
現代は悲劇の時代です。先日もマンチェスターでテロ事件が起こり、現在22人が死亡とのこと。結局のところ終わりのない世界的な内戦という印象を醸し出しています。これはより本質的なところでいうのなら、根本的な原因をあぶり出そうとせず、その時の印象印象でのみ行動する、人間の近視眼的な衝動による「人類全体の課題」といえます。
争いの原因を解決することなしに、常に力で相手を圧しようとする「両陣営」の間違いの繰り返しともいえるでしょう。
20世紀も終わり、人類は新たな平和を欲してきたのでしょうが、幾分平和に見える世界的な世相とは裏腹に内部の多くは腐敗し、堕落しているように見えます。それは政治でだけでなく、文化、芸術などに関しても・・・。
近頃ポップアイコンとして世間を賑わせていたレディー・ガガなどの音楽も初めは面白いと思って聴いていましたが、近頃はややバイオレンスやセックス・アピールなどが気になり始め、音楽も暗く、ほとんど聴かなくなりました。
現代人は暗い物や、攻撃的なものをそれほど気にもせず当たり前のように取り込んでいます。それらは必要な時もありますが、常食にするにはあまりにも動物的すぎるようです。
彼ら特有の「自分は一番でなければならない」という印象にはもう疲れました。勝手にしたらよいと思います。彼らは自分達の正当性を情熱で訴えますが、それは実は「嘘」の隠れ蓑なんかじゃないかと、最近は感じてもいます。当然その全部が悪いというつもりはありません。ただ、ちょっとその量が多すぎる気がしてます。
もっというのなら、「感動」できる形に物事を創造したとしても、それは必ずしも正当化されるとは限らないということです。「嘘」はどこまで行っても「嘘」のままなのです。
こういう物ばかり聴きすぎると、自省の念が薄れるようです。たまに聴く程度で良いと思うようになりました。 ・・・しかし、まあ、こんなことを書くようになった自分は、ちょっと歳をとりましたかね。
ヘンリク・グレツキによる交響曲3番「悲歌のシンフォニー」。デイビット・ジンマン指揮ロンドン・シンフォニエッタ(1991)。
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紹介したのは、現代作曲家ヘンリク・グレツキ(1933-)による音楽です。この曲については以前にも書きましたが、これはこの曲を世の中に知らしめたディスクで、30万枚のベストセラーになったものです。静かで柔和な音楽と切々と歌われる修道院の哀歌が心を打ちます。
現代音楽には珍しい、訴える内容を持った曲で、この3番は特にそうだといえるでしょう。他に彼の交響曲2番、4番も聴きましたが、そこまでの魅力は無いように感じましたので、当面、新しい評価が出てくるまではこの曲はグレツキの代表作といって良いと思います。
グレツキ同様、東欧出身の作曲家に似た作風のアルヴォ・ぺルト(1935-)がいます。グレツキはポーランド出身、そしてぺルトはリトアニア出身となります。彼らの音楽に根底に共通してあるのは深い祈りであり、同時に淋しさといえます。
アルヴォ・ぺルト、「タブラ・ラサ」(1977、1983、1984)。サウルス・ゾンデスキ指揮、リトアニア室内管弦楽団。
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14世紀から16世紀にかけてのフランスの合唱音楽を学んだ彼の音楽は、過去のアーリー・ミュージックの世界を思わせるものがあり、そこに惹かれる人はいるのではないでしょうか。
例えばア・カペラ・グループ、タリス・スコラーズの歌う、アルバム「ティンティナブリ」(ティンティナブリはぺルトが開発した作曲技法の名前である。2015)。
ここに収められている曲を聴くと、それはまるでヨーロッパのルネサンス期に戻ったような気になります。ラッスス、ジョスカン、オケゲム・・・?一体誰の音楽に似ているのだろう、と自問自答してみます。似ているが、どこかそれらの音楽とは違う音楽・・・。何か違う音楽です。
何より、その根底にある深い悲しみ・・・。
ぺルトの「アリーナ」(1995)でもそうですが、聴いていると、個人的に、その根底にある淋しさの強さに疲れを覚える気がします。悲哀といっていいのかもしれません。
そして、こういう音楽を聴いていると先日のテロ事件などを思い出してしまう自分がいます。ここにはそういった現代的事象を思い起こさせるものがあるように思えます。
現代音楽も茨の道を歩いて来たのでしょう。自分のやってきたことの間違いを認めねばならいからでしょうか。あるいは、他人の間違いを指摘しても一切聞いてもらえない苦しみからでしょうか。現代音楽の作曲家は時代の声を反映させねばならないのでしょうが、一体その時代の声とは何なのでしょうか?
これらの曲の底辺に内通する悲哀は現代をリアルに見ようとするものが持つ、根源的なものなのかもしれません。互いの殺し合いを止められぬ思い、あるいは、自分と他人との考えのあまりの隔たり・・・。
例えるのなら、テロリストは確かに悪者かもしれません。しかしもっと考えるのなら、自分達はどうなのだろう?という想像も浮かびます。本当に彼らを悪者といい切れるほどに、自分達はしっかりできているのだろうか?そしてそれを世間に投げかければ、当然のように自分に批判の矢が向ってくるわけです。
つまりテロリストを批判し、そしてテロリストを作り出した人々を批判すれば、同時に自分は両陣営から批判されることになります。そしてその時になって初めて彼は人生において何が本当に大切なのか知ることになるのではないのでしょうか?
誰とも争うということなく生き、そしてその底辺に沈む本当の「平和主義」が批判されるとき、本人は初めて人々が争うのは・・・実は彼らが自ら「争い」を好んでいること、そして、彼らは自分達のみが「正しい」と思っていることに気付くわけです。
そこに必要なものは何なのでしょうか?
自身が争わないと決めたのなら、やれることは「思う」ことしかありません。もっといえば・・・「祈り」しかないといえます。
それ故彼らの音楽は祈りとなりやすく、そして祈りよりもむしろ「鎮魂歌」に近づいている気がします。
根底の悲しみと釣り合いが取れるほどの「鎮魂」の歌です。
室内楽の「タブラ・ラサ」の後半に描かれている物々しい悲しみや、同アルバムに収められている「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」における感動的な慟哭は、こうした現代作曲家の特質の一つなのかもしれません。
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スティーブ・ライヒ「18人の音楽家のための音楽」(1976)。
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グレツキやぺルトの音楽が伝統的なクラシック音楽とのつながりを保った音楽だとすれば、スティーブ・ライヒ(1936-)の音楽はそれまでの音楽とは全く隔絶された、特異な音楽といっても良いかもしれません。
この「18人の音楽家のための音楽」は、繰り返されるリズムが微細な変化を遂げながら、ほとんど無限ともいえる連続性を持って表現されています。18、19世紀由来の古典やロマン派の語法は全く綺麗に洗い流され、近代的な雰囲気を漂わせています。
繰り返される音楽は古い音楽に比べるとポップでさえあり、明るく淀みがありません。寄っては返す音楽のウェーブはエコーのようであり、どこか南国風の印象と混じり合って、海の中に泳ぐようです。
しかし、マーラーあるいはショスタコービッチのような深い感動があるかといえば、そうではなく、常に豊かに響くやや楽天的な印象があるだけといえばそうなのかもしれません。イージー・リスニングに近い気もします。
ですが、これだけの音楽を作ろうと思うなら、かなり精緻な設計は必要だったでしょう。その創作意欲と、響きの面白さは一聴の価値ありでしょうか。重いぺルトやグレツキの音楽に比べると、楽しんで聴けることは間違いないようです。