最近色んな音源を聴いて気になったことを書いてみます。
まずポール・パレーの演奏したドビュッシーの「イベリア」から。特に良かったのは1曲めの「街の道や抜け道を通って」と2曲目の「夜の香り」。
「イベリア」は「管弦楽のための映像」からの抜粋ですが、長らく退屈な曲だと思ってました。しかしこのポール・パレーの演奏を聴いてとても感銘を受けました。ちょっと反省してます。
ドビュッシーの「イベリア」で描かれる風景・・・それは、カラッとした陽光。異国情緒のある白い壁の町並み。赤々と咲く花々。・・・生き生きとしてますが、決してどぎつくなく、むしろ、やんわりと香る地中海とラテンの味わい。
ポール・パレーの演奏は有機的で、味が濃いのです。
特に感じ入った弦の響きが心に沁みます。
弦がとてもセンシティヴに、濃密に響く瞬間が幾度かあって、その度に音色が聴覚を超えてその他の五感を刺激します。特に臭覚にうったえるものがあって、「夜の香り」で最も感動的な場面では、部屋にいながら本物のスペインの香りを嗅ぐようです。それは確かに一瞬のことですが、現実世界を超えて時間を忘れさせてくれます。
さすがにドビュッシーの音楽だと感心しました。結局今まで退屈していたのは演奏のせいだったんですね。ドビュッシーがこの音楽を書いた意味が分かりました。
次はマリア・カラスのライヴ集から。1955年のミラノ・スカラ座における「椿姫」。演出をルキノ・ヴィスコンティがつとめたという伝説のライヴになります。指揮はカルロ・マリア・ジュリーニ。
「椿姫」は原作がアレクサンドル・デュマ・フィスによる劇で、高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリィの切ない悲劇的な恋愛を描いています。音楽はイタリア・オペラの巨匠、ジュゼッペ・ヴェルディで、角のない甘い音楽が人々を涙に誘います。
マリア・カラスはこの「椿姫」をガブリエリ・サンティーニと共にスタジオ録音していますが、個人的にはこの演奏が野暮ったく不満です。問題は指揮者サンティーニでしょう。カルロス・クライバーの颯爽とした指揮で「椿姫」を聴いている現代の人間にはちょっと物足りないに違いありません。
「そしてときには、声と芸術理解の双方が充実した、独特の瞬間が体験されることもある。ジュリーニの指揮した≪椿姫≫、ヴォットの指揮によるスカラ座での≪ノルマ≫、同じくスカラ座でのガヴァッツェーニ指揮≪仮面舞踏会≫、ガヴァッツェーニ指揮の≪アンナ・ボレーナ≫、あるいはダラスにおけるニコーラ・レッシーニョ指揮≪メディア≫がその例である。」(ユルゲン・ケスティング著、鳴海史生訳、「マリア・カラス」から。)
まずここに、一時代を画し、「椿姫」演出の1つの基準を作り出した、伝説の舞台のライヴ録音が残っているというのが驚きです。
「ヴィスコンティ/カラス版『椿姫』の上演は、芸術史上の一大事件だった。それはベルエポックのロマンティックな雰囲気をかもしだし、芸術の世界を通り越して現実の世界となるほどのリアリズム――正確にいうとリアリズムの幻影――を感じさせた。
・・・(中略)・・・彼女は役柄の本質を掘り下げ、現代の道徳観にもとづきながらも妥協することなく、ヴェルディの意図したとおりに表現したのである。彼女の演技は、言葉と音楽と身体の動きがひとつに融合した奇跡であり、迫真の感情表現だった。幕がおり、熱狂した聴衆がマリアに拍手喝采を送ると、彼女はジュリーニにうながされてふたたびソロのカーテンコールに応じた。」(ステリオス・ガラトプーロス著、高橋早苗訳、「マリア・カラス、聖なる怪物」から。)
「私はただひたすら彼女のために≪椿姫≫を演出したのであり、私自身のためにではない。そう、私はカラスに奉仕するために演出した。なぜなら、カラスは奉仕されるべき人だからだ。」――ルキノ・ヴィスコンティ――
・・・ただ・・・この伝説のライヴも、音は悪いです・・・。
これを聴いていると、すぐに手のひらを返して申し訳ないんですが、サンティーニのスタジオ・セッションの意味も出てこようというところです。このスカラ座のライヴは、ライヴ録音のせいで細部の録音はぼやけてしまって、良く聴き取れません。それに比べると野暮ったいとはいえ、サンティーニはテンポを落として、モノラルながら細部まで音が聴こえる様にしてくれます。要はスタジオ録音に特化した演奏なので、野暮ったく聴こえてしまうんでしょう。
他方ジュリーニの演奏はライヴならではの大変な迫力と、当時を感じさせる雰囲気が魅力でしょう。スタジオ録音にはない爆発力で表現する瞬間もあります。通して聴くと1955年のスカラ座にトリップした気になります。
