っふうう、、、 | ざっかん記

っふうう、、、




中之島、上岡敏之/大阪フィル唱/大フィル2日目、済む、っしかし、っあまりかようのタイトなスケデューリングで新幹線を予約するもんじゃないなあ、掉尾の《薔薇、、、》スート中から、間に合うんかいな、っとややはらはらし、っなろうことならカーテン・コールを最後まで客席へいたいとおもいながら、2度ほど懐中時計を出して時刻を検む、っそれで御堂筋線へ乗ったはよいが、飲物を1本貰えるサーヴィス券があって、新大阪のキオスクにて交換せむとおもうも、改札内は凄まじい雑踏、っどの店舗もレジスターへ長蛇の列ができており、並んでいて、乗る列車の発車時刻が1分また1分と迫り来る、脂汗を発しつ、っどうとか発車5分ほど前に交換することが叶い、ホームへ上がり、発車1分ほど前に自席へ着く、往路同様こだまであり、新横まではまた4時間弱を要す、っこの移動手段のばあい、席は通路側のほうがよいな、っいまは通路側で、往路は窓側だったのだが、隣の男性がフット・レストを使って睡てしまっていたので、っこちとらは名古屋あたりからやや小用を催すも、新大阪まで我慢せねばならなんだ、グリーン席へは初めて坐すも、っなんというかべつにたいしたことはなく、っこれならば、時期と時間とによっては自由席は空席過多で、っそこで隣が空席のところへ坐しているほうがずっと安気である、

っしかしこの調子では、当初の予定通りこのあと名古屋でイスラエル・フィルを聴かむとしたら、っあれで《薔薇、、、》の最終音が鳴るか鳴らないかでもう離席退出せねばならなかったかもしれない、っそのばあいはのぞみなので飲物へ交換してなどという手間はないが、っより午の演奏をたのしむどころの心境ではなかっただろう、



っさておき、っきのうにつづき、シェーンベルク《地には平和を》、っがんらいは無伴奏の合唱曲だが、無調を志向せる部分もあり、コーラスも唄いにくかろうと作曲者がオルガンやら管絃やらの伴奏を附けた複数のヴァージョンがあり、っその管絃楽伴奏版、っそしてシュトラウス《町人貴族》スート、休憩後はまたコーラスを入れてツェムリンスキー《詩篇23番》、っふたたびシュトラウスで《薔薇、、、》スート、っきょうも客席はややさびしく、半分ほどっきり埋まっていなんだのではないか、

っしかし、感銘も新た、っぼくは2階の右翼、っきのうとおなじ列で、っきのうは左へおふたり母子連れがいられたが、っきょうはぼくが左端、っその程度の位置のちがいで聴こえが変わるのか、っあるいは演奏としてきょうのほうが各声部とも鮮明な発音発声が為されたのか、っあるいはぼくの耳が曲へ馴れたのか、っいずれ、シェーンベルクから、っきょうのほうがより情報量がおおく、っとくにコーラスは4声めいめいの役割が明確に伝わった、曲は、地には平和を、っを結びの句とする複数連の詞を唄い、っとちゅう、しかしそれへ至るまでに人間は愚かにも軋轢や葛藤を経験せずにいない、っという詞句を通るため、っそこでは相応に音楽が動揺し、ポリフォニックな音構築が動員せられる、

