そして、戦争にまで発展するのである。いわゆる宗教戦争である。

  そこでは、どれだけたくさんの民衆を救済したかではなく、どれだけたくさんの敵を殺したかで、その正当性が証明される。宗教も力関係で成り立っているということである。

  宗教戦争の中には、宗教の対立ではなく、利権問題が本当の理由であることもある。それが、いつの間にか宗教問題にすり替わっているのである。

  敵国に対抗するのに、どうしても同盟国が必要になる時がある。そのために、第三者的な国を宗教に託けて引き込もうとする。結果、異なる宗教国間の戦争となるのである。

  このような宗教の違いや利害の対立から宗教戦争になった例はたくさんある。一旦戦争が始まれば、それぞれ教義に反したことも平気で行われる。殺人、強奪、焼き討ち、私刑など普段から禁止されている悪行が、「聖戦」の名の下に許可されるのである。宗教家の仕業とは思えないようなことも平然と起こる。

  そこでは、勝利こそが第一で、教祖が説いた教義など二の次になる。これでは、本末転倒としか言いようがない。教義の「博愛」「慈悲」は、どこに消えてしまったのか。全く嘆かわしいことである。

   宗教が原因による戦争は、宗教がある以上なくならない。だから、宗教はない方がよいということになる。

   しかし、世界中の信者が、今すぐ自分の信仰を止めることは無理である。崇拝するイエスやアラー、釈迦を捨てるなどできないのである。

  対立を避けるために、「自分の信じる宗教も他人が信じる宗教も、認めればいい」という意見があるが、これも無理である。

   信心は、「自分の信じる宗教や神が、絶対に正しい」という思いを持っているから続けられるのであり、「どの神も同じである」という意識では止めてしまう。他の神など、貶すことはあっても拝むことはないのである。

   自分の神が絶対であるという思い。その思いが強ければ強いほど、他は邪教や邪神になってしまうのであり、やはり表面的には協調できても、内心では「異教は異教」なのである。

  根本的な解決にはならないが、対立を避けるためには、「それぞれが他を干渉しないこと」これに尽きると思う。

決して、「異教を信じる人を改宗させる」などと思わないことである。「様々な宗教がある中で、どれを信じるかは自由である」というスタンスで望む方がよい。

「それができるくらいなら苦労はない」と誰かに叱られそうであるが、争いを起こさないためには、そうするしかないのである。

 

・ 仮定

  このように、世界統一のためのハードルは、非常に高く厳しい。どれもこれもが、解決し難い問題ばかりなのである。

  それでも、なんとか問題をクリアして、どうにか世界が統一されたと仮定してみよう。果たして、そのことによって本当に争いがなくなるのであろうか。

 

・ 内紛

   もし、世界が統一されても、戦争が完全になくなることはない。何故なら、内紛が起こる可能性があるからである。

   現状の社会体制に不満を持つ者が必ず出現するのであり、それは、過去を振り返れば分かる。

 

・ 独裁者の政治

   暴君によって国民が苦しめられると、内紛が起こる。

   どんなに強固に統一されていようと、独裁者とその首脳陣に対する不信感が募れば、現政権を打倒しようとする動きが起こる。

  独裁者が実権を握っている間は、全ては独裁者の思うままである。国民にとって最初は良い君主であっても、いずれは、恐怖政治を行う暴君になる場合もある。万人が満足できる政治に必ずなるとは言えないのである。

   国のトップが独裁者ではなく、合議制によって選ばれるシステムであっても同様である。

   国民の大半が苦汁を舐めている一方で、政府の閣僚は自分の財を増やして贅沢に暮らす。その不満を公言すると弾圧されてしまうような恐怖政治は、必ず内紛が起こる。

   どこかの共産主義国のように、国や民衆のためとしながら、指導者が賄賂をもらって私腹を肥やしているという例もある。指導する立場であっても、人間である以上誘惑には負けてしまうということである。                                            

  反政府側はクーデターを起こし、政府側は武力でもってそれを阻止しようとする。そして決まり切って血生臭い戦争が起こるのである。過去に、政治的な内紛によって起きた戦争の例はかなりある。

   結局、国が一つになっても争いが起こる可能性はなくならないのである。           

 

・ 理想郷の実現

   ジョン・レノンが思い浮かべたような理想郷の実現は、どう考えても不可能である。今の段階では無理である。それでも、ねばり強く働きかけて、それを未来に託さなければならない。その方針は下記の通りである。

 

一   国が一つになろうが細かく分かれようが、世界中のすべての人に「同胞」という

      意識がなくてはならない。そういう意識を持たない限り、利権による戦争はなく

      ならないのである。その為には、世界共通の道徳教育を普及させるべきである。

二  戦争の原因の一つである宗教はいらない。争いは、信じる神や仏の違いによって

     起こるのであり、崇める対象を持たなければなくなる。

三  言語は、世界共通語を普及させる。母国語の方も認めて、決して使用禁止にはし

   ない。

四  社会体制は、自由を認める体制にする。誰に対しても機会均等であり、最下層に

    も最低限度の市民的権利を保障して、浮上すチャンスを与える。

五  私有財産は認めるが、あくどい方法で財を貯める者には徹底した処罰を与える。

六  改善すべき点を検討して、常により良い社会を目指す。

 

   以上が、理想の社会を構築するための必要な条件である。口で言うと簡単であるが、その実行は、かなり難しい内容ばかりである。せっかくこのように定めても、足並みを乱す輩が必ず出てくるので、その実現は至難の業と言える。

 

・ 架空の理想郷

   世界には、約七十億の人がいると言われる。それぞれが自分の思いを持ち、その実現を望んでいる。時にはその衝突もある。

   それ故に、すべての人が幸せになるというのは、かなり難しいことになる。いや、「無理である」と言ってもいいだろう。

   それでも、幸せに成りうるための最低限度の改革は行うべきである。たとえ幸せにならなくとも、誰もが不幸にならない社会を目指さなければならない。  

   もし、私自身が理想郷を作るとしたらどんな風にするのか考えてみた。空想であるので実現不可能なことばかりであるが、とりあえず提示する。

 

・ 浮かぶ国

  まず、土地の確保であるが、海上にする。何故かというと、障害物がほとんどなく、土地の面積を容易に拡張できるからである。(領海の問題はこの際、度外視する)

   当然、地面は土ではない。海水にも錆びない強靱な樹脂にする。つまり、浮かぶプレートを作るつもりなのである。

   波の影響の心配があるが、豪華客船を思い浮かべて欲しい。大型の船は、ゆったりしていて波の影響をさほど感じさせない。浮かぶ国は、それよりはるかに大きく、移動しないのであるから、揺れはまったく感じられないと思われる。

   そのままでは海流によって流されてしまうので、錆びない極太のチェーンでプレートと海底を繋ぐ。潮の満ち引きに対応できる余裕のある長さにする。

   最大の利点は、海底で地震が起こっても、影響がほとんどないことである。津波は、海岸近くにバリケードを二重、三重に浮かべて防ぐ。

   海底火山の噴火も、海中であることとプレートが防御の役割をするため、被害は最小限に抑えられるに違いない。

 

・ 位置                       

  場所は、極端に寒くも熱くもない温暖な位置にする。日本の気候に似て、四季がはっきり感じられる所である。日本の近くになるが、日本から独立した国になる。

 

・ 大プレート(基盤)

   最初に、厚さが五mで、面積が百㎡の正方形のプレートを作る。中は空洞である。それを一万個繋げて一k㎡の正方形の島を作る。それを基本の島とする。

   さらに、島を複数個繋げていく。縦、横とも二個ずつ繋げると、面積が四k㎡の正方形の島になり、かなりの人が住める。移住希望者が増えれば、必要に応じて拡張する。

   プレートの材質は、樹脂である。原料は石油であり、大量に必要になる。

 

・ 中プレート

   大プレートの上に、厚さが二mで面積が百㎡の正方形の中プレートを敷き、その中に、上水道と下水道、電気を通す。

 

・ 小プレート

   さらに、その上に厚さが一mで、面積が百㎡の正方形のプレートを敷いて固定し、そこに家屋を建てることにする。

 

・ タウン

一  住民は、百八十㎡の土地が与えられ、そこに自分の好きな形の家を建てることが

   できる。但し、高さの制限は有る。大型台風が来ても、そこそこ耐えられる構造

     にする。

二  大家族の場合は、それなりの広さになる。

三  近い所への引っ越しは、そのプレートをクレーンで持ち上げて車輪をつけ、家屋

     をプレートごとトレーナーで移動する。

四  商業ビルやマンションなど、高層の建物は作れない。(プレートでは無理)

五  公園、緑地、人工の川も作る。緑地には小山も作る。人工の川は、より自然らし

     くする。

六  店舗は、モールを作ってそこに集める。

七  役所、交流館、学校、消防署、警察、病院、裁判所、刑務所を設置する。 

八  田畑は、水はけの良いプレートの上に土を盛って作る。水耕栽培もある。

 

・ 交通

一  道路は、碁盤の目のように区画される。もちろん、アップダウンや左右のカーブ

     などの変化もつける。

二  交通機関は、すべて地下鉄で、大プレートの中をリニアモーターカーが走る。

三  車両は、従来の自転車、バイク、乗用車、トラックであるが動力は電気になる。

四  空港は、住宅地から離れた所に必要に応じて作る。

 

・ ライフライン

一  飲み水は、海水、雨水を浄化したものになる。

二  電気は、風力、太陽光などで作る。すべて電化する。電線は地下になる。

三  浄水場、下水場、ゴミ処理場の設置をする。浄化水は、そのまま海へ流す。

 

・ 娯楽

一  球技場や遊園地、劇場などの娯楽施設を作る。

二  カジノ、パチンコ店などのギャンブル施設は作らない。ギャンブルで破滅する

     人作らないためである。どうしてもしたい人は、他国でしてもらう。

三  風俗店は、性欲対策や犯罪防止のために必要である。必要悪になるが、誰がそ

     こで働くのかを考えると、容易には認められない施設である。

 

