『日本人の身体』(再読) | Wind Walker

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ネイティブアメリカンフルート奏者、Mark Akixaの日常と非日常

日本人の身体 (ちくま新書)

 

『日本人の身体』 安田登著 2014年

 

 

2月『あわいの力』を再読したらびっくりするほど中身を覚えていなかったので、同じ安田登さんの『日本人の身体』ももう一度読んでみました。

 

初めて読んだ時の感想はこちら

 

当時のブログを読むと「あはれ」の正体が溜め息であったことに感激していたことがわかりますけど、名著とは読むたびに新しい発見をもたらしてくれるもの。

 

今回読んでもっとも印象に残ったのは、「和」についてです。

 

日本的なものを「和風」と呼ぶように、「和」は日本人のアイデンティティーそのものともいえる概念だと思いますが、聖徳太子が十七条憲法に「和をもって尊しとなす」と書いた時に「和」ではなく「龢」という文字を使ったそうです。

 

「和」と「龢」はまったく別の字で、「和」は和平や講和のように戦争の終結を誓い合う儀式をあらわす文字でした。

 

「龢」は「調和」という意味のときに用いる文字で、中国の古代文字では以下のように表記されていました。

 

 

<甲骨文字>

 

<金文>

 

 

甲骨文字・金文ともに左側は竹を紐でまとめた形です。

 

実はこれはパンフルートや雅楽の笙のような楽器の形で、つまりさまざまな音程をもつ笛を同時に吹き、そこに調和を見出すという意味なのだそうです。

 

「和」が楽器を演奏することに由来していたというだけでも日本人として、そして音楽人として感激します。

 

パンフルートや笙は一人で演奏する楽器ですけれども、むしろ大人数がこころを一つにして合奏するときのほうが「龢」の状態に近いようにも思えますね。

 

 

そして孔子は『論語』の中で、「和して同ぜず」と説きました。

 

「同」とは皆が同じことをする、もっと言えば違う意見や行動は許さないという関係です。

 

もちろん合奏中に勝手な真似は許されないわけですが(笑)、大切なことは周りに合わせようとして自分の個性を失うのは誤りということです。

 

むしろ皆が自分の音色(個性)を追求することで美しいハーモニーを構築するのが調和だということ。

 

合奏をする際には「和して同ぜず」という言葉を是非思い出して欲しいですが、もちろんこれは音楽だけの話ではなく人生そのものの話でもあります。

 

 

本作は日本人が古来どのような身体感を持っていたかを探求する本ですけれども、興味深い話題が次々と繰り広げられるので「なるほど!」と膝を打つ箇所が随所にあります。

 

次回読んだら、また違う箇所で新鮮な感銘を受けることになるのでしょう。何年かしたらまた読んでみよう。