「権力への渇望からどんな手段にでも訴えようという、この人物の不愉快な挙動。とどのつまり、個々人の権力への関心よりも音楽そのものに私たちはかかずらわるべきだと思います。」(ヴェルナー・テーリヒェン著、高辻知義訳、「フルトヴェングラーかカラヤンか」。音楽之友社。)
これは、かつてベルリン・フィルのティンパニ奏者であるテーリヒェンがドイツの伝説的指揮者、ウィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)自身の言葉として紹介している言葉です。フルトヴェングラーはドイツロマン派の伝統とその影響を受け、ワーグナー流の、音楽の懐に抱かれるような、ねばった音楽作りをした人物でした。
それは完全な名人芸の世界であって、誰にもまねできるような指揮ぶりではなく、彼自身しか不可能な技術といえるものでした。音楽に埋没しながら、その意味と内容を深く深くえぐっていく様はとても感動できますが、その再現芸術は当人の死と共に永遠に失われてしまいました。
フルトヴェングラーの亡き後、一時期ベルリン・フィルを率いていたセルジュ・チェリビダッケはそのことを忌憚なく次のように語っています。
「フルトヴェングラーは素晴らしい個性の持ち主でした。しかし、彼が私たちに残してくれた音楽はどうか?我々に受け継げるものは一小節だってありゃしない。しかし、音楽をそこまで個人的に理解してもよいのだろうか?」
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反対にイタリア人のトスカニーニはドイツ風の伝統がないため、ドイツ作品が多いオーケストラ作品を振ると必ずしも、特別な名人芸を必要とはしませんでした。
どんな指揮者や演奏家でも楽譜さえ読めれば演奏ができる・・・そういった思想が必要とされる時代、登場したのがこのアルトゥール・トスカニーニ(1867-1957)です。ドイツ語でいうノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)はロマン派流の個人崇拝主義とは反対の立場といってよく、音楽演奏の世界でもトスカニーニはそうした思想を代表する指揮者として有名です。
こうして演奏の世界でも主観性から客観性への移行が20世紀前半に起こり、それが今日へのスタンダードへとなっていくのです。トスカニーニは他にも、歌劇場においても興行主に頼らない、音楽監督と常設のオーケストラの設立を行い、ウィーンのマーラーなどと共に、名曲だけによる演奏プログラムを定着させていきます。
20世紀前半において、トスカニーニは現今の指揮者の規律を作り、旧弊を改革していきました。
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20世紀前半、指揮者のスタンダードを作ったのがトスカニーニだったとすれば、後半のスタンダードを作ったのはヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)だといえましょう。カラヤンは大なり小なり、トスカニーニの影響を受け、それをさらに発展させていきました。
トスカニーニは初期のメディアを利用してアメリカ中で尊敬され、多くの録音も行いましたが、カラヤンはより発達した20世紀後半のメディアや録音技術を使い、かつて大した儲けもでないクラシック音楽が、多くの富を生み出すことを証明し、今日の指揮者達とオーケストラ運営に多大な影響をもたらしました。
「権力への渇望からどんな手段にでも訴えようという、この人物の不愉快な挙動。とどのつまり、個々人の権力への関心よりも音楽そのものに私たちはかかずらわるべきだと思います。」
この冒頭に引用した文章。
「この人物の不愉快な挙動」とはフルトヴェングラーがカラヤンに発した言葉です。
トスカニーニのやり方はカラヤンによって、空前の程度まで押し上げられていきます。膨大な富と権力、そして録音・・・。
カラヤンは時に玄人筋に評判が悪いのは彼のそのやり方、生き方がその成功と共に本来目指していたであろう、世界の理想を追求していくクラシック音楽の本道を離れ、商業的な原理を強くみせ始めたからでしょう。
「楽譜に忠実」という文句は「楽譜を正確に表現」さえすればよい、という 技術論にすりかわっていき、多くの名演奏がやっつけ仕事に取って代わられていったように思えるのは残念なところでしょう。
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さて、随分前置きが長くなりましたが、今日はトスカニーニの演奏について少しだけ書いておきたいです。
まだRCAの全集を全部聴いたわけでもないんですが、彼の演奏を聴いていると色々と考えさせられます。ザッハリッヒとはいってもトスカニーニの場合、その演奏はちょっとカラヤンなどとは比べられないでしょう。1930年代から1950年代の録音ばかりで、音が悪いのはいうまでもないですが、迫力は桁違いです。
残響を取り込まないようにして、音の芯だけを見せる録音で、音質はざらついていますが、音そのもののリアルな感触が強く、曲の立体感が浮き彫りになります。現代の「客観的な演奏」などには遠く及ばない、激しい熱気に満ちた快演ばかりです。
とにかく演奏からはトスカニーニの作曲者や曲に対する激しい尊敬と情熱が伝わってきます。特に古典的な音楽、シューマンの「ライン」やドヴォルザークの「新世界」などはまるでベートーヴェンの交響曲かとみまがうばかりで、彼の演奏したベートーヴェンの交響曲が永遠のスタンダードなのはもちろん、「ミサ・ソレムニス」の猛々しい希望と迫力には圧倒されっぱなしです。
オペラ演奏は時代を感じさせますが、現代の演奏に比べればひどく「舞台的」で、純粋な人間の劇そのものを感じさせます。彼が初演した「ボエーム」も当時はこんな演奏をしていたのか、と考えさせられます。
どんなに音が悪くても、ここにあるのは生命力に満ちた永遠の古典的名演集の決定版といえるかと思います。
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本来技術論などは演奏や行為そのものについてのおまけ、という程度のものだと思います。その核心に本来あるべきものは・・・するべきことは自分がしなければいけないこと・・・という自覚、そして、するべきこととは・・・「社会正義」、あるいは「人々に希望を与えようとする」こととでもいえるでしょうか。
トスカニーニは本気でこうした課題に取り組み、生涯を費やしました。彼のその猛烈な思いと態度には他人に有無をいわせぬものがあります。
普段おっかない(?)社会に幻滅して、うなだれていてもこの演奏を聴くと不思議と、「やればできる」・・・とそんな思いにさせられるのです。
とにかく人物の大きさに圧倒されました。
そして、こうした録音を聴いて新たに思うのは現代がどれ程人材不足かということです。別にクラシック音楽の分野だけではなく、その他のもろもろの分野においてもです。20世紀のはじめにはまだこうした強烈な人物が活躍していたと思うと、時代とは何なんだろうとも考えさせられるのです。



