宇都宮、 | ざっかん記

宇都宮、




何度か来ており、器も2種知っているとおもうが、っきょうは県庁の脇にあるほう、井﨑正浩氏の棒、マロニエ響なるアマチュアの公演であるが、切符代と遠路の交通費とで合わせて、在京のプロフェッショナルの楽団をAといわずBあたりで聴く値段でありながら、自由席で、っぼくとしてSSと云いうる特等席を確保しつ、東京で優秀な楽団を聴くのとほとんどなんらの遜色もない感銘を味わう、っはるばる来た甲斐があったものである、

13:30開場、14時開演だが、11時にはすでにして宇都宮へいて、満腹で睡魔を招じ入れてしまわない程度に食事をし、12時すぎには器へ着いてしまう、喫煙しうる場所を物色しているに、まだ並んでいるはずないじゃないのよ、1時間半も早く着いちゃって、っとぺちゃくちゃしつ向かいから歩って来る老婦人3人連れと往き合い、そりゃそうだろうな、っと心内で相槌を打ちつ、階上へ喫煙所をみつけて陣取る、っそこからは階下の器入口は見えなんだが、座席表を検索してみるに、配置として、このあたりであればどこでもよい、っと善後的の席がいくらもありそうで、っそう躍起になって列へ並ばないことにして、小1時間ばかりもシガレットを灰にしつづける、っさすがにいがらっぽくなってきたので13時ころ入口まで行ってみるに、ロビーのベンチがちらほら埋まっている程度、っまだ列はできていなんだが、っやがてスタッフの方の音頭で列を作ってくれろとあって、っその声が掛かったときにちょうどぼくは彼氏のすぐ近くへいたので、俺は1時間も前から上の喫煙所へいたんだぞ、文句あるか、っとすぐ5番目くらいへ並んでみても、周囲から、ちょっとあなた、だいぶんあとからいらしたんじゃないですか、式の声はなかったので、っそのまま入場を待つ、列が建物の外までやや長蛇となってきたために、5分ほど前倒しで開場、入場し、2階の両袖が1階最前部まで降りて行っているその右袖の最後列の1席へ背嚢を置き、っふたたび喫煙所へ、

演目は、リスト《レ・プレリュード》、リムスキー=コルサコフ《カプリッチョ・エスパニョール》、奥村祐介という津軽三味線奏者を招いて、五十井梧楼なる人の筆で《津軽》という曲、っそしてラフマニノフ《2番》シムフォニーである、同団は2年に1度っきり公演をしないとのことだが、っおなかいっぱい、各曲毎のお客からの拍手もあっさりと短時間、休憩15分、アンコールなしでも、2時間半になんなむとする一大イヴェントであった、

オケは、っじつに堅固な地力を有つ名楽団であった、ラフマニノフの《2番》と聞けば、っあのように声部という声部がのべつ煩瑣かつソリスティックに動きつづけるのだから、相当度の合奏能力を有った団体でなければそもまるで音楽に成らず、並のアマチュアの演奏では、お客全員が1時間ほど屑籠へ首を突っ込んでいた、っという惨状にだって堕しないとしない、っそれが、よく弾けている、っなどという次元ではない、っゆとりある落ち着いた発音がしかし、曲の発展につれてようよう熱を帯び、っあるいは情緒に濡れ、強弱、硬軟を多彩に噛み分け、、、っつまり、っこちとら客席で絶えず音楽的の熟度それのみを問題にしていられる、っそういう音を鳴らしつづけながら、っついに全曲を踏破してみせたのである、井﨑氏も、っあのように練れた楽団を与えられて、っさぞかし指揮者冥利に尽きたことであろう、

っその練度はリストからして明らかで、っあの曲もあの曲でけっこう複雑な音構築の部分があるが、っそうした個所でも、どれか腕の利く声部、あるいは目立つ声部を頼ってアンサムブル全体としての脆弱性を糊塗する、っというふうに演奏のグレイドが下がらない、格斗の場面ではトロムペット連がしかし㐧1テーマ群の和音を仄めかすが、っそうしたかすかな書法の妙までもが過たず音化せられるため、乗っけからどんどん耳が贅沢になる、夢幻境ではホルンが、クラリネットが、些細な吹き損じこそあれ、っちゃんと醉いごこちにしてくれ、絃の最弱音の動きにまで神経が通い、果たして、鮮烈な、っしかし駄目を押さない音響によって、っこの人生の縮図はみごとにきょうの開幕を告げたのである、

