象徴的意味が極限にまで極められた、ワーグナーのオペラ「パルシファル」です。これは僕の最も好きな音楽の一つで、とても素晴らしい作品だと思います。
現実的な実在性を超え、神話が持つ「象徴性」を利用し、人間の根源に潜む、愛欲、権力欲の本質を抉り出そうとしてきた、ワーグナーの人生の総決算となる作品です。
清澄で柔らかい、心のひだに染み込むような音楽でもって、現世のはかなさ、そして、人類の有史以来変わらぬ希望を、キリスト教的概念を含ませながら、聖杯の騎士パルシファルを通して描きます。
内容的な難しさがありますが、ワーグナーの作品を聴いてきた人ならその意義も分かりましょう。
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美しく、この世のはかなさを表現してあまりない、第一幕の前奏曲。聖杯城における、浄化された、宗教的な法悦。妖しい魔法の花園の官能性を伝える、第二幕。そして、人間の純化を祝福する、「聖金曜日の音楽」。ゆるやかで動きのない音楽ですが、聴きどことは充分用意されていると思います。
しかし、この、第一幕の前奏曲の美しさはどうでしょう。ゆるやかな「聖餐」のテーマがはじまると、僕は眼下に広がる広大な、モンサルヴァードの森と、山々が目に浮かぶようです。弦楽器群の伴奏が、みずみずしい「生命の泉」から、その泉を汲み上げ続けるように響き、また、モンサルヴァードの上空を浮遊するかのように、音楽はたなびきます。
そして音楽は、聖書のいう、「生命の水」が、まるで約束していたかのように、今度は「聖杯」のテーマが、静かな高らかさをもって奏でられます。それはまるで、水色の光が、空の彼方から、聖杯城のグラールに一筋の筋となって注ぐかのようです。
そして深い安心感を伴った、心の底に響くような「信仰」のテーマが力強く奏でられると、「聖杯」のテーマをはさんで、慰め深い「贖罪」のテーマが、罪人への深い共感と愛をもって、はかなさいっぱいに奏でられるのです。
この作品はワーグナー自身の、水晶のような色彩感を持つ、「ローエングリン」と同系統の作品ですが、あちらよりも音楽は柔らかくなり、水色度合いも減りました。その代わり、音楽にはやや赤みが差し、薄紫色、英語でいう「パープル」というべき色合いをみせています。
1962年に録音された、ハンス・クナッパーツブッシュ指揮のバイロイト音楽祭のライヴ録音。僕の愛聴盤です。何度聴いたのかは分かりません。ここではワーグナーの描いた「パラレル・ワールド」が確かに存在しています。
元々、楽器の音色を意図的に音楽の要素として扱ったのは、フランスの作曲家、ベルリオーズでした。音楽の改革者として、唯一、彼はワーグナーと肩を並べられる存在です。ベルリオーズは音楽のアイデアを音符の並んだ「記号」による、「観念」的なものだけでなく、彼は楽器の音色による「感性」によっても表現できることを示したのです。
そして、それをさらに体系的にしたのが、ワーグナー芸術の一側面です。「官能性」、別のいい方をすれば「セクシーさ」とでもいうべき、「感覚的な概念」に、ワーグナーは論理性を導入できることを発見し、実践をしたのです。
彼は音楽を、「ライトモティーフ」といわれる、無数の「メロディー」による動機を駆使し、無限につなぎ合わせることによって、表現します。おかげで、音楽が本来持つ「リズム」は後退し、長さはまちまちですが、官能的なメロディーである、無数の「ライトモティーフ」が新たな、信じられないほどゆっくりとした、リズムを形成するのです。
そして音楽特有の浸透性が無限の「官能的な」音楽の流れに乗って発揮されるとき、人は「ワーグナーの毒」を知ることになります。
100人にもなる大オーケストラは、会場を埋めるばかりにその音響体を作り出し、「官能性」が導く「陶酔性」によって、途切れることなく人々を暗示にかけ、「神話」の世界があたかも「本物」のようであるかのように見せるのです。ワーグナーの作品を良い演奏で聴くと、我々は本当には起こっていない、神話の現場に、実際に立ち会っているような錯覚を覚えることとなります。まさに、ワーグナーを聴く醍醐味がここにあります。
クナッパーツブッシュの演奏においても、第一幕の聖杯城での聖餐の場面のリアリズムは素晴らしく、アルフォンタスの嘆きなど聖杯城の広間で実際に苦しんでいる、アルフォンタス本人を、現場で見るかのようです。当然クナッパーツブッシュは、音楽の官能性のことを良く分かっていて、ドイツの伝統に根ざした色彩感の濃い伴奏をして見せます。ワーグナー特有の描写性の強い、オーケストラの音をはっきりさせているので、聖杯も本当に存在しているかのように思わせます。
第二幕のパルシファルとクンドリの対決ではオーケストラが、パープルを基調としながら、淡い水色からピンクへの無限の段階を帯びた、ゆるやかな音響のグラデーションを表現していきます。妖しいクンドリの誘惑が、淡い官能性を持った妖しい花園のようなオーケストレイションで表現されていきます。グルネマンツのハンス・ホッターが素晴らしいのはもちろんですが、この第二幕のジェス・トーマスとマルッティ・タルヴェラの素晴らしさも見逃せません。
第二幕のラストで、決然とクンドリと決別をするパルシファル。ジェス・トーマス演じるパルシファルは、この場面で、これ以上ない、素晴らしい大見得を切ります。
「Mit diesem Zeichen bann'ich deinen Zauber:
Wie die Wunder er schliesse,
die mit ihm du schlugest,
in Trauer und Trümmer
stürz er die trügende Pracht!
