カラヤンのベートーヴェン交響曲全集 |  ヒマジンノ国

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今回もレコードを聴いた感想を書きます。しかし所詮素人のたわごとなので、悪しからず(*^^*)。あくまで個人的な意見ということで、お願いいたします。

 

 

カラヤンは、公式に4回のベートーヴェン交響曲全数を録音した、とされています。1度目はEMI、フィルハーモニアとの50年代のモノラル録音。残り3回はベルリン・フィル、ドイツ・グラモフォンとのステレオ録音です。これは60年代、70年代、80年代に分かれます。

 

今回自分が聴いたのは、61年と62年に録音された全集です。

 

 

SKL100-108。ドイツ・グラモフォン盤。

 

 

以前買ったグラモフォンのアナログ・レコード(ステレオ)の音質があまり良くなかったので、グラモフォンのレコードに偏見があったのですが、チューリップ・レーベルというのを購入してみて、決して音が悪くないことを確認できました。イギリスのレコードのように切れ味の鋭さはないですが、厚みのある、充実感が感じられる音がします。素晴らしいと思いました。

 

 

自分は、カラヤンのベートーヴェン全集は、フィルハーモニアのものが未聴。80年代と、70年代はCDで聴いています。世評では70年代の録音が評判が高いとのこと。しかし、ドイツ・グラモフォンはこの60年代の録音を何度もLP化しており(今年の250年イヤーにも発売している)、多分ドイツ・グラモフォンとしてはこの60年代のものが、カラヤンのベートーヴェン交響曲全集の代表盤という主張だと思います。

 

70年代以降の全集はカラヤン好みの音になっており、ベートーヴェンとはいうものの、時折イタリア・オペラの序曲のような、軽妙な響きさえします。内容は整理整頓され、「ドイツ風」ではなく、彼個人の音になっています。ベートーヴェンを聴く、というよりは「カラヤン」を聴く、というような。しかしこれはカラヤンの場合、そうなることが圧倒的に多いようです。常に彼は、まるで「作曲家の代理」、のようです。

 

彼の演奏によって「曲」は、「土着性」の排除が行われ、常に「常識的な人間」(どの世界でも人間の感情は同じだというようなものです。ヒューマニズムといい換えても良いかもしれません。カラヤン流の、一定の方法論によって処理される)の理解できる範囲に表現が収められます。それ故、大衆性とインターナショナルな性質を獲得するわけです。

 

非常な極論をしますが、イタリアの音楽というのは歌劇が多く、音楽というのは多くの場合、「伴奏」であるわけです(極論として)。そこで歌う人、あるいは音楽に囲まれて生活する人々、というように、主人公は常に「人」(音楽を愛する人々)になります。音楽は生活を彩る、衣服のような存在です(歌劇場は社交の場であるわけです)。

 

それに比べると、ドイツにも歌劇はあるのですが、同時に純粋なオーケストラ用の音楽が多数存在します。交響曲などはここに入ると思いますが、そこではコンサートの主人公は「曲」そのものになるわけです。「音楽」は単なる「伴奏」ではありえません(特に19世紀後半からの流れで意識されてきたわけです。それ以前の時代はもっと直接的に、哲学的ではありますが、人間的であった可能性はあります。ワグネリズムの影響、しかしそれこそがドイツのというものでしょう)。

 

指揮者もそれに習い、イタリアでは比較的現実的な指揮者が多いのに対して、ドイツでは時に、「作品」そのものに入り込む指揮者が現れます。ドイツの、フルトヴェングラーとか、ギュンター・ヴァントのような指揮者は、音楽そのものを追求する指揮者で、「人」と「音楽」とに差をつけるならば、「音楽」の方が重要と考えるような存在です。

 

イタリアの指揮者もジュリーニのように、「芸術至上主義」の指揮者がいるとも思いますが、演奏を聴く限り、イタリア系のドイツ音楽の演奏はやや「ザッハリヒ」近づくように思えます(トスカニーニのザッハリヒなスタイルは、ドイツの伝統がなかったから成しえたともいわれています)。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤンの素性はそういった、イタリアの指揮者に近いところがあり(根の部分で。当人はオーストリア人という自覚が強かった)、純オーケストラ作品については「伴奏的」ともいえる演奏を示し(特に晩年)、コンサートでの「主人公」は当然のように「曲」そのものでなく、「カラヤン」本人(また同時に聴衆でもある)、というような感じがあります(作曲家ではなく。当然これも比較論として)。そしてこれが近代オーケストラに、一種のオーケストラの独立性をもたらしたように見えます(不思議と、水と油のようにいわれるチェリビダッケにも同じようなところがあります、楽譜は料理の手本に過ぎない、ということです。それは時代の要請でもあったからだと思います。要は作曲家の位置づけが、演奏することにおいて、やや下がった、ということになると思います)。

 

カラヤンはドイツで教育を受けましたが、トスカニーニに憧れたように、南欧風の資質が強く、それが混じりあったために、イタリアとドイツという2つの文化圏で成功し、後に「帝王」と呼ばれるような状況を作ったと考えられます。

 

「トスカニーニ的なラテン系の明快な音とフルトヴェングラー的なゲルマン系の溶け合う音の集大成、音の美しさに対する独特の感性、リズムの精度と旋律に向けた鋭い知覚が、カラヤンをカラヤンたらしめている。」(クリスチャン・メルラン)

 

