<ブルックナー>
26枚目~30枚目まで、ブルックナーが入っています。26枚目の1番のみ、2012年のルツェルン祝祭管との演奏で、その外はウィーン・フィルとの演奏です。1990年から1996年までの録音です。
不思議なのは、大曲の、4番、5番、7番、9番を収めているにもかかわらず、なぜか最大のスケールの8番がなく、代わりに・・・といってはなんですが、1番のウィーン稿が収められているのがユニークです。
正直、このボックスの中で一番聴き劣りのする作曲家はこのブルックナーではないでしょうか。アバドは正確な譜読みで、ブルックナーの曲を演奏していますが、ブルックナーの場合、楽譜の正確な表出だけでは曲の魅力を十全に発揮させることは難しく、徹底した音のソノリティーが求められます。
当然、楽譜どおりに演奏しているのだから、これはこれでありなんですが、もし、ブルックナー・マニアがいたのなら、これは中々評価しづらいところも多いのではないのでしょうか。僕なんかも、最近はもう違うのですが、かつてはブルックナー・フリークスで、マーラーやブラームスよりも好んで愛好していました。だからといって、僕なんかが考えるブルックナー像が、本当にブルックナーの的確な姿を現しているかは疑問でしょうし、また「ブルックナーらしい」という表現なんかに抵抗がある人も多いでしょう。
しかし、一応、人からは下らない・・・といわれつつも、自分の考えを素直に表出するとなると、もし、一言でその原因をいってしまうのなら、アバドのブルックナーは「音が濁りすぎる」、ということでしょう。
ブルックナーの場合、どんなに音が重なり合っても、決して透明度を失わず、音の構造がしっかりと見通せる美しさが必要です。
「絵の具」なんかは色んな色を混ぜていくと、彩度を失って黒に近づいていきます。しかし、今度、「光」となると、同様に色んな色の光を混ぜていくと、明度が上がり、「光」は白色に近づいていきます。暗い教会の中で、窓から漏れる光が、各種重なるにつれ、その力を増すように、著名なオルガニストであったブルックナーの演奏したオルガンの音も、音が重なるほどそのオルガズムを増していったことでしょう。
ブルックナーの交響曲も彼自身のオルガン演奏を思わせる響きがあり、その音のソノリティーはどこかオルガンを思わせるものがあります。ブルックナーの音楽の、壮麗で崇高な音の表現は、正確な譜読みをした上で、透明度の高い、濁りのない音作りをして、やっとのこと出来上がるものだと思います。ここにブルックナー演奏の難しさの一つがあると僕は考えています。
これはブラームスの音作りなんかとは正反対の表現であって、濁りの多い響きは、人間の温かい、ヒューマンな感情表現には向いていますが、人智を超えた崇高さや威厳の表現には向かないようです。当然、あんまりうるさくいってもしょうがないところなんでしょうが、今度は逆に、人間哲学が音で、究極に追求された表現としての「交響曲」、としてみた場合、そうした追求があっても、それはそれで正当性を持つ部分はあると思います。
まずは、アバドの演奏したブルックナーの1番を見てみましょう。ここでは通称、リンツ稿と呼ばれる改訂前の楽譜ではなく、ウィーン稿と呼ばれる校訂後の楽譜を使っていることが驚きです。
このウィーン稿は普段、多くの指揮者が使わない楽譜です。
この曲の解説について、音楽之友社から出ている、作曲家の人と作品シリーズ「ブルックナー」では次のように書いてあります。根岸一美氏の文章で、長文ですが、ここでは一言だけ抜粋します。「リンツとの違いは、簡単に言えば、若いころの作品に厚化粧をほどこした、ということになるだろう。」
この作品は改定癖のあるブルックナーの、初期の作品が晩年に改定されたもので、珍しい曲になっているのです。
実際、この曲の録音は少なく、僕の愛聴盤は1987年に録音された、リッカルド・シャイーの演奏です。この演奏のライナー・ノートの中で評論家の金子建志氏は次のように語っています。
<登場人物やストーリー展開が同じものとはおもえないくらい様変わりしてしまった小説を思わせる第3・4・8番の大変身ほどではないけれど、リンツ稿を聴きこんだ人がウィーン版によるこのシャイーの新盤を聴けば、かなり驚くはずだ。金管を鮮明に鳴らし、弦をシルキーに歌わせたこのの演奏からは、マーラーやチャイコフスキーばりの響きや、プッチーニ風のカンタービレすら聞こえてくるではないか。そしてリンツ稿とは違う大俯瞰のカメラ・アングルによる、以外なエンディングが待ち受けているのである。・・・(中略)・・・それは、晩年に新作を中断してまで心血を注いで書き直した1年余の努力が、何を目的としていたのかを初めて明らかにするばかりでなく、ウィーン稿について「リンツ稿とは独立して扱われるべき別の作品」という認識を持つ必要があることを、はっきりと証明したのである。この新盤を聴くと、第7・8・9番という晩年の大山脈の陰に隠れていた、もう一つの”後期様式による未踏の巨峰”が遂に征服されたことを実感させられるのだ。>
