小林正観さんの『運命好転十二条』から
第十条「おまかせすること」
自分の思いを持たない。
自分で自分の人生を勝手に決めこまない
「自分の思いを持たない。自分で自分の人生を勝手に決めこまない」
私は、このタイトルを読んで、「ん」と思いました。
この章では、まず、お釈迦様の話から入ります。
2500年前、お釈迦様は「苦」を悟ったそうです。
「人間の生活は苦に満ちている。苦の集積である」
お釈迦様は、4つの真理を悟りました。
それは「四諦(したい)」と言います。
- 苦諦(くたい)この世の迷いは一切が苦である
- 集諦(じったい)苦の本質は執着である
- 滅諦(めったい)その執着を滅することで悩み苦しみがなくなる
- 道諦(どうたい)日常生活で、執着が出てきて、その結果、悩んだり、苦しんだりした時に、その悩み・苦しみを一つ一つ「滅する」ということを実践して、悩みや苦しみが消せる
お釈迦様がおっしゃった「苦」には8種類あります。
「四苦」
- 生
- 老
- 病
- 死
さらに、
- 愛別離苦(あいべつりく)
- 怨憎会苦(おんぞうえく)
- 求不得苦(ぐふとくく)
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく)
この4つを合わせて「八苦」
これをまとめて「四苦八苦」と呼びます。
お釈迦様がおっしゃった「苦」とは、
「思いどおりにならないこと」
という意味だそうです。
つまり、
私たちが悩んだり、苦しむ原因は「思い通りにならない」から。
四苦の「生」、生まれてくる時に、性別を選ぶことも、兄弟を選ぶことも、時代を選ぶことも、国を選ぶこともできない。思い通りにならない。
確かにそうですね。
「老」・「病」・「死」も、望んでもいないのに、勝手に老いていく、病気になる・・・
思い通りにならない。
「愛別離苦」愛している人と別れなければならない
「怨憎会苦」怨んで憎んでいる人と会わなければいけない
「求不得苦」求めるものが得られない
「五蘊盛苦」五蘊(色・受・想・行・識)があまりにもシャープに働きすぎる
これらもすべて思い通りに行かぬ。だから「苦」である。
五蘊を詳しく説明
お釈迦様は、人間は体「色」と心「受・想・行・識」で成り立っていると悟りました。
色(しき):色・形あるもの・物質的存在・肉体
受(じゅ):感覚・感じること
想(そう):イメージ・想像すること
行(ぎょう):意志・思考
識(しき):認識
宇宙的には、何も規定されておらず、人間が個人的に勝手に寒いとか暑い、好きとか嫌い、と決めている。
確かに、人によっては、演歌が好き、トカゲが好き、トマトが嫌い、水泳が嫌い など、それらは個人の感覚・意見にすぎない。
「苦」が「思いどおりにならないこと」であるなら、「思いどおりにならないこと」をつくりださないためには、「思いどおりにならないものであると思い定める」
人生、思い通りにならないことばかりであるなら、思い通りにならないものなのだ と諦めることで、心が安定するということでしょう。
以前、「諦める」の本来の意味についてもブログで書きましたが、本来の意味は「あきらかにする」「真理を見きわめる」という意味で使われていました。
だから、思い通りにならないことは、そこに執着せず、あるがままに、自分に訪れる次の課題を受け入れていく。
そうすれば、悩み過ぎることも、苦しむことも無くなりますね。
↑これが、四諦(してい)。
仏教が教えた悩みを解消する方法の基礎。
悩みが生じたら、執着せず手放すことで悩みを消していく
【思いを持たなければ、思いどおりにしようとすることもない】
「思い」がなければ、思い通りにならないことは生じない。
「思い」を持たない。
これこそ、悩み・苦しみをゼロにする究極の方法。
さらなる「悟り」。
自分の「思い」が強ければ強いほど、思いどおりにならないという「思い」は強くなります。
正観さんの例えで、
