っきょうはあさから、 | ざっかん記

っきょうはあさから、




新宿で健康診断であったが、っこないだ、っよる聖蹟別棟でひとり仕事をしていると、っじつに数年ぶりで薩摩隼人から入電し、懐かしさに話が弾んだ、呑もうよということにとうぜんながらなり、っきょう夕から、っぼく、彼氏、自-自先輩、《雨月、、、》くんと4人して新宿で呑む、薩摩隼人はすごいペイスでぐいぐい呑み、っじきに酩酊状態となったが、っそういうふうに呑む人間をぼくらは平素の呑み仲間のうちに有たず、っみな終電のあるうちにさっぱり帰って憚らない人種であるため、もう1軒行こうよもう1軒、阿佐ヶ谷行こうよ阿佐ヶ谷、っと喰い下がる彼氏をアルコールを頼めないカッフェへ連行して落ち着かせ、っさっき、っどうとか別れてくる、っや、独り京王のぼくは別れてきたが、JR組の3人は、っその後どうなるか知らない、っまあとにかく、元気そうでよかった、

健診のあとは、下剤でバリウムが外へ出るまでファミ・レスへいて、っしかし夕まで新宿で時間を潰していず、っいったん上野へ移動してひとつ演奏会を聴いてくる、田代俊文という人の棒、東大の学生オケで、フンパーディンク《ヘンゼル、、、》前奏、ブラームス《ハイドン・ヴァリアシオン》、チャイコフスキー《5番》、上野大器である、

前半は、っまあどうということはない棒とどうということはないオケとのどうということはない演奏かとおもって白けて聴いていた、っただ、単に合奏能力ということならば、絃はひじょうに勝れているとはおもった、

っすると、チャイコフスキーは、っじつにこの絃の勝利であった、っそれも、っまさかにあそこまでの達成へ至るとはこちとらおもいも寄らなんだ、2楽章のホルンは緊張したたどたどしい吹奏ではあった、ティムパニはやや存在感が薄くはあった、っけれども管打全般としてみれば、絃のすばらしい機動性にいくらも助けられ、曲が進むにつれ、っことしの初め同器で聴いた藤岡/都響の同曲のときよりもよほどか、チャイコフスキーの《5番》をいままさに体験している、あらためてそのうつくしさに打たれ、シビれている、っという鮮烈な実感を得る、

棒は、っあれこれと作為を弄する多趣味なそれではなく、端然としたものだが、わりに無趣味勝ちの人でもここのテムポ変化くらいは派手に行なう、っというところでさえほぼイン・テムポであり、っつまり一寸やそっとの辛口ではないわけだが、っぼくはだんだんとそれへ病みつきになってしまい、無慈悲なまでのあっけなさが訪れるたび、っむしろ快感へ浸ったものである、ったとえば1楽章の主題の移行に伴なう速度の差は極小であり、ったとえば同章や2楽章の各終結において、内容の訴求がために漸弱にかてて加えて速度の鈍化を頼まむとする志向性は露ほどもなかったり、

っそうした棒の下で、オケは次第にオケであることを止め、ただただチャイコフスキーとして発露する、オーケストラを聴いていながらそれがオーケストラの音であるということを忘れてしまうのだ、っこないだ尾高氏の演奏を聴いた際、オーケストラからオーケストラの音っきりしない、そういう音を聴くことはぼくにとっては断じて音楽体験ではない、っという旨のことを云ったが、鳴っている音の物理的の耳当たり、膚触りを玩味することに終始する時間は、っぼくの仕合わせではない、オーケストラがオーケストラであることを忘れてしまう、っそれがいちばんの悦境なのだ、っただ、っそうして悦へ入ることは、物理音をひたすら物理音として聴くこととなんら背反しない、醒めたこころで物理音の集積を浴びていることと、それがオーケストラが発した音であることを忘れてしまっている、このふたつが音が鳴っている瞬間瞬間にまるで矛盾なく両立している、っそれがぼくにとっていちばん仕合わせな演奏であり音楽である、っそしてそれは滅多に訪れない、っどんな人の演奏会にもけっして事前に期待したりしない、ほんのまぐれにめぐり逢えれば儲けもの、っとすらおもっていない、っほんとうに天惠中の天惠なのだが、友人に逢うまでの暇潰しとしかおもっていなかった公演でひょっとそんな天惠に出っ喰わすのだから、っやはり演奏会へは行ってみるものである、

っこうなると、っとくに面白くもなんともなく、デッドな器で殺伐と鳴るかにみえた前半の生煮え演奏が憎いくらいだ、やっぱりそうそう名匠と名楽団とには出逢えやしないよね、っとはじめからそうとおもっていたその気分のまま、チャイコフスキーもなんの感動もなく右から左へと通過してお了いと侮っていたのだから、