・ 冠婚葬祭

一  宗教がないので、神社、寺、教会は建てない。結婚も葬儀も、専用の会場で行

     う。

二  墓は、霊園に同じ大きさのネームプレートを置くだけである。お別れの会にな

     る。

 

・ 産業

一  基本は自給自足であり、農業が主流になる。農地はグループで耕作する。

二  生活用品もできるだけ自国の工場で作る。

三  漁業は、養殖を主流にする。

四  工業は、住宅地から離れた所に工業地帯を作って公害が出ないようにする。

五  雇用は、農業、漁業、工業、流通、役所などである。当分の間は、建設業に人

     手がいることになる。

六  独自の貨幣を発行して使用する。

七  輸出入は、信頼のおける国だけにする。

 

・ 法律

   日本国憲法をたたき台として、削除する項目や新たに付け加える項目を検討し、それを基に必要な条例を作る。左記の内容については、はっきりと明記する。

 

・ 大原則

一  国民主権

     国民の総意による政治

 

二  基本的人権の尊重

     誰にも市民的権利が保障される。

     あらゆる人種、民族への差別を許さない。

     男女平等である。

 

三 平和主義

    戦争を放棄する。理由なく侵略してくる無法な国は例外とする。

 

・ 条例

   以下のような条例を定める。

 

一  教育や医療が無償で受けられる。

二  福祉や社会保障を充実させる。バリアフリーなど障害者や弱者に優しい設備を

     整える。

三  宗教は認めないが、自然崇拝が起源になる祭りや儀式的行事は認める。

   (正月、節分、クリスマスなどの宗教的な行事も形式的には残す)

四  土地は、すべて国が所有し管理する。家屋は有料になるが、土地は無料で借用

     できる。

五  土地以外の私有財産は認める。

六  外国への旅行は、観光、研修などで認められる。親類や友人などが、この地に

     訪れるのも自由である。但し、永い期間の滞在は認められない。

七  この地に訪問する者は、麻薬の売人のような犯罪者でないかどうかを厳しく

     チェックされる。

八  核兵器を持たない。弾道弾迎撃ミサイルや巨大レーザービームなどの兵器は所

     有する。

九  自衛隊は認める。

     侵略国と戦う数人のグループのみ。(監視カメラ、コンピュータ制御の兵器な

     どの使用)

十  災害対策救助隊を作る。

 

・ 政治

   政治家は誰もいない。もちろん、首相、大統領もいない。定期的に、各エリアの代表が集まって会議する。代表は抽選で決める。 

 

・ 資格

  この浮かぶ国の主旨である「平和、平等、協調、勤労、無宗教」に賛同する人なら、基本的に誰でも住める。しかし、暴力団や暴走族のような反社会の人には遠慮してもらう。

 

・ 永住

一  資格がある人がここに永住するかしないかは、本人の意志で決められる。

二  大きな犯罪をしながら心を改めない者は、刑務所で刑期を終えても居住を認め

   ない。他国にいってもらうことになる。その家族は、任意で残れる。

 

・ 自由と管理のバランス                   

  端から見ると、「かなり管理的な国」になると思われる。特に、何でもありの資本主義にとっぷり浸かっている人にとっては、窮屈な暮らしになるだろう。

   町並みも、しっかり区画されている故にどこを見ても同じになり、面白みに欠ける風景になる。

  また、私有財産が認められているとはいえ、大富豪になれる可能性が極めて低いので、「生きるモチベーションが希薄になるのでは?」という心配を持たれる人もいるかも知れない。

   確かに、管理的である。開放感も薄い。しかしそうであっても、自由競争によって起こる諸悪はなくなる。「窮鼠猫をかむ」のような犯罪も激減するはずである。

  また、社会保障や福祉を充実させるので、将来に不安を持つ人が少なくなるという期待も持てる。

   それでも、「そんな国には住みたくない」という人が、少なからずいるに違いない。それは、考え方の相違であって仕方がないことである。

  誤解しないで欲しい。この国に住むのは強制的ではなく、あくまでも任意である。主旨に賛同した人がここで生活できるのであって、不満を感じるのならこの国に来なければよいのである。

  いずれにしてもこの危惧は、「捕らぬ狸の皮算用」であり、問題は実現可能かどうかになる。

                                     

・ 造花

   ここに、一輪の生花と造花があるとしよう。一見、同じ花と見間違えるほど、形と色、香りも同じである。

  それでも、美に関していうと、造花より生花の方が勝る。何故なら、自然の花には、生命感があるからである。人が、生花を愛でる所以である。

  確かに素晴らしい造花もないことはないが、所詮、人工的な紛い物の花に過ぎない。紙や布、プラスティックなどで作られた花が、自然の花の魅力に勝ることはないのである。

   しかし、造花にもメリットがある。元々命がないのであるから、萎むことはない。半永久的に形を保ち、色褪せることもない。何より、作り手の思いが表現されていて、手間もかかっている。

   一方、自然の花は、生きているが故に時間が過ぎれば枯れる。今を盛りに咲く花も、萎えてしまえば見窄らしい姿に変わる。人がそれを美しいと感じられるのは、一定の期間だけなのである。

  我々が住む世界も同様である。栄えた後に衰退した町並みは、生命の息吹が感じられない荒涼とした世界となる。

   豊かさを求めて自由競争が過激になればなるほど、早く行き詰まるのであり、枯渇すれば、混沌とした世界となってしまう。

   私が求めるのは、秩序である。決して、混沌ではない。人工的な世界は、味気のないものに映るかも知れないが、秩序を守れるならそれも良しとするのである。

   たとえ造花のようなシュミレーションのような世界であっても、生きていくのは、我々人間である。その中で、人間らしく生きれば良いのである。

               

・ 目指す世界

  私が目指すのは、経済大国ではなく、幸福大国である。国民の誰もが安心して暮らせる国である。青少年が非行に走らず、将来に希望が持てる国である。

   一部の者だけが幸せになっている国など、世界中を探せばいくらでもある。そうではなく、国民の百%が幸福になれなくても、国民の百%が不幸にならない国づくりを実現したいのである。

   このような国を実現するには、まず財源が必要になる。資金がなければ中枢になる基盤づくりは不可能なのである。

  浮かぶ国なので、資源はどこにもない。外国に売れるような優れた技術もない。そういうことから、この国に賛同する富裕層からの援助を期待するしかない。

   しかしながら、そんな大富豪は、世界中のどこを探してもいないだろう。損することはあっても、得することのない絵空事などに興味を示す人は誰もいないに違いない。

  ということで、残念ながら実現は不可能と諦めるほかないのである。

                         

・ 共存

   悲惨な事件をメディアで目にする度に、「いつになれば、安心して暮らせる世の中になるのだろう」と憂鬱な気持ちになり、ため息さえ出てくる。

   人間には他の種と同様に、種の存続が意識の根底にある。同種の「人」とは争わずに共存していくことが摂理なのである。

  ところが、現実は違う。物欲による強奪、迫害、拘束、監禁、傷害などの悪行は言うまでもなく、自分に弓引く者には、抹殺によって報復している。常に自分が中心にならないと気が済まない輩の悪行による結末である。

   このような悪行は、個人的な争いだけではない。多くの人を巻き込んだ争いにも起こる。その最たるものが戦争である。

   その状況では、何の罪悪感もなく平然と殺戮が行われる。自国の勝利のために、情け容赦なく敵兵を殺してしまうのである。

   戦場では、たくさん殺せば殺すほど英雄視される。賞賛される。それは、断じて真っ当な感覚ではない。人道に反するのであり、もし神や仏が本当にいるのなら、その行為を咎めるはずである。

  それでも、人は争う。戦争を起こす。それが罪であると分かっていながらである。

   しかし、争いはもうたくさんである。争いによって人が死ぬのを見たくはないし、聞きたくもない。

   人類は過去を反省して、今こそ「同胞」という意識を誰もが持なければならない。一つのものを取り合うのではなく、分け合って争いのない平和な社会の実現に尽力すべきなのである。

   実際、世界はそのような方向に進んでいるのだろうか。そのことが完結するのは、いつの日であろうか。

  そのような疑念を持ちつつも、願いが叶うことを常に夢見ている私である。

   多分、映画か何かの一場面だったと思う。

   かなり昔のことなので題名やストーリーは覚えていないが、その中で聞いたある言葉が今でも印象深く残っている。

  それは、寺の住職が修行中の弟子に投げかけた「色即是空」という言葉である。当時は、その言葉が何を意味しているのかまったく分からずにいたが、住職の顔と声が尋常ならぬ気迫に満ちていたので、「お坊さんにとっては、とても重要な言葉に違いない」と思ったのである。                     

  数十年後、ある集会で宗教家の方からお話を聞く機会があったので、長年の疑問である「色即是空」について尋ねてみた。

   その方は、少し困った顔をしながら、「難しい質問なので、今すぐには説明できない」と言われた。期待を裏切られた感もあったが、手を煩わすのも心許ないので、「そうですか」と、素直に引き下がった。

  結局、家に帰ってネットで調べることになったが、調べれば調べるほど様々な解釈が出て来て、理解するのにかなりの時間を費やした。

   聞き慣れない仏教用語もあり悪戦苦闘になったが、自分なりの解釈を含めて、漸く下記のように整理することができた。

 

