科学こそが世界を理解できる唯一の手段である・・・。
若いころ、義務教育を受けた自分の考えの中に科学こそが絶対」・・・という、その信念があった。人類の歴史は常に進化の過程なのであり、決して後戻りなどはしていないという信念。
それ故、近代発達した「科学」こそがこの世界の謎を解く最大の手がかりなのだと・・・。
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しかし反面、学生時代は、大げさにいうのなら、大学に通いながら、芸術や文学に触れることによって、「生きることの意味を問いたい」とも思っていた。
合計9年の義務教育と、3年の高校生活を経て思ったのは、自分の受けていた「教育」が必ずしも自分の生き方を、満足させてくれるものではないのだというぼんやりとした自覚だった。
当時の自分の受けた義務教育が一体どの程度ものなのか・・・。あるいは、それらは、本当に必要なものなのか・・・という疑問。
我々の受けた教育が一体「誰のものなのか」・・・という疑問。・・・自分は一体誰のために、あるいは何のために学ぶのだろう・・・ということ。
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人は本当に学びたいために大学に行くのだろうか?自由な時間のため・・・?あるいは世渡りのため・・・?学ぶことそのものについてもそうだ。偏差値のため?自分が優秀だと思うがため?
二―チェとダーウィンのいうことを信じるのなら、常に「人」は進化とか自己超克を目指さなければならないし、そのためには競争原理にさらされなくてはならないように思えてくる。しかも、その裏付けにこそ科学はあり、そういった生き方こそ自然の摂理にあっているとも思わせたのである。
だけれどもそうした生き方は繰り返すほどに殺伐としてくる。ニーチェのいう「永劫回帰」の思想ではないが、なんでそんなことをいつまでもすり返す必要があるのか?
結局いつもそれは堂々巡りで、初めに戻ってくる。
そして疲れ果てた自分を発見し、それを慰めるために自堕落な生活に堕する・・・。結局、義務教育を含む16年の教育(大学生活を含む)から学んで、実際に体験したのは、僕にとってそんな現実だったのだ。
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人間が食べものを食べ、「おいしい」と思うとき、なぜ人はそれをおいしいと思う必要があるのか。
現代の科学がいうように、人間の生存本能が、自己を生き延びさせるものに対して、体に必要な栄養価を含むものは、それを肯定的にとらえるため、その食べものの感触を「おいしい」ととらえさせているのか?
実際、味を感じさせるのは「味覚」だという。しかし、その「味覚」とは一体何なのか?学生時代の科学の教科書によれば、人間の舌には「味蕾(みらい)」なる感覚器官がついていて、それで味の種類を感じ分けるという。
だとすれば「おいしい」とは人間の生存本能に根ざした、単なる、生物的で本能的な欲求を満たして、自身が生き残るために必要な刺激でしかない、とういことなのか。
さらにいえば、その他のあらゆる感覚は?「楽しい」、「嬉しい」、「苦しい」、あるいは「美しい」・・・などの感覚や感情も、結局は個人を生き残すためだけの、動物的な生存本能を満たす感覚に過ぎないというのだろうか?
