●武内宿禰

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 まず早速ですが、こちらをお読み下さいませ。

 awa-otoko様ブログ右矢印鮑と武内宿禰(海陽町浅川 大歳神社)

 相変わらず他人のふんどし相撲なんですが(´∀`)ハハハ

 

 あらためて少し記してみますと、徳島県南の地、海部郡海陽町浅川には、現在も神功皇后の凱旋の行事がそのまま残った「赫舟の行事」が伝承されています。

 

 ●浅川地区の赫舟

 

 赫舟とは、紀伊国一宮の丹生都比売神社の御由緒に、『播磨国風土記』を引用し、「神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来た」とあり、天皇自らが乗船する朱塗りの船のことを指します。

 これに乗り朝鮮半島へと渡海遠征したのが、いわゆる三韓征伐のお話です。

 

 「記紀」によれば、新羅を攻め降伏させると、百済・高句麗二国も相次いで倭の支配下になったとし、実際の戦闘が記されているのは新羅戦のみなので、新羅征伐と言う場合もあるようです。

 また、吉川弘文館の『国史大辞典』では、三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられています。 

 

 ●三韓征伐時の征服地

 

 倭国が新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書『三国史記』新羅本紀や高句麗における広開土王碑文などにも記されており、2011年には新羅が倭の朝貢国であったと記されている梁職貢図が新たに発見されています。

 

 この広開土王碑文には、「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたと記されて在り、書かれてある内容は耒卯年(391年)のことのようです。

 内容の解釈については日本と北朝鮮・韓国で大きく分かれますのでここでは割愛。

 

 碑文の引用される部分を一応載せておきますが、二文字がわからないだけで解釈が全く違ってくるんですネ

 

 

 「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」

 

 さて、この三韓征伐時に神功皇后に仕えていたのは忠臣と名高い武内宿禰であり、三韓征伐が実際のことであったと仮定すれば、赫舟による神事伝承地の痕跡などからも、四国黒潮ルートでの帰還となります。

 

 この赫舟神事の残る海陽町浅川の大年神社の伝承について、awa-otoko様ブログより引用させて頂きますと、

 

 「いつの頃であったのかわからないが、遥か昔に海上の旅で武内宿禰の船が船の底に穴が開いて転覆は免れないと覚悟を決めた折、途方もなく大きな鮑が現れて船底の穴に密着して水の浸入を防いでくれた。お蔭で武内宿禰は危ないところで生命を助かることができた。」

 

 …とあり、穴の開いた武内宿禰の船を鮑が塞いだことで助かった説話があります。

 

 海陽町浅川字イナ(浅川村大字大年)に鎮座する大歳神社(大年神社)。
 写真は、awa-otoko様ブログより拝借<(_ _)>
 
 ご祭神は、武内宿禰で、当地の産土神とし、上記伝承から、大年の人は昔から決して(あわび)を食べないといわれています。

 

 日下部 表米(くさかべ の うわよね/ひょうまい)は、飛鳥時代の人物。日下部宿禰あるいは表米宿禰、また孝徳天皇の後裔とする系図では表米親王とも記される。日下部氏の始祖とされる人物。官職は養父郡大領あるいは朝来郡大領。

 

 ●出自

 開化天皇の皇子である彦坐王を出自とする但馬国造家の一族とする。

 『続群書類従』所収の系図等一般に流布されている系図では、孝徳天皇の皇子・有間皇子の子または弟とするが、これは信頼できないとされる。

 また、日下部表米を孝徳天皇と結びつける説は、日下部氏が大化の改新前後に従来の但馬国造家であった但馬君氏に代わって国造の地位に就いたことを示していると考えられている。

 

 ●鮑の伝説

 兵庫県朝来市の赤淵神社には以下の伝説が伝わっている。

 大化3年(647年)但馬国に攻めよせた新羅の軍船を丹後国与佐郡白糸浜で迎え撃って勝利する。逃げる敵を海上で追撃した際、嵐に遭い船が沈没しそうになるが、海底から無数の鮑が浮き上がり、危機を救った。

