●伊耶那美神(イザナミ)

 

 

 「丹生都比売から考察 ②」の続きとなります(´・ω・`)ノ

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意ください。

 

 そろそろおさらいも兼ねまして、この稿もまとめに入りたいと思います。

 

 建嶋女祖命(たつしまめおやのみこと)をお祀りする式内社 建嶋女祖命神社。

 

 

 天平13年(731年)に阿波国那賀郡の当社より勧請されたとある滋賀県の波爾布神社の祭神は波爾山比賣命

 

 この時点で「建嶋女祖命波爾山比賣命」な訳なのですが、奈良県にある畝尾坐健土安神社のご祭神である健土安比売命は、ご由緒にもあるように、『古事記』にある伊邪那美神(ひ)の神の迦具土命を産んで陰部に火傷を負ったことにより亡くなった際に生まれたとする土の神の波邇夜須毘売神と同神で、その時の大便から共に生まれた男神である波邇夜須毘古神とは「きょうだい」神です。

 

 これが式内社 秘羽目神足浜目門比売神社論社である中内神社ご祭神の杼・火(ひ)をはめた神(秘羽目神 足濱目門比賣神)で、須佐之男命「母」の伊耶那美神であることを「倭建命を穿って考察 ⑦」で、同時に、「安房斎部系図」に見える天日鷲翔矢命(=須佐之男命)の「妻」である足濱目門比賣神、式内社 意富門麻比売神社(宅宮神社)の社名にもある御祭神の大苫邊尊(「神名帳考証」では「大戸惑女(おおとまひめ)」或は、「大戸比賣(おおとひめ)」大山津見神鹿屋野比売神から生まれた女神)のこととして考察しました。

 

 宅宮神社略記には、往古から大苫邊尊を祀る社は全国で当社の一座のみのようで、この大戸惑女神の神名には「誘惑」の”惑”の文字をあてていますが、

 

  意味:①さそう。いざなう。みちびく。②おびきだす。おびきよせる。「誘拐」「誘惑」 ③引きおこす。「誘因」「誘発」

 

  意味:まどう。まどわす。まよい。「惑溺」「困惑」(漢字ペディア)

 

 そこで、

 式内社 川嶋神社(かわしまじんじゃ:愛知県名古屋市守山区川村町281)

 

 

 ◆祭神 伊邪那美命大苫邊命、譽田別天皇、須佐之男命、日本健命、大山津見命

 

 『愛知縣神社名鑑』によれば、この社は日本彦国押入天皇(平城天皇)二年(大同二年807年)尾張国の連沖津が創建したと伝える。

 

 明治44年4月17日字柳原の八幡社と字山際の八剣社又鴻巣の山神社を合祀したようで、譽田別天皇以下の祭神が追加された模様。

 つまり、大苫邊尊を祀る社は、現在においてもこの2社しかないようです。

 

 大苫邊尊(大戸惑女神)は女神で、字義からは、魏志倭人伝に「事鬼道、能衆」「鬼道につかえ、能く衆をわす」とあるカリスマ的権威を有した卑弥呼と重なりますね。

 

 また、これまでの考察により、記:建波邇夜須毘古命(紀:武埴安彦命)の妻である「紀」吾田媛は、母である記:波邇夜須毘賣(紀:埴安媛)のこと。※これらの考察についての補足は後にも記します。

 

 つまり、建波邇夜須毘古命とは、「きょうだい」であり、「母」でもあり、そして「妻」でもあるのです。

 

 そして『古事記』に「天服織女見驚而、於梭衝陰上而死」とある、須佐之男命の狼藉により、(ひ)が陰部に刺さったことで亡くなったとある機織女

 『日本書紀』では機織女を「一書曰、是後、稚日女尊とします。

 

 ◆梭(杼:ひ)

 

 その後に天照大御神が岩戸の中にお隠れになる話となります。

 

 おかくれ【御隠れ】

 身分の高い人が死ぬことを敬っていう語。 「天皇が-になる」(コトバンク大辞林 第三版の解説)

 

 魏志倭人伝によれば、「食飲用籩豆、手食」我が国ではまだ「手づかみで食べる」とあり、また「種禾稻紵麻 蠶桑」「禾稲、紵麻を種(う)え、蚕桑す」ともあり、弥生期の倭人はまだ「箸」を使うことを知らなかった代わりに、養蚕はしていたことを記します。

