フルトヴェングラーの第九 |  ヒマジンノ国

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長谷磨憲くんち


2008年かな・・・?オルフェオから発売された、1951年のバイロイト音楽祭での、フルトヴェングラーの演奏した、ベートーヴェン交響曲第九番の録音です。


僕は去年買ったんですが、久しぶりに聴いてみました。改めて聴いてみて、やっぱり、ほかの指揮者と演奏した第九とは、随分と内容が違うものだ・・・と、つい先日も感じたばかりです。


元々EMI(・・・EMIは買収されたとか。とりあえずここではEMIのまま書いていきます)から出ていたバイロイト盤が好きじゃなかったので、正直、このオルフェオ盤が出たのは、助かりました。演奏の燃焼度はEMI盤のほうが上なんでしょうが、あちらは音がチリチリするし、演奏も落ち着きませんしね・・・。僕の好みには合わなかったわけです。


でも今回は音の抜けもいいし、演奏も基本的解釈は同じとはいえ、よくまとまっていて聴きやすいです。


しかし、ずっとクラシック・ファンから決定盤といわれ続けてきた、EMIのバイロイト音楽祭でのライヴ録音ですが、ややこしい話になったものです。もし本当にウォルター・レッグが録音に細工したならひどい話で、特に三楽章など、両者は違う演奏なのに、同一音源が使われているということで、ちょっと笑えません。


今までやたら褒め続けてきた批評家とかどうなるんです?別に批評家がダメだとかいうことじゃなくて、発売する人が勝手に音源をいじっちゃダメですよ。当たり前ですけど。詐欺ですよね。


話を丸くおさめるなら・・・両者ともフルトヴェングラーの偉大さを伝える録音には変わりがない、とかいえばいいんでしょうけど。だからって、ちょっとひどすぎです。


昔からEMIの録音は、リハーサルと本番のつなぎ合わせだ、という話はあったそうです。そういう見地からいえばオルフェオ盤が本番で、EMI盤がつぎはぎしたリハーサル盤ということになりますが、オルフェオ盤がリハーサルの録音ではないかという人もいて、勘弁してほしいです。全く、やめてほしいです、こういうの。


事の真偽について、僕は全くわかりません。あんまり興味の沸かない話です。

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このオルフェオ盤のベートーヴェンの第九も、基本的な解釈はEMI盤と同じですが、他の指揮者とくらべれば、まさにフルトヴェングラー独自の解釈が際立っています。


ということで以下に書いた文章は、一応オルフェオ盤について書いたつもりなんですが、EMI盤について書いてもほとんど同じようになりそうです。

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<オルフェオ盤の簡単な感想>


第一楽章はスケールが大きく立派です。まあ旧来聴いてきたバイロイト盤と同じかな・・・と思いますが、やや大人しい感じがして、雰囲気は違います。


そしていつも通り、フルトヴェングラーのスケール感は決して、テンポを落としただけ、というものではなく、懐の深い意義深い響きで、その必然性を感じさせるものです。


ベートーヴェンの第九交響曲、第一楽章の展開部は、この曲の中でも特に魅力的な部分です。ここでは、演奏者がある程度までスピード感を出せば、戦闘的な英雄の気概が緊張感抜群で出るところです。しかし、にもかかわらず、フルトヴェングラーはこの展開部でさえ決して焦ることなく、悠揚として、ゆとりのある英雄の像を描いてゆきます。それは現在進行形の英雄ではなく、人生を達観した人物のそれ、とでもいえましょうか。激しい気迫の、トスカニーニの前のめりの演奏とは、まさに好対照でしょう。


再現部では、地鳴りのような迫力で、主題の合奏が雲間から輝く神々しい陽光のように轟きます。もっとも第一楽章が光り輝く瞬間です。すさまじいティンパニの音も決して生々しくなく、フルトヴェングラーはこの曲の懐の深さを感じさせてくれ、空間的な広さを感じさせます。ここもまた、トスカニーニと聴きくらべてみると、主題から炎が吹き出んばかりの、生々しい演奏とは全く見方が違って、興味深いです。


