ヒマジンノ国 -54ページ目

 ヒマジンノ国

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フィリップ・グラス、「ピアノ・ワークス」(2016)。ピアノ、ヴィルキングル・オラフソン。

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スティーヴ・ライヒ等と共にミニマリズムを確立させた作曲家、フィリップ・グラス(1937-)のピアノ作品集。基本はエチュードからの抜粋で、グラスワークスのオープニングを除けば、10曲ほどの内容です。
 
都会的な雰囲気と、前近代的な印象が混じり合った作品集で、感触は良いです。ミニマリズムの反復される音楽が大曲ではしつこく感じますが、ここでは、どの曲も短く、長くても11分、ほとんどが10分以内なので、聴く方も負担は少ないと思います。
 
聴いていると自分が映画のワンシーンに居るような感じがしてきます。都会の中で撮られた映画・・・。セピア色を思わせる、感傷的な音楽だと思います。
 
どうでしょうかね、コンサートなどの基本曲目になるほどの作品なのかは微妙でしょうか。旧来のクラシック作曲家を聴いている時の様な、とても感銘を受ける、という瞬間にまではいってない気がします。
 
それでも自分は割と繰り返して聴いてはいるので、何か別の魅力はあるのかもしれません。悪くないアルバムだと思っています。推薦しても良いかな。
 
 
 
フィリップ・グラス、「アメリカの四季」(2013)。ヴァイオリン、ギドン・クレーメル、伴奏、クレメラータ・バルティカ。
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同じくフィリップ・グラスの書いた曲で「アメリカの四季」。ヴァイオリン・コンチェルトです。
 
中々魅力的な曲調で、シンセサイザーは入るものの、旧来のクラシック寄りの音楽、かつ意欲的な作品だと思います。楽章は全部で4つ、しかし初めと、楽章ごとの合間に「ソング」と呼ばれるカデンツァが入るので正味、楽章が8つあります。
 
多分その「ソング」を除くと、第2楽章は緩徐楽章、第3楽章はスケルツォ風なのでしょう。最初から間奏を含めた5つ目の楽章ぐらいまでは中々良いなあ、と思って聴きます。
 
しかし、6つ目のスケルツォ風の第3楽章ぐらいから、ミニマリズムの書法で、ずっと繰り返されてきた同じテーマの音楽がしつこく感じ始めます。
 
自分にはくどく、反復が多すぎるので、もういいよと感じてしまいました。伴奏を含めて結構良い音楽だと思っていたので、ちょっと残念ですかね。
 
この「NEW SEASONS」の、同じアルバムに入っている、ギヤ・カンチェリ(1935-)の「エクス・コントラリオ」も聴かせはしますが、従来のクラシック路線で聴くと、ややエキセントリックな印象はぬぐえないでしょう。
 
ミニマリズムにしてもここで聴く限りは短い音楽に適しているようには思えます。ライヒみたいな作品もありますが、正直まだちょっと「理屈」にとらわれすぎだと思います。
 
以前ブログで書いた、現代作曲家のアルヴォ・ぺルトもアーリー・ミュージックに似てる作風が魅力かもしれませんが、本物のアーリー・ミュージックを聴いていると、ぺルトの音楽は「固い」ように思えます。これも多分、彼が自分に課した「作風」の為かと思います。
 
芸術作品に「形式」はつきもので、絶対に必要なものです。しかし、その「形式」がどれだけ「自然」なものかが重要なようです。そう考えてみると、旧来の「ソナタ形式」などはそれなりに「複雑」だったかもしれませんが、我々人間の「身体感覚」によく合った「形式」だったのではないかと思います。
 
「形式ができあがる」とは、形式を作曲家が「意識的」に作る、ということでなく、「自然」と出来上がってきたものが、「結果」まとまったものが、「形式」になる、ということではないのでしょうか。
 
ここに収められた作品を聴いていると、前衛的すぎる作品よりずっとましですが、まだ現代の作曲家は「頭でっかち」なのではないかと、感じる瞬間が多かったと思います。

 

ケイティ・ペリーの新作「WITNESS」が出たので買いました。

 

しかし今回はもう一つかなあ・・・。

 