ということで、このウィーン稿は実は後期様式(特にフィナーレ)による、完成度の高い名曲で、正直、僕はリンツ稿より好みます。興味のある人はシャイー盤を聴いてみると面白いかもしれません。
さて、アバドの演奏ですが、面白い演奏だなあ・・・とは思いました。元々初期の交響曲ゆえ、後期作品ほどの音のソノリティーが求められるわけではないので、フィナーレ以外は意外とすんなり聴けます。特に2楽章のアダージョは美しく、久しぶりにブルックナーを聴く喜びを味わいました。ここではブルックナーの音楽の意味が良く出ていると思いました。
フィナーレも悪くはないです。力こぶの入った、線的な動きを見せる冒頭の主題は格別、透明感を必要とするわけでもなく、悪くありません。しかし、後半、音楽は壮大なパースペクティブを獲得し、後期様式による俯瞰的な展開を見せ始めると、アバドのブルックナー演奏の限界が見えてきます。ブルックナーの音楽では、音が濁ると、空間的な奥行きが損なわれ、見通しが悪くなるのです。
うーん・・・何といっていいか。ブルックナー的ではない・・・?あんまり良いいいまわしではないですが・・・。作品の性格とアバドの資質が合う場面もあれば、合わない場面もあって不思議な演奏です。結構感動はしたので、面白い、アバド風のユニークなブルックナーだと思いました。
4番「ロマンティック」はこの中では一番良い出来ではないでしょうか。オーケストラの分厚い、力感のある音で、脂っこいほどですが、壮麗な感じは出ています。第1楽章はもっと爽やかな音楽だとは思うんですが、これはこれで面白いかと。フィナーレなんかもアバド独自の解釈は面白いものがありました。
5番と7番についてはあんまり書きたいことがあリません。5番はやや古臭い印象のある演奏で、感情的動きのある、苔むした大聖堂のような感触で、模範的に過ぎるという印象が拭えませんでした。7番は曲の出だしが美しいので、身を乗り出しますが、中間部は線が細く、ナイーヴな表現で、僕にはちょっと感傷的に過ぎるように思えました。
後は9番なんですが・・・僕はこの9番の演奏は駄演と判断します。というか、あんまり繰り返して聴きたいとは思えませんでした。
1番問題なのは第3楽章のアダージョでしょう。ブルックナー・アダージョの最高傑作であるこの楽章は、できる限り音の濁りは取り除きたいところです。この第3楽章は、まるで成層圏の上空から、地球の彼方を見通すように、この地上への痛切な別れを、はるか高みの絶叫として描いた、厳しさと、哀切な調べに満ちた感動的な楽章です。
音楽の空間的な大きさと、厳しさを獲得するには音の透明度は絶対の基準かと思われます。しかしアバドはほとんどそのことに敬意も払ってないように、いつもどうりの演奏をしてしまっています。これではこの音楽は生きません。
現世への思いを断ち切るように音楽はうねり、壮麗な思いの中、絶叫を繰り返しますが、ブルックナーは遂に、この世ならぬ感情の純化へと導かれていきます。アダージョの155小節から弦楽器たちが奏でるハーモニーも素晴らしさ。その、この世の物とは思えない、感涙の涙こそこの曲の白眉でしょう。それはまるでダイヤモンドのような輝きを放ちます。
人魚の流した涙が宝石に代わるといわれるように、ブルックナーはこの世への別離を、滴るような、音楽美として表現し、感動の輝きの余韻を残します。
ヴァントでもヨッフムでもよいですが、ブルックナーを得意とした指揮者達の演奏で聴くと、このあたりは本当に美しく、見事にこの告別の感情を表現しています。それは、はっきりとした、視覚的な演奏であって、音を徹底的に磨いた姿といってもいいでしょう。それ故、宝石の輝きが出ます。それに比べるとアバドの演奏は、どうしても音が濁り、その音楽の輝きが後退します。その分感情に訴える部分が多いのが面白いですが・・・。
ですので、人によってはアバドのような感情的なブルックナーのほうが良い、という方もいるかもしれませんが、僕はちょっと抵抗がありました。ただ、ヴァントの演奏なんかを聴いて、あまりにも気持ちが詰まる、なんて人にはアバドの演奏なんかもあり、ということにはなるのかも知れません。