 その後、表米は敵を隠岐国まで追い払う。凱旋途中に逆風が吹くが、再び無数の鮑が船を持ち上げ、さらに美しい船が現れ、その船の先導で丹後国与佐郡浦島港に入った。表米が大船に行くと誰もおらず、竜宮に住むといわれる大鮑が光っていた。

 表米は危機を逃れ勝利したことを海神の加護と悟り、鮑を丁寧に衣服で包んで鎧箱に納め、持ち帰り赤淵神社を建てて篤く祀った。

 以後、日下部氏の子孫は鮑を大事にし、決して食べないといわれる。(wikipedia 日下部 表米より抜粋)

 

 但馬國朝來郡 式内社 赤淵神社(あかぶちじんじゃ:兵庫県朝来市和田山町枚田上山2115)

 

 地図にしますと下矢印

 

 丹後の隣の但馬ですね。まぁ当たり前のことですが。

 

 

 

 

 

 ◆祭神 大海龍王神・赤渕足尼神・表米宿禰神

 

 社伝によると、継体天皇25辛亥年9月創建。

 日下部氏の奉祭する神社で、一説には、日下部氏の祖・表米宿禰命が外寇討伐のおり、沈没しかけた船を、大海龍王が、アワビの大群を用いて救ったといい、大海龍王神=赤淵明神と考えられている。
 また、一説には、表米宿禰命が外寇討伐のおり、大風が吹いて船舶が破壊された時、粟鹿神に祈ったところ、神験があり、これを祀ったとも云われ、赤淵明神を粟鹿神と同じ神とも考えられている。
 赤淵の名は、赤渕足尼命からとられたものと思われるが、赤渕足尼命は、表米宿禰命の祖。(玄松子の記憶 赤渕神社より抜粋)

 

 因みに、日下の発祥についての考察は右矢印古事記 序文より阿波へ

 

 但馬国一宮 粟鹿神社(あわがじんじゃ:兵庫県朝来市山東町粟鹿2152)

 

 ◆主祭神:彦火々出見命・日子坐王・阿米美佐利命(大国主の子)

 

 『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰では、

 「群書類従」の『日下部系図』には表米宿禰は孝徳天皇の子供、あるいは孫とされ、『赤渕神社縁起』にも孝徳天皇の皇子と記されています。ところが赤渕神社蔵の『多遅摩国造日下部宿禰家譜』では開化天皇の末裔とされています。

 具体的には、家譜冒頭に稚倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が記され、続いて日子座王 - 山代之大筒木真若王 - 迦禰米雷王 - 息長宿禰王 - 大多牟坂王とあり、その10代後に赤渕足尼が記されています。

 表米は孝徳天皇の皇子ではなく、開化天皇・日子座王・息長宿禰王・大多牟坂王、そして赤渕足尼らを先祖としています。

 

 …と上のwikipediaのところと同じような記載がありますね。

 ここの考え方が非常に難しいですが、実は同じことを指し示している可能性も否定できませんよ。

 

 さて、「大化3年(647年)但馬国に攻めよせた新羅の軍船」とあるように、実際に新羅軍が押し寄せてきたのかについてですが、当時の新羅の情勢について、

 

 唐・新羅の同盟(とう・しらぎのどうめい)は、660年に成立した唐と新羅との軍事協力としての同盟関係である。 また、韓国ブリタニカ百科事典では648年に成立した唐の新羅に対する援助約定と、その後の軍事協力を「羅唐同盟」と表記する 。

 642年、高句麗と百済の連合軍が新羅を攻撃し、新羅の西部と北部の領土を奪った。643年、新羅の善徳女王は唐に援軍を求めたが、唐から女王を廃し唐の帝室から新王を立てることを求められた。647年、親唐派の毗曇が善徳女王に対し反乱を起こしたが、鎮圧された。