 

 養蚕業(ようさんぎょう)は、カイコ(蚕)を飼ってその繭から生糸(絹)を作る産業である。

 

 ●歴史

 養蚕の起源は中国大陸にあり、浙江省の遺跡から紀元前2750年頃(推定)の平絹片、絹帯、絹縄などが出土している。殷時代や周時代の遺跡からも絹製品は発見されていることから継続的に養蚕が行われていたものと考えられている。

 

 ●日本での歴史

 日本へは弥生時代に中国大陸から伝わったとされる。秦による中国統一(紀元前221年)によって統制が厳しくなったことから、蚕種はそれ以前の時代に船で運ばれたと考えられており、日本が桑の生育に適していたこともあってかなり早い時期に伝来した。養蚕の伝播経路については諸説ある。朝鮮半島への養蚕技術の伝播との比較などから、中国大陸(江南地方)から日本列島(北部九州)へ直接伝わったとする説などがある。(wikipedia 養蚕業より抜粋)

 

 何度も確認するように書きますが、いわゆるシルクロードの最東端にある我国にも当時の中国から弥生期には既に養蚕が伝わっており、そのことは魏志倭人伝にもきちんと記録されています。

 

 阿波国神である大宜都比賣は、『古事記』において五穀や養蚕の起源として書かれており、この神もまた須佐之男命によって斬り殺された説話があります。

 この須佐之男命が後に八俣遠呂智を退治する際に使用した剣である十握剣の名称が、天羽々斬剣(あめのははきり)で、別名を蛇之麁正(おろちのあらまさ)ともいい、蛇の古語である「かか」「はは」から、「蛇」と「母」を掛け合わせた名前となっています。

 

 つまり須佐之男命は、蛇(母:はは)である伊耶那美神(稚日女尊=大宜都比賣)を斬り殺したということ。

 

 また崇神記にある、活玉依毘賣&大物主神の説話では、「以赤土散床前、以閇蘇此二字以音紡麻貫針、刺其衣襴。」赤土(はに)を床にまき、糸巻きに巻いた長い麻糸を針に通して、男の着物のスソに刺しなさい」とあり、残った糸が三勾(=三輪)だったことから、神君(みわのきみ)・鴨君の祖、意富多々泥古命の話となります。

 これが御眞木日子印惠命なんですね。(「入」は何に入ったのかな?)

 意富多々泥古命も読みによっては、”おほおおど”とも読めますよ ボソ…

 

 同様の説話が同崇神紀にある「倭迹々日百襲姫命、爲大物主神之妻」「倭迹々日百襲姫命は大物主神の妻となりました」の話で、大物主神が化身した小蛇の姿に驚かれたことで、倭迹々日百襲姫命に恥(はじ)をかかせるために登ったとある「仍踐大虛、登于御諸山「それで大空を踏んで、御諸山(みもろやま)に登りました」その後、仰ぎ見て後悔して座ったところに箸が陰部に刺さって亡くなったとあります。

 

 「御諸山」の場所はやはり阿多の地である板野郡下矢印

 

 旧板野郡御所村は、現阿波市土成町宮河内御所(1955年3月31日土成村と合併し土成町となり消滅)

 

 『日本書紀』では、御諸(ごしょ)と書いて「みもろ」と訓んでいます。

 同紀には、「倭建命を穿って考察 ①」にて考察した彦狹嶋王が春日穴咋邑(春日庄鮎喰村)で死んだ後に、子の御諸別王(みもろわけのおう)が父に代わり東国統治を命じられ善政をしいたとあります。

 ちなみに彥狹嶋王は、崇神天皇の子である豊城入彦命の孫です。

 

 この「御所」の程近くにある土成町樫原(かしはら)に樫原神社がご鎮座します。

 

 樫原神社(かしはらじんじゃ)は、徳島県阿波市土成町土成に所在する神社である。 

 

 

 ●概要

 神武天皇を祀る神社としては、明治23年(1890年)に創建された奈良県の橿原神宮がよく知られているが、当社はそれよりも古い天保12年(1841年)の棟札が残っているほか、境内の小祠には、寛延4年(1751年)の年号が刻まれた石碑がある。

 明治32年(1899年)、峯で大爆発の如き音響とともに山崩れが起り、神社が谷の中に埋もれてしまったが、村民が掘り出し再建された。

 四国八十八ヶ所霊場の法輪寺も、元々は、この樫原神社の摂寺として創建されたという説がある。(wikipedia 樫原神社より)

 

 

 ご祭神はもちろん、神倭伊波礼比古命

 

 上の説に基づけば、空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている法輪寺(ほうりんじ:白蛇山法林寺と号した)は、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失の記録があります。

 

 

 空海が開基した法輪寺が樫原神社の摂寺であったならば、1890年創建の奈良県の橿原神宮よりも遙かに古いことは明らかですね。(やっぱり空海か...

