空の思想と仏教5 |  ヒマジンノ国

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最後に仏教と各種宗教の共通点や偉人の言葉などをみながらまとめにしていこうと思う。


宗教の本質には人間の根源的な「苦しみ」の原因を断とうとする働きがある。普段の生活の中で味わう「苦しみ」を断って、平安の境地に達すればそれはとても素晴らしいことだ。


かつて自分のブログで「失楽園」のことを書いたが、そこで触れた「知恵の実(善悪を知る実)」における「オリジナル・シン」の存在が人間の苦しみの根源であることを書いた。


人間が「良い」とか「悪い」と判断することに人間の苦しみの原因になる、「争い」や「自己正当化」の原因がある。またそこには「自己反省」がなければ人間が狂気に達する遠因がある。


結局のところ、「仏教」の「空」の思想においてもその原理は同じであると思う。「般若心経」や道元の「正方眼蔵」においても繰り返し述べられるのは、「判断」や「認識」を繰り返す領域を離れ、物事を意識的に、「判断」あるいは「認識」しなくとも、本当なら、人生には問題がないということを示している。


そしてその状況にどの角度から見ても、「そう成った」といえる人物、つまり、無駄な「判断」のない人物と成った、といえる時こそ、はじめてその人物は「悟った」といえるのではないだろうか?


しかし、それではまるで「馬鹿」な人間のようではないか、という疑問も出るだろう。だがトルストイの小説「イワンのばか」やワーグナーのオペラ「パルシファル」では「清らかなる愚か者」の姿が描かれている。



そして、そうした人間の辿りつこうとする「世界」は、人種、文明、文化による差が出るとはいえ、世界共通であるように思う。「ラスト・エンペラー」のベルナルト・ベルトリッチ監督(1941-)は「リトル・ブッダ」を撮り、ドイツの詩人ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は「シッダールタ」を書いた。




ヘルマン・ヘッセ、「シッダールタ」。高橋健二訳、新潮文庫。

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だから、宗教的な悟りの境地がある一定の成果を表現しているのは事実だろう。


ややオカルト的ではあるが、かつて日本にいた「大本教」(神道系)の教祖、出口王仁三郎(1871-1948)は宗教における「神」の概念を、「霊界物語」の中で次のように書いた。




出口王仁三郎、「霊界物語(抜粋)」。あいぜん出版。

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「大宇宙の元始に当たって、湯気とも煙とも何とも形容の仕難い一種異様の微妙のものが漂うて居た。この物は殆ど十億年の歳月を経て、一種無形、無声、無色の霊物となった。之を宇宙の大元霊と云ふ。我が神典にては、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と称へ、仏典には阿弥陀如来(あみだにょらい)と称し、キリスト教にては、ゴットまたはゼウスと云い、易学には太極と云い、支那にては天主、天帝、又は単に天の語をもって示されている。国によっては造物主、又は世界の創造主とも云ふのである。」


宗教は地域や国によって細部は違いがあるものの、要はその地域に暮らす人によって馴染み深くされた形になっているだけで、根本的な考え方はよく似ている。そういう意味でいえば一神教であろうが、多神教であろうが、根本的な意味の差はないと思う。


人間はそう簡単には「悟り」といえるような状態には達しえないだろう。宗教的な天才達、キリストやブッダならいざ知らず、凡人の我々にとって、その意義は、相当な経験や人生を経なけらば、その域に達することはあり得ないだろう。

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最後にドイツのヴォルフガング・ゲーテ(1749-1832)による「ファウスト」の内容を覗きながら終わりにしようと思う。 僕はここには仏教に通じる思想があるように思える。




ヴォルフガング・ゲーテ、「ファウスト」。高橋義孝訳、新潮文庫。

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ゲーテはドイツの伝説的人物ファウスト博士をテーマに取り、それを各種の現生での体験を重ね、天国へと召される人物の「戯曲」とした。


人生の向上を求めるファウスト博士は己の人生を、悪魔のメフィストーフェレスにゆだねる。ファウスト博士は、学問の研究では決して人生の真理を悟ることができぬことを知り、ある契約の代わりとしてメフィストの力で、常識的な人生では味わえない様な経験を体験させてもらうためだ。


メフィストーフェレスはファウストに人生の幸福の絶頂の言葉を発したとき、自分の仕事が完成したとして、ファウストの魂をもらいたい、つまり、地獄へと連れていくと申し出たのだ。ファウストはその賭けに乗った、というわけだ。ファウストはメフィストーフェレスに向かっていう。


<己がある刹那に向かって、「とまれ、お前は本当に美しい」といったら、己はお前に存分に料理されていい。己はよろこんで滅んで行く。


そうしたら葬式の鐘が鳴るがいい、その時は君の奉公も終わるのだ。時計が停り、針も落ちるがいい。


己のすべては終わるのだ。>


ファウストは、メフィストの力で若返り、少女グレートヒェンと恋をし、あるいはローマでは享楽と退廃の中へと身を置き、ついに冥府に降り、美の化身ヘーレナを得る。その間にファウストは数々の失敗を重ね、最後には盲目となる。


美の化身も失い、この世の悲喜こもごもを味わったファウスト博士。盲目をいいことにメフィストに騙されながらも、自分の墓を作る音を自らの事業の音と勘違いしつつ、必死に働く人々を知り、遂に人生の真理へと達する。ファウストはいう。


<あの山の麓に沼がのびていて、これまで拓いた土地を汚している。あの汚水の溜りにはけ口をつけるというのが、最後の仕事で、また最高の仕事だろう。そうして己は幾百万の民に土地を拓いてやる。安全とはいえないが、働いて自由な生活の送れる土地なのだ。


・・・中略・・・


そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。それは叡知の、最高の結論だが、「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享るくに値する」


そしてこの土地ではそんな風に、危険に取り囲まれて、子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。


己はそういう人の群れを見たい、己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。そういう瞬間に向かって、己は呼びかけたい、「とまれ、お前はいかにも美しい」と。


己の地上の生活の痕跡は、幾世を経ても滅びるということがないだろう―――


そういう無上の幸福を想像して、今、己はこの最高の刹那を味わうのだ。>


こうして、ファウストはメフィストのおかげで見せかけの富、権力、そして美から目覚め、自由な世界で、必死に無我夢中になって生きる人々に、本物の「美」を見出したのだ。だが、その時こそ、メフィストの契約の満了を意味していた。


メフィストは彼の魂を連れていこうとする。しかし、天使たちが降りてきて、メフィストからファウストの魂をさらっていった。天使はいう。


<霊の気高い一員が悪の手から救いとられました。「絶えず努力して励む者を、われらは救うことができる」


その上、この方には、天上の愛が手を差しのべています。神々しい群れが、この人を心から歓迎しています。>


必至に努力をたゆまぬ者は一々判断することを超えて、連続する「行い」と「思索」の一体感の中へと入ってゆく。その時、人はまわりの「見てくれの良さ」に惑わされることがなくなるのだろう。こういった思想は仏教の「般若心経」の「色即是空」の思想とよく似ている。


そしてこの「ファウスト」の最後は次のような感動的な言葉で結ばれている。


<すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず。

かつて満たされざりしもの、今ここに満たさる。名状すべからざるもの、ここに遂げられたり。

永遠にして女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ。>


そしてまさにこの「すべての移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず。」という言葉こそ、仏教のいう、あらゆる物質的現象がみせる、「実体のなさ」に通じるものであることに、間違いはないであろう。