 648年、善徳女王を継いだ真徳女王は、金春秋(後の武烈王)を唐の太宗に遣わし、援助の取付に成功した。新羅は、649年に唐の衣冠礼服の制度を取り入れ、650年に独自の年号を廃して唐の年号を用いて、唐の完全な属国となり、651年に官制も唐制に倣ったものに切り替えた。(wikipedia 唐・新羅の同盟より抜粋)

 

 …にもあるように、前後情勢を鑑みても、到底新羅が倭の但馬国に攻め寄せれるような状況ではないですよね。

 『日本書紀』によれば、我が国もまた、この後の天智2年8月(663年10月)には、白村江の戦いがあったと記します(´・ω・`)

 

 事の真偽はさて置いて、(置くんかい

 武内宿禰と日下部表米の話の内容で共通するキーワードは、「新羅」、船底に穴が開き船が沈むところを「鮑」が救ってくれた、これが「但馬」での話であるという訳です。

 

 応神天皇記に、

 「又昔、有新羅國主之子、名謂天之日矛、是人參渡來也。」

 「また昔、新羅の国王の子ありき。名は天之日矛といふ。この人参渡り来ぬ。」

 …とあり、続けますと、

 「一賤女晝寢、於是耀如虹、陰上。」

 「一の賎しき女、昼寝したりき。ここに日の耀き虹の如くその陰上(ほと)を指しき。」

 やはりここでも例の如く、日(ひ)が陰(ほと)を指(さ)しています。

 

 なんのこっちゃわからんという方は右矢印丹生都比売から考察 ③」だけでもご覧下さい。

 

 で、このホトから生まれたホト太郎ではなく、「故是女人、自其晝寢時、妊身、生赤玉。」何と女人は身籠り赤い玉を生みました。

 これを見ていた男は赤い玉を譲り受けましたが、結局のところ国主の子である天之日矛に貰われていきます。

 この赤い玉を床に置くとあらビックリ、美しい少女になり、天之日矛はこれを妻にしてしまいました。(浦島子と同じやないかー棒読

 

 ある日、天之日矛は思い上がって妻を罵ってしまい、少女は、

 「凡吾者、非應爲汝妻之女。將行吾祖之國。」

 「そもそも、私はあなたの妻になるような女ではありません。私の祖国に帰ります。」

 「卽竊乘小船、逃遁渡來、留于難波。」

 「小船に乗って逃げていき難波に辿り着きました。」

 

 この女神は難波の比売碁曽社に居る阿加流比売です。…とあります。

 

 確か「倭建命を穿って考察 ⑦」の阿(あ)と伊(い)は同意であるとの考察にて、

 阿多之小椅君=天村雲命は、日向国に居た時に阿俾良依姫命を后とし、丹波に居る時に伊加里姫命かりひめのみこと)を后としたとあります。

 恐らくこの赤い玉は、「丹」の暗喩と思われます。

 

 一応、丹波国は律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造の領域です。

 

 妻が逃げたと聞いた天之日矛は直ぐに追い渡って来ましたが、

 「將到難波之間、其渡之神、塞以不入。故更還泊多遲摩國

 「難波に到着するという時に、海の神が遮って入れませんでした。 そこで一旦引き返し、但馬国へと到着しました。」

 

 う~ん、おかしいですね。

 新羅から倭に到着してから一体どこで生活をしていたのかはここではわかりませんが、阿加流比売が祖国に帰るのに難波まで小舟で移動しています。(難波から新羅に戻れたということかも)

 天之日矛も船を使って追い掛けたまではいいのですが、海の神が遮って難波に辿り着けず、多遲摩國まで引き返したとあります。

 

 ●通説での説明(※多遲摩國は但馬国とする)

 

 海路ですからこの地図のル-トで間違いないはず(ノ∀`)歩いて行った方が早くね?