そして、ショーンバーグが、「そして本当のところ、滑らかで色彩感の濃い低音部と、恐ろしい呻きのこもった第一楽章のコーダは、精神が麻痺するような経験を起こさせる。世界はこのようにして終わるのだ、と感じさせるのだ。」、と書いたコーダも、フルトヴェングラーは伸びやかに、その呻きの意味を意義深くオーケストラの音に乗せ、無理無駄のない力加減で再現してみせるのです。


その他、スケルツォやアダージョについても、それこそ「有機的」とでもいえばいいのでしょうか、内容的な演奏が続きます。スケルツォの弾力のある、見せかけでない迫力のリズム、アダージョの、曲と一体になった深い呼吸感。


フィナーレはこの楽章の性格を明確に描き分けながら演奏していきます。そして今回はEMI盤で見せた、あの終結部の気の触れたようなプレスティッシモはなりをひそめているのでした。それでも他の指揮者の演奏に比べれば充分早いですが・・・。


名盤・・・なんだと思います。後半に聴き進むほどに感動が深まる演奏でしょう。



ベートーヴェンの第九の演奏は、他の指揮者も色々あって面白いんですが、昔からこの51年にバイロイト音楽祭で演奏した、フルトヴェングラーの第九の演奏は別格の扱いなんですね。批判さえ、はばかられるような。


さて・・・ちょっと個人的な話も含めて、今回はもうちょっと、フルトヴェングラーのことを書いておきます。


・・・ベートーヴェンの第九の演奏だと・・・僕が良く聴いてきたのが1958年のカール・シューリヒトのやつです。オーケストラはパリ音楽院管弦楽団で・・・二流のオーケストラ・・・とでもいうべきですかね。演奏はスマートで、内容的、一応ステレオ、ということで折衷的にこれを聴いてきました。トスカニーニとかメンゲルベルグとかのほうが好きですが、音が悪いんですよね。しかも内容が濃すぎて、繰り返し聴くには耐えません。


他に個人的好みからいえば、ムラヴィンスキーのがいいんじゃないかと思うんですが・・・残念ながら、彼は録音してないようです。


大昔から第九は何種類か買ったんですが、本当に聴きたいもの以外、ほとんど処分してしまいました。


カール・ベームは三種類ぐらい聴いた気がしますが・・・全て期待外れでして・・・どれもあんまり興味を引きませんでした。バーンスタインは二種類・・・その内、ウィーン・フィルを振ったものは効果満点で、面白かったです。カラヤン(四度目の全集のやつです)もこういうものだと覚悟を決めれば・・・聴いてられます。あくまで鳴っている音を追うんだと思ってね。そうするとキンキラした美音の洪水になります。それでも第一楽章の再現部なんか音が棒鳴りにすぎて、僕はどうとらえていいのか、戸惑ってしまいます。逆にベルリン・フィルを振ったジュリー二は、その再現部の迫力が内容的な迫力でビビッたこともあります。


あとは誰?・・・チェリビダッケ、ハイティンク、アバド、朝比奈、マタチッチ、コリン・デイビス・・・その他・・・。一人ひとり書いていくと面倒なので、もうやめますが・・・色んなパターンの演奏があります。それぞれ各人の性格を表した演奏ばかりですけど、それでも、彼らの演奏を聴いていると、第九はやはり「古典派の音楽」だという気がします。


ですが・・・僕には、フルトヴェングラーとなると話は違ってくるように思えるのです。見ようによっては彼の演奏した、ベートーヴェンの第九の解釈は、完全に後期ロマン派の響きで、スケールが大きく、マーラーとかブルックナーの交響曲と比較しても、引けを取らないような内容になっているように見えるのです。これはまさに、たくさんある、常識的な第九とは違う、創造的な演奏といえるものかと。