《薔薇、、、》は奔流のごとめくるめく音楽であるため、聴いているほうは、どうとでも嬲ってくれ、っとそれへ心身を預けているっきりでよいようなところがあり、っごく小編成で各声部ソリスティックに動き、演奏時間もいっとう長い《町人貴族》こそ、最も神経を研ぎ澄ませて聴くべき、本公演の緊張のピークであったかもしれない、っさようの張り詰めた客席の意識意識へ、上岡氏はじつに繊細な意匠をつぎからつぎへと乱れ打ってくる、折れそうな最弱音の馳驅、っいちど手で抑えるアクションをし、っまだ望んだ極小音量が得られないため、首をぶるんぶるん振るい、指揮台上へ膝を折ってしゃがみ込みさえする、旋律の動きにつれて自然に転調する部分へいつもこころを砕き、っその色調のかすかな変化をじっさいに音を出している楽員楽員と分かち合いながら進めてゆく丁寧な仕事、っもとより些少な絃はなおデヴィジせられるが、っその下位の奏者も大切に大切に扱う入念さ、っそしてなにより、っそうして微に入り細を穿ちつも、っしかし全体はいつも嫋やかな流線型を崩さない特有の虚ろなひびき、往年のドイッチュの巨星たち、っないしはその影響下にある日本の指揮者、楽団が志向したようなぎっしりと凝縮したひびきは、っほかの誰は慾しがっても、彼氏にはお呼びでないのだ、っまずあの虚ろさによく馴致しなくば、上岡氏のよき聴き手として門前へ立つに及ばない、過去、演奏する側がそうであったということは、っぼくら客側も、っどっしりとしたドイッチュをこそ愛してきたのだ、っこんにちなおそれを忘れられない人は、っきっと上岡氏を好意的には聴かないだろう、っぼくがなかなか彼氏の聴き方を体得できなんだのも、っそれが一因であるにちがいない、

ツェムリンスキーは、詞の内容としてはシェーンベルクに似るが、音としては不穏な無調の気味は忍び寄って来ず、ソプラノが唄い出すはじめの主題は快いリズムを伴なって聴く者をしてほっこりとせしめる、っあれこれの顚末ののち、っこの作曲家の重要な楽器、チェレスタが天楽へ煌めき、冒頭のソプラノが回帰して了わる、

《薔薇、、、》へ到って、16型3管の大管絃楽はようやくいっさいの制約を解かれ、っついに縦横無盡に駈け廻る、っもちろん手綱は弛まず、っここでもワルツにおける激越なアゴーグや極端も極端な強弱の交替など、放埓な表現が満堂を襲う、彼氏のそうした造形に忌避感を示す声はときおり見掛けられるが、っぼくにすればそれは上岡敏之の音楽のほんの一外っ面にすぎず、っそれよりも上述の、っあのひびきの虚ろさだ、っあれへ馴染めるか否かをしかと表白するほうが、毀誉褒貶いずれを述べるにせよ、聴き手として彼氏の音楽をより正面から捉えた言説となるようにおもう、っしかし、っぼくが感得しているのとおなじその手応えについて言及しているらしい評文というものを、っいまだ読まない、ったとえばあの新日本フィルとのチャイコフスキー《5番》、殊にそのフィナーレの最後のマエストーソなど、っあれはいったいなんだったのだろうか、絃のイデー・フィクスは汗臭い勝鬨の大行進にはぜんぜん聴こえず、慰めのバラッドみたようだった、っあの曲のいったいぜんたいどこをどうしたら、っそんな音が鳴るというのか、っそして、っなぜ彼氏はあの曲にそんな景色をみているのか、永遠の謎である、っぼくはもう、っその謎を謎のまま押し戴くということが、上岡敏之を享受することだとおもっている、俺の識っているチャイコフスキーとちがうぞっ、っなどと苦情を述べているバヤイではない、その、俺の識っている、とはではなんぼのものなのですか、という問題意識が要請せられているのをおぼえずになんとするのか、っと、

っゆうべときょうとの《薔薇、、、》も賑やかに吹き過ぎていったが、っその大団円においても、っなお大フィルは豪華絢爛の、っしかし幻覚幻影をみせるようではなかったか、っぼくのおもいすぐしなのかもしれないが、っそうであってこそ、っぼくは上岡敏之の音楽を実感するのである、



っさて帰京してあすは、っざんねんながら佐藤雄一氏公演とバッティング、池袋、カーチュン氏と日本フィルとの演奏会だが、彼氏は上岡氏からすればぜんぜん健康優良児であるので、衒いのないまっすぐな音楽を聴かせてくれることだろう、っそれもまたよき哉、

大阪旅程は、っあの痛い痛いイタリィの革靴で来るわけにはゆかなんだので3日ともカジュアルだった、っなのであすはその革靴で、一張羅で出掛けるとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)