〇  元は古代インドのサンスクリット語であって、「色即是空」は漢訳された言葉であ

  る。

〇  仏教の代表的な経典の一つである「般若心経」の中にある。

〇  その意味は、「色これ即ち空である」ということである。つまり、「色」=「空」

     になる。

〇 「色」は「目に見えるもの、形あるもの」であり、この世にあるすべての物が

    「色」になる。

〇 「空」は「からっぽ」ではなく、「実体がない」という意味である。

〇  故に「色即是空」は、「この世にあるものは、すべて実体がない」ということに

    なる。

〇  逆の「空即是色」も出てくる。「実体のないものが、形あるものとして存在してい

     る」である。

〇  単に読経したり写経したりするだけで、病気の治癒などの功徳が得られるようであ

  る。

〇  これを無理に解釈すると真意とは異なるものになり、かえって良くないと言われ

  る。

 

・ 釈迦の真意

  経典は、説法時における釈迦の言葉をもとにして作られたようである。最初は、弟子から弟子へと口伝で継承されていたが、後にそれらが記録され書物となった。

  その中でも「般若心経」は、密教などの大乗仏教における根本的な経典になっていて、僧侶はもちろん民衆の耳にも広く入ることとなる。

   中身については諸説あるが、「観自在菩薩と弟子の舎利子が、釈迦に教えを請いながらやりとりをする質疑応答」とするのが有力である。 但し、記された言葉が、釈迦と観自在菩薩のどちらが発したものなのか特定できないものもある。

   さらに、釈迦の入滅後に弟子達が独自の解釈を付け加えた可能性もあり、これが釈迦の真意であると断定するのは、かなり難しいことのように思われる。   

   今日に至っては、後付的なものも含めて様々な解釈が存在する。どれもが尤もらしく納得できるような説になっているが、首を傾げたくなる解釈も中にはある。

   読み進めていくうちに、一つ気がついたことがある。それは、いずれの解釈も、哲学的な観点と科学的な観点の両方によって成り立っていることである。

 

・ 哲学的な観点

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色・・・」

  この言葉は、平家物語の中の琵琶法師が謳う有名な句である。栄華を極めてもいつか衰退して行くという理は、平家の末路がまさにそれを表していると語るのである。

   句の中の祇園精舎とは、釈迦が説法を行った建物である。そこにあった鐘は、説法を始める合図に使われていたが、釈迦の教えを象徴するように鳴り響いたとする。

「今を盛りと咲いている花は、いつか枯れるのであり、その美しさを永遠に持ち続けるのは不可能である」

  この世において、永遠に存在し続けるものは何一つない。すべてのものが、時間の差はあっても、姿を変えたり消滅したりする。「普遍的な存在」というのはないのである。

   固い岩石も風雨にさらされ、長い年月をかけて細石となる。命あるものは、いつか死んで骸となり朽ち果てる。

  人の生命も同じである。永遠に生き続けられる人は誰もいない。どのように美しく生まれても、どのように大きな財をなしても、どのように高い地位を得られても、いずれはそうでなくなる。

  この摂理は否定のしようがないのであり、そう考えると、日々、様々な価値観に執着してそれに振り回されるのは、虚しいことになる。

   人は、自分の欲望を満たすために他人を欺き、陥れる。時には、感情的になり争う。数々の煩悩によって、人の行いが決められてしまうのである。

  しかし、そのような生き方は、仏の教えに反する。自我から起こる雑念を捨て、常に冷静さを保ち、人のために尽くす生き方の方を選ぶべきとする。

   さらに人生においては、すべてが順風満帆にいくとは限らない。困難に遭遇することも多い。そんな時でも、迷う事のない仏の境地でいなければならない。寺の住職が放った「色即是空」は、このような意味が含まれていたのである。

「物への執着をなくせば知恵を授かり、真理が見えてくる」

  そのための修行ではあるが、若い弟子に迷いが見え、この境地にほど遠いために叱咤激励した訳である。

 

・ 科学的な観点

  人は、視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚という五感によって物を認識する。目に見える色や形は、物にあたり跳ね返った光が目に入ることによってできる映像である。

   その映像というのは、単なる映像であって物質そのものではない。つまり、物質の実体を認識している訳ではないのである。

   手に触った物も同じ事が言える。感触として手の神経から送られた信号を脳が認識しているだけであり、決して物質が脳に送られてきた訳ではない。

   このことは、他の生物も同様であり、何かを認識できるのはそれぞれが持つ脳の働きによるのである。

  それでは、あらゆる生物が同じように認識しているのかというと、そうではないようである。特に色や臭いなどは、生物によって異なる認識の仕方になると言われている。

   たとえば、ねずみにとっては好ましい臭いであっても、人にとっては好ましくない臭いになることもある訳で、決して一様ではないのである。     それ故に、一つの物に対する認識が、多様に存在することになる。

  そうすると、「その中のどれが真の認識であるのか」という疑問が出てくるが、それは決められない。

  何故なら、Aという生物はAの仕方でしか認識できないのであり、Aにとってはそれが真になる。

   Bという生物にとっても同じ事が言えるのであり、あらゆる生物は、それぞれの仕方でしか認識できず、それがそれぞれにとっての真になっているのである。

 

・ 実体

  実際、目の前にある花は、花という実体があるのではなく、様々な元素の構成によって花という形に見えている。

  物質を細かく分解すると元素になり、元素は電子と原子核からなる。原子核は陽子と中性子で構成され、陽子と中性子はクォークという物質からできている。そのクォークもさらに小さな何かからできていると考えられている。

  最終的には、「波動」というものになり、それは、目に見えないエネルギーと言い換えられるようである。

  結局、我々が花として認識しているのはバーチャルであって、その実体を認識している訳ではないのである。

   しかしながら、実体としての花を認識できなくても、花というバーチャルを成り立たせている物質の存在は否定できない。無の状態から姿や形が現れることはないのであり、何かが確かに存在している。

   その何かが、その仕組みや関係性によって認識されるのであり、これが、「花が花として存在しうる理由」と言える。

   もちろん、釈迦が悟りを開いた紀元前の時代では、まだ物理的法則が確立されていないので、このような意味が含まれることはない。

  それでも、このことが引き合いに出されるのは、「色」=「空」の裏付けになるからである。

 

・ 唯心論

   命あるものは、命のある限り独自の仕方で何かを認識し続ける。もし、命に終わりが来れば、認識することも終わりになる。

  物質の認識というのは、命のあるものが存在することによって初めてなし得ることである。生命のない岩石が、周りにある他の物質を認識することはないのである。

   このことについて、私が敬愛するある作家がこのように述べられている。

「この世界に生命がなく、無機質な物質だけであるなら、それは「無」と同じである。世界を有しめているのは、その存在を認識するもの、即ち、我々生命体だけなのである」

  仮に生物が全くいない世界になったとしよう。存在するのは、無機質で構成された物質だけである。生物がいない世界であるから、そこで、その物質がどのように変化しようと消滅しようとも、何の影響も関係もないのである。

   しかし、意識を持った生物が一つでも存在すれば、環境の変化は、その生物に何らかの影響をもたらすことになる。つまり、意識こそがすべての存在の根源であり、「意識のない存在」というのはあり得ないのである。

   人も、自分の意識によってあらゆることが認識できる。しかし、死んでしまえば、自分がいたこともこの世があったことも何も認識できなくなる。

  それは、その人にとって「すべて何もなかった」ことと等しくなる。まさに「人生は夢幻」なのである。

   ある意味、虚無的ではあるが、紛れもない事実である。

 

・ 偶然と必然

   誰も住んでいないはずの空き家が火事になった。通報により、すぐに消防車が駆けつけたので、近隣への延焼は免れた。さらに、無人だったこともあって、死傷者はでなかった。

   火災の原因は、一体何だったのか。家の中は、まったく火の気がなかったし、外で誰かが放火した事も否定された。

   消防署が時間をかけて調べた結果、自然発火であることが分かった。原因は、こうである。              

  火事が起こった日は、太陽の日差しが非常に強い日であった。その強烈な光が、窓ガラスを通して部屋に入り、そこに置いてあった水の入ったペットボトルに当たる。それが虫眼鏡のような役割をして、光を一点に集めてしまった。

   それだけなら、まだ火事にはならなかった。その光が、カラカラに乾いた古新聞の黒く塗られた画像の部分に当たって、燃え出したのである。

   この火事は、偶然に起こったのか、それとも必然的に起こったのか。

   強い太陽の光、ペットボトルの水、古新聞、人気のない部屋。この組み合わせは、偶然である。しかしながら、その組み合わせによって発火したのは必然的なのである。

 

・ 外国であった話                   

「ある子どもが高熱で死にかけるが、医師の手当で奇跡的に助かる。医師は、一つの命が救えたことを心から喜ぶ」

「一方、隣国では、その子の生き死になど誰も知らない。たとえ誰かが知ったとしても、何の興味も持たなかったに違いない」

「ところが、その数十年後、その子が国家の独裁者になって大虐殺を行う。まさか自分が犠牲者になるなんて、想像もしなかったのである」

   この話では、医師の行いが結果的に多くの命を奪うことになってしまう。もし、その子を助けなかったら、悲劇は起こらなかったのである。

   だからといって、医師を責めることはできない。医師は、自分の使命を全うしただけであり、責任はない。そのことが将来、大きな不幸を招くとは誰も予想できないのであり、どうしようもないことなのである。

「人と人との繋がりは、どこでどうなるのか誰にも分からない」ということである。 

                                               

・ 誕生

   公園の中で母親が見守る中、幼い子どもが無邪気に遊んでいる。母親にとって、我が子の日々成長していく姿は、自然と笑みがこぼれる嬉しいものとなる。

  さて、そこで、ふと思った。「この子は、一体どのような過程でこの世に生まれ出たのであろうか」                 

   子から親、またその親を辿っていくと、最終的には人類と呼べる以前の原始生物にまで及ぶ。そこから今に至るまでには、気の遠くなる程の時間が流れたことになる。

   その過程には、人の力ではどうすることもできない自然災害はもちろん、戦争などの人災もあったはずである。そのような困難をくぐり抜けて、その子は誕生した訳である。

  もし、誕生に関わる様々な事象の中で、一つでもタイミングがずれていたら、その子は生まれていなかったに違いない。

  そう思うと、その子の存在はまるで奇跡のようであるが、よくよく考えてみると、それが奇跡でも何でもないことに気づく。 

  ここに一から十までしかないルーレットがあるとしよう。ルーレットは、玉を転がしてどこに止まるかを当てるゲームであるが、一から十までのどの数字になるのかは、予想がつかない。