 

 地図に足し込むと御所の山の位置はココ下矢印

 

 「記紀」を照合させますと、

 

 大物主神の妻は、活玉依毘賣倭迹々日百襲姫命

 

 その玉依比賣の子に神武天皇がいますが、「自身の子でない」ルールにより系譜引き延ばしのループになっています。

 

 また、伊耶那岐神としての「妻」は伊耶那美神で、二神は「きょうだい」神ですが、次代においては須佐之男命と天照大御神となり、子は宇気比による化生の神として系譜を延ばしていきますが、世代をずらせば、夫婦であるきょうだいが「親子」となります。

 

 これまでの考察を踏まえますと、

 

 須佐之男命伊耶那岐神となり、同時に、

 天照大御神伊耶那美神となりますね。

 

 そして、丹生都比賣神社の祭神である丹生都比賣大神の別名が杼(ひ)で陰部を刺して死んだ稚日女尊であり、同社はこれを天照大神の妹神としていますが、 

 

 稚日女尊(わかひるめのみこと)は、日本神話に登場する神である。生田神社(神戸市中央区)や玉津島神社(和歌山県和歌山市)の祭神として知られる。

 

 ●概要

 日本神話ではまず、『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に登場する。高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった。『古事記』では、特に名前は書かれず天の服織女(はたおりめ)が梭で女陰(ほと)を衝いて死んだとあり、同一の伝承と考えられる。 

 次にこの名前の神が登場するのは人代記に入ってからである。神功皇后が三韓外征を行う際に審神を行い、その際に「尾田(現、三重県鳥羽市の加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋= 安楽島)に居る神」として名乗った一柱の神が稚日女尊であるとされており、元々の鎮座地は三重県鳥羽市安楽島の伊射波神社(式内社 粟嶋坐伊射波神社二座 並 大)に比定されている。

 神名の「稚日女」は若く瑞々しい日の女神という意味である。天照大神の別名が大日女(おおひるめ。大日孁とも)であり、稚日女は天照大神自身のこととも、幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)、妹神や御子神であるとも言われる。(wikipedia 稚日女尊より抜粋)

 

 こちらの理論によりますと、丹生都比賣大神稚日女尊もまた天照大御神

 

 「記紀」では天照大御神の弟で記される須佐之男命の「妻」ならば、客観視点となる姉の立場からすると確かに(義理の)妹神にもなりますね。

 

 また、同wikipediaにある神功皇后摂政前紀にあらわれる「尾田の吾田節の淡郡に居る神」として名乗った一柱の神が稚日女尊であり、元の鎮座地が伊射波神社に比定されています。

 …とあり、鎌倉時代末期に卜部兼方が記した日本書紀の注釈書である『釈日本紀』では、これを、阿波国阿波郡の建布都神に当てています。

 「吾田」は当社の社名「赤田」に通じ、「節」は「布都」ということになります。

 

 赤田神社(あかんたじんじゃ)は、徳島県阿波市土成町成当に鎮座する神社である。式内社・建布都神社の論社の一つである。

 

 

 ●歴史

 創建年は不詳。『日本書紀』には神功皇后が三韓征伐の前途を占った際の記述がみられる。

 『神社覈録』には「建布都神社所在慥かならず或は云う。赤野田村」と記されており、赤野田村は赤田村で成当村(現在の土成町成当)の旧称。

 

 ◆祭神 武甕槌命 經津主命 (wikipedia 赤田神社 (阿波市)より)

 

 赤田社の後丘には勾玉を多く出土した赤田山古墳がありましたが、現在は墳丘等すべて消滅しています。 

 また、伊射波神社(いざわじんじゃ)は、”いざなみ”とも読めますね。

 

