人種の差と演奏1 |  ヒマジンノ国

 ヒマジンノ国

ブログの説明を入力します。



  

今回は変わったことを書こうと思います。

 

何年も色んな演奏を聴いていると、初めは大して気にならなかったことが、ある時、突然「そういうことか」と、ひらめくことがあります。

 

本来、人間は普段の生活の中で、小さな発見があると、その内容如何では気にも留めず、やり過ごしてしまうことが多いようです。特に、世間一般の「常識」なるものにその「ひらめき」が合致しない場合など、人間はそのことをあっという間に忘れてしまいます。


しかし、同じことを繰り返し感じるとき、それが世間の常識とかけ離れていようと、中々頭から離れなくなるものです。色んなレコードを聴いていて、僕は大分と前から、人間が国籍などによる差によって起こる、音質の差が気なって仕方ありませんでした。

 

ですので、今回はそのことについて簡単にまとめてみました。かなり危なっかしい内容も含みますが、人種に対する偏見を他人に植え付けよう、などとは考えていませんので、よろしくお願いいたします。

__________________________________

 

___________________________________

 

人間の民族的な差が音楽に関与する場合があります。僕は日本人の演奏を聴くとき、小沢にしろ、内田光子にしろ、何かしら音の軽さを覚えることがあります。それは表現上の重さではなく、音そのものの質感のことです。

 

もし、そうした「音質」のことではなく、単に表現上のことをいうのなら、小沢も内田光子もほとんど日本人とはいえないような表現で、とくに内田光子の演奏するシューベルトのソナタなんかを聴いていると、完全にその表現はヨーロッパの語法だと思えます。彼女は過去のヨーロッパの演奏家を繰り返し聴いて研究したそうで、日本人でありながら、シューベルトのソナタの演奏史に名を残す存在なったというのはまさに驚きです。

 

あるいは小沢征爾にしてもまさかニュー・イヤー・コンサートを指揮するまで出世するとは一体誰が考えたでしょう。今や彼らは一般的な意味で、ほとんど、日本人、とも呼べないような存在でしょう。

 

しかし、そんな彼らの場合でも、日本人の場合、その音の質感についてですが、音に角がなく、軽やかで、しつこくない感じ・・・とでもいいましょうか、そうした独特の愛らしい感じが付きまといます。それはかの朝比奈隆の重厚な音にも、僕は幾分感じるものです。

 

朝比奈とギュンター・ヴァントのブルックナーの新作が次々と発売されていた当時、朝比奈に比べると、ヴァントの方が明らかに音の角が立ち、いかにも子音の強さが出た、ドイツ人の音だと思ったものです。


 

角が立ち、透明で頑固なヴァントの音作りに比べて、朝比奈は密度の濃い、重厚な音でしたが、一見ドイツ風に見えて、しかしそうではない、不思議な彼独自の音でした。そしてやはりここでも音の角は弱く、丸みがありました。

 

人は考えている以上にその生まれた土地や、文化の影響を受けて育ってきています。特に、生物学的・・・ともいえるでしょうか、人種の差は生まれ持ったもので簡単には変えられません。

 

確かにあまりに人種的な差を強調すると、それは人種差別に繋がる危なっかしいものですが、しかし、同時にそうした差を全く理解しないというのは、個人的に、楽天的過ぎるという気もします。まあ、あくまで個人的見解ですが・・・。

 

こうした事例でもっともひどかった例はアドルフ・ヒトラーの人種差別論ですが、これで多くのユダヤ人がひどい目にあったのでした。

 

次はある本からの引用ですが、戦前のウィーン・フィルの関するものと、日本人に関するものを含んでいます。読みやすいようにちょっと手を入れました。1999年発行の、「宇野功芳編集長の本」から、中野雄とヴァイオリニスト、天満敦子の対談からです。

____________________________________

 

____________________________________

まず、中野の言葉からです。

 

「亡くなったけれども、ウィーン・フィルの楽団長だったヒューブナーに会ったき、戦前のウィーン・フィルというのはこんなものじゃなかった。昔が艶っぽかったと言っていた。というのは、団員の中にユダヤ人が三分の一いた。それがみんなヒトラーに追放されて、ウィーン・フィルの音が今みたいに、サバサバした音になってしまったと。


ワルターやフルトヴェングラーがいた時代のウィーン・フィルというのはもっと音が艶々としていた。その話を三代名教師のヘルマン・クレバースにしたら、「そうだそうだ」と言う。ユダヤ人というのは、指の第一関節がわれわれより長い。」

 

天満

 

「そうなんですってね。だから、ヴィブラートが遅くて、ピシッパシッとツボが押さえられるんですって。吸盤みたいにグチャッと。だから、ああいう濃厚な音が出るんだって。それで彼は、ユダヤ人かそうでないかという区別はすぐつくんだと。

 

・・・(中略)・・・

 

典型的な、今で言えばパールマンの音でしょ。・・・(中略)・・・あとミンツの音。その二人が多分、今、ヴァイオリン界ではユダヤの典型の音だと思います。」

 

中野

 

「やっぱりミンツもそうですか。」

 

天満

 

「比べてのことです。それこそ音程の話ではないですけど、A(イ音)というこの音に幅があるとすれば、その下澄みをとるんです。日本人は上澄みをとるんです。ヨーロッパ人はすべてをとっている。ユダヤ人は下をとる。

 

・・・(中略)・・・

 

ピアノの音というのは時間がたつと余韻が少し上がるんです。Aの音を弾いて伸ばしていると高くなる。叩いた瞬間にパッと感知してヒュッとやると下になる。それはその人の性格好みです。それで下をとりなさいって言われても、自分の耳がカーンと鳴っていたら音程は上がってしまいます。

 

・・・(中略)・・・

 

そう。目立ちたいときは上をとりなさいとか言うことがあるんですよ。でも、それはその人の感覚です。ただ、ある人からおもしろいことを言われたのは、日本人は特に高目をとる。それは、そいういう知識があるからなんです。高目をとれば人より目立つという、そしてまた、すぐそれを鵜呑みにするでしょう。」

 

以上のようなプロの演奏家の話は結構面白いものがあります。

 

やはり、音に関する感性(かならずしも音だけではないんですが)はその身体的特徴や、育ってきた環境が関係するということです。この地球上に住む「人間」は、「同じ人間」であると同時に「異なる人間」ということになります。

_________________________________________

 

__________________________________

 

 

こうした差の一つにやはり住んできた場所の風土が関係していることは明らかなようです。かつて哲学者の和辻哲郎は名著「風土」のなかで、人間をすうんでいる地域によっていくつかの人種に分け、その性質を解説しています。

 

というので、次は直接演奏には関係ないですが、環境によって培われる、人間の資質についてみてみたいと思います。