  一回目は三で、二回目が九、三回目が一、四回目が六に止まった。その数字の順番は、三九一六になる。さらに続けていくと、転がした回数分の数字が並ぶ。

   十回転がしたら、三九一六二八八五七四という数列になった。毎回、玉を転がす力のいれ具合やタイミングが異なるので、その結果としてこうなったのである。

   そこで、もう一度玉を十回転がして、三九一六二八八五七四の同じ数列を出したとすれば、それは奇跡と呼べる。十の十乗分の一、つまり百億分の一であって、起こり得ない確率になる。

  しかしながら、最初の数列はそうではない。決められた数字を出したのではなく、なるべくしてなった数列なのである。それは、偶然が作用した必然的な結果と言える。

   人の誕生もそれと同じである。様々な偶然と必然によって誕生したのであり、その子は、生まれるべくして生まれてきたのである。

 

・ 縁起

   何もない空間から、突然現れた人などいない。誰もが、その時々の様々な関連性によって生まれ出たのであり、仏教ではそれを「縁起」と呼んでいる。「縁起」は、さらに、このような意味もある。

「この世に存在する物質が、増えたり減ったりすることはない。ただ、姿や形を変えているだけで、ずうっと同じ量である。それらはすべて繋がっていて、一つの生命体として存在する」

   木が燃えて灰になったとしても、形を変えただけで消滅した訳ではない。燃えながら熱を出していたのであり、エネルギーに変わったと言える。それが空中で拡散しても、エネルギーの量は変わらない。

「地球は、太陽の光を受けてエネルギーが増え続けているのでは?」と言う疑問が生じるが、宇宙全体を考えるとやはりエネルギーの移動になり、増減にはならない。

   元を正せば、人も花も岩石も一つの同じエネルギーから発生したのであり、宇宙という生命体の一部と言える。起こりうるすべての事象も生命の活動であり、不可欠な存在となるのである。

   種は違っても、同じエネルギーからできたのであるから反目してはいけない。同じ種同士であるなら、尚更仲良くしなければならない。それが「縁起」の理なのである。

 

・ 戒め

   ところが、この世では、その理に反することがたくさん起こっている。他人を騙す人、陥れる人、蹴落とす人、金品のみならず命までも奪う人などが結構いるのである。

  このような人は、あたかも「自分は、自分の意志や力で誕生したのであり、周りの事などまったく関係がない」と思っているのかも知れない。

  さらには、「自分は自分であり、他人など知らない。自分だけがこの世の主人公で、自分の思うままに生きたい」という気持ちもあるように思われる。

   過去を振り返ると、このような思いの強い人が、人を虐げたり、差別したり、迫害したりしたのではないだろうか。

   自分の欲望の実現だけを目指す。そういう人が複数いると、決まって争いになる。果ては、多数の犠牲者を出すことになる。「色即是空」は、そのような自己中心的な人になってはいけないという「戒め」でもある。

 

・ 「慈悲」や「博愛」

   混沌とした時代に、釈迦やイエスは、人々に「慈悲」や「博愛」の必要性を唱えた。彼らの弟子達も、その教義に基づいた社会になることを望んだ。

  しかしながら、その理念は、二十一世紀になった現在でも実現していない。いや、永遠に不可能であると言って良いだろう。

   この世には、老若男女、たくさんの人が存在する。その中には、自分のことは後回しにして他人のために尽くすような人もいるが、自分の主張を意地でも通そうとする輩や世に仇なす不心得者もいる。

  その対立によって悲劇があちこちで起こるのであり、そこでは「慈悲」や「博愛」という言葉は、全く無力になる。この世には、理性より本能が勝ってしまう人がたくさんいるのであり、非常に厄介なのである。

   さらにもう一つ、理念を可能にさせない理由がある。それは、人類が他の生物と同様に「生まれては死んでいく」ことを繰り返していることである。

   どんなに善人であっても、いつかは死んでいなくなる。その後から生まれてくる人が、同じように善人になるとは限らない。生まれながらに「博愛」や「慈悲」の心を持っている人などいないのであり、環境や事情により悪の道に向かうことも考えられる。

  残念ながら、このようなことから、「すべての人が神や仏のようになるのは不可能である」と断言せざるを得ないのである。

 

・ 本能

   人類は、今尚増え続けている。多くの人が生きている。その中には、世に仇なす悪人もいる。

   いや悪人でなくても、心が揺れ動く人がほとんどであり、生理的な欲望と理性が葛藤した末に、自己中心的になることもある。恋愛の三角関係などは、そのことが如実に表れた例である。

   AはBを好ましく思っている。Bも同じようにAのことを好いている。そこへCが現れる。容姿に勝るCにBは心変わりをする。当然、Aに対するBの態度は冷たくなる。

  本来なら、AはBを責めるべきだがそうはしない。嫉妬心からCを憎く思い、AとCの修羅場になる。罵り合いの果てに、Aは手元にあった果物ナイフでCを刺してしまう。

   このような殺し合いにならなくとも、ほ乳類にはオスどうしがメスの取り合いで争いになる種が多いと聞く。

  人もまた同じである。人が人という生き物である以上、このような本能が優先してしまう状況は、避けられないのである。

   そもそも、人類は、「人」という生物であって、決して神や仏ではない。「物への執着をなくす」など、到底無理なことである。ほとんどの人が煩悩だらけで、それが生き甲斐になっている人もいる。人の生理的な本能となると、どうすることもできないのであり、それに逆らえば、死に向かってしまうこともある。

   この先、どのような時代になろうと本能が消え去ることはない。このようなトラブルがなくなることは絶対ないのである。

 

・ 無機質的な世界

   もし、人類全員が、釈迦やイエスのようになったとすれば、すべての争いはなくなるに違いない。諍いの原因である嫉妬や軋轢、不正を生み出す贔屓、喧噪を引き起こす自己アピールなどが一切ないのであり、人々は、毎日を平穏に過ごせるだろう。

   たとえ飢饉になっても、糧を我先に奪い合わない。それはまるで、天国や極楽浄土のようであり、まさに平和な世の中と言えよう。

   しかし、である。実際そんな世界になったらどうであろうか。私からすると、「非常に無機質的な世界」と思えてならない。

  遠い昔、法律や刑罰が確立していなかった時代では、力のある者だけが生き残れた。強者の暴力が横行して、弱者が虐げられた。

  そんな弱肉強食の世界の中で民衆が頼れるものといえば、神や仏だけだった。仏に帰依し民衆を導く僧侶は、その境地に率先してなる必要があり、「色即是空」を説くのもそのためである。

   確かに本能が優先すれば、誰もが啀み合い、殺し合うといった殺伐とした世界になってしまう。それは、決して望ましい世界ではない。そうならないように、人は理性を優先させなければならないのである。

  寺の住職も分かっている。人は必ず煩悩を持つことを。だからこそ、「色即是空、煩悩滅却」と発するのであり、「煩悩によって悪行が生まれるから、心をコントロールしなさい」と教えるである。

   しかしながら、我々が目指すのは仏の境地ではない。人としての本能を持ちながらも、共存していく姿勢である。

   人目を憚らず大声を出して必死で応援するのは、何かしら人が人らしく生きているという実感がある。生きていくことに、張り合いが感じられるのである。

  許されるのであれば、自分を素直に出せばよい。誰にも迷惑がかからなければ、喜んだり、誇ったり、自慢したりと感情を表に出せばよいのである。

   逆に、感情がない世界というのは、只単に生きているだけの世界だと言える。全く面白みに欠けるのである。

   人は、良いことも悪いことも様々なことで一喜一憂するのであり、その積み重ねがあるからこそ人生と呼べるのではないだろうか。

 

・ 贔屓

   たとえば、贔屓についてである。贔屓がないというのは、誰に対しても同じ気持ちで接することである。親子であろうが、兄弟であろうが、恋人であろうが、親友であろうが、そんな関係が言動に影響することはまったくないのである。

   私自身は、親子の愛情、兄弟姉妹の愛情、夫婦の愛情、恋人の愛情、親しい人への友情は、特別なものだと思っている。そのような感情を否定して、赤の他人のように接するのはどうかと思う。                                         

「そうではなく、人類はみな兄弟であるから、赤の他人であろうと特別な愛情を注ぐべきだ」という意見もあるが、世の中にそんな人が一体何人いるだろうか。いるとしても、自分の気持ちを殺して、そうするように努力しているはずである。

   親なら、自分の血を引き継いだ子どもは、目に入れても痛くないほど可愛いのであり、親友なら、心を許せるその人が窮地になると、誰を差し置いても助けたいと思うはずである。

  運動会で懸命に走る我が子を見て、応援しない親はいない。野球の試合で、「好きなチームが勝っても負けてもどっちでもよい」と思うファンはいない。できれば一等賞になって欲しいと願うのであり、勝って欲しいと願うのが正直な気持ちである。贔屓する気持ちは必ず起こるのである。

 

・ 卓越

  ある一流の料理人が、このように言った。

「私は、日々の努力によってある程度の技術を得ることができたが、これで満足しているわけ

  ではない。これからももっと精進していき、お客様が喜ぶ料理を作り続けたい」

  こだわりをもった職人の心意気である。料理というのは、同じ材料を使っても作る人によって味が変わる。できれば、人に褒められるような料理人になりたいと思うのは当然である。

  それに反して、「いや、食べることさえできれば、味にこだわる必要はない」という意見もある。しかしそれは、飢餓に面したときに言う言葉であり、食料が足りている時の言葉ではない。