1楽章の㐧1テーマこそ、木管からバトンを享けた絃が漸強して全曲中で初めてティムパニを交える際、っそのティムパニの打刻がよわく、っぼくは造形としての不首尾を憾んだ、イデー・フィクスによる序奏にしてからが、っその後の主部の経緯から照らし返せば、強弱、音色の極端な変化を我慢し、音価音価に忠実たらむとする厳然たる曲頭だったのに、っぼくはそれを、まあ無趣味勝ちだからこうなるんだろう、っくらいに軽視したのである、っそれが㐧3テーマ、、、っきょうの楽曲解説では㐧2テーマ群のひとつとせられていたが、っぼくはこの主部のテーマは3つとおもっており、㐧1、㐧2テーマは誰でもそれとわかろう、㐧3テーマは、ピッツィカートが駈け上がって木管とホルンとがちがうリズムで素っ頓狂なシグナルを吹き、絃が応じ、っやがてシンコープを含んだ歌謡楽句が喚び出される、っあれである、っあれをも㐧2テーマ群の一部とすると、単に㐧1、㐧2テーマ間で領している時間の差がおおきすぎるのみならず、㐧2テーマがさように実質2つの歌謡楽句を有つならば、㐧1テーマも単一の主題の発展のみに了わらず、っあれとはべつの律動群を包含するなどのもっと複雑な構成を採る必要はないか、っしたがって㐧2テーマは㐧1テーマ後の歌謡句からシグナル動機が出るまでで、シグナル動機以降の別歌謡句は㐧3テーマとするほうが、遙けくしっくりくる、閑話休題、っその㐧3テーマはついに㐧1テーマの動機を孕みつ激越な漸強を果たし、頂点においてこんどは絃がシグナル動機、金管とティムパニとが㐧1テーマの律動系を鳴らす、㐧1テーマではまだ不満を懐かせていたきょうの演奏がしかしこの最強奏へ達した際、っじつに、っぼくは彼等の鳴らす音がオーケストラの音であることを忘れたのだ、4階という高所から見下ろしていたが、絃のアンサムブルのみであの大音場が隅から隅まで充され、律動を打ち込む管打がその絃に抱かれながらもなお猛々しく吼え立てた、っその交響は、っもはやチャイコフスキーの肉声以外ではなかったのである、

2楽章の㐧2テーマの再現もそうだし、フィナーレの最後のマエストーソもそうだ、っほんとうに絃の音がどこまでもどこまでも伸び、っこちとらのこころへまっすぐに飛び込んでくる、チャイコフスキーの《5番》とはこんなにもすばらしい楽曲なのだと、っそんな平凡な感銘へ邂逅するのであり、っそのことがぜんぜん恥ずかしくない、絃に比してどの声部にせよ頼りないかにみえた管打も、っいつの間にか高次へ引き上げられている、後者大行進において、絃をリピートするトロムペットは、プロ/アマを問わずどんな演奏で聴いても、ったいていは音程の低い吹きはじめの音量音圧に不足し、彼等が吹く瞬時に、あっ、音量音圧足りないっ、っと客席でがっかりさせられること頻りだが、っきょうの3人は、っべつにぜんぜん無理に力んだ怒鳴り声でない、肺活量に応じた自然な吹奏ながら、絃に敗けじと管絃楽の王者たるの威厳をもって金字塔の頂点で高らかに鳴り、っついに最高音へ達した際の、っすでにしてみごとな音量で吹いている上へさらに絶妙の迫力更新を加えてくる手応えに至っては、っむしろきょうこのときだけ、っその迫力が全世界の全名門を蹴散らしてしまう頼もしさであった、

っただ、ったとえばぼくは森口真司氏を1、2度聴いたっきりで、この人はどんな曲だろうと安心して聴かせてくれる、っとの確信を与えられたが、っきょうのコムビも恆にその次元へ連れて行ってくれるとまではおもわなんだ、っきょうのは、演奏している当人たちにもまるでその自覚のない、っまぐれ中のまぐれだったような気がする、仮につぎの機会が来たときにふと気が向いて聴きに行き、っきょうとおなじような現象が起きたら、っそのときにはかんがえを改めねばならないだろうが、っいまのところ、っそのつぎなる機会を逃さずチェックしておかむという気にはなっていない、っそのくらい、っどうしてそんな次元へまで昇っていってしまえるのか、一寸わからないような名演奏、大演奏だった、っこれまで何10回となく実演で聴いてきたはずのチャイコフスキー《5番》のうち、最上位のひとつに数えてもよいような体験だったのである、っそんな演奏をそういつもいつも聴かされてたまるかと、っどこか口惜しい気さえしている、

20代の半ばにともに肩を並べて働いた薩摩隼人とさっきまで話していたからいま余計にそうおもうのかもしれないが、っぼくの若くときは、っへんてこな演奏がすきだったし、っへんてこな演奏っきりすきではなかった、演奏とは音楽とは、イコールへんてこであることだった、っいまでもこのへんてこ熱はぜんぜん冷めておらず、っへんてこ演奏のへんてこさを呪う雑言を聞いたってぜんぜんなんらの痛痒もおぼえやしないが、っそれと同時に、なんらの恣意性も介在させない演奏が、しかし妙にこころへ沁みてきてたまらない、っという経験もしばしばするようになった、っま、っなんらの意志もなく演奏するなどということはそれ自身不可能であるから、なんらの恣意性も介在させない、かにみえる演奏、っとか、恣意性を嗅がれまいというそういう恣意を有った演奏、っとかと形容するほうが精確であろうが、っここでもたびたびそのことに言及しながら、っそういう演奏とそうではないただつまらないだけの演奏との差が那辺に存るのか、自分でもぜんぜん説明が附かないもどかしさをいつもおぼえている、っつまらないものはほんとうにまったくつまらないのである、っそしてそのときぼくは、もっといろいろせえよっ、っと苛立ち、っかつ落胆しているのである、っつまりこういうことだろうか、っぼくは依然としてへんてこ熱狂者なのである、っそして、っだからこの渇望が完膚なきまでに叩きのめされ盡したときにだけ、っそこに感銘があるのだと、っあるいはそうかもしれない、ったとえば尾高氏がどうしてもつまらないのも、っその、完膚なきまでに、っというぼくにとってのある次元へ達してくれるには、彼氏の造形ではぜんぜん微温的なのだ、っもっとなにかするか、っもっとなにもしないかでなくてはぼくのこころは微動だにせず、っそのちょうどよくないところへ、っなべて彼氏の演奏は届き勝ちなのである、



、、、っふう、っいままだ南大沢の喫煙所、っもう3時だ、っきょうも大船まで井﨑正浩氏を聴きに行かねばならない、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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