まず、アルバムのジャケットを見たときに、これはダメかも、と直感しました。自分が彼女に期待するのは突き抜けた明るさと楽しさです。歌詞が下品であっても、メロディーとか彼女の気持ちなどで全く違う雰囲気になります。皆が楽しめるものになるわけです。

 
しかし、今回の物はジャケット通りややアングラな感じの、葛藤とか、闘争とかの雰囲気があります。それを批判してもしょうがないのですが、個人的には残念でした。
 
毎回同じ内容になる必要はないし、歌手は色々な内容の曲を書いてもよいし、書くべきでしょうが、最近の歌手はキャリアを積むにつれて暗い内容が増えてる気がして、ちょっと気になりますね。
 
アメリカ大手のアーティストが、ある「一定の人達」の考えを伝えるため、利用されている、というまことしやかな噂があります。MKウルトラなどという技術を駆使して、大衆に自分達の考えを伝える・・・とかいうものです。
 
それらで表現された、闘争、自己陶酔、セックスアピールなどのテーマは、大衆が喜んで摂取すればするほど、堕落していくといわれます。アーティストとしても、その考えに同調するものは昔から何かしらのトレードマークを身に帯びたり、表現したりするといわれます。
 
その一つに「片目」のモティーフがあります。プロビデンスの眼とかいわれますが、ケイティ・ペリーがずっと昔から自分のモティーフにしているのが気になります。容姿も親友のマイリー・サイラスに似てきましたね。少し擦れてきた感じがしますが。
 
今回は「目撃者」というようなタイトルなので、片目のモティーフもありでしょうが、ちょっと気色悪いと思っている自分がいます。考えすぎかもしれませんが。
 
 
まあ、噂だと良いですがね。
 
 
ビービー・レクサのミニアルバムも買いました。「All Your Fault PT1」です。
 
こちらはかなり楽しめました。前回のミニアルバムよりパワーはありませんが、中々コブシが効いていて、楽しい曲があります。また20分足らずですが、ここちらは満足できました。
 
日本では人気は出ないでしょうけどね。自分はまた次回作に期待します。
 

 

ジョン・エリオット・ガーディナー指揮、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ。クラウディオ・モンテヴェルディ、「ポッペアの戴冠」(1993)。

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最近聴いた音源について書きます。

 
まずは最近再販されたガーディナーの「ポッペアの戴冠」です。個人として、「ポッペアの戴冠」自体初聴になります。
 
久しぶりに「初めて聴く曲」を、「とても素晴らしい」、と思いました。
 
極めて美しい音楽で、寂寥感と哀愁、爽やかさと深い情念とが一体になった作品は奇跡といって過言ではありません。まさに天才の作品といえるでしょう。不道徳とそれを達観した愛情とがここにはあります。
 
ガーディナーの指揮しているのは管弦楽で装飾されていないナポリ稿です。現在「ポッペアの戴冠」にはこのナポリ稿とヴェネツィア稿が存在しており、ヴェネツィア稿の方が派手な効果を狙った管弦楽となっています。自分はヴェネツィア稿も聴きましたが、このガーディナーの演奏したナポリ稿がの方が断然良かったと思います。
 
ビーバーの「ロザリオのソナタ」を聴いているときに思ったのですが、時にバロック楽の底辺には、静けさと内面を見る深さが、存在します。かの時代の囚われの少ない、自由な人々の心情と生き方とが、ルネサンス時代からの引き継がれたエウロペアの空気を伝えるようです。
 
ガーディナーの指揮する「ポッペアの戴冠」にはそれと同じ空気があり、どこまでも人の心情にしみわたるとともに、その独特な爽やかで哀愁を帯びた美しい音楽が、「格別に」素晴らしいです。
 
 
アンドリス・ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、「ブルックナー交響曲3番」(2016)。
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新譜です。イエロー・レーベルによる、ネルソンスによるブルックナー・チクルス第一弾ということだそうです。
 
テンポはやや遅め、じっくりと細部まで丁寧に演奏しています。美しいと思いますし、繊細で丁寧な美しさを楽しむ要素はあり、そこは楽しいし、実際そこを期待して購入しました。だから演奏の出来には満足しています。
 