  人は、より良いものを探求する。料理人ならずとも、様々な分野で一流を目指す人たちも同様である。飽くなき探求心が、成功をもたらすのであり、その思いがあったからこそ、現在に至っているのである。

   画家や音楽家は、優れた作品を残したいと望む。スポーツ選手も、誰も成していない記録を出したいと思う。軌道に乗り始めた店主も、チェーン店をもっと増やしたいと願う。

   大なり小なり、誰でもそのような思いを持つ。人というのは、そういう生き物なのである。

                                 

・ 理想の実現

   世の中には、数多くの問題が存在する。主義主張、宗教、人種、民族などの違いによる争いが今尚続いている。中には、一度治まっても再び悪化する問題もあって非常に厄介である。

   そのような状況であっても、誰もが人として満足できる生き方を望んでいる。決して押しつけではなく、自らの意志を持って行動できる世界を理想としている。それも、自分だけではなく、すべての人が幸せになる世界である。

   そのためには、「人はどうあるべきか。どのような社会を目指すべきか」が問われるが、理想のビジョンを浮かべるだけでは、答えは出ない。いくら声高に「世界平和」を唱えても、その実現は極めて難しいのであり、まさに理想と現実とのギャップと言える。

  今のところ、直面する諸問題の解決法はない。もし、あったとしても一時的であって、普遍的に効力を維持し続けることはない。

  誰もが求める「虎の巻」は、手の届かない漆黒の所にあって、永遠に開かれることはないのである。我々人類は、これから先も修羅のような世界で生きていくに違いない。

   それでも、である。たとえそのような世界であっても、なんとかして、平穏な社会を築きたいのである。少しでも理想に近づきたいと願うのである。そのためには、最低限、このことだけは言えるのではないだろうか。

  それは、人というものを理解することである。自分も含めて、他人を知ることである。人として共通する思いを察することである。

  氷の形は、容器によって変わる。人の心も、社会の状況によって変わる。そう考えると、虚無的で非現実的な境地よりも、情熱的で現実的な境地の方を選ばざるを得ないことになる。

   争いのない平和な社会というのは、何の努力もなしに成り得るものではない。その実現には、それぞれが「今、何を心がけるべきか、何をすべきか」を頭の中に入れなければならないのである。

  そのことこそが、いつの世においても問われるのであり、「永遠の課題」ように思われる。

   近年、人類の起源については、大まかではあるが証明されている。

  遥か大昔に宇宙が形成され、次いで銀河系、太陽系が出来上がる。太陽系の惑星である地球に生命が誕生し、その中の一つが進化して人類となった。

   その過程では気の遠くなるような時間を費やすが、現在に至るまでには、生半可でない数の偶然と必然が作用した。

  移りゆく時代の様々な営みの中には、数え切れない喜劇や悲劇が入り乱れ、時には奇跡と言われる現象も起こっている。これから先も、同じ様なことが繰り返されていくのである。

   生命の誕生から始まるこの歴史は、非常に長いものである。しかし、宇宙全体から見ると極めて短く、小さいものになってしまう。人の個々の営みなどは、「無」に等しいくらいの、ちっぽけなものになるに違いない。 

   それでも、である。宇宙の中で、銀河系の中で、太陽系の中で、地球の上で人が生きているというのは、紛れもない事実である。

   また、この世に数多ある生物の中で、人類のみが自身の存在を意識できるのであり、そういう意味からすると、何ものにも代え難い存在になる。

    それにしても、この歴史はいつまで続くのだろうか。終わりがあるのだろうか。

「形あるものは、いつか壊れる。存在するものも、いつかなくなる」

   人類の一員として、自分が生きている世界が永遠に続くことを強く望むのであるが、そうはいくまい。その日がいつになるかは分からないが、終わりは必ず来るのである。

 

・ 死                       

「人類の終わりを待たなくても、この世はすぐに終わる」

   こんなことを公言すれば、大抵の人が自分の耳を疑うはずである。

「この世がすぐに終わるだと。一体、何を根拠に言っているのだ」

と、怒り出す人もいるに違いない。さらに、

「私が死ぬと、この世も終わるのである」

と言えば、嘲笑されて、次のようなことを言われそうである。

「お前が亡くなっても周りの人々は生きているし、この世はなくならない。人類の歴史は、間違いなく続いて行く」

   確かにその通りである。私が死んでも、肉親や親類、友人や知人、さらに世界中のたくさんの赤の他人が生きているだろうし、世の中が終わることはない。

   ところが、私にとってはどうか。

  今、私は、自分の脳によって何かを意識している。「目に見えるもの」「耳に聞こえるもの」「鼻で嗅げるもの」「舌で味わえるもの」「手でさわれるもの」など、すべてを自分の脳によって認識している。

  自分が死ねば、その瞬間に脳のシャッターが降り、それらができなくなる。当然、周りの景色も人の声も、見たり聞いたりできなくなるのである。

   それだけではない。この世に宇宙という無限の空間があったこと、地球に人類がいたこと、その歴史があったこと、祖先がいたこと、家族がいたこと、友だちがいたこと、自分がいたという事実さえも頭の中から消えてしまうのである。

  つまり、これまで見聞きし経験したことのすべてが、全く認識できない状態になってしまうのである。

   また、将来、どんなに素晴らしい世の中になっていようと、どんなに酷い世の中になっていようと、さらには人類が滅亡し宇宙が消滅しようと、自分にとっては関わりのないこととなる。

   死が訪れた時、すべての機能が停止して何も認識できない「無」の世界に入る。意識の「有」から「永遠の無」へと変わるのであり、その状態は、まるで思考を持たない道端の石ころの様である。

  そういうことから、「この世との別れ」は、私にとっては「この世の終わり」と言っても許されるのではないだろうか。

  もちろん、それは私だけのことではなく、地球上のすべての人に当てはまり、例外はないのである。

 

・ 自意識

   映画館にいる観衆が、一つの場面を同じように感動する。それでも、実際に感動しているのは自分自身である。他人が自分と同じ様に感動していても、脳の働きは別々なのである。

  たとえば、誰かの手に刺がささったとしよう。痛いと感じるのはその人自身であって、自分ではない。その痛みを推測できても、実際にそれを感じることはない。

  反対に自分が腹痛で唸っても、他人がその苦痛を感じることはない。苦痛だけではなく、笑うことも、悲しむことも、何かに興奮することも、喜怒哀楽のすべてのことにおいて感じているのは、自分自身であり、決して他人ではない。

 

・ 個

   自分が位置する空間に、他人が同時に位置することはない。他人と同化したり、他人と入れ代わったりすることも絶対ない。自分と他人とは、全く別個の存在であるということである。

   ここに、姿、形が瓜二つの双子がいるとしよう。この双子は、彼らをよく知る友だちでさえ、頻繁に間違えるほど似ているのだが、それでも二人は、同じ意思を共有することはない。

   彼らがどんなに似ていようとどんなに行動がいっしょであろうと、やはり別々の存在であり「個」なのである。一方が発熱して苦しんだといって、もう一方も同時に発熱して苦しむということは絶対にありえない。

 

・ 疑惑                 

「家族も友人も他人も、自分のためにグルになって演技をしているのではないか」

という疑惑を持つときがある。

   なぜだか分からないが、自分の周りに存在するものすべてが、シミュレーションのように感じるのである。

   子どもの頃に観た外国のテレビドラマに、こういうのがあった。

   主人公は、舞台俳優である。彼は、主役を務める程の実力者であったが、ある舞台で失敗して自信をなくす。舞台を続けられなくなり、代役が務めることになる。

  それ以降、何事にも消極的になり、家に閉じこもりがちになる。さらには、舞台で失敗する夢を夜毎見るようになり、うなされる彼を見て、妻はとても心配する。

   ある日、友人から「明日、新しい舞台の稽古があるから絶対に来るように」と強く勧められる。妻の後押しもあって、消極的ではあるがそれを承諾する。

  次の日に行ってみると、舞台の幕が下りていた。客席の方から、たくさんの声がする。舞台の袖からは、前とまったく同じセットが見えた。

「今日は、新しい舞台の稽古じゃなかったのか?」

と,、周りの役者に言うと、

「何をグズグズしているんだ。早く支度しろよ。舞台を潰す気か!」

と怒鳴られ、否応なく楽屋に連れて行かれる。スタッフによって衣装と化粧をつけられている最中、役者仲間からこのように言われる。

「今日は、初日だ。しっかり演技しろよ」

「初日?」

彼は耳を疑った。

「初日はもう終わったよ・・。俺がトチって大失敗だった」

「寝ぼけたことを言うんじゃない!今日は十月一日、初日だよ!」

と言われ、さらに驚く。

「まさかお前たち、俺を担いでいるんじゃ・・」

「つべこべ言わずに、早く舞台に行け」 

  狐につままれた気分で、とにかく舞台に出ることにした。しばらくして、開演のブザーがなる。

  舞台では、前と同じ俳優たちが同じ衣装を着て同じ演技をしている。途中まで順調に進み、問題のシーンにだんだん近づいてきた。

「前はここで台詞を飛ばして失敗したんだ。同じ間違いは、二度としたくない」

その強い気持ちによって、このシーンをなんとかクリアする。そして、舞台は終わる。

  成功である。観客も、主役に惜しみない拍手を贈る。幕が下り、ふと我に返る。

「今日は一体、何日だ?」

「初日の十月一日に決まっているだろう。お前、何馬鹿なことを言ってるんだ」

  誰に聞いても同じで、日めくりカレンダーも十月一日になっていた。訳が分からないまま、楽屋に戻る。そして、こう思うようになる。

「ひょっとして、失敗した舞台は、夢の中のことだったのかも知れない。きっとそうに違いない」と自分に言い聞かせて、家に帰る。

  帰りを待っていた妻が、彼にこう言う。

「今日の舞台、最高だったわ」

妻も見に来ていたのだ。おもむろに彼は聞く。

「今日は何月何日だ?」

「何言っているの?十月一日に決まっているじゃない」

「そうだよな・・」

   舞台での疲れもあって、すぐに寝室のベッドに横たわる。高ぶる気持ちでなかなか寝付けないので、近くにあるラジオを着けた。すると、

「今日は十月三十一日、ハロゥインです」

という声が流れた。

「あっ、やっぱり、初日じゃなかったんだ。舞台で失敗したのは夢ではなく、現実だったんだ」

そう呟く彼ではあったが、その顔は自信に溢れていて、それまでの虚ろな目ではなかった。

「フフ、みんな手の込んだことを・・」

と、苦笑いをする。そして、友人たちや素知らぬ顔をしている妻に心から感謝するのであった。 

   このドラマでは、主人公が自信を取り戻すために、友人や妻がグルになって嘘をつく。最後にはバレてしまうが、徹底した嘘によって、主人公はそれを信じてしまうのである。

  この話と同様に、「自分が生きているこの世界は、本物なのか。実際は、誰かに騙されているのではないか。映画『マトリックス』のように、脳に信号を送られてそれが現実であると思わされている幻覚ではないだろうか」と思うのである。

