旧約聖書は不思議な書物である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典であると同時に、広汎的に人類全体の歴史と主題をも述べている。
しかし、実証科学的な見地からいえばこれらの内容は、全く「非科学的」であるだろう。たったの7日間で地球ができたとは誰も思わないし、当然僕もそうは思わない。ところがこの聖書には無数の物語があり、その物語は異様な興味を引く物語ばかりであり、時にそれは歴史的な事実とも一致したりする。
この不思議で人類の興味を引き続けてきた、太古の書物は、セム系民族のヘブライ人の手によるものだという。
「彼らの世界的重要さは、彼らが一つの文章を生み出したという事実に負っている。その文章というのは一つの世界歴史であり、律法や年代記や聖歌の集成であり、金言や詩や物語の書であり、政治的言論集であって、これらはついに、キリスト教徒の間に旧約聖書すなわちヘブライ聖書として知られているものとなった。この文章は、紀元前四世紀または五世紀に歴史に現れた。」(世界史外観、H・G・ウェルズ著、長谷部文雄、阿部知二、訳。岩波新書。)
サムソンとデリラ、あるいはヨブやヨナの物語、そして創世記における人類の原点を述べた物語・・・そして、その他多くの物語は、有史以来、人々の興味を引いてきた。これらは映画や詩、音楽のインスピレーションの源泉として、今だ人々の好奇心を捉えている。
ヘブライ人(ユダヤ人)がどこから来たのかは分からない。しかしアブラハムを祖先とし、預言者モーセによって、エジプトを逃れ、カナンに定着したという。これは紀元前10世紀以上前に起こった、といわれている。
人類史が一体どこまで遡れるかは疑問だが、それなりの理解をしようとすると、現在では紀元前、3000か4000年ぐらい前までしか遡れないことが多い。
エドガー・ケイシーなどの書物を参考にして、ある「オカルト的な見方」をするならば、中央アジアやアフリカ北方にあった、あるいは、南米に発達し、その後姿を消した、ブルネット系のヘリオシック(太陽巨石)文明の祖先の一部は、洪水で滅びたという謎の大陸、「アトランティス」からの生き残りだったのかもしれない。
そしてその人達の直系の子孫こそが、ヘブライ人だったのかもしれない、という考えも浮かびはする。
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旧約聖書は古代ユダヤ人の神「ヤハウェ」に対する信仰と、大筋が、民族の歴史を綴った書物であり、ユダヤ教の経典でもある。そのため、ここには数々の物語と同時に、宗教的な倫理についての描写も多い。
有名なのはモーセの十戒だろう。それは以下のようになっている。
- 神が唯一の神である 。
- 自分のために偶像を作ってはならない。
- 神の名をみだりに唱えてはならない
- 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。6日間働いてすべての仕事をし、7日目はどんな仕事もしてはならない。
- あなたの父と母を敬え。
- 殺してはならない。
- 姦淫してはならない。
- 盗んではならない。
- 偽りの証言をしてはならない。
- 隣人の家(物)を欲しがってはいけない。
厳密な意味で、ユダヤ教の込み入った教義に踏み込まなければ、この戒律は私達の実生活にも意義深いものになる。私達が自分の目で、もう一度この教義を「我々の感じる言葉の意味のまま」に読むのなら、この教義も決して他人事ではないことを理解できる。
実際十戒を守るのなら、人は戦争や自堕落な生き方をやめざるを得ないだろう。人を「殺してはならない」といい、「姦淫を犯すなかれ」といい、「父と母を敬え」、「盗みや嘘をつくな」といっているのであるから・・・。
そしてそうしたことを「望むこと」が「神」の「望み」であり、そうした「望み」を離れることは「偶像崇拝」である、とも読める。
それ故、モーセの十戒も「原罪」に対する一つの回答であるに違いない。
旧約聖書は基本的には、ヘブライ人の歴史と芸術の物語であるが、その他の宗教の経典になりうるのは、初めに述べたように広汎に人類共通の問題に深く触れているからである。
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C・G・ユング、著、「ヨブへの答え」。林道義、訳。みすず書房。
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これは心理学者カール・グスタフ・ユングによる旧約聖書内の「ヨブ記」への解釈である。
「ヨブ記」の中で、行いの正しいヨブに向かって、「ヤハウェ」は自身の全能の力に酔いながら、彼の正義を試しにかかる。神はヨブにあらゆる不幸を投げかけながら、その忍耐と善とを試すのである。しかし、ヨブは「神」に屈することはあっても、決して「悪」には屈しなかった。
<この三人の者はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分が正しいと思っていたからである。
すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。
彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。>(ヨブ記32章)
「ヨブ記」は信仰と神の意義の限界を問うている。
ヤハウェはヨブが屈しないのを見て、自身が彼を脅迫さえするが、ヨブは決して自身の「善」を捨てようとなしなかった。モーセの十戒であればこれは「偶像崇拝」とも取れそうなものだが、物事はそう単純ではない。
なぜならヨブの守ったものは「善」そのものだったからだ。だから最後に折れるのは「神」の方なのである。
そしてユングはここに彼独自の見方を示す。
「正義」が人間である「ヨブ」の側にあるのだから、「神」は今度「自身」が人間に生まれ変わって、その「意義」を体験しなければならないというのである。そしてそれがいずれ「イエス」に繋がる道だというのである。
イエス・キリストは旧約聖書で「予見」されるにすぎないが、C・G・ユングはこの書物の内面に既に新約聖書に繋がる動機があることを、書き記している。