これでお前の魔法を呪縛するのだ。
お前がこの槍であたえた傷は、
またこの槍がとじるのだ。
この欺瞞の壮麗さを
槍は憂愁と荒廃にかえるのだ!」
それはまるで歌舞伎の大見得を切るようにも思えます。これほど音楽とセリフ、そして歌が一つに合わさった瞬間はそうないでしょう。
壮大な、淫婦クンドリとの対決の中で、パルシファルは自分の宿命に目覚めます。悪徳ある男性が、力ずくで、時に暴力で持って女性の「性」を従わせるのとは違い、悪意ある女性の武器は誘惑であり、他者への依存を促すことです。そして男性の最大の依存相手である「母親」への思いを匂わせながら、クンドリはパルシファルを誘惑します。しかし、クンドリがうまく導いたパルシファルへの接吻も、その肉感的感触から、パルシファルのマザー・コンプレックスを吹き払ってしまい、聖者へと目覚めさせるのです。
当然、美しき者である「聖者」パルシファルが、女性の一種の理想を体現しているがゆえ、彼を誘惑するのと同時に、自分がこの地獄的な状況から救われたい一心で、悪徳の支配下にあるクンドリは興奮を新たにしていくのでした。
「Ein andress ist's――Ein andress, ach! それとはちがう泉――ちがう泉だ。」
長い、長いこの淫婦と聖者の対決の、悲劇的で妖しい音楽の中で、ただ一文、こう叫ぶパルシファルの歌の伴奏に、あの慰め深い、「贖罪」のモチーフが流れます。
自らを、この世の官能の煉獄に身を沈め、苦しんできたワーグナー自身の、最後の嘆きです。彼はここで悪徳と対決しつつも、決して悪徳を憎みもせず、恐れもしていないのです。それは彼が男女間の、各種のヘロイズムに対して、その原理を、その身をもって、理解をしなければならなかったからであり、時に「悪」ともいわれる「性」の裏側をも見て、理解しなければならなかったからです。
クンドリが偽善を象徴しているとすれば、それを裏で操る、クリングゾルこそは悪そのものでしょう。しかしここでのワーグナーは「善」と共に「悪」を理解し、愛しているといえるでしょう。
こうして人類有史以来、我々人類を悩まし続けてきた、愛欲の苦しみと、その克服との解決策の一つを、ワーグナーは過去の聖者のいうことを肯定しつつ、我々に与えようとしたのでした。
「ベートーヴェンやヴァーグナーは魔の深淵を開きながらも、統一をもたらす調和によって同時にまたそれを克服した。」
―――ヴィルヘルム・フルトヴェングラー―――
もう一点録音を紹介します。
1979年にカラヤンがベルリン・フィルを指揮したものです。これは内省的で上品な「パルシファル」です。そういう意味ではややブラームスの音楽を感じさせますが、弦楽器群の美しい良く練られた音色やベルリン・フィルの比類ない合奏力が味わえます。
しかし、オーケストラの伴奏が弱めで、官能性、陶酔性は後退しています。その分、登場人物の気持ちに目がいき、心静かにこの楽劇を味わえます。
正直、第一幕の演奏はそう良いとは思えないのですが、第二幕から終わりまでは美しいと思いました。第一幕の後半では聖杯城での聖餐の場面があるため、どうしても聖杯などの雄弁な描写性がほしいのですが、内省的な演奏ため人間の情念に視点が行きやすく、ワーグナー特有の絵画のような描写性は薄まっているようです。
ただ、一点だけ、カラヤンは場面転換の音楽は、これ見よがしの迫力で異常なほど視覚的です。とても素晴らしいと思いますが、作品全体としてみると、繰り返しになりますが、描写性は弱いと思います。
おそらくカラヤンは大人しく静かな演奏をすればこの「舞台神聖祝祭劇」と名付けられた音楽にはあっていると考えたのだと思います。僕は必ずしも、静かに演奏する必要ないと思いますが、カラヤンの狙いは悪くなく、肥大化したワーグナーのオーケストレイションに疲れた聴き手にとっては、かえって新鮮に聴こえます。
そしていつも通り、カラヤンの作り出す黄金色(こがねいろ)の美音は魅力的で、そのおかげでこの楽劇特有の色彩は失われてしまいましたが、決して悪い気持ちはしないのが素晴らしいと思います。特に各幕ごとの前奏曲に聴く、ベルリン・フィルの合奏の美しさはどうでしょうか。弦楽器の群れは角のない、まろやかな美感をいっぱいにして、まるで金の糸を編んだ織物のように流れていきます。
まさに至福のときだと思います。