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人間は自らの意思を他人に伝えるために言葉を発する。それは、「現実そのもの」ではないものの、その「観念性」により他者にかなりの程度具体的内容を伝える。
他方、人は言葉でない音をも作ることができる。例えば、手で机を叩いて「バン!」という音をだしたという場合等がそうだ。
これらは両方とも「音」に違いがないのだが、その実際的な意味内容は雲泥の差がある。単に音を鳴らしただけでは、人は具体的内容を何もつかむ事ができない。
だが、そうした音が何種類も集められ、何かしら組織かされると事態は変わってくる。
クラシック音楽で、いわゆる器楽曲等と呼ばれる音楽の場合、言葉は一切入らない。しかし、人々はそこから何かしら意味を読み取り、言葉で語られるのとはまた違う内容を読み取ることになる。
そうした組織化された音楽は、言葉ほどの具体性はもたないが、単に組織化されず鳴らされた「音」程の曖昧さがない。
つまり、その中間的な「具体的曖昧さ」というべきものが楽器だけでつくられた曲の魅力となってくる。
そして、そうした組織的音の組み合わせが他の言語や映像等に依存せず、西洋音楽の力学の自己目的性に徹底された音楽を「絶対音楽」という。
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音、あるいは音楽のみで語ることのできる内容は限られている。せいぜい人間の感情やリズム、あるいは雰囲気などだ。
音楽を聴いてそれを「絵画」や「文学」そのもの、と認識はできない。
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ベートーヴェンの交響曲に「田園」という有名な曲がある。
この曲を聴くと大抵の人は一種の田園の風景を思い浮かべるだろう。だが、我々はそうした風景を音楽から誘発されて自ら思い浮かべるに過ぎない。
確かに、カッコウの泣き声を模倣したりした音が聴こえたりもするが、音楽が鳴らされたといっても森やカッコウの輪郭線や色彩そのものを、音楽の中から読み取ることはありえない訳だ。
確かに「田園」は、いくらかの「標題性」がある。だが、音楽で絵画的表現をしようとする試みに対して、ベートーヴェンは次のように語った。
「器楽音楽で絵をかくことを極端に押し進めると失敗する。
田園生活についてある概念を持つ者は、色々標題をつけなくても作曲家の意図を自分で理解することができる。
田園交響曲は絵画的表現ではない。田園での喜びが人々の心に惹き起こすいろいろな感じの表現である。」
つまり音楽で描かれた内容はあくまで音楽そのものに過ぎず、それ以外ではないという考え方なのだ。
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絶対音楽こそが音楽そのものの独立性を保つための担保である。
「音楽の絶対性」がなければ我々は音楽そのものを理解できないだろう。
そしてその絶対音楽の具体性と曖昧性の狭間の中で、我々は音楽を理解し楽しむことができるのだ。
<2>
具体的な表現はその具体性を増すほど、細部への執着と専門性とを増し、現実的になっていく。
逆に曖昧な表現を増やせば、具体性が減るかわりに表現の含みと可能性とを増し、観念的になる。
仮に「言葉」を音による具体的な表現のもっとも進化したものだと仮定すると、器楽による絶対音楽は、それに次ぐ具体的な表現だとも言えなくもない。
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ところが、単なる曖昧な「音」が音そのものの新たな論理性を獲得すると、我々は今までにない新たな心の動きをその音楽から体験する。
「音」の一つ一つは「言葉」の一つ一つ程の具体性がないにも関わらず、「音」という曖昧な言葉のまま「理路整然」とした新たな文脈を体験するからだ。
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「描写は絵画に属することである。この点では詩作さえも、音楽に比べていっそうしあわせだといえるであろう。詩の領域は描写という点では音楽の領域ほどに制約せられていない。
その代わり音楽は他のさまざまな領土の中までも入り込んで遠く拡がっている。
人は音楽の王国へ容易には到達できない。」
とベートーヴェンは述べ、さらに、
「音楽は、一切の智慧・一切の哲学よりもさらに高い啓示である。」
とも述べた。
こうしたうがった意見が音楽の中に実際実現する時、人々は音楽の意味を本当に理解する。
それは、まさに音楽よりも具体的な表現以前の生の人間の感情や体験に近いからだろう。
我々はこうした本質的な人間のあり方を、言葉や現実的差異を乗り越え、音楽を通じて共同で体験するのだ。