70年代と80年代でのベートーヴェン交響曲全集は、「知識」としてベートーヴェンの音楽は浄化され、曲の内容を完全に抑制し、美化を図っています。そこでの「音楽性」というのは、人間の持つ根源的な「運動性」とか「常識的な感情」です。オーケストラをドライブする興奮、というような、行為としての、人間的な感情が音楽と見られているわけです(文学性ではない)。それ故、ベートーヴェンの音楽そのものを前面に押し出してきた、フルトヴェングラーとは対蹠点と見られる瞬間があります(カラヤンは音楽の「文学的な意味」において、これも比較論ですが、ドイツ系の指揮者としては無内容ともいわれてしまうことになります)。

 

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〈カラヤンの、60年代の全集について〉

 

ところが、1962年といえば、まだカラヤンがベルリン・フィルに就任して7年しか経っていなく、完全にカラヤンの音になりきっていない時代です。演奏も内容を整理はしていますが、完全に統制しきれていないように見えます。ここでは、上に書いてきたようなカラヤンの傾向から、外れて見える部分も多いように感じますね。

 

そういう意味ではこの60年代の全集を評価するのはなかなか難しい気がします。カラヤンの音楽でありながら、所々そうでない部分もあるように聴こえるからです。

 

良い演奏なのは確かだと思います。前のめりになって、切迫感強い表現を出しているところが魅力です。トスカニーニの全集を参考にしたといわれており、緊張感ある表現がこの全集にはあります。

 

ただトスカニーニであれば、あのまじめすぎる演奏が、ベートーヴェンの強度の思い込みある性格の部分と、がっちりリンクしており、一見ひどく即物的な演奏と思える中から「純粋な音楽的」意味で、ベートーヴェンの音楽的思想に命を吹き込んでいます。躍動感と思想の音楽芸術です。カラヤンの演奏はもう少し楽観的で、トスカニーニのように、しんねりむっつりせず、オーケストラは楽しそうに鳴っています。

 

 

自分の感想では、第1、第2、第3、第5、第6、第7は素晴らしい演奏だと思いました。他の曲も素晴らしいですが、特に印象に残ったのは上述の曲です。緊張感と豪壮なオーケストラの迫力によって、後のカラヤンとは全く違う演奏に聴こえます(基本的な解釈自体は同じかと思います)。

 

何より驚きなのは、オーケストラにフルトヴェングラー時代の音色が残っていることです。フルトヴェングラー時代のプレイヤーが、まだ多数残っていたのでしょう。演奏は確かにカラヤンのものですが、とても不思議な音がします。

 

オーケストラの合奏の上塗りでない、神々しさはまさにフルトヴェングラー時代の音色。フルトヴェングラーの作る音楽は各楽器の音色の息が長く、緻密な心のこもった響きでしたが、それがところどころ出てきます。息の長い弦楽器の合奏は良く練られ、厚みのある豊かな絹のような響きとなります。管楽器は有機的で、最強音でさえ、芯のある膨らみと強さを持ち、そして低弦、コントラバスの強靭な迫力などは、まさにベルリン・フィルだと思わせます。聴いていると何度か、フルトヴェングラーが演奏しているのではないかという錯覚に襲われました。ベルリン・フィルこそはフルトヴェングラーの「楽器」だった、そう感じざるを得ない瞬間です。カラヤンはそういった音色を無理やり押し込めず、自分の音楽の中に消化して、独自の音楽にしているように思えます。

 

特に印象に残ったのは第2。フルトヴェングラー流の伸びやかな音色が残っているベルリン・フィルをコントロールしながら、音楽をぐいぐいと追い込んでいき、出てくる音そのものから、内在する躍動感と生命力を引き出しています。第1楽章の結部、ハイスピードの演奏はまさにトスカニーニを思わせ、有機的なしなりを見せていくのは、晩年のカラヤンにはないものです。「音楽」そのものが生きています。

 

第3も名演だと思います。トスカニーニほどのテンポはないですが、前進する気迫に満ちています。にもかかわらず、エロイカ特有の流線型の主題はどこか優雅さをたたえ、カラヤンの独自性を感じます。

 

第5は第1楽章がハイスピードなので、そのままで進むかと思いきや、緩徐楽章以降はスケールが大きくなり、荘厳な造形を見せます。所々、絶叫するオーケストラの迫力はまさにカラヤンのものですが、その響きにフルトヴェングラーの息吹が残っているのが不思議でなりません。この第5ほど、聴いていて、フルトヴェングラーの演奏と錯覚する瞬間が多いものはありませんでした。一体誰の演奏だろう?

 

第6も後半のスケールの大きさとその迫力が出色で、立派な演奏です。

 

第7は最終楽章の稀に見るようなハイ・テンポが面白いです。その展開の速さに驚かされます。勢い込んでいる分、余計にそう感じました。

 

とにかく聴いていて、色々考えさせられる演奏でした。ちょうど時代の移り変わりを録音したようなもので、その面白さは出色じゃないでしょうか。色々な条件が重なってできた、非常に興味深い、ベートーヴェンの交響曲全集だと思います。

 

聴いて損は無いと思います。

 

2020、10/15、追記。一応レコードの音をのせておきます。

 

 
↑、第5、第1楽章。
 
 
↑、第5、第4楽章。とても動的な演奏で、後年の静的な演奏とはかなりの差があると思います。近年これぐらい迫力のあるベートーヴェンを聴くことは中々難しいと思います。