同時代のトスカニーニやメンゲルベルグと比較しても、フルトヴェングラーの演奏は、どこかワーグナー風の影響を受けた演奏ともいえます。トスカニーニは新即物主義だし、濃厚なメンゲルベルグも、やたら個性的でロマンの香りがしますが、全体としてみると古典的な造形は崩してないと思います。


ハロルド・ショーンバーグの言葉を引用します。


「19世紀前半の音楽を支配したのがベートーヴェンであったとすれば、後半に君臨したのがワーグナーであった。」


あるいは。


「一方、ワーグナーは19世紀の終わりに、彼が西洋世界の知的生活をほぼ支配したように大きな影響力を、今後持ち続けることはないであろう。」


僕のつたない感想からいえば、ヨーロッパ一流の教養人であったフルトヴェングラーはやはり、後期ロマン派の影響を色濃く受けた音楽家であって、ベートーヴェン以後、ワーグナーを通してロマン派ドイツの影響を、純粋にドイツ風に受け取った人物だったと思います。そういう意味では、彼の残した録音の数々は、もう時代遅れになりつつあった、過ぎ去ったロマン派の時代の証言に他ならないと思っています。


「今日ではメンデルスゾーンやベルリオーズ流の、古典的で抑制された指揮法の方が好まれている。けれども十九世紀後半を支配したのは、ワーグナー流指揮法であった。ワーグナー自身が指揮台で模範を示したばかりでなく、世界はワーグナーが教えた指揮者たちで満たされていた。最も有名な部類に入るのは、ハンス・リヒター、アントン・ザイドル、ハンス・フォン・ビューロー、フェリックス・モットル、ヘルマン・レヴィであった。おそらく当時最も人気があったのは、アルトゥール・ニキシュであり、彼は直接ワーグナーの指導を受けなかったものの、ワーグナーのオペラで育ち、ワーグナー作品を指揮したのが最初の大仕事であった。フェリックス・ワインガルトナーや、アルトゥーロ・トスカニーニが登場して、古典主義の反動が始まるまで、反革命はなかった。しかも、ワーグナー流の極めて個性的な指揮法はその後も続き、1954年にウィルヘルム・フルトヴェングラーの死をもって終結した。」(ハロルド・C・ショーンバーグ著、「大作曲家の生涯」。訳、亀井旭、玉木裕)


結局その時代は、「偉大なる音楽」という概念、あるいは、「偉大なる作曲家(音楽家)」という概念に集約される、個人崇拝の時代ともいえるべきものであって、フルトヴェングラーの場合、彼の「偉大なる」偶像はベートーヴェンに他ならなかったのでしょう。ブルーノ・ワルターがモーツアルトを、クナッパーツブッシュがワーグナーを・・・と、かつての指揮者の多く(そうじゃない人も当然います)には看板にしていた作曲家がいましたが、そうした彼らの演奏する看板プログラムは、個人崇拝主義と無関係ではないでしょう。


近年でも、個人的な意見でいえば、バーンスタインがマーラーを、あるいは、ヴァントがブルックナーを演奏するとき等には、こうした「ロマン派的な巨匠性」を感じたものでした。しかし現代ではこうした巨匠性は遠のきつつあるようです。


一人の作曲家に執心する演奏はたしかに「オタク的」とでもいいますか、「硬派」とでもいいますか、多くの人にとってみると、聴く人の間口が狭くなるのは仕方ない、というところでしょう。


しかしそれでもやはり、このフルトヴェングラーの第九は、人間が、真の偉大さを求めて渇望し、希望していた時代の、確かで実際的なドキュメントには違いないと、僕には思えるのです。


「ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの今日的意味は、次のことにあると思う。すなわち、目下の多種多様な音楽解釈には、フルトヴェングラーが豊かにもっていたものが欠落している、ということである。この能力は、トスカニーニのあとに音楽界の理想となった、単なる機能主義とは異なる。フルトヴェングラーは、道具の完璧さだけを目指した演奏に対し、ひとつの矯正を迫っているといえよう。」―――テオドール・W・アドルノ―――