空の思想と仏教4 |  ヒマジンノ国

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マルティン・ハイデガー、「形而上学入門」。川原栄峰訳、平凡社ライブラリー。

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しかし人によっては「判断しないこと」がどうして「認識」されうるのか、ということにもなるだろう。「空」とは何もないことでしかないのではないか?という問いを発した時、人々はそこに「何もない状態」を想定するのかもしれない。

 

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)は「形而上学入門」の中の「形而上学の根本の問い」の中で次のように問うている。

 

<「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いは、全ての真の問いに対して根拠を跳び出させ、それゆえに根源であるのだから、われわれはこれを最も根源的な問いと認めないわけにはいかない。

 

最も広い、最も深い問いとして、この問いは最も根源的な問いであり、逆にまた最も根源的な問いとして、この問いは最も広い、最も深い問いである。

 

以上の三つの意味で、この問いは等級から言って第一の問いである。等級から言ってというのはもちろん、この第一の問いが尺度を付与するものになって、それが開示し根拠づけるような領域内で何かを問うこと、そのことに序列をつけた場合のことである。われわれのこの問いは、すべての真実な、つまり自己自身を問いへと置いていくような問いの中にあって、これこそは問いと言えるような問いであり、これはどんな問いの中にも、知ると知らざるとにかかわらず、必ずともに問われている。どんな問いを問うにしても、したがってまたどんな学問的な「問題」でも、もしそれが全ての問いの中のこの問いを含んでいないならば、つまりこれを問わないのならば、それは自分で自分が分かっていないのである。>

 

ここではハイデガーの言葉を引用はしたが、その哲学からは離れて話を進めることにする。彼の言葉を契機として、僕自身の考えを単純化して述べていくことにする。

 

まず、目の前にある現象が「無」である、としよう。しかしその時、「無」とは一体何なのか?という問いが発生するだろう。

 

私達の常識の思考の範囲内では、物事が初めから「全く無い」場合、そこから「有る」状況は生まれ得ない、と考えることができる。なぜなら、そこには「何もない」のだから。究極的に「何もない」場合、私達自身さえいないだろことが予測できる。考える主体がいない場合、そこには一体何を想像できるだろうか?究極的な「無」からは私達は一切「有る」ことを感じ得ないだろう。

 

しかし、逆に物事が「有る」場合、そこから「無い」ことを初めて感得しうる。言葉でも「無い」ということが「有る」と書くことができる。また「無い」ということが「無い」と書くとき、それは「有る」ことを示しているのだろうと人々は考えるだろう。

 

しかし「有る」ということが「無い」という時、私達はこのできごとの前にまず何かが「有った」から「有る」ことが「無い」と想定しなくては成り立たないことを知るだろう。

 

つまるところ「無い」という状況は常に「有る」ことを前提にした言葉であることが分かる。だからもっといえば「無い」という状態は「無い」という状態が「有る」から「無い」のである。

 

その概念は「空」の概念によく似ている。数学でも「0」という数字がある。1+0=1だが、しかし1×0=0となる。0は概念的に何もない状況のようだが、本当に何もないというのなら0に何かをかけても永遠に0にはならないだろう。

 

ハイデガーのいう「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いにおける「無」の意味は仏教の「空」の概念によく似ているように思う。この場合の問いはむしろ、「存在者」に対する「判断」を望む人達に対する「問い」であるといえよう。

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さて、話をまた「正法眼蔵」にもどそう。

 

この「空」の概念における究極的な中立性はしかし、常に私達と関わりを持っている。「空」の概念を全く理解しない人であればおそらく「色(物質的現象)」に対する「判断」は免れない。その為、この「空」の支配する世界は「鏡」であるということができる(ただ僕の読んだ著作の中で、道元は「仏性」を「鏡」に例えてはいるが、その理由をはっきりとは語ってはいない。また道元は「古鏡」という言葉を用いているが、僕はそれを、「古い時代から永遠に続いている鏡」ぐらいの意味に解したい)。

 

「子犬」の話に話を戻せば、その「子犬」を「可愛い」という者、あるいは「可愛くない」という者共々、それはそう「判断」した「主体者」の「態度」を体現しているということが分かる。ここで視点は判断をした側、一人ひとりに移っている。

 

それ故、「色」が各人の「判断」を促す試金石であると知った時、「色」は「空」そのものである、といういい方にもなる。

 

「子犬」を「可愛い」といった人はそれがその人の性格であるし、人生である。また同時に「可愛くない」といった人もそれがその人の意見であるし、そういわしめる人生のバックボーンがあるのかもしれない。

