カヴァレリア・ルスティカーナ |  ヒマジンノ国

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長谷磨憲くんち


眼にしみるような新鮮な朝の香り。夜露に湿った草々の芳香が・・・その土地固有の、イタリア南部の強い官能を伝え、人々の気持ちを痺れさす。


退廃的なトゥリッドゥのアリアさえ、陽気な胸いっぱいの気持ちで愚かな陰りを吹き去ってしまう・・・。


初めてこのピエトロ・マスカーニ(1863-1945)のオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」を聴いたとき、なんて下らない音楽だろうと思ったものです。いや、音楽そのものは悪くないんですが、その筋立て・・・。確かに、オペラ・ヴェズリモなんていえばカッコもつきますが、あまりに痴話狂言にすぎる内容に辟易としたのもです。


彼はプッチーニとほぼ同時代を生きた、イタリアの作曲家でした。


初めに聴いた録音は1960年に録音された、トゥリオ・セラフィン、マリオ・デル・モナコ、ジュリエッタ・シオミナートによる録音です。以前少しだけブログにのせましたが・・・そのときはまだ、感想らしい感想は書けませんでした。


しかし・・・僕がこのオペラを見直したのは、1953年に録音されたマリア・カラスの音源を聴いてからです。


長谷磨憲くんち


マスカーニとレオンカヴァルロの作品はよくカップリングされますが、初めに舞台にかけられた作品のみが有名になったこの2人は、イタリア・オペラの作曲家の中でいえば、いわゆる一発屋です。マスカーニは「カヴァレリア・ルスティカーナ」を、レオンカヴァルロは「道化師」を作曲した後もオペラを書きましたが、一作目以外の作品は、現代まず演奏されません。この2人はヴェズリモと呼ばれる、リアリズム重視の、当時としては新しいジャンルのオペラを書いた人達でした。プッチーニをここに含めるかは微妙ですが、彼らの作品は等身大の平民を登場させる筋を好み、気取った内容を退けました。


そのリアリズム重視の彼らの作品、それは要は、今風にいえば、昼メロなのです。


もし音楽に何かしら「高尚」といえるものを望むのなら、こうした作品は中々好まれないでしょう。僕も初めはそうだったのですが、先もいったように、マリア・カラスの音源のせいで考えを変えることにしました。


1960年に録音されたものも、1953年に録音されたものも、指揮者はトゥリオ・セラフィンです。


このオペラを熱狂のうちに体験したいのなら、その一つのポイントはまずは前半、トゥリッドゥとサントゥッツァとの確執の表現にこそあるでしょう。ここの表現に迫力がないと、結局、マスカーニがこのオペラを書いた意味も出ません。


長谷磨憲くんち


まず、1960年の録音ですが、もともとマリオ・デル・モナコはトゥリッドゥを当たり役にしており、確かに非常にうまく、この役を、艶やかなテノールで滑らかに歌い上げます。それこそ鼻歌まじりで歌うかのようです。シオミナートはサントゥッツァを繊細に細やかに歌いますが、2人の確執を表現するのには力強さが足りません。


・・・しかし・・・マリア・カラスは違います。


長谷磨憲くんち

53年の録音で、彼女は男性歌手に迫力で位負けすることなく、非常に力強い歌唱で、ディ・ステファノと共に、第七景の2人の熱烈な愛の確執を、燃える2つの太陽が真っ白に輝くように、歌いあげます。この部分を聴いていると、イタリア人ののっぴきらない情熱が嫌というほど伝わってきます。


「まあ、まあ・・・そんなくだらないことで喧嘩をしないで・・・。」なんていうのは野暮というもの。


前奏曲で無言のうちに語られる南部イタリアの人々の気質と風土。曲の中でことあるごとに繰り返されるそのテーマに、熱烈な思いが込み上げてきます。感情を究極まで追求する喜び、そして興奮。その結果がいかに悲劇であってもその欲望に人々はあがなえないのです。


嫌いなものは嫌い、好きなものは好き。一体それ以外に何が・・・!?


そこには熱烈に香るイタリア人の血の沸騰があるのです。


「だが、ベッリーニの≪清教徒≫で重要なのが「メランコリーの真髄(エッセンス)」(カラスの歌唱をめぐるジョン・アードインのコメント)であるように、≪カヴァレリア・ルスティカーナ≫においては「苦悩」の表現が大事なのである。多くの公演では、サントゥッツァのパートですすり泣きや叫びが聴かれる。しかし私はアードインと違って、このパートは、ドラマ上、そんな一面的なものでないと考える。」


「とりわけトゥリッドゥとの二重奏において彼女は、≪カヴァレリア≫を録音したどのサントゥッツァ役の歌い手よりもニュアンスに富む歌唱で、豊かな、しかも緻密なコントラストをもった表現をした。冒頭、二人のあいだには冷たい距離がある。しかし「私をぶって、ののしって Battimi,insultami 」に見て取れるように、感情が揺らぐ。そして「いやよ、トゥリッドゥ No, no Turiddu 」以下は身の引き締まるようなパトスの表現――深くて暗い心痛と涙のトーン――となる。カラスはそれをべッリーニ的なベル・カントで歌った。つまり彼女はここでもまた、旋律の形成、着色、ニュアンス付けによる表現方法を獲得したのである。」(ユルゲン・ケスティング著、鳴海史生訳、「マリア・カラス」から。)


イタリアオペラの大家、トゥリオ・セラフィンもマリア・カラス盤のほうがスケール大きくふるまっており、迫力があります。


しかしどうでしょう、録音のことを考えると、1953年の録音は当然モノラルで、そこには問題があります。この曲の魅力の一つである、イタリア的な官能性を表現するためには、滑らかで艶やかな音色がどうしても必要です。作者は意識的にか無意識にか知りませんが、その音色そのものにイタリアの土着のエキスを詰め込んだのです。


1960年盤のステレオ録音を聴いてから、1953年の録音を聴くと、聴後のざらっとした印象は拭えません。1960年盤はこの曲の決定盤の一つとされているようですが・・・歌手、指揮者、録音・・・やや熱狂が弱いとはいえ、そういう意味では、諸々の理由からその原因が分かる気がしました。