またマリア・カラスについては、個人的には、ライブとスタジオ録音については一長一短だと思いました。
大人しいスタジオ録音でも1幕の最後「不思議だわ!不思議だわ!」で始まる悲劇のヒロイン、ヴィオレッタの独白部分における、大人しいながらのカラスの熱唱は、彼女のコロラトゥーラ・ソプラノの底力を感じさせずにはおきません。
しかしマリア・カラスの場合、彼女の歌唱が優れていることは一つの特徴であることには違いないのですが、実際に彼女の舞台を見た人達にいわせると、彼女の「演技」そのものが非常な説得力を持っていたのだそうです。彼女のほんの些細な演技が人々の涙を誘ったといいます。
残念ながらこうした録音だけでは中々そこまで理解はできません。
最後にジュリーニのこの伝説の公演における彼自身の感想をのせておきます。
「私は心臓が止まるかと思った。目の前に広がる美しい光景に、すっかり圧倒されてしまったのだ。
私には、舞台上に現実の世界が現れたかのかのように思えた。そして逆に、私の背後のあるもの、すなわち聴衆、客席、さらにスカラ座そのものが作り物に見えたのである。舞台上で呼吸するものだけが現実だった。いや、生命そのものだったのだ。」
終わりは、クラウディオ・アバドによるロッシーニの「セビリアの理髪師」。オーケストラはロンドン交響楽団。録音は1971年。
いわゆるロッシーニ・ルネッサンスの旗手であるクラウディオ・アバドによる「セビリアの理髪師」です。先ほどのサンティーニじゃないですが演奏に鋭さがなく、野暮ったいのが難点です。僕はロッシーニのこのオペラに畳み掛けるような迫力を望みます。ただそれではアバドの場合、自身の考えを実現できないのかもしれません。
彼の演奏には合唱やオーケストラに厚みがあり、面白がって聴かれるようなこのロッシーニのオペラに芸術的な格調を与えようとしている部分が聴き所です。まさにそのことがアバドの狙いなんでしょうし、テンポをやや遅めにして音楽を立派に再現しようとしています。おかげで激しい輪唱部分など、今までに聴いたことがないような迫力が出ています。
ロッシーニの作曲した「セビリアの理髪師」は名作喜劇ですが、よくいわれる三大喜劇には入っていません。その三大喜劇とはモーツアルトの「フィガロの結婚」、ワーグナーの「ニュルンベルグのマイスタージンガー」、ヴェルディの「ファルスタッフ」のことです。
実は「セビリアの理髪師」は原作がボーマルシェで、モーツアルトの「フィガロの結婚」の物語の先がけになるお話です。聴いているとモーツアルトの作品を思い出すような瞬間が多く、楽しいですが、結局この作品が名作喜劇ながら、何故モーツアルトの作品に匹敵しないのかといえば、それはやはり内容に深みが足りないからでしょう。
「セビリアの理髪師」は爽快で、人々を笑わせる要素に満ちています。このオペラを聴き終わるとすっきりした気分になれます。それはそれで素晴らしいのですが、モーツアルトの場合は喜劇であっても最後には人々の心を満足させてくれる要素があるのです。彼はオペラを聴いた者を、心から満ち足りた気分にさせてくれるのです。
・・・ということで、アバドの演奏した「セビリアの理髪師」の感想はそれぐらい・・・。
うーん・・・なんだろう、イタリアのオペラのことを書いていたら、ちょっとだけワインが飲みたくなってきた・・・。アルコールは弱いんですけどね・・・。
ああ・・・そして今、ブログを書きながら聴いていたカラスとジュリーニの「椿姫」が終わりに向かっています。第三幕の途中まできました。オペラなんて所詮狂言なんですが、何といっていいのか・・・このスカラ座のライヴ録音の熱気・・・。僕はこの古い録音の中から、時代を超えた人々の生き様を感じます。
そして、僕の中で・・・ついに、晩年が不幸だったカラスとヴィオレッタの姿が重なるようです・・・。
デュマ・フィス自身の体験を下にしており、なおかつ「椿姫」がいかに名作とはいえ、それは結果として、作られた虚構の芝居の美にすぎません。しかしそれでも、そこに、演者は人生をかけます。そして、命がけで自分の人生をかけてしまった永遠のプリマドンナ、マリア・カラス。永遠の名声を得たとはいえ、本当にマリア・カラスは幸せだったんでしょうか?現実とは違うその世界に、一体どれ程の価値があったというのでしょうか・・・?
・・・僕には分かりません。
しかし、人生とは無常です。
厳しくも、ときに無意味とも思える行為に命をささげる人々にこそ、私たちは真の魂の偉大さを見るに違いないのです。