 

 そしてその地に留まって、(留まるんかい

 多遅摩の俣尾の娘の前津見を娶って産んだ子が多遅摩母呂須玖…(中略)

 

 書くと分かりづらいのでコレで下矢印

 

 …最後に高額比売命(息長帯比売命=神功皇后の母)を記し、その子が応神天皇であるので、出自として多遅摩の一族の末裔であるということを記しています。

 結局阿加流比売はほったらかし、物語上では逃げられてしまいました たぶん…(´・ω・`)

 

 話を合わせますと、

 天之日矛天村雲命)は、丹波で後妻として娶った阿加流比売伊加里姫命)に逃げられましたが、その丹波(但馬)に居た多遅摩の俣尾の娘の前津見を娶って子をなし、その子孫に神功皇后が存在するということ。

 つまり、同地丹波で逃げられ、その丹波で後裔を残したことになりますので、恐らく阿加流比売(伊加里姫命)前津見は同じ人物と推定します。(実は逃げられていなかったということか

 

 従って、少なくとも応神天皇の母系は、新羅国と所縁があるということになりますね。

 まぁここまでは「記紀」を齧っていれば、何とな~く辿り着くのではないかと思われます。

 

 んで、今回何を申したいのかといいますと、描かれる時代が全く違うという前提は御座いますが、海部縁の地となる海陽町浅川の武内宿禰の説話と、兵庫県(但馬国)の日下部表米の説話が「新羅」と「鮑」によって一致するところなんです。(知ってた

 

 「記紀」では、神功皇后の先祖や丹波竹野媛など、何故か日本海側にある丹波に天皇の母系に繋がる痕跡を記します。

 以前、当ブログにて書いております、羽衣伝説シリーズでの考察からも、阿波海部と丹後国の海部氏とは、非常に深い繋がりが垣間見えます。

 

 そこで、先に少し紹介しました但馬國一宮の粟鹿神社なのですが、その御祭神の一柱は、彦火々出見命火遠理命)。

 彦火々出見命の別名もまた神武天皇(諱は彦火火出見)ということで、やはり=天村雲命と同じになるんですよね。(海部氏勘注系図でも一致します

 ですから当説話も、山幸彦(火遠理命)と豊玉比売の関係と類似したお話となっているのでしょう。

 

 また、赤い玉から娘になった話は、例の「陰(ほと)」繋がりの説話で、「丹塗矢」が刺さって結ばれる大物主玉依比売倭迹迹日百襲姫命等と酷似する内容となっており、その娘である阿加流比売と結婚した天之日矛こそが神武天皇(=天村雲命)ということなのでしょう。

 

 

 さて、上にもありますように、通説での難波・但馬は明らかに比定される場所が間違っており、これを阿波説(この場合東讃も含む)で考えますと、示す難波の位置は、和名抄に見える讃岐国寒川郡難破郷

 

 地図から見つける千年村プロジェクトというサイトから場所を調べることも可能

 

 阿加流比売は小舟で難波に逃げたようですが、それを追いかけた天之日矛は、海の神が遮ったことにより「多遲摩國」たぢまの国に「還泊」退き還して泊まっています。

 そこで海陽町浅川を見てみますと…、

 

 ●海陽町浅川字タジマ

 

 広域にしますとこの辺り下矢印

 

 FloodMapsにて往古再現しますと(海水位+4m)

 

 海部郡美波町西河内には往古より「はりま」の地名があったように、兵庫県の前身となる針間(播磨)國は7世紀の成立で、当地からのちに移された名前です。右矢印倭建命を穿って考察 ③

 同様に、海陽町浅川の「タジマ」も漢字ではなく、何故かカタカナ表記となっておりますね。

 

 応神記にある航路を阿波徳島説版で地図にしてみますと、

 

 コースは現代の徳島県海部郡海陽町浅川から香川県さぬき市津田町辺りまで

 

 先の地図に落とし込みますと、先のよりうんと現実的な距離コースとなりますね。

 

 阿波の海岸沿いにあった長國の主要な港々を経由して北上していったと考えていいのではないでしょうか。平たく言えば阿波版の「出雲側」ですが。

 

 阿波説版の神武東征ルート然り、倭建命東征ルート然りです。

 

 一応今回はここまでということで、謎に包まれた我が国と新羅國との不思議な関係については、また続編を書いて見たいと思います(´・ω・`)ノ