  いや、幻覚でなくても、周りにいる家族や友人みんなが、本心を言っているかどうかは非常に疑わしい。発する言葉や行動だけでは信用できないのであり、その人の頭脳に入り込まない限り、本心はつかめないのである。

「ひょっとして、貴方は私に嘘をつき、演技をしているのではないですか?」

と、誰かに言えば、

「何のためにそんなことをしなくちゃいけないのか?」     

と、言い返されるに違いない。さらには、「頭がおかしい人」と思われて、精神病院に送り込まれるかも知れない。

   目の前で展開している事象に、常に疑惑を持っている人などいない。そんな人は、物事を前に進められず、円滑に生きていくことができなくなるからである。

   そうであっても、事象のすべてが真実であるとは断言できないのであり、周りがグルになって騙しているという疑念が、時として私には生じてしまう。

  疑惑が残る中、それを確かめることもできず、最後は「本当に信じられるのは、自分自身だけである」と疑心暗鬼になる訳である。

  これはおそらく、私だけではないように思う。世界中にはこのような思いを持った人が、少なからずいるはずである。

   実際には、そんな馬鹿げたことはないのであるが、それを確かめる術がないのも事実である。

 

・ 「我思う、故に我在り」

   この世には、いろんな人が生きている。それぞれが、それぞれの思いを持って生きていて、その行動おいては自分を中心にせざるを得ない。

  何故なら、精神と肉体は切り離せないのであり、どこへ行こうと、自分の精神がある所には必ず自分の肉体があるからである。

   自分を中心に考えたとき、今、自分が生きているこの時が、この世の最先端になるのだろう。もし、死ねば、時間は止まらずに過ぎ行くのであるから、自分が生きていた期間は、過去のものとなってしまう。自分の存在が、リアルタイムではなくなるのである。

   まさに、「生きているうちが花なのよ、死んだらそれまでよ」なのである。生きていりゃこそ、すべてができるのであり、喜ぶこと、怒ること、笑うこと、泣くこと、しゃべること、黙ること、眠ること、空腹を満たすこと、これらはすべて、死んでいる自分ではなく、生きている自分の思いに関わっているのである。   

 

・ 人生の主人公

   自分というものを考えたとき、何故、「自分」であるのかという疑問が起こる。

   太古の昔から今までに、たくさんの人が生きてきた。獣を追いかける原人、重い税に苦しむ市民、戦い続ける騎士など、世界中に様々な人たちが存在したのである。

   もちろん、男に限らず女性もいるのであり、トータルするとその数は計り知れないものとなる。

   非常にたくさんの人がいた中で、何故、自分なのか。何故、自分に「自我」の意識があるのだろうか。どのような理由で自分が選ばれたのか。これを書きながら、ふと思った。

   この日本ではなく、極寒地方に住む猟師や熱帯地方の農家の主婦であってもおかしくはないのである。それなのに、私自身が選ばれたのは何故なのか。非常に不思議なことと感じる。

   しかしながら、その理由を答えられる人は誰もないのであり、ただ単に「偶然の結果」であると納得するしかない。

   私は、常に私自身によって何かを意識している。決して、他人の意識ではない。つまり、「自分は自分」であり、「他人は他人」なのである。

   誰も他人の意識を引き継ぐことはできないのであり、生まれてから死ぬまでの生涯というのは、その人だけのものになる。まさに「人生は一度きりである」ということである。

   そういう意味では、それぞれが「人生」の主人公になっていると言える。現実の社会では端役であっても、「時間と空間」という舞台の中では、自分以外の人々は全員脇役なのであり、それはまるで映画のようでもある。

   長編、短編、喜劇、悲劇の違いこそあれ、その人の寿命が尽きたとき、カットがかかる。そして、映画も終わる。「ジ・エンド」になるのである。

続編はないのであり、後に続くものは真っ暗な「無」のみである。

 

   既に他の章で述べているテーマではあるが、更にそれを掘り下げてみることにした。文脈上、重複する部分があることに、お許しを願いたい。

 

一  二つの疑問
「なぜ、この私なのか」
「なぜ、この時代なのか」

二  理由
  私がこの時代に生まれてきたのは、何か理由があってのことだろうか。

  地球上に人類の祖先が出現してから今日に至るまでに、二十万年もの年月を経たようである。なんとも計り知れない長さであるが、その間、人類は、『生まれては死に、死んでは生まれる』ということを際限なく繰り返してきた。その延べ人数は、かなりの数になると思われる。
  まるで満天の星のようであるが、その数多の中から、なぜ私というものが選ばれたのか、その理由を知りたいのである。
 愛想の良いお隣のご亭主でもなく、犬を連れて散歩するご婦人でもない。また、テレビに頻繁に出ているお笑い芸人でもなく、声高に演説をする米国の大統領でもない。
  更には、野兎を追いかけ回す石器時代の幼子でもなく、合戦に向かう戦国時代の足軽でもなかった。
   結局、選ばれたのは、この時代のこの私なのである。

三  偉人
  歴史の教科書などで取り上げられている人物は、大抵が人類に貢献した偉人になる。悪名高い独裁者とは異なり、発明、開発、創造、変革など様々な分野でその能力を発揮したのであり、多くの人々から支持されている。
   ともすれば、そのことがその人たちのこの世に生まれてきた理由であると思われるかも知れないが、そうではない。
   なぜなら、『何かを成し遂げた。何々になった』というのは後々のことであり、誕生する前から既に決まっていた訳ではないからである。
  偉人であろうとなかろうと、また、善人であろうと悪人であろうと、生まれた時はただの赤ん坊であり、何者でもないのである。
   もうお分かりだと思うが、私の問いかけが意味するのは、『なぜ、私としてこの世に生を受けたのか』であり、『すべての人が、どのような理由があってその人として生まれて来たのか』と、いうことである。

四  もう一つの疑問
  私が中学生の頃だった。気さくで明るかった叔父が、何かの病気で突然亡くなってしまった。
  その葬儀が行われた時、棺の窓越しから中を覗いてみたのだが、彼は目を閉じたまま生気のない顔で横たわっていた。その有様を見て、『叔父の人生が、これで終わってしまったのだなぁ』と、しみじみ思った。
   それと同時に、『もし自分が死ねば、その先はどうなるのか』という疑問も抱いたのである。
   もし私が死んだら、その後はどうなるのか。まったく未知のことであり、それを思うと何か得も知れぬ恐怖心を覚える。
   亡くなった叔父のように、息をすることも、しゃべることも、考えることも、動くこともできなくなるのは想像できる。まったく意識がないのだから、きっと闇の世界に入り込むのに違いない。
   しかし、それで終わりなのか。ひょっとすると、あの世というのがあって、その世界に行くのではないか。夜中にその事を考えて、なかなか寝付けなかったこともある。
  この疑問は、誰に尋ねても明確な答えが返って来ない難問である。それに、そんなことを尋ねれば、「突然、何を言い出すのか」と、冷ややかな目で見られるのは明らかであり、気が引けてしまう。                            
  結局のところ、自分の凡庸な頭であれこれと考えるしかなく、真理を得るのは容易なことではないと切に感じた。

五  死後の世界
   すべての生き物には、寿命がある。遅かれ早かれ、命の終着点には必ず到達する。いつかはこの私にもその時が来るのであり、避けることはできない。
   実際、人が死ぬと、どこかへ行くのだろうか。死後の世界というものがあって、そこへ行くのだろうか。
   ある寺の住職が、『現世の行いで、極楽浄土に行くか地獄に行くかが決まる』と言っていた。良いことをすれば天国で、悪いことをすれば地獄なのである。
  しかしながら、それは宗教的な戒めであって、そんな世界があるのかどうかは定かでない。これまでに、そのような体験をして現世に戻ってきた人などいないのであり、非常に疑わしいのである。

六  輪廻転生
『人は死んでも、生まれ変わって再びこの世に出て来る』
  かなり前に、「輪廻転生」に関する文献を目にしたことがある。その真意はともかく、それ自体、あまり意味がないように思う。
   なぜなら、たとえ新しく生まれ変わったとしても、命をリセットしただけであり、意識が異なるまったく違う存在になるからである。
  世の中に『私の前世はこうであって、その記憶を引き継いでいる』と言う人などいない。もしいるとしたら、その人はペテン師である。
  大体、生まれてすぐに大人のような記憶と意識を持つ赤ん坊などいる筈がない。また、成長してから前世の記憶が蘇ったという人も聞いたことがない。