 ●それぞれの社寺の位置関係

 

 

 また、旧名方西郡埴土郷にある阿波国一宮の天石門別八倉比売神社

 

 

 御祭神は大日靈女命(おおひるめのみこと)こと天照大神

 

 

 奥の院の五角形の磐座はご神陵の上にあるとされています。

 

 

 由緒書によれば、祭壇に納られてあるのは鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」で、永遠の生命を象徴しているとされています。

 


 形状から男茎形と推察され、古代の生殖器崇拝に関連するものと考えられています。

 

 大日靈女命の「靈」は(霝+巫)で成り立っており、霝は雨冠の下に口が三つあり、天から落ちる水には神聖な力が宿るとされ、また、その下に神や魂に接する清らかな巫(みこ)が加わり「靈」となっています。

 

 

 weblio辞書にある三省堂「靈」の意味・解説では読みとして、

 

 ・たま【魂・霊・魄】

 ・ち【霊】

 ・【神・霊】

 ・りょう りやう【霊】

 ・れい 霊】

 

 …があり、また(漢字/漢和/語源辞典)では、

 

 」の読み
 ・音読み:「ジョ」、「ニョ」、「ニョウ」
 ・訓読み:「おんな」、「め」、「なんじ」、「むすめ」、「めあ(わせる)」
 ・名前(音読み・訓読み以外の読み):「」、「たか」、「ひめ」、「よし」

 

 …で記載されており、字義からすれば、大日靈女命は、(おおひみこのみこと)とも読めますね

 

 そして、

 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。

 第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。

 

 ●名称 

 『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される。名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある。

 なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は諸説で百襲姫と同一視される。また本居宣長は『古事記伝』において、『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる。(wikipedia倭迹迹日百襲姫命 より抜粋)

 

 …等と名称考察を記していますが、「倭建命を穿って考察 ⑦」で書いた大宜都比賣と同神である豊受大神を祀る京都府京丹後市にある乙女神社のご祭神は、豊受大神・倭伴神やまととものかみ)。

 

 つまり、『古事記』夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)の名の解は、

 夜麻登-登母-母曽-毘売 右矢印 やまと(倭)‐とも(伴)-もそ(母祖)-ひめ(倭の鞆の母祖の姫)

 

 倭の女性神の祖(おや)の意味となります。

 これが、箸(はし)、恥(はじ)をキーワードにしているはずですヨ。

 

 また、阿波国海部郡海陽町にある式内社 和奈佐意富曾神社。

 こちらの祭神考は『阿波志』に、和奈佐-居-父祖として日本武尊でしたね。

 

 倭建命須佐之男命の考察も「倭建命を穿って考察 ⑦」に記しています。

 

 この二神が全ての神々の父祖と母祖(つまり女祖:めおや)であり、これが和奈佐毘古命和奈佐毘賣命で、これ等の始点が海陽町鞆浦の委奈佐(いなさ)であることから、鯨(いさな)に因む、天(あま=海人)の神名を表す、「いさなぎ・いさなみ」の神であるということではないでしょうか。

 

 それぞれが当時に居住した地が現在の鮎喰と脚咋(宍喰)であるために、その痕跡を記す場所が神社として徳島県の東部海岸寄りに存在するのでしょう。

 

 

 建嶋女祖命神社のご祭神である建嶋女祖命(たてしまめおや)も、読みを変えれば、”たてしまめそ”と読め、”ととひももそ”と韻もよく似ています(発音してみてネ!

 

 この姫もまた、崇神天皇紀の武埴安彦命&埴安媛の敗戦説話の後に、結婚とお別れの話を白蛇と陰部を突いて死ぬ伝説として残します。

 

 「潛取天香山之埴土」潜(ひそか)に天香山の埴土を取りにいった」神武天皇。

 武埴安彦命の妻である吾田媛もまた「密來之、取倭香山土」「密かに倭の香山に来て、土を取り」に行っています。(夫婦だから仲いいね!別れたけど

 

 初代神武天皇崇神天皇(共に諱は”はつくにしらす”天皇)もこれまでに考察済。

 

 丹生都比売から大宜都比売も巻き込んだこの同神考察はいったんここで終えておきます。

 考えられる同神は書いていないものも数えればかなりの数になりますね。

 

 重ねていっておきますが、これはあくまで私説考察です