ただブルックナーを聴く場合として、どうしてもネルソンスを聴きたいかといえばそうとはいえない演奏でしょうか。つまり、色々ブルックナーの演奏を聴いた人がたまに毛色違う演奏を聴きたいと思う時に聴く、贅沢品な気がします。
 
しかし、最近の指揮者は音色そのものを、自分色にデザインしていることが多いと感じています。それを特に感じたのはアバドぐらいからですが、ティーレマンにしろ、ラトルにしろ、柔らかい絹のような柔軟な音色と、時には自分好みな色彩感を身に着けているように思います。アバドやチェリビダッケの影響なのでしょうか。
 
もっといえばカラヤンからですが、あれは彼が晩年に至って、作り上げた豪華絢爛な美でした。チェリビダッケにしろ、そういうことが許されるなら、ということで最近の指揮者は「意識的に」音色を作り出しているように思います。
 
昔の指揮者でも「自分の音色」を持っていた、といえますが、それはもっと「地金」のむき出しの音色でした。カール・ベームの演奏を聴けば、決して洗練されてないが、確かにカール・ベームの音がします。しかしそれは彼らが曲の内容を引き出すのに必死で、音のテクスチャーにそれほどこだわらなかったからだといえます。
 
最近はこのネルソンスの演奏を含め、音色のテクスチャーにこだわり、丁寧で繊細な音がします。曲の内容については、ほぼ過去の大家が掘り起こしつくし、今の指揮者はそれを情報として共有していると思います。
 
ネルソンスのこのブルックナーについては若干チェリビダッケの影響があるような気がしますが、音は硬質で、漏らしのない演奏、必要なことはしているように思います。新時代を感じさせる演奏には違いないようです。
 
 
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、「ブルックナー交響曲5番」(2015)。
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最近は緩めのブルックナー演奏ばかり聴いていました。
 
どうしてもブルックナーを聴きたいというよりは、楽しんで聴きたいということを優先してきました。
 
パーヴォ・ヤルヴィのブルックナーを聴くと音色がカラフルで面白い、とか、ネルソンスでいえば、繊細な音色で近代的に響くブルックナーはどうなのだろうか、とかいう興味を優先していました。
 
そこにスクロヴァチェフスキのブルックナーを持ってくると、演奏のあまりの厳しさにびっくりします。ギュンター・ヴァントの小型版というところでしょうが、指揮者の身体に身に着いたブルックナーの感性が「面白い」とは別の次元で音楽を聴かせてくれます。「面白い」演奏は直に飽きますが、何度聴いても耐えうるのはこういう演奏でしょう。
 
純粋に名演だと思います。第一楽章とフィナーレのコーダの伸びやかな美しさが素晴らしいです。

 

現代は悲劇の時代です。先日もマンチェスターでテロ事件が起こり、現在22人が死亡とのこと。結局のところ終わりのない世界的な内戦という印象を醸し出しています。これはより本質的なところでいうのなら、根本的な原因をあぶり出そうとせず、その時の印象印象でのみ行動する、人間の近視眼的な衝動による「人類全体の課題」といえます。

 
争いの原因を解決することなしに、常に力で相手を圧しようとする「両陣営」の間違いの繰り返しともいえるでしょう。
 
20世紀も終わり、人類は新たな平和を欲してきたのでしょうが、幾分平和に見える世界的な世相とは裏腹に内部の多くは腐敗し、堕落しているように見えます。それは政治でだけでなく、文化、芸術などに関しても・・・。
 
近頃ポップアイコンとして世間を賑わせていたレディー・ガガなどの音楽も初めは面白いと思って聴いていましたが、近頃はややバイオレンスやセックス・アピールなどが気になり始め、音楽も暗く、ほとんど聴かなくなりました。
 
 
現代人は暗い物や、攻撃的なものをそれほど気にもせず当たり前のように取り込んでいます。それらは必要な時もありますが、常食にするにはあまりにも動物的すぎるようです。
 
彼ら特有の「自分は一番でなければならない」という印象にはもう疲れました。勝手にしたらよいと思います。彼らは自分達の正当性を情熱で訴えますが、それは実は「嘘」の隠れ蓑なんかじゃないかと、最近は感じてもいます。当然その全部が悪いというつもりはありません。ただ、ちょっとその量が多すぎる気がしてます。
 
