トルストイ著、「復活」。木村浩、訳。新潮文庫。
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「復活」はトルストイの書いた最後の長編小説で、その内容は「戦争と平和」、あるいは「アンナ・カレーニナ」とはやや異なっている。
この書物は彼の若き日の懺悔の書で、主人公ネフリュードフを通して、トルストイ自身が若き日に犯した姦通の罪と、その贖罪を描く。自然主義的で、完璧な叙事詩を思わせる彼の前2作の長編小説と比べると、この作品はもっと思索的で、作家自身の心が良く表れている。
一種の恋愛小説とも取れなくないが、主人公ネフリュードフの心はやがてカチューシャから離れ、聖書の福音に惹かれていく様子は、この小説が単に面白がって書かれていないことを表している。
この小説は当時、ロシアで「宗教的信念から兵役を拒否し当局から迫害されていた、ドゥホボール教徒」がカナダへ移住するための資金源になるものとしても描かれた。
<非暴力主義>
「悪に対して悪で報いて、後にいったい何が残るのか?」トルストイはそう語った。もっというのなら「悪を悪というものこそ、悪である」。(この場合当然、厳密な意味で「必要悪」とは区別することになる。)
悪が悪を裁きだすと、そこにはもう「善」が何も残らないことになる。何より、すべての争いの原因、あるいは第一歩は、結局、自分が「善」だと思うものが他者を「悪」と裁くところから始まっている。
「復活」のラストには次のようにある。
まずは<第四の戒律は(マタイによる福音書第五章三十八―四十二節)人間は目に目を報いてはならないばかりでなく、右の頬を打たれたらもう一つの頬をもさしださなければならない、侮辱を許し、心静かにそれを忍び、人に求められたときには断ってはいけない、ということである。>とあり、次のように続く。
「しかし、ネフリュードフは単に、人間はこれらの戒律を実行することによって、この世において実行することによって、この世において到達しうる最高の幸福を獲得できるということを認識し、かつ信じたばかりではなかった。彼は今や、すべての人びとはこれら戒律を実行するよりほか何ひとつなすべきことがないことを、その中にこそ、人生の唯一の合理的な意義のあることを、この戒律に背くことはすべて誤りであり、それはただちに罰を伴うものであることを、確認し、かつ信じたのであった。」
反戦論者がやがて「無抵抗主義」とか「非暴力主義」とかになっていくのはこうした、悪の連鎖を止めようとする理屈によっている。しかし、人類はこうした理屈を中々理解してこなかった。多くの人々は、彼らが暴力に訴えないことをいいことに、歴史の中で次々と迫害してきたのであった。
ソクラテスやバプテスマのヨハネ、あるいはキリスト。近年ではガンジーなど。J・F・ケネディーやジョン・レノンなどもここに加えていいのかもしれないが、トルストイも迫害こそされなったが、当時の権力に注目され、他方、政治や宗教を超えて発言できる彼の偉大さのために恐れられもした。
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結局、何が「嘘」で何が「本当」か、ということである。
トルストイは権力の「嘘」を激しく糾弾しているが、それは政治や宗教だけにとどまらず、科学、芸術などにも及んだのである。
トルストイ著、「人生論」。原卓也、訳。新潮文庫。
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トルストイは彼の信条のまとめとして「人生論」という書物を残している。彼は次のようにいう。
「たとえ樹木がおのれのうちに生ずるあらゆる化学的、物理的現象をどんなによく研究しつくしたところで(樹木が研究することができるとしての話だが)、樹木はそれらの観察や知識から、樹液を集めて、それを幹や、葉や、花や、果実などの成長のために配分する必要など決して引きだせないだろう。
それとまったく同じように、動物的個我を支配する法則や、物質を支配する法則を、人がどんなによく知っていようと、それらの法則は、人が手にしている一片のパンをどう扱えばよいか、妻なり、他人なり、犬なりにくれてやるべきか、それとも自分で食べてしまうのがいいか、そもそもこの一片のパンをとっておくべきか、ねだる人に与えてしまうべきなのか、といったことに対してはいささかの指示も与えはしないだろう。ところが、人間の生命というのは、もっぱらこの種の問題の解決に存するのである。
動植物や物質の存在を支配する法則の研究は、人間の生命の法則を解明するのに有益であるばかりか、必要ですらあるが、ただしそれは、その研究が人間の認識の主要な対象である、理性の法則の解明を目的としている場合に限るのである。
人間の生命は動物的生存にすぎぬとか、理性的な意識の教える幸福なぞありえないとか、理性の法則は幻影にすぎぬとかいった想定の下では、こういう研究もむなしいばかりか破滅的なものにさえなってしまい、認識の唯一の対象を人間から隠して、対象の影を研究していれば対象を認識できるという錯誤に人をとめおいてしまう。そんな研究はちょうど、生物の運動の原因は影の変化と動きにあると考えて、生物の影のあらゆる変化と動きを注意深く研究する人間のやっていることと同じようなものである。」
人は客体を主体化すると自我の分裂がおこり、逆に、主体を客体化すれば自己の統合をなす。
ここでトルストイのいうように、「人間の幸福」を抜きにした科学的法則は単に「この世界」が「どうなっているか」だけを説明する法則であり、それが「我々にとって」どれぐらい有用であるか、あるいは有用でないか、を吟味しない限り、何の意味もなさない、ということになる。
もっといえば、解明された「この世界の科学的な法則」という権威が、我々の実際の生活より「偉くなる」、ということほど馬鹿馬鹿しいことはない、とうことでもある。
もちろん、トルストイは科学を「不必要」だとはいっていない。
「動植物や物質の存在を支配する法則の研究は、人間の生命の法則を解明するのに有益であるばかりか、必要ですらあるが、ただしそれは・・・」
要はその権威主義的なやり方が、かつての宗教的裁判などとも変わらないような傾向を示していることにあり、その「傲慢さ」を排除すべきだといっているのである。なぜなら、その「傲慢さ」こそ、私達人類の「幸福」を、「宗教、科学、政治」などという権威でもって圧迫させてきた本当の原因だからである。
「傲慢さ」、別のいい方でいえば「偽善」とういうものをそれらから取り除いたとき、私たちは「科学」だけでなく、他のあらゆるジャンルの分野で本当の「私たちのための意義」を見出すだろうし、そうあるべきなのである。