 

つまり「子犬」が「鏡」になり、その人達の「性格」や「人生」を浮彫にさせているのである。目の前にあるものの質にもよるが「子犬」という現象が、それを見て感じた人の「人となり」を現しているのだということだ。

 

だから逆にいえば悟りを得たものは「空」の状態が「鏡」であることを自覚してなければならない。

 

「正法眼蔵」の中には「古鏡」という章がある。その中の一部を抜粋する。

 

<雪峰真覚大師と三聖院慧然禅師とが外出したとき、一群の猿を見た。雪峰がいうに、

 

「この猿どもは、それぞれ一面の古鏡を背負っている」と。

 

・・・中略・・・

 

「猿がそれぞれ一面の古鏡を背負っている」というのは、どういうことか。古鏡とは、もとより諸仏祖の面ではあるが、古鏡は、向上していく場合も古鏡である。また、「猿がそれぞれ面々の古鏡を背負っている」という場合に、その面々に、大面・小面(大乗・小乗とでもいおうか)の区別があるのではない。全世界ただ一面の古鏡である。背負うというのは、たとえば、絵にかいた仏像をうらうちすることをいうのである。猿が背負う場合に、古鏡でうらうちすることである。

 

うらうちするときに、どんな糊を使用するのか。こころみにいえば、猿のうらは古鏡でうらうちし、古鏡のうらは猿でうらうちする、ともいえようか。あるいは、古鏡のうらは古鏡でうらうちし、猿のうらは猿でうらうちする、ともいえよう。古鏡は仏祖、猿は自己といえようか。しかしながら、自己は仏祖でうらうちし、仏祖は自己でうらうちし、さらに、自己は自己で、仏祖は仏祖でうらうちする、ともいえよう。自己か、仏祖か。それぞれのうらうち、古鏡一面のことばは、むなしく立てられたものではない。まことによくいい得たものである。

 

そうだとすれば、畢竟するに、猿か、古鏡か、結局のところはどちらか。われらは、猿か、猿でないのか。いったいだれに問うべきか。問うべき誰もない。自己が猿としてあることは、自から知るのでもなく、他が知るのでもない。さらに、自己が自己としてあることは、いかに模索しても、ついに及ばない。>

 

世の中の、人々の意見はたくさんある。例えば「原発」。

 

僕は「原発」には、基本的なところで反対なのだが、立場によってはこれを認める人もいる。「経済活動」を重視すれば「原発」に対抗できる代替エネルギーがない以上、やむを得ない、という人はいるに違いない。

 

しかし、仏教によればこの「原発」でさえ、「空」の一部にすぎず、その「原発」に対して、各人が意見を表明することはその人物の態度とか、人生のバックボーンを表現している程度のことだといえる。

 

誰が「正しい」とか「間違っている」のではなく、現象によって「質」の差こそあれ、誰が下すとしても、物事に一定の判断を下す場合、それは「決まった」あるいは「変えようのない」意見ではないし、自分の意見も含め、むしろそれは「悟り」からほど遠い意見であるとはいえるだろう。何か一定の「意見」にこだわりすぎて、頑固になりすぎることは争い原因にもなるだろうし、「空」の概念からは程遠い、という以外にない。

 

つまり、「原発」でさえ、こだわっても仕方ないことだし、どうしても必要だったら続けたらいい、とかその程度のことである。

 

だから、外の現象を自分を映す鏡だとして、自分を見直す時、それは確かに「悟り」への一歩になるだろう。逆にそんな気もなく、外の世界のみが真実だといいだせば、いつまでも「鏡」の世界が本物だと思って、戦いを続ける人も出てくるだろう。

 

実際、人は自分の気分が悪い時、自分のまわりの世界が呪われているように思えるときがある。しかしそんなときこそ、世界が「空」の世界として「鏡」となり、その人の心情をはっきりと映し出している瞬間なのだ。

 

つまり「世界」が不満なものに見えるとき、世界は実際「不満」なものでも何でもなくて、その人自身が「不満」になっていることを示しているに過ぎない。なぜなら彼の外の世界は完全に中立で、般若心経流にいえば「空」だからだ。意味などない。その外の世界に映っているのはその人物の姿、そのものである。丁度、井上雄彦の漫画「バカボンド」で胤栄に自分の殺気を映された武蔵の姿である。

 

空海の、「後ろの正面、だあれ」と歌う歌があるが「後ろの正面」とは「あなた自身」または「私達自身」のことなのだ。