もっというのなら、「感動」できる形に物事を創造したとしても、それは必ずしも正当化されるとは限らないということです。「嘘」はどこまで行っても「嘘」のままなのです。
 
こういう物ばかり聴きすぎると、自省の念が薄れるようです。たまに聴く程度で良いと思うようになりました。 ・・・しかし、まあ、こんなことを書くようになった自分は、ちょっと歳をとりましたかね。
 
 
ヘンリク・グレツキによる交響曲3番「悲歌のシンフォニー」。デイビット・ジンマン指揮ロンドン・シンフォニエッタ(1991)。
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紹介したのは、現代作曲家ヘンリク・グレツキ(1933-)による音楽です。この曲については以前にも書きましたが、これはこの曲を世の中に知らしめたディスクで、30万枚のベストセラーになったものです。静かで柔和な音楽と切々と歌われる修道院の哀歌が心を打ちます。
 
現代音楽には珍しい、訴える内容を持った曲で、この3番は特にそうだといえるでしょう。他に彼の交響曲2番、4番も聴きましたが、そこまでの魅力は無いように感じましたので、当面、新しい評価が出てくるまではこの曲はグレツキの代表作といって良いと思います。
 
 
グレツキ同様、東欧出身の作曲家に似た作風のアルヴォ・ぺルト(1935-)がいます。グレツキはポーランド出身、そしてぺルトはリトアニア出身となります。彼らの音楽に根底に共通してあるのは深い祈りであり、同時に淋しさといえます
 
 
アルヴォ・ぺルト、「タブラ・ラサ」(1977、1983、1984)。サウルス・ゾンデスキ指揮、リトアニア室内管弦楽団。
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14世紀から16世紀にかけてのフランスの合唱音楽を学んだ彼の音楽は、過去のアーリー・ミュージックの世界を思わせるものがあり、そこに惹かれる人はいるのではないでしょうか。
 
 
例えばア・カペラ・グループ、タリス・スコラーズの歌う、アルバム「ティンティナブリ」(ティンティナブリはぺルトが開発した作曲技法の名前である。2015)。
 
ここに収められている曲を聴くと、それはまるでヨーロッパのルネサンス期に戻ったような気になります。ラッスス、ジョスカン、オケゲム・・・?一体誰の音楽に似ているのだろう、と自問自答してみます。似ているが、どこかそれらの音楽とは違う音楽・・・。何か違う音楽です。
 
何より、その根底にある深い悲しみ・・・。
 
ぺルトの「アリーナ」(1995)でもそうですが、聴いていると、個人的に、その根底にある淋しさの強さに疲れを覚える気がします。悲哀といっていいのかもしれません。
 
そして、こういう音楽を聴いていると先日のテロ事件などを思い出してしまう自分がいます。ここにはそういった現代的事象を思い起こさせるものがあるように思えます。
 
 
現代音楽も茨の道を歩いて来たのでしょう。自分のやってきたことの間違いを認めねばならいからでしょうか。あるいは、他人の間違いを指摘しても一切聞いてもらえない苦しみからでしょうか。現代音楽の作曲家は時代の声を反映させねばならないのでしょうが、一体その時代の声とは何なのでしょうか?
 
これらの曲の底辺に内通する悲哀は現代をリアルに見ようとするものが持つ、根源的なものなのかもしれません。互いの殺し合いを止められぬ思い、あるいは、自分と他人との考えのあまりの隔たり・・・。
 
例えるのなら、テロリストは確かに悪者かもしれません。しかしもっと考えるのなら、自分達はどうなのだろう?という想像も浮かびます。本当に彼らを悪者といい切れるほどに、自分達はしっかりできているのだろうか?そしてそれを世間に投げかければ、当然のように自分に批判の矢が向ってくるわけです。
 
つまりテロリストを批判し、そしてテロリストを作り出した人々を批判すれば、同時に自分は両陣営から批判されることになります。そしてその時になって初めて彼は人生において何が本当に大切なのか知ることになるのではないのでしょうか?
 