七  幽体離脱
  肉体が死んでも、意識は残るのか。
  肉体と意識の分離の根拠になっているのが、幽体離脱の体験談である。一度死んだ後、何らかの理由で生き返るが、その際、体から出た意識が、横たわる自分の体を眺めたというのである。
  本当だろうか。そのような夢を見て、それを現実のことと勘違いしたのではないのか。
   もし、それが事実なら、今までに亡くなった人の意識が巷にあふれて、あちこちでひしめくことになる。

八  幽霊
   人の意識というのは、それ自体を手で掴むことも目で見ることもできない。計測器で表示できるのは、生きている肉体を媒介としている時だけである。
  だから、意識そのものが大気中に浮遊していたとしても、その存在の有無は誰にも認知できないのである。
   ちなみに、幽霊というのも意識と同様に手では掴めないものである。ところが、実体がないのにも関わらず立派な姿があり、目撃者もいる。私は未だ嘗てそれを見たことはないが、見える人には見えるらしい。
  しかし、なぜ姿があるのだろうか。裸であるならまだしも、衣服などを身につけているのは納得がいかない。衣服は、体の一部分ではないのだから。

九  リアルタイム 
   人生の長さは、皆同じではない。生まれてすぐに亡くなる人、百歳まで生きる人など様々である。
  その内容もそれぞれに異なるが、誰にも共通することがある。それは、生まれる前や死んだ後では、意識を持てないことである。
  生まれる前は、自分というものがまだ存在していないのであり、意識することは不可能である。自分が存在していなかった過去については、他人から聞いたり記録された映像を観たりして知ることはできるが、リアルタイムにその時間と空間の中で生きていた訳ではない。
  死後についても同様であり、自分が存在しない未来の中で自分の意識を持つことは出来ないのである。
   つまり、人が意識を持てるのは、生きている期間だけなのである。

十  意識
  この世には、人口と同じ数の意識が存在する。それぞれが独立して異なり、共有することはない。
  人は、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の口で言葉を発して、自分の手で何かを持ち、自分の足で歩いて、自分の頭脳で考えて、自分の体で行動する。
   そこには、常に自分の意識が関わっているのであり、他人の意識が自分の行動に作用することはない。たとえ他人に言われて何かをすることがあっても、その判断を下したのは自分の脳であり、自分の意志である。
  例えば、今、誰かが腹痛で唸っているとしよう。私は、その痛みの推測はできても、同じように感じることはない。あくまでも、その人だけが感じるのであり、その感覚が私や周りの者に伝染することは絶対ない。
  つまり、意識というのはその人だけのものであって、もし、その人が亡くなれば、その人の意識も消滅するのであり、その人限りなのである。
  これは所謂、「自我」に繋がるように思われるが、そういう意味からして、自分と意識とは、切っても切り離すことができないものと言える。

十一  唯心論
  私が敬愛する作家が次のように述べられた。
「この世界に生命がなく、無機質な物質だけであるなら、それは「無」と同じである。世 界を有しめているのは、その存在を認識する我々生命体だけなのである」
  物質の認識というのは、命のあるものが存在することによって初めてなし得ることである。生命のない岩石が、周りにある他の物質を認識することはない。
  生物が全くいない無機質で構成された物質だけの世界であるなら、その物質がどのように変化しようと消滅しようとも、何の影響も関係もない。
   しかし、意識を持った生物が一つでも存在すれば、環境の変化は、その生物に何らかの影響をもたらすことになる。
   つまり、意識こそがすべての存在の根源であり、「意識のない存在」というのはあり得ないということである。

十二  虚無の世界
『死』、それはこの世との決別であり、『脳の機能が遮断された意識のない世界』に入ることになる。
  言い換えるなら、まさに『虚無の世界』であり、自分自身や自分の家族、友人、知人、他人、有名人などの存在はもちろん、この世があったことさえ脳裏から消えてしまうのである。 

十三  この世の終わり
  夢であるなら、覚めた時に現実に戻れるが、死に至ると永遠に戻れなくなる。それはまるで、『この世の終わり』が来たようである。
   もちろん、自分が死んでもこの世は続く筈である。今までに数え切れない程の人が亡くなっているにも関わらず、現世が続いているのだからそうに違いない。
   それでも、自分にとってはどうだろうか。この世に生まれて死ぬまでの間に、喜んだり、悲しんだり、感激したり、落胆したりしたのは、すべて自分自身なのであり、決して他人ではない。それができなくなるということは、『この世の終わり』が来たも同然である。
   結局、人にとっての『この世』とは、その人が生きていた間のことであって、命が尽きればそこで終わってしまうものなのである。

十四  発想の転換
  三つ目の疑問は、なんとか答えが出せた。それでも、最初の二つの疑問がまだ解けていない。まるで雲を掴むようなテーマであり、悪戦苦闘の連続になった。
  仕方がないので哲学書などを紐解くが、難解な言葉の言い回しが多くてほとんど理解できなかった。無駄に時間を費やしただけの徒労に終わったのである。
  只、唯一手がかりになると思えたのは、仏の哲学者であるデカルトの『我思う、故に我あり』という有名な言葉である。
  この言葉の意味は、『私が存在するという根拠は、その理由を私自身が考えていることである』と言うことらしい。まるで禅問答のような意味ではあるが、「なるほど、そうかも知れない」と、共感したのである。                                
  それからは、手に負えない書物に頼らず、自分で考えることにした。何とか答えを出そうと、めげずに考え続けた。しかし、その努力も虚しく、分からないまま時が過ぎて行った。
   もう半ば諦めかけていた頃である。ふと頭に閃いた。『元々、理由なんかないのじゃないか』と。
   まるで居直りのような結論であるが、ようやくその事に気付き始めた。そして、それを検証した末に、確信を持つことができたのである。

十五  摂理
   宇宙には摂理というものがあるようである。それは、法則と言い換えてもよい。この世の森羅万象は、その法則に従って展開しているのであり、どのように展開するのかは、誰にも分からない。
『それを知るのは、神のみである』と敬虔な宗教家が言いそうであるが、もしそうであるなら、人が理解することは永遠にできないことになる。実際に神が存在していて、我々に教えてくれるなら、話は別であるが。
  我々人類は、科学を発展させて宇宙の謎を解き明かそうとして来た。しかしながら、完全に把握できるまでに、もう人類は滅亡しているのかも知れない。
  そんな不確かな先のことではなく、今の時点において「宇宙の摂理」をどのように捉えるかが問題なのである。

十六  ビッグ・バン
  この宇宙は、百四十億年前に起こったビッグ・バンによって出来たとされる。銀河系の誕生は百二十九億年前、地球の誕生は四十六億年前になるようである。
  その後、地球上に生命の起源になるものが形成され、様々な生物が誕生する。人はその中から進化したものであるが、人類だけが文明を持つことが出来た。

十七  物質
   地球には、有機質、無機質とも多種多様の物質が存在するが、元は同じ物とされる。
『物質を細かく分解すると元素になり、元素は電子と原子核からなる。原子核は陽子と中 性子で構成され、陽子と中性子はクォークという物質からできている。そのクォークも 更に小さなものからできている』
と、考えられている。
  実際、目の前にある花は、花という実体があるのではなく、様々な元素の構成によって花という形に見えているだけである。
  すべての物質は、最終的には「波動」というものになる。そして、それは目に見えないエネルギーと言い換えられるようである。

十八  エネルギー
「人も花も岩石も一つの同じエネルギーから発生したのである。故に宇宙に存在する万物 は、宇宙という生命体の一部と言える」
  ある科学者の学説であるが、彼は、『起こりうるすべての事象は宇宙という生命の活動であり、すべての物が同じエネルギーから出来た』と主張する。
  このような論理からすると、人が死んだ場合もその肉体が消えて無くなるのではなく、最後はエネルギーに姿を変えて宇宙に残ることになる。そのエネルギーは、いつしか目に見える物体として出現するのである。

十九  結果
  すべての事象は、宇宙の活動の結果に過ぎないのであり、その結果を人が認識しているだけである。
  では、その活動というのは、何かの意志によるものなのか。宇宙という一つの生命体の意志によるものなのか。
   もしそうなら、宇宙が人類の動向を決めたことになる。地球上に起こった悲惨な戦争や無意味で悲しむべき惨劇を企てたことになってしまう。そんな事は、到底認められるものではない。
  地球の歴史は、宇宙という生命体が意図的に造り上げたものではなく、我々には制御出来ないエネルギーの流動性によって生じた結果である。
  遥か昔に銀河系ができ、太陽系ができ、地球ができ、更に地球上に我々人類が現れた。それはすべて、宇宙のエネルギーの一部分が変化した結果であり、誰の意志でもないのである。

二十  ルーレット
  カジノなどで行われているルーレットというゲームをご存じだろうか。
   回転させた円盤に、ディーラーと呼ばれる人が球を投げ入れる。その球が、三十七に区分されたポケットのどこかに落ちるのであるが、それを事前に客が予想するのである。
   円盤にあるポケットには、それぞれ数字が書かれている。その並びは、1、2、3のような順番ではなく、イレギュラーになっている。
  球がどのポケットに落ちるかは、円盤の回転速度、ディーラーが投げ入れるタイミングと力具合、室内の気温、湿度などによって変わるのであり、簡単に当てられるものではない。三十七分の一の確立とは言え、かなりの偶然性が影響する。
  仮に、区分が十しかないルーレットの円盤があるとしよう。実際に球を転がしてみると、一回目は3で、二回目が7、三回目が2、四回目が5に止まった。その数字の順番は、3、7、2、5になる。
  更に続けて六回転がしたら、6、5、10、1、8、4に止まった。十回の数字の並びは、3、7、2、5、6、5、10、1、8、4になる。
  そこでもう一度、玉を十回転がして同じ数列を出したとすれば、それは奇跡と呼べる。十の十乗分の一、つまり百億分の一であって、起こり得ない確率である。
  しかしながら、最初の数列はそうではない。決められた数字を出したのではなく、なるべくしてなった数列なのである。それは、偶然が作用した必然的な結果と言える。

