荻窪、 | ざっかん記

荻窪、




金山隆夫氏の棒、カラー・フィルで、ヴァグナー《ジークフリート牧歌》、ソロへヴォルフガング・ヘルテル氏を招いてチャイコフスキー《ロココ・ヴァリアシオン》、っそしてストラヴィンスキー《プルチネルラ》、済む、

予定通り右翼バルコニーへ坐したが、っその位置は、っあの忘れ得ぬ上岡/日フィルのブルッフ、シュトラウスを聴いたのとおなじだったのではなかろうか、っお前はいったいなんべんその演奏会へ言及したら気が済むんだという話だが、っいつまでも気が済まないだろう、っこれも何度目かの挿話をくりかえしておかむ、っぼくの左隣へは壮年紳士と、口ぶりからその細君ではなかろうが、っしかし不倫相手というほどの不潔さも感ぜしめないという女性とが坐しており、ブルッフが済んで客席が明転し、休憩へ入る途端に、っその紳士が、いいねえ上岡っ、っと昂奮した声で云い、隣のぼくは心内でそれへはげしく同意した、っぼくは扉のすぐ脇の席で、扉を挿んで舞台側には沼尻氏とおぼしき男性が坐しており、シュトラウスが済み、上岡氏が楽員ひとりびとりを答礼へ立たせると、っその度に口許へ両手を当ててさかんにブラヴォーを吼えていられた、同業者としては、っあれほどの大演奏を目の前で行なわれては内心穏やかではないのじゃないかなどと、っぼくのほうで余計な心配をしたくらいだが、素直に歓呼の声を送られるというのは、っいまあらためて、っご立派なお人柄だとおもう、っそのくらい、世のすべての音楽人を嫉妬に狂わせてしまうような、眞に眞なる大演奏だったのだ、

っさておき、ヴァグナーから、オケは繊細なテクスチュアを織りうるだけのテクニークを遺憾なく披瀝する、っが、王将で生と定食とを腹へ入れて出向いてしまったため、っあのような弱音主体のミディアム・ナムバーは、っよきララバイとなる既、っときおりかくんかくんと首を落としつ、っどうとか最後まで聴き届ける、

チャイコフスキーのソリストはヴィーン・フィルの一員とのことで、今次の楽旅からちょいと抜け出してもう一仕事というところだろう、っこのあとに休憩が入り、シガレットを服むべくぼくはいったん器を出たのだが、っおなじときに白人の男性がひとり退出された、っあの人も同フィルのメムバーかもしらん、演奏は、っなるほどすばらしい音のキャラクターで、オケとの交感も微笑ましい、

ストラヴィンスキーは、絃、っとくに高絃のソロはもうすこしく音量を出してくれたかったのと、流石にこのくらいの曲となると各パートともまるで瑕疵なく乗り切り遂せるというわけにはゆかなんだところとあるが、っまあ擦過傷程度であったともいえ、擬古典的の愉快な妙味はまずまず表出せられてはいた、

っところで、っこないだの中央区響公演の1stトップはいつもの大柄の男性ではなく女性だったが、っその男性はスダーン氏の東京アカデミッシェ・カペレ公演で乗られていたのではないかと云った、っおなじ男性はきょうも乗られていたようにおもうのだが、っやはり他人の空肖であろうか、前半は1stの2プルト裏へ坐していられ、後半は最後列へ下がられた方がそうだとおもう、っそしてこの方が、っやぼったい風貌とは裏腹にすばらしいフォルムの奏楽で、同フィルの絃は全般にごく優等ではあるが、っそのなかでもときに群を抜く弓捌きを見せ、相当度の名手であることを窺わせたものである、



っさて、っお次はすぐあさって、今週こそ午前中のみ仕事をして、午から井上キーミツ/読響の《復活》である、同コムビは数年以前からおなじ池袋で《1千人》《3番》《大地の歌》とたびたびマーラーを演奏してきたが、っこれが最期なのか、来年こそが最期なのか、っもしも来年もチャンスがあるならば、最期の1曲は、大阪フィルとの演奏が予定せられながらあほヴァイアラス騒ぎでおじゃんとなってしまった《夜歌》を希いたいところだ、

っそしてキーミツ公演のあとは蒲田へ遷ってのまたもやダブル・ヘッダー、っその翌日もまたまたダブル・ヘッダーである、、、

休暇を取っての大阪旅程も近附いている、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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