誰とも争うということなく生き、そしてその底辺に沈む本当の「平和主義」が批判されるとき、本人は初めて人々が争うのは・・・実は彼らが自ら「争い」を好んでいること、そして、彼らは自分達のみが「正しい」と思っていることに気付くわけです。
 
そこに必要なものは何なのでしょうか?
 
自身が争わないと決めたのなら、やれることは「思う」ことしかありません。もっといえば・・・「祈り」しかないといえます。
 
それ故彼らの音楽は祈りとなりやすく、そして祈りよりもむしろ「鎮魂歌」に近づいている気がします。
 
根底の悲しみと釣り合いが取れるほどの「鎮魂」の歌です。
 
室内楽の「タブラ・ラサ」の後半に描かれている物々しい悲しみや、同アルバムに収められている「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」における感動的な慟哭は、こうした現代作曲家の特質の一つなのかもしれません。
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スティーブ・ライヒ「18人の音楽家のための音楽」(1976)。
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グレツキやぺルトの音楽が伝統的なクラシック音楽とのつながりを保った音楽だとすれば、スティーブ・ライヒ(1936-)の音楽はそれまでの音楽とは全く隔絶された、特異な音楽といっても良いかもしれません。
 
この「18人の音楽家のための音楽」は、繰り返されるリズムが微細な変化を遂げながら、ほとんど無限ともいえる連続性を持って表現されています。18、19世紀由来の古典やロマン派の語法は全く綺麗に洗い流され、近代的な雰囲気を漂わせています。
 
繰り返される音楽は古い音楽に比べるとポップでさえあり、明るく淀みがありません。寄っては返す音楽のウェーブはエコーのようであり、どこか南国風の印象と混じり合って、海の中に泳ぐようです。
 
しかし、マーラーあるいはショスタコービッチのような深い感動があるかといえば、そうではなく、常に豊かに響くやや楽天的な印象があるだけといえばそうなのかもしれません。イージー・リスニングに近い気もします。
 
ですが、これだけの音楽を作ろうと思うなら、かなり精緻な設計は必要だったでしょう。その創作意欲と、響きの面白さは一聴の価値ありでしょうか。重いぺルトやグレツキの音楽に比べると、楽しんで聴けることは間違いないようです。

 

小沢征爾指揮、ボストン交響楽団「マーラー交響曲全集」(1980-1993)。

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小沢征爾(1935-)によるマーラー交響曲全集。
 
邦人演奏家が小澤征爾を評価するケースはあるのかもしれないですが、日本のリスナーが小澤征爾を評価するケースは少ないように思えます。個人的にもあまり好みの演奏家でありません。
 
小沢によるボストン響の演奏はいくつか聴いてきています。チャイコフスキーの「悲愴」、R・シュトラウスの「ツァラトストラ」、あるいはホルスト。
 
彼の演奏の特徴は音の透明感と、ソフトで軽めの語り口にあると思います。日本人の我々にとってみれば、小沢でなく、西洋の指揮者によるヨーロッパ風の、子音のきいた、重厚な表現はやはり「我々にない特質」という意味で興味を引くものです。
 
故に日本のリスナーの小沢に対する興味はといえば、彼が西洋の伝統文化で出世したこと、とのみいえるかもしれません。
 
ところが、その「西洋での出世」自体は、ヨーロッパなりアメリカなりの、小沢への評価がある程度確立している、という証拠であるといえます。そこに外国のリスナーと日本のリスナーの評価の差があるといっても良いと思ます。
 
「国際的活動を繰り広げる最初の日本人、小澤征爾は20世紀におけるもっともカリスマ性にあふれた指揮者の一人だ。何をやっても素朴な人柄がにじみでてしまうけれども、彼こそは現代的な意味での真のスターである。漆黒の蓬髪が真っ白に変わり、顔は水気の抜けたリンゴのようにしわだらけになってからも、指揮台の上の小沢はいつも度肝を抜くようなショーを繰り広げてくれる。猫のようにしなやかに踊る姿は、ありとあらゆる音楽を魅力いっぱいのショーに変えてしまう。」(「偉大なる指揮者達」クリスチャン・メルラン著、神奈川夏子訳。ヤマハ・ミュージック・コーポレイション)。
 