二十一  偶然と必然                    
  人の誕生も、それと同じではないだろうか。
  二十万年という時間の中での偶然と偶然の重なり。いや、地球上に生命が誕生する前、更には、宇宙ができた時から、無量大数を越えた様々な偶然が続いていたのであり、その偶然によって生まれて来たのが私なのである。
   もし、父親と母親が出会わなかったら私は生まれて来なかったし、更には、父親の精子と母親の卵子との結合が一日ずれていたら、私とは異なる誰かが生まれていたのかも知れない。
  そんな可能性がありながら、実際に生まれて来たのはこの私だったのである。それは、様々な偶然性がもたらした必然的な結果と言えよう。

二十二  原因
  紆余曲折であったが、ようやく目的地にたどり着けたようである。
  結局、私を含めたすべての人の誕生は、「理由があって」ではなく、「原因があって」ということになる。
  その原因は、計り知れない時間の中での宇宙という生命体の活動に伴うエネルギーの流動性によるものであった。
   しかし、何かモヤモヤとしていてすっきりしない。このような結論を出せたにも関わらず、もう一つ釈然としないのである。よくよく考えてみると、一番目の疑問がまだ解決できていなかったのである。
  それは、「今昔、数多いる人の中で、自分という意識を持つことが出来たのが、なぜ私だったのか」ということである。  
  人類が誕生してから今までの人の累計は、およそ千八十億人とされている。二十万年という途轍もなく長い期間に生きていた人の総数である。
   その中で、「自分という意識」を持つことが出来たのは、この時代のこの私だったのである。
  もちろん私だけでなく、すべての人が「自分という意識」を持っているに違いないと推測はできる。
  それでも、現実に笑ったり、喜んだり、驚いたり、感心したり、泣いたり、悲しんだり、落ち込んだり、悔しんだのは、誰でもないこの私自身なのである。
  なぜ、お隣のご亭主でも、石器時代の幼子でもなかったのか。更に、両親が同じである妹や弟でもなかったのは何故なのか。『ひょっとして、私は特別な存在なのか』という思いが湧いてくる。

二十三  「私の意識」
  十四の章で、『自分の意識だけでなく、他人の意識まで持つのは不可能である』と述べた。つまり、一つの生命には一つの意識だけが存在するのである。
  では、これまでの千八十億個あった「意識」の中から、「私という意識」が選ばれたのはどういう訳なのか。
  一にも二にも、この疑問の答えが一番知りたかったことであり、私にとっては重要なテーマになる。
  卓越した思想家なら容易に糸口を見つけられるのだろうが、只の凡人ではそうはいかない。それでも、手がかりを探して自分なりに考えてみた。そしてその結果、次のように至った。
   やはり、偶然性が作用したのである。結局のところ、ルーレットと同じである。
   但し、そのルーレットの円盤のポケットの数は、三十七個ではない。人口の累計と同じ千八十億個、いや、これからも増え続けるのであるから、人類が滅亡するまでの累計ということになる。
  その途轍もなく膨大な数の中に「私の意識」というポケットがあって、球がそこに落ちたのである。
  これが最終の結論である。一応、答えらしい言い回しにはなっているが、真に納得できるものではない。本音を言えば、少し不本意である。
  それによくよく考えてみれば、意識を持つすべての生物にその可能性があって、人になるとは限らないのである。地面を這っている蟻になることも充分考えられる。
  種々雑多な生物の累計となると、まさに無限の数であって、それこそ荒唐無稽な結論と笑われそうである。
  しかしながら、私にとってはこれが限界であり、疑心暗鬼ながらもそうとしか言えないのである。

二十四  主人公
 それにしても、『人生とは、非常に短いものである』と、改めて思った。
  仮に私の寿命が八十年であるとして、それを二十万年という長さと比べてみると、なんと微々たるものなのか。「人生は夢幻の如く」とは、よく言ったものだ。
  それでも、私にとってはかけがえのない人生である。私という意識によって、この世の存在を知ることが出来た大切な期間なのである。
  たとえ「あっ」という間の長さであっても、確かに私はこの世に存在したのであり、それが夢幻の如くであっても、決して夢幻ではない。この宇宙の中で、この地球の上で意識を持って生きていたことは、紛れもない事実である。
  生まれてからの数年間は、腹が減るから食べ、眠くなるから寝るといったように、只単に生きていただけである。そこに、自分という意識はまったくない。
  成長するにつれて、自分は自分であり、他人でないことに気付く。それからというものは、常に自分を意識し、自己主張を繰り返す。
   もし、人生というものが物語であるならば、主人公は自分自身ということになる。たとえ、どんなに醜くとも、どんなに貧しくとも、どんなに弱くとも、どんなに落ちぶれていようとも、どんなに悪くとも、脇役ではなく主人公なのである。
   そして、その主人公が死んでしまえば、その物語はそれで終わりになる。まだ生きている人たちの物語は、それぞれが主人公として続いていくが、その物語もいつかは終わりが来る。  

二十五  この時代
  この時代を振り返ってみると、戦争、抑圧、差別、犯罪、自然災害など、様々な悲劇があった。それはまだまだ続くようであり、予断を許さない状況にある。
  それ故に、「救いがない時代」と酷評されているが、それでも、この時代に生まれて来て良かったと思う。
  なぜなら、この時代でしか得られない感動が、たくさんあったからである。
  そのことが如実に感じられるのは、音楽、映画、スポーツ、書物、絵画、食品の面においてである。特に最初の三つは、感動だけでなく生き甲斐も与えてくれたように思う。
   もし、石器時代にでも生まれていたら、糧の心配ばかりで、そのようなことはなかったのである。                                 
  誰もが口ずさむ名曲、今尚色褪せない名場面、ハラハラドキドキの試合、心に深く刻み込んだ作品、眼を釘付けにする名画、舌を唸らす絶品、それらすべてが、全く持って素晴らしいのである。
                                       
二十六  出会い
  この時代で良かったと思う理由が、もう一つある。それは人との出会いである。
  今までの出会いの中で、「もし、この人と出会わなければ、私はどうなっていただろう」と思わせる人が二名いる。
  一人は、お隣に住んでいた二つ年上の幼友達である。小学生の頃は、その人とよく遊んだ。優しい兄のような人で、チャンバラ、将棋、トランプなどの相手をしてくれた。
  野山で秘密基地を造ったり、昆虫などを採ったりもした。冬にはアイススケート場、夏にはプールと、私一人では心許ない所にも連れてくれた。正月では決まって映画館に行って、いっしょに心を躍らせたものである。私が洋楽に興味を持つきっかけになった人でもある。     
   そして、もう一人は、私が高校生の時に学習のサポートをしてくれた先輩である。学習能力がそれ程でもない私に、嫌な顔一つすることなく丁寧に教えてくれた。
   まだ就職先が決まっていない時にも、親身になって助言をしてくれたのであり、まるで救世主のような人であった。
  この他にも、私が岐路に立った時に良い方向に導いてくれた人たちがいて、その出会いは本当に幸運なことだったと思う。感謝の気持ちと共に良い思い出として、心のアルバムの中にしっかりと残していきたい。                      
  もちろん、良い思い出だけでなく嫌な思い出もある。それらは、なるべく思い出さないようにしている。憤りが蘇るのは、血圧が上がって体には好ましくないので。
  人は、それぞれに煩悩を持っている。だから、時には衝突も起こる。血気盛んな頃には、それが原因で喧嘩になることも結構あった。
  この年に至るまでに、他人の理不尽な行動で怒ったり恨んだりもしたが、それらのすべてが自分を成長させるための試練だったと今は捉えている。

二十七  幸福感
  この半世紀の間に、世の中の様子は目まぐるしく変わった。自分の成長と共に、劇的な発展を遂げた。SF小説に出て来るような空想未来図が、現実の物となったのである。
   私が死んだ後も、科学が更に進歩して、今以上に便利で豊かな世の中になっていることだろう。
  だからといって、それがすべての人に幸福をもたらすとは限らない。便利になっても物質的に豊になっても、逆にそれが不幸へと導くことだってある。
   また、何もなかった時代であっても、糧を得て一日を無事に過ごすだけで喜びを感じていた人もたくさんいた筈である。たとえ伝達手段や移動手段がなくとも、それが当たり前であって、何の不便も感じていなかったに違いない。
  文明の利器に頼ることもなく、自然と触れ合い自給自足の生活をしていた人たち。日々を純粋に生きるだけであって、それはそれで、案外幸せであったのかも知れない。
  人にとっての幸不幸は、物質や便利さでは決まらないということである。

二十八 
『好事魔多し』という諺がある。良いことがあったからといって有頂天になってはいけないという意味である。
  しかし、人は何かと浮かれて調子に乗る生き物である。度を超して足下を掬われ、痛い目に遭うことも結構ある。どんなに悔やんでも嘆いても過去には戻れないのであり、失敗は失敗として、そこから学ぶしかない。
  人生は、山有り谷ありである。良いことばかりではなく、悪いことも必ず起こる。だからこそ、緊張感があって面白いのである。
  それに、良いことばかりでは、それが当たり前になって有り難みがなくなる。苦難に遭遇して、それを乗り越えた時こそ至福感が増すのだと思う。
   これから先、残り少ない人生の中で、どのような出会いがあるのだろうか。期待が半分で不安が半分である。
  また、試練や壁にぶち当たることがあるのかも知れない。この年では、それを跳ね返すだけの気力と体力は残っていないが、余計な心配はするまい。成るようにしか成らないのだから。
   なんだかんだといっても、一度限りの人生である。どのように臨終を迎えるかは分からないが、命が尽きるまでは精一杯生きて行きたい。悔いのない人生になることを心から願うばかりである。