病気をしても、「その病気を治すぞ。この病気を克服するぞ」と思わなければ、別に悩み苦しみにはなりません。事故に遭っても、「この事故を克服するぞ。何としてでも早く復帰するぞ。早く元気になるぞ」というような「思い」を持たなければ、どこにも悩み苦しみはありません。
すべてを委ね、すべてを受け入れて、ただベッドの上でのんびりしている、体中の力を抜いて「おまかせ」をしていると、逆にかえって体に力が入っているよりは治りが早いようです。
そういう根底的なものの考え方、宇宙に対する接し方というものを「おまかせ」と規定しました。
この例え話だと、誤解を生みそうです。
「希望」を持ってはいけないのか!? と。
「思い」をたくさん持って、その「思い」を実現させようと努力したい人はすればいいのです。頑張りたい人は頑張ればいいと思います。努力や頑張りをしてはいけないと言っているのではありません。
本人が夢や希望をたくさん持ち、「思い」を持ち、その結果として思いどおりにならないことが生じて、それによって苦しんでいるとしても、別に全然構いません。それが好きなのであれば、そのような生き方をすればよいと思います。
正観さんが言いたいのは、
「思い」を持たなければ、「思いどおりにならないこと」というのは生じない。
故に「思い」を持たなければ、楽な生き方ができる。
ここが、どうも「引き寄せの法則」と逆だよね・・・
小林正観さんは、常に、私たちの人生は、生まれた時から決まっていてシナリオどおりに進んでいる。「こういうことをやるためにこの世に生まれてきた」ということが、自らのシナリオによって決められている と言う。
そのシナリオを、読み取れる人と読み取れない人がいるそうです。
読み取れない人というのは、
「自分が好きなことはやる。嫌いなことはやらない。夢や希望をたくさん追いかけたりはするが、逆に気に入らないことは一切やらない。」という意味での「自我」がものすごく強い人です。
逆に、流れを読み取れる人というのは、
そうした「自我」がほとんどない人です。「やるはめになった。自分がやらなくてはいけないような状況になった。やるべきものを甘んじて受けて、そのやるはめになったことを笑顔でやっていく」ということができる人。
正観さんは、好き嫌いで物事を選ぶと、思い通りにならない苦しみも深いと言っています。
人生「思い」を持たず、「おまかせ」で生きている人というのは、無気力で投げやりな人生ということではなく、自分で自分の人生を勝手に決め込まない ということ。
何をするために、この世に生まれてきたのか、わからない人、
ただ「おまかせ」に生きている人こそ、
人生何が起こるのかわからなくて楽しい。悩みも苦しみもない人。
ということでしょうか。
「思い」があるから、人間は悩み苦しむ。
先ほどの正観さんの例より、夫婦関係の例を出した方がわかりやすいと思う。
よく、夫婦関係のイライラの理由として、
- 夫が週末なのに、子供の面倒を見てくれない。
- 夫がゴミを捨てに行かない。
- 妻の料理はいつも同じものばかり。
- 外出時、妻の支度が長過ぎる。早くして欲しい。
など
夫婦関係の悩みはすべて「思い通りにしたい欲求」から来るもの。
こうしたい、ああしたい、こうして欲しい、こうして欲しくない・・・
思い通りにならないからイライラする。
「相手にこうして欲しい」と言って、相手がそうした場合、それが自分の思い通りの結果にならなければ、またイライラする。
夫に、「食器を洗っておいて!」と頼んで、後で洗った食器を見たら、食器に食べカスがまだ付いていた。
「食器もキレイに洗えないのもう一回洗い直しじゃないイライラ」
ってことはありませんか
↑これ、実際の私の例でした・・・😅
「相手にこうして欲しい」という思いさえなければ、イライラも生じないわけだ。
”相手のありのままを受け入れる。”
”私は、そういう人と一緒になったんだ。”
と受け入れられるようになったら、悩みもイライラも出てこない