彼特有な透明で軽いオーケストラの響きは、日本ではあまり知られていませんが、フランス音楽、特にアウォードに輝いたラヴェルやドビュッシーに向いているといわれます。そして交響曲についてはベートーヴェンやブラームスよりもマーラーということになります。
 
しかしマーラーとはいえ、ここでも小沢の特性は発揮され、マーラー特有の重厚さよりも、響きの透明な軽めのマーラーになっているところがユニークでしょう。うるさくなく、ソフトな響きが現代的でハイブリッドなマーラー像を描き出しています。
 
ただやはり、個人的にはファーストチョイス、というよりは重厚なマーラー演奏に食傷気味のリスナー向の演奏のような気がしますね。
 
 
オイゲン・ヨッフム指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団「ブルックナー交響曲9番」(1983)。
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オイゲン・ヨッフム(1902-1987)の十八番、ブルックナーの演奏です。最晩年の演奏でゆったりしたテンポと、豊かな響きが特徴でしょうか。先の見えないような奥深いこの交響曲ですが、意義深い響きで聴かせます。
 
脂の乗ったドレスデン盤(1978)は、音質の透明度が高いながら、情熱的で、破裂するような金管群、張りのある合奏で若々しさが全開していましたが、こちらは感情に左右され過ぎない幽玄さが魅力でしょう。
 
第1楽章の第2主題などこの曲独特の崇高さと雅さが混じり合った感情が良く出ています。
 
 
ジョルジュ・プレートル指揮、シュツットガルト放送交響楽団「新世界交響曲」(1996)。
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こちらも老境に達したジョルジュ・プレートル(1924-2017)による情熱的なドヴォルザークです。曲と一体と成り、自由自在にオーケストラをコントロールしつつ、迫力ある演奏を展開しています。
 
夢中になって指揮する指揮者とオーケストラは熱い血がたぎっています。昔録音されたカラスとの共演盤「トスカ」、あるいは「カルメン」などはやにっこさが目立って苦手でしたが、彼の得意なマーラーなどにしても、時間の経過などもありますが、高い解釈能力と相まって聴かせます。
 
感情の高ぶるフィナーレはアグレッシブな推進力と共に聴き手を興奮させる力があると思います。

 

4月の終わりから5月4日まで、インド洋のモルディブまで行ってきました。モルディブは初めてです。今回もじっくり時間をかけてホテルを選んでいる時間がなく、急ぎのブッキングでした。

 
といういことで、今回はインド洋のモルディブ旅行の記事を書いておきます。

 

モルディブはインド洋に浮かぶ無数の孤島からなる島で、各島には1つのリゾートしかない、1島1リゾートの場所です。これをいきなり下調べもなく、ブッキングとは我ながらかなりの無茶でした。
 
 
水上飛行機での移動ではそうした沢山のリゾートを確認することができました。どこでもため息が出るような美しい場所のようです。
 
 
自分が滞在したのはバア環礁にあるフィノールというリゾートでした。首都マレから水上飛行機でおよそ35分。
 
 
 
およそ2時間で島を1周できるリゾートで、1.8キロに及ぶ砂州を売りにしたリゾートです。
 
 
自分はおよそ3日半、ここのホテルに滞在しました。しかし、個人的にはモルディブといえばシュノーケリング三昧なのかと思っていましたが、ここではそうではなかったのでした。
 
何でもこの島はダイバーが来る島らしいです。しかし、そんなことは旅行会社のホームページには書いて無く、こういうのは正直困りました。自分もあまり時間がなく、急いで旅行先を決めたのがいけないのもあります。
 
モルディブは「ハウスリーフ」と呼ばれる魚が群れるラグーン内のサンゴが発達した場所があるかどうかが、リゾート選びの一つの基準になっているようです。このフィノールも砂州の奥にありますが、あんまり発達しておらず、水の透明度も高くなかったです。
 
もう考えを改めるしかありません。どのみち非常に疲れていましたし、休むのが一番です。あんまり何も考えず、ゆっくりすることにしました。
 
自分が泊まったのはラグーン上に並ぶ、ラグーン・ヴィラ。その姿はモルディブでよく見る映像ですね。
 
 
すると、滞在時は晴れてばかり。信じられないような美しい光景が毎日浮かび上がりました。 
 
 
 
