中之島、 | ざっかん記

中之島、




上岡敏之/大阪フィル唱/大フィル初日、済む、演目は、管絃の伴奏附きでシェーンベルク《地には平和を》、シュトラウス《町人貴族》スート、ツェムリンスキー《詩篇23番》、っふたたびシュトラウスで《薔薇、、、》スートである、

っゆうべ、>掉尾の《薔薇、、、》スートは、上岡氏が最も調子がよければ、っあまりにもうつくしく、っあまりにもたのしく、っあまりにもせつなく、っあまりにも音楽そのもので、賑やかであればあるほど泪を誘うのにちがいなく、っぼくは、っあすの初日からその次元の演奏へ達すると信じて疑らない、っと云ったが、っそのとおりのことが起こった、っうれしいっっっ、

客席はやや閑散としていた、っぼくはこの器での大フィル公演は、デュトワなどの超有名人のものへっきり来ないので、っその際には大入だが、誰やねんという棒の公演ではいつもこんやのようであるのか知らない、上岡氏は、っなにしろ初の客演であり、帰りの例の浅い傾斜の長い長いエスカレイターで後ろになったご夫婦のうち細君が、上岡さんて初めて聞く名前やけど前なにしてはったんやろな、っと云われ、夫君は気のない声ですかさず、知らん、っとこの大巨匠の名声を言下にあしらわれる、っそのあとには、でもまだ若いなあ、っとつづけていられたが、っぼくとしては、なんとも悠長な会話だなあ、っと微苦笑とともにそれを背中へ聞き、狭い、、、国土面積としては必ずしも狭くないとしても、日本でも東と西とではかくも事情がちがうのか、っと感じ入る、っぼくは東京で、っついに杉並での日フィルとのブルッフ、シュトラウスに身もこころもぶちのめされるまで、っだいぶんいくつか彼氏の公演へ通わねばならなく、っしかも、っそれ以前はもちろんのこと以後にしても、っわからないときはまるでわからない、っわるい演奏というのじゃなく、っどういう趣意の音楽性を有った、っどちらの方角へ向かいて果たしたい達成があって行なわれている演奏であるのかが、っどう首を捻りつ聴いてもわからないのだ、っが、当の指揮台の彼氏はどうみても、ぜったいにこの音だっ、っという確信を有って振られている、俺にはそれがわからないんだよっ、っと何度となく客席で悔しさに歯嚙みしたものであり、今後だっていつそういうことがあるかしれない、っそれだけに、上の日フィル杉並や、新日本フィルとのシェーンベルクがオーケストレイションしたブラームスのピアノ・トリオ、っことしの読響とのシベリウス、シューマン、ニールセンなどは、っその彼氏の志向性へこちとらのパラボラの角度がびたっとフィットした稀有な機会で、っそうなるともう泣けて堪らない、っあんな音楽は、過去現在を通じて、洋の東西を問わず、っおよそ彼氏からっきり聴けない、っそんなセンスをひとりの人間がその身内へ有っているということの、っいったいなんたる貴さか、っそしてそれへ全的に感応し切って演奏を堪能するには、聴く者も極めて複雑微妙に、心身のスイッチのオン/オフをいくつもいくつもいくつもいくつも切り替えねばならない、っそれに成功できなくては、彼氏の演奏を眞に味わうことは叶わない、っきょうさっき、っおおくのお客が彼氏の実演へ初めて接したのだろうが、っいったい何人の人が、っその難儀な仕事を達したうえで、っこころからの仕合わせと、っそれ以上にほとんど狼狽を催せしめるほどの驚異驚愕とを実感することができていたものか、上岡敏之を聴くということは、っぼくらにとってなにかそれほどの営為である、大仰だよと、嗤わば嗤え、

、、、っおお、演奏の具体へ触れずに、っしかしそれへどれほどいたく感銘したか、っよく云えたねえ、っふだんからなるがたけさようの評を云いたい云いたいとおもっているものだが、ってなわけで、細部細部のすばらしい記憶を開陳したい気をぐっと堪えて、っそれはまたあすへ譲ることとせむ、

っおやすみなさい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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