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少なくとも学生時代、大学に入って、トルストイやドストエフスキーの小説を読むまでは、「人間」、という存在は教科書が教えていたように「科学的」に理解すべきで、そう考えることが「正しい」ものの見方である、と思っていた。
しかし、こう考える自分がどこか「おかしい」のではないか、ということも、他方で、常に自分の頭の中にあった。
「科学的」に考えるだけでは、人間はおかしくなっていくような気がした。日ごろ、人間は必ずしも効率や、利便性だけで行動してはいない。確かに一見非効率や、不便なことのなかにも「意味」はあるし、そのような思考の経路を通れば、人間の「生存本能」に結びつける方法もでてくる。
だが、そういう方法をとれば「人間」は進化の最も進んだ「猿」にすぎず、我々の現実の生活は結局、「生」を受けた、一過性の有機体の活動という以外、他ならなくなる。
しかし、それではあまりに味気ない。
トルストイの小説は世界文学の最高峰、と呼ばれている。その中でも、「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」が飛びぬけて優れており、もっといえば「アンナ・カレーニナ」の完成度は「戦争と平和を」をしのぐだろう。
しかし、僕は学生時代「戦争と平和」を読んで、ひどく感動したのは、ときにその作品の程度を下げるともいわしめるような、哲学的な部分だった。そこには僕が義務教育を受けて以来、疑問に思ってきた問題に対する答えの、一端があったからだ。
だから、今回はそのことを視点のメインに据えながら、僕の初等教育の欺瞞を見抜いた、ロシアの文豪、トルストイの人生観と照らし合わせて、自分なりの考えを述べていこうと思う。
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レフ・トルストイは1828年、ヤースナ・ポリャーナという村で、名門貴族の家に生まれた。
感じやすいこの子供が成長し、物心が付き、人生の意味を問うようになると、この人物の探求心に満ちた人生が始まった。
1844年、カザン大学に彼は入学した。
しかし、大学とそりが合わない彼は、大学を中退、若き地主としてヤースナ・ポリャーナに戻ることになる。しかし若きトルストイは農村の改革に自信の理想を見出そうとして失敗、今度はロシアの愛国心にほだされ、軍務につき、クリミア戦争に参加した。
はたして、世界的な大作「戦争と平和」にとりかかる1863年まで、トルストイの生活は紆余曲折したのだった。そしてやっとのこと、彼の生活が落ち着き始めたのは、懇意であったベルス家のソフィアと結婚してからであった。再びヤースナ・ポリョーナに戻り、農業に従事しながら彼は、いわば、現代の我々が彼を「トルストイ」として認識しうる人物像となっていく。
この「戦争と平和」から「アンナ・カレーニナ」を執筆し終わる十数年の間までが大方、常識的な意見としてトルストイ芸術の最盛期であり、最大のものであるといわれるものだろう。そして、それは一般的な芸術の概念に当てはまる限り、妥当としか思えない。
しかし、この後、トルストイは自身の内面的な欲求から一種の危機に見舞われていくことになった。それは彼の中の「悪魔」のつぶやきでもあり、常識的な人間を超越した求道者としての彼の姿が、存在を現し始めた結果でもあった。
つまるところ、「トルストイには二人のトルストイがいる。危機以前のトルストイと、危機以後のトルストイとである。前者はよいが後者はよくない」というトルストイに対する批評にもなろう。
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トルストイ著、「戦争と平和」。工藤精一郎、訳。新潮文庫。
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≪「戦争と平和」は現代の最大の叙事詩であり、近代の「イリアス」である。それには無数の人間と情熱とが揺れ動いている。数知れない波の立っているこの人間の大洋を、一つの最高の魂が上から見下ろしていて、それが平静な心で嵐を巻き起こしたり静めたりしている。≫(ロマン・ロラン「トルストイの生涯」から。邦訳、蛯原徳夫。岩波文庫。)
ナポレオンが進行する前夜のロシア社会、その上流階級の人間達をメインに描写しながら、数多くの人間の生活と人生を綴った壮大な叙事詩。
生き生きと描かれる人物達、そしてロシア社会。明らかに、このような世界を表現するには膨大な理解と、下調べが必要なはずで、しかもそうした細部に対する理解が、空中分解せず、一体の有機的な生物を形成しているように自然である。
確かにこの「戦争と平和」以前に、こうまでリアルで正確な自然さと大きさを持った作品はなかった。まるで一遍の巨大な映画を見るように視覚的ですらある。