 そんなヴィラからは直接海に入ることができます。
 
ヴィラの下部にある海は透明度が高く、美しいですが、ハウスリーフがないのでシュノーケリングには向きません。時折、リーフシャーク、巨大なアカエイ、ダツなんかが水面から見えます。美しい光景ですが、潜っても逃げられました。
 
 
まあ、しかしおかげさまで何もしなくても海を見ているだけで満足できるものだと実感できました。非常な贅沢です。

 

旅行で満足を得るのは簡単ではありません。旅行中に知り合い、途中まで同行したカップルとも話しましたが、フィノールに泊まった後、姉妹ホテルのアミラフシにも泊まるとのこと。おそらく二泊ずつなのでしょうが、できれば一カ所に長く泊まりたかったとのこと。

 
これは自分も経験があるのでわかるのですが、それは全く同感です。特に一日目は長い移動時間があります。個人的に海外旅行で一番つらいのは長時間の飛行機移動です。今回も香港でのトランジットの時間を含めると、日本からモルディブまで計13時間の移動。さらに首都マレから、自動車、水上飛行機を乗り継いで、移動。
 
とても疲れるんですね。
 
 
さらに旅行中日に移動となると、やっと疲れが取れたところでさらに移動となります。ツアーは二カ所楽しめるとかを売りにしてますが、飛行機の乗り継ぎ時間が長い場合などは一カ所のホテルでとどまって、そこでじっとしている方が満足できることが多いように思います。疲れがとれないと、現地の本当の良さが理解できないからです。
 
 
また今回は高額なデポジット金を取られました。1日200USドル。自分は3泊でしたので600ドル。これも中々ツアーの説明に書いてくれません。1緒に来たある家族はカードが何故か使えず、またキャッシュの持ち合わせもなく、困っているようでした。
 
確かに何でも高くつきます。自分は朝食と夕食がつくハーフボードと呼ばれる予約でしたが、飲み物代は当然別途、さらにサービスチャージ料、ゲスト料などがつきます。昼食をアラカルトで頼むと、1人50ドル近くはいきます。2人で行けば1食100ドルいってもおかしくありません。こういうことは行って始めて分かることも多く、旅行の大変なところだと思います。
 
しかしこうした高級リゾートは、その分サービスが良く洗練されているという訳です。
 
 
おかげさまで今回は無理して泳いだりしなくても旅行は良いものだと思うことができました。それぐらい海と建物が美しかったです。ビーチベットでゴロゴロしました。
 

 

そうはいっても自分はやはりシュノーケリングがしたいので、ハウスリーフのあるアミラフシにも出かけました。フィノールからシャトルボートで30分ぐらいですね。

 

 

3日目と4日目は良く晴れて特に美しかったです。アミラフシは熱帯の樹木が生い茂り、やや寂しめのフィノールと比べて、活気があるように思えました。
 
 
海も美しかったです。
 
 
シュノーケリングしてるのは自分だけでしたね。
 
 
 
やはり心は弾むと思いました。
 
 
ポイントを探すのにちょっと苦労しました。魚影はまあまあ、という感じの量です。2、3時間泳ぎました。
 
 
あとは景色を眺めつつ。
 
 
5時間ほどの滞在でした。
 

 

そして、フィノールでの最終日の海が1番美しかったように思います。

 

 

モルディブはインド洋の宝石と呼ばれているそうですが、この日の海はまるでエメラルドグリーンのサファイアを1面に敷き詰めたかのようでした。

 
 
フィノールの宿泊客には中国人やドイツ人が多かったように思います。
 
 
最後に美しい音楽を。
 
 
アルヴォ・ぺルト(1935-)による、スターバト・マーテル(世界初録音)。クリスチャン・ヤルヴィ指揮、ベルリン放送交響楽団。
 
美しさは、静謐と謙虚さの中に宿ると信じる自分にとっては、こういう音楽は美しさの象徴でしょうか。アーリー・ミュージックを思い起こさせますが、現代的なワサビが効いています。

 

今日は暑いくらいの良い天気でした。散歩日和とはこのことです。近所に公園を見つけました。大きな公園で、森があります。

 

 

非常に綺麗な一日でした。幸せです。