クラシック・レコードの百年史 |  ヒマジンノ国

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ノーマン・レブレヒト著、「クラシック・レコードの百年史」。猪上杉子訳、春秋社。

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イギリスの音楽評論家、ノーマン・レブレヒトによる、クラシック・レコード産業の盛衰を描いた著作。巻末にはレコード産業のここ100年余りの中で生まれた、名盤100選と、迷盤(駄盤)20選を収録。


20世紀初頭に始まった、レコード録音は私達に音楽との付き合い方を根本から変革させた。


21世紀に生きる私達は、普段から音楽を「録音」という手法によって、楽しんでいる。しかし、エジソンが1877年に開発したフォノグラフにより、音を記録・再生するという手法は、やがて巨大な一大産業となり、今日に至っている。


現代、クラシック音楽のレコードは売れないのだそうで、レコード産業自体が不況だとしても、その中でもクラシック音楽はさらに厳しい、という。


そうしたことも含めて、レブレヒトは次のようにいう。


「常に売り上げを牽引したのはEMIのビートルズで、10億枚から13億枚を売り上げたと見積もられ、この数字はまさにクラシックの総計と同じだ。ビートルズはどの政治家、作家、映画製作者よりも現代に影響を及ぼしたことになる。」


レブレヒトはこの本の中で、クラシック音楽のトップ・セラー・アーティストのランキングを載せているが、主なところを転載すれば次のようになっている。


<1位>ヘルベルト・フォン・カラヤン、2億枚

<2位>ルチアーノ・パヴァロッティ、1億枚

<3位>ゲオルク・ショルティ、5000万枚

<4位>アーサー・フィードラー、5000万枚

<5位>レナード・バーンスタイン、3000万枚

<6位>マリア・カラス、3000万枚


であり、アルトゥール・トスカニーニが<13位>で2000万枚、<16位>に小澤征爾が1000万枚となっている。


レコード産業の黎明期のことはさておき、クラシック音楽にも全盛期にはメジャー・レーベルがあった。


CBS(ソニー)、RCA、EMI、デッカ、フィリップス、ドイツ・グラモフォン、であり、彼らがこの業界の牽引役だったが、近年それらのいくつかが消滅し、この中でも最古の起源をもつEMIでさえ、先日、消滅した。


<金庫には100年分の音楽が保管されていて、その音楽には永遠の寿命がある。しかし、ただそれらをありのままに演奏する仕事を反復することには意味がない。演奏家たちは新しい切り口を見つけるではあろうが、クラシック・レコードの供給量が成長するはずはない。EMI―――エジソンを除いて他のどのレーベルよりも古い起源をもつこのレーベルは、その気になれば生き永らえることもできたであろう。リットンテールはきっぱりと言いきる。「EMIはレコード・レーベルじゃない。音楽の会社なんだよ。」>


クラシック・レコードが利益を上げた時代はあったが、クラシック音楽の本質的な部分には、採算度外視の、金銭で測れない部分が確かに存在している。


EMIに録音をしてきたクラシック・アーティストは、有名な者から、マイナーな者まで数多い。有名な者はともかく、「芸術的価値のあるマイナーな演奏家」を録音して残す、ということは、極論をいえば、採算度外視の行為であり、別の角度から見れば、企業が自らに課した義務でもあった。


だから、「金庫には100年分の音楽が保管」されているのであるし、EMIは「音楽の会社」なのである。しかし、そういった会社が幕を引く、とういうことは、クラシック音楽についてのみいうのなら、「演奏」の本質的価値の、均質化を意味し、歴史的価値が徐々に薄れていったいうことになる。


現代のサイモン・ラトルの演奏と、かつてのヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏を比べて、演奏の良し悪しはともかく、「どちらが貴重か?」と問われれば、多くの人が「後者」だと答えるだろう。


考えようによっては、EMIはその役目をもう、終えたのかもしれない。


おおよそ先に示した、ランキングに示された、スター指揮者や歌手達が活躍していた時代がクラシック・レコードの最盛期だったろう。この時代は家庭にステータスとして「音楽の百科事典」としてのレコードの価値があったわけだ。


目ざといカラヤンはまさにそこに目をつけ、大成功をおさめたのだ。しかし、需要がみたされれば供給も減らすべきなのだろうが、そうはいかなかった。


レーベルは供給過多になったレコードを作り続け、やがてクラシック産業は各会社のお荷物となっていったのである。


<創造性の欠如こそが、レコードが没落した最大の理由である。ハイフェッツ、メニューイン、ホロヴィッツ、ルービンシュタインは演奏家としての優位性をもって、同時代の作曲家たち―――プロコフィエフ、ラフマニノフ、シベリウス、バルトーク、シマノフスキによる音楽を演奏した。現代物好きでないトスカニーニですら、プログラミングの都合で演奏会に現代作品を入れた。1977年に亡くなったストコフスキーは、800曲もの世界初演をおこなった。2人の全盛期には、音楽は確かに息づいていたのだ。しかし、無調音楽は聴き手に不信感を生じさせた。1971年に亡くなったストラヴィンスキーは、誰もが知る最後の有名作曲家だったが、晩年の12音技法の作品を聴く者はほとんどいなかった。「結局のところ、クラシック音楽は作曲家が駄目にしたんだ」とソニーの元プロデューサーのマイケル・ハースが言う。「知的好奇心のある購買層が聴きたがるような新鮮な音楽が生まれない以上、過去を焼き直すしかなかった」>


作品がなければ同じ作品ばかり録音され、供給は過剰になる。同じ曲で、演奏家ごとの演奏を聴き比べようというのは、稀な、少数の人間にすぎない。


<過剰生産は、エルザ・シラーが退職した後に、カラヤンがDGへの要求を上げた際に起きた。カラヤンとそのライバルのマエストロたちが同じ作品を何度も何度もレコードディングしていく中で、そのパターンは確立された。ドヴォルザークの『新世界より』は、1994年にはなんと79種類が売り出されていたのだ。>


こうして、レコード黄金時代ともいうべき時代に活躍した演奏家たちは、遂に過去の偉大なる「遺産」を、ほとんど食いつぶしてしまったのだ。

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こうして、レブレヒトは時代に一定の区切りをつけ、巻末に自身が選んだ歴史的名盤を100枚選んでいる。


この本はレブレヒトの主観を含みはするが、おおよそで納得のいくものだった。


なぜ、現代、クラシック・レコードが売れないか、といえば、当然、インターネットなどの新しいメディアの発達による部分なども大きい。しかし結局、一時、一般の人々が手の届きそうもないクラシック音楽を、手軽に手に入られる喜びが、現代、もう劣化しているということだろう。


その新鮮味を取り戻すのは極めて困難だと思うし、今後、簡単には復活することはないだろう。