トルストイ、著「アンナ・カレーニナ」。木村浩、訳。新潮文庫。
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トルストイが前作「戦争と平和」で確立した自然な描写法を駆使しつつ、さらに高めた、おそらく彼の最高傑作である。人によっては世界文学の最高峰という人もいるかもしれない。
「戦争と平和」で時折顔をだした哲学的考察は姿をひそめ、読者は物語そのものを理解できる。
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「戦争と平和」はトルストイの代表作である。
これは大変に巨大な作品である。19世紀のロシア貴族の生活を描きながら、フランス皇帝ナポレオンがロシアに侵入し、それをクトゥーゾフ将軍率いるロシア軍が追い出すまでを述べる。ロシア貴族のピョートル、アンドレイ・ボルコンスキイ公爵、ナターシャの3人をメインに500人以上の人物が登場する。
トルストイの描写は精緻で、料理はおいしそうに、匂いたつように描かれ、自然の描写は瑞々しい。また彼の描く女性はどの長編でも、肉体的でコケティッシュだ。
そこには理屈ではない、作者の、感覚と自覚との調和がある。
物語の展開は極めて自然で、物語が「長い」ことを除けば決して難しい内容ではない。それは「アンナ・カレーニナ」にもいえる。アンナが青年将校オヴロンスキーとの不倫によって、彼女が自身の人生の幕を引くまで、物語は一切の妥協と破綻を知らず、自然に確実に進んでいく。その様子は残酷でさえあるだろう。正に一点の非の打ち所のない自然さである。
「戦争と平和」と「アンナ・カレーニナ」を読み比べると、初期の作品である「戦争と平和」の中には時折物語を中断して、作者が自身の哲学や思想が述べられる場面がある。もし「美学」的見地からいえば、小説内の物語を中断してまで述べられるこうした思想的ガイドは不必要だし、邪魔だろう。実際、その傾向が減った「アンナ・カレーニナ」はずっと読みやすいし、小説としてまとまりが良く見える。そして多くの世界中の読者は「戦争と平和」よりは「アンナ・カレーニナ」を方を、完成度の高い小説として見るだろう。
カレーニン婦人であるアンナが鉄道に身を投げるラスト・シーンは極めて印象的であり、その痛切な感触は忘れられない。それは「小説」という、完全に閉じた世界に息づいた、完璧な描写であるに違いない。
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レフ・トルストイは”人生の教師”と呼ばれている。徹底した批判能力を持つ彼は、当時の文明、科学、芸術、思想、哲学、政治などを糾弾し、人生に「本当に必要なもの」が何かを考えていった。
その徹底ぶりは常識的な人間のものではなく、厳しさに根ざした人格の持つ偉大さと聡明さを感じさせるものであった。年を重ねるごとに研ぎ澄まされていくその感性は、どんな妥協も許そうとしない極めてストイックなものに見える。しかし、この厳しさにこそ、彼の偉大さがあるのであり、そこにこそ、実際の権力や権威に対する、本当の意味での「批判」があった。徐々に彼の発言は政治や宗教などの権威の発言を上回るようになり、彼らからは恐れられるようになっていった。
元々ロシア貴族の生まれである彼は、その気になればもっと裕福な生活ができたであろうが、彼は農民達と共に生きる道を選び、実践していった。そして最晩年の家出は、まるでインドの仏陀が自身の身分を捨て去って、下野したように、厳しい批判精神の導いた結果であった。
彼は偽善を徹底的に嫌い、時代の「嘘」を暴いていく。そしてそれは自身の芸術にも向けられ、既に「アンナ・カレーニナ」の執筆時には自身の作品に対する「欺瞞」をも感じていたといわれている。「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」に見る自然体の小説は、その無駄のない流れからいって、一つの自己目的性を補完しており、美しいものである。
しかし、単に美しいだけの物語にどの程度の意味があるのだろうか?トルストイは次のようなことを述べている。
他人に対して必要なことを伝えようとすると、形式上の洗練が必要になってくる。小説の上の「美」とはその洗練具合のことであり、「美」の創作にたいして、「美」そのものを目的とするのならそれは「嘘」になる。「芸術」が「芸術」のためにあるのではなく、「美」もまた「美」のためにあるのではない。
究極的なところで、トルストイは自身の、現代でさえ「完全」に近いとも思われる「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」に、その「美学」上の欺瞞を感じるようになり、その創作の意義を自身に問いただしていったのであった。


