『隠された十字架』 | Wind Walker

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隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

『隠された十字架 法隆寺論 梅原猛著 1972年

 

 

私の誕生日でもある今月12日に梅原猛さんが93歳で逝去されたので、いつか読もうと思っていながらずっと読まずにいた本作をこの機に読んでみました。

 

昔から法隆寺は謎の多い寺として有名らしく、「中門に人が通るのに邪魔な柱が立っているのはなぜか」といった謎から、著者は当時としてはかなり大胆な推理によって「法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮める寺」という結論を提示します。

 

 

何年か前に梅原先生の『神々の流竄』を紹介した際にも「今まで読んだ中で一番面白いかもしれない推理小説。」と書きましたけど、本作も推理小説としてはこの上なく面白かったです!

 

「密室で人が殺されました。怪しい人物にもアリバイがあります。さあ、どうやって犯人は犯罪を行ったのでしょうか?」と言われても、「犯人は著者。動機は読者の興味を引くため」と読む前から脳内で名探偵ばりに解決してしまっていたので犯罪ミステリは何冊読んでもファンにはなれませんでしたが、実在するモノに潜む謎を提示され、それらが論理的に鮮やかに解決されるさまを見せられるのは、やはり興奮や快感を覚えてしまいます。

 

 

ただ『神々の流竄』で後に著者が自らの間違えを認めて説を撤回していたように、本作も今では著者の事実誤認によって間違った結論を出している点がいくつも指摘されています。

 

それもあってなかなか手を出せずにいたのですけど、もう一つの理由としては「聖徳太子は存在しなかった」という説をわりと面白く読んでしまったからなのです。聖徳太子がいなかったと仮定すると、本作の推理も成立しないのですよ。

 

 

聖徳太子が実在しようがしまいが、馬小屋で生まれたエピソードがキリストに似ていたり、亡くなるときに徳を慕って多くの人が駆けつけたりする様が釈迦に似ていたり、「日本書紀」における聖徳太子の描写が不自然なほど美化されていることは事実です。

 

「日本書紀」が藤原不比等によって藤原政権の正統性を訴えるために書かれたものであるとすると、聖徳太子は善、太子の子である山背大兄皇子を暗殺した蘇我入鹿は悪、ゆえにその入鹿を倒した我々は善、という論理で聖徳太子を美化する必要があったという著者の説明には納得。そして、本当は藤原一族も山背大兄皇子を倒した側にいたのに入鹿一人に汚名を被せた、という話もいかにもありそうで納得しました(笑)

 

 

先述した通り、この本に間違いも多いことは承知しているのですが、それでもなお「法隆寺は怨霊鎮魂の寺」という基本的な趣旨には強い説得力を感じましたし、こんなに読み応えのある本は久しぶりでした。

 

 

この本を読むにさいして、読者はたった一つのことを要求されるのである。それは、ものごとを常識ではなく、理性でもって判断することである。(p.3)

 

 

推理が当たっているとか外れているとかではなく、大胆な発想によって誰も気がつかなかったところに光を当てた功績を評価するべきだと思います。梅原猛さんは常識にとらわれないユニークな視点を持った、実に偉大な方でしたね。

 

この本を読むと実際に法隆寺を見に行きたくなることは間違いないので、奈良旅行の計画を立てつつ読むのがおすすめです(笑)

 

 

 

 

 

法隆寺は中門や金堂の二階の大きさが四間だったり、塔の高さが十六丈だったり、「四」の原理でできているとのことですが、「四」という数字が「死」に通じると飛鳥時代から言われていたことにびっくりですよ。

 

個人的な話になりますけど、昨年末にマンションの404号室に引越しをしたのです。

 

すごく良い物件に思えたのになぜか404号室だけ空いていたので、おそらく不吉な数字として忌避されていたのだと思われます。

 

ネイティブアメリカンの世界では「4」は聖なる数字なので、404という数字を見たときに私は逆に「ここしかない!」と思ってしまったのですけどね。