っそしてぼくのだいすきな《カプリッチョ・エスパニョール》、《シェエラザード》よりもこちらのほうがよほどか名曲である、〈アルボラダ〉冒頭からやはりそうだ、打楽器等を頼って無理に迫力を出そうとなぞせずとも、っちょうど据わりのよい快音が難なく出て始まる、Vnのギタールなピッツィがちゃんと効果をあげる、コン・マスを筆頭に、各ソロもみな巧い、っきょううれしかったのはハープの張り切りようで、㐧4曲の、トライアングルのみを背景としたカデンツのみならず、っその後の管絃が高潮してくる段でも、指の皮が剝けそうな大粒大粒のアルペジオでゴージャスな綾を添えてくれた、〈アストゥリアーノ・ファンダンゴ〉の冒頭も、トロムボーン連が、待ってましたっ、っとばかり威嚇的のまでの騒音で闖入する演奏があるが、っともかく、っきょうの彼等はそんな低次元には甘んじない、

津軽三味線の曲は、コンチェルト様のアカデミックなものではまるでなく、さいしょにオケのみにより和風の音階も交えつミディアム・テムポで北国の情景を導き、ソロがひとくさり自由に独り舞台を演じたあとは、パーカッションのリズムに乗せて《じょんから節》をポップにアレインジしたものをオケが唄い、ソロも適宜ユニゾンする、っという10分ほどのライトな曲、筆の五十井氏は現在70代の半ば、っみずからもサックスを吹かれ、ジャズやポップスのアレインジ等も手広く行なってきた方とのこと、っこの《津軽》は、25年ほど前に、当時まだ中学生であったというきょうのソリストのために、吹奏楽との協奏の楽曲を、っと彼氏の家元から依頼があって作曲せられ、っのち、オケに絃も加えたものらしい、25年前に中学生ということはぼくと同年輩になるわけで、っなるほどそのくらいの歳格好のソリストだったが、っおもしろいのは、っまるで舞台擦れのしていない人で、っかかるクラッシックの公演へお出になる機会もすくないものとみえて、登壇されてもこちとらへの辞儀の仕方ひとつからじつに熟れず、っおどおどとされている、っもちろん、っひとたび楽器を弾かれ始めればまったくの独壇場で、津軽三味線のあの質感に快感を味わわない日本人はいまい、余興にもうひとつなにか弾いてくださる、

っそしてラフマニノフ、アマチュアのばあい、前半で合奏精度の高さを窺わせても、メインの長大なシムフォニーとなるとそのぶんだけ解像度が下がってしまうこともしばしばで、井﨑氏でいえば、先般、名古屋まで聴きに往った岐阜県響とのマーラー《巨人》がまさにそうだったが、っきょうはまるで逆、リハーサルも、どれか1曲に的をしぼって集中的にとりくみ、ほかは泣く泣く犠牲に供する、っという妥協の必要がまるでなかったにちがいない、っむしろこのラフマニノフをこそまさにメインに据えて、氏も相当度に細目に亙る要求をなすっただろうと想像せられた、っあのようにポリフォニックにごちゃごちゃとした音響体が、極めて冷静沈着な音楽集団によって、前後不覚の熱狂へ感けずに、っどこまでも音それ自身をして語らしめらるのを聴き届け、見届けるのは、最も仕合わせな音楽体験のうちのひとつである、井﨑氏としても、楽員のおひとりびとりにしても、っじつに会心の出来であったに相違あるまい、っぼくとしても、っほんとうにうれしい旅程である、



っさて、っあす旗日は、池袋にて坂入健司郎氏と新響とによるショスタコーヴィチ、っあすもまた、アマチュア離れのした奏楽を聴きうるにちがいない、



っおっ、っいま帰途で、耳ではついせんじつ発売せられた村川千秋氏と山響とのシベリウス《3番》が鳴り出したが、90歳になられるという村川氏の棒はすばらしいっ、山響のアンサムブルも清新っ、

村川氏といえば、記憶ちがいかもしらんが、角川の《野獣死すべし》、旧い仲代達也氏主演のほうでなく松田優作氏のほうので、松田氏が最後的には撃ち殺してしまうこととなる銀行員役のヒロインと日比谷公会堂の客席でショパンのコンチェルトかなにかをいっしょに聴く、っその舞台の上で東響かどこかを振って映画出演をされていた、っあれがたしか村川氏ではなかったかなあ、っちがったかしら、

っま、っともかく、っまたあす、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)