標題音楽 |  ヒマジンノ国

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長谷磨憲くんち-セルバンテス


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ベートーヴェンの「田園」は作曲家本人が標題をつけたとはいえ、その本質は絶対音楽であった。

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ベートーヴェンは1827年に死んだ。彼は現代、いわゆる「古典」と呼ばれる音楽上の一つの時代を完成させる。

その古典音楽の完成により、音楽上のロマン派は自らの基礎を得る。

1803年ベルリオーズが生まれ、クラシック音楽は新たな局面を迎える。

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絶対音楽は音楽がその自立性を持っていることを示した。


ベートーヴェンの音楽はそのほとんどが、絶対性をもつ音楽であり、彼はいわゆる「標題音楽」を軽蔑した。


だが、新しい世代の音楽家は常にベートーヴェンを意識しつつも、今となっては自立性のある音楽が書けることが分かっている以上、絶対音楽に縛られるだけではなくなっていた。

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初めて偉大と呼べる「標題音楽」と呼ばれる音楽を書いたのは、ロマン派音楽の始祖であるベルリオーズである。

「幻想交響曲」に彼は「恋を失った芸術家が自殺をはかってアヘンをのむが、薬の量が少なすぎ、一連の奇怪な夢をみる。」との説明文をつけた。


つまり、音楽以外の要素が音楽の内容を導こうというのである。


この「幻想交響曲」は説明がなくても理解できる音楽だが、彼はこの音楽で物語を語ろうとし、そして音楽で絵を描くような表現も行った。

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こうした表現は前代未聞であり、音楽の絵画的表現にこだわらなかったベートーヴェンとは一線を画す。


そして、彼はさらにそれを押し進め劇的交響曲「ロメオとジュリエット」を書く。この巨大な交響曲は全七部で構成され、最後の七部でキャピレット家とモンターギュ家の和解を示す具体的な合唱が入る。


これがオペラで今までの展開を劇として筋立てていたのなら、話は分かる。

ところが、この音楽はそこまで具体的な劇の筋に対する説明がない。


確かに全く前触れが無い訳でもないのだが、抽象的な器楽曲での曲が多い中、突然物語の具体的内容に関する合唱が入る、というこうした構成は面食らう。実際聴く側にシェークスピアのロメオとジュリエットに対する知識がなければ、一体何のことか分からない。


だが、「交響曲」と名付けているだけあって、音楽の自己目的性は高く、充実しているのだ。

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はたして、ここにベルリオーズによってこれ以後の音楽家達を悩ます「標題音楽」なるものが生まれた。

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要するにダブルスタンダードなのだ。絶対音楽は自らの音楽的理論によってのみ書かれたが、標題音楽は音楽的理論以外に別の立脚点を持つ。



しかも音楽としても独立している風を装っている。そしてまさにこの点がこうした標題音楽の理解の難しいところであり、はっきりした定義のない理由ともなっている。

こうした作品は統一感がない印象を持つ。


映画のサントラを元の映画も知らず聴かせ続けられているようなもので、音楽は勝手に聴衆を置き去りにして流れてゆく。

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しかし、である。訳も分からないままベルリオーズの音楽を聴いていると、その凄まじい熱狂と白熱した音楽を聴くと僕はいつも間違いなく感動する。


結局、彼は天才であり、そのクレイジーでロマンティックな響きはまさにこうした標題性のある音楽をどうしても作らずにいられなかった彼の性格を伝えている。

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そしてこうした標題音楽は、リスト・ワーグナーという系譜の未来派音楽の路線上で受け継がれてゆく。





<2>


標題音楽はリスト(1811-1886)が開発した交響詩というジャンルによって、より拡がりを見せる。

これは単一楽章でできた詩や絵画、演劇をもとにその印象をまとめた標題音楽の形式である。


結局、こうした創作は聴く側にも一定の教養が求められることとなった。


これにはいろんな例がある。

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例えば・・何でもよいのだが・・。


セルバンテスは当時(17世紀)のイスパニアに氾濫していた騎士道物語を皮肉って、小説「ドン・キホーテ」を書いた。

そしてR・シュトラウス(1864-1949)はこの小説を元に交響詩を書く。


小説の中で気のふれたドン・キホーテが風車を巨人と思い込み、戦いを仕掛けた末、羽根木に吹き飛ばされ地上に叩きつけられる場面がある。


R・シュトラウスはこの交響詩の序と主題の提示を終えた後、初めの変奏部でこの部分を全く小説どうりに器楽だけで再現してみせる。


小説の情景を音楽で描いて見せるのだ。


しかしこの第一変奏部を初めて聴いてこの情景が理解できるのは余程するどい人であり、小説の内容を知らない人がこれを理解できることは極めて考えにくい。


しかも劇に対する説明はベルリオーズの「幻想交響曲」のように文章で示されているのではない。

その点ではベルリオーズの「ロメオとジュリエット」と同様で、この二作品が文学作品としてあまりにも有名だということに根拠を置いていると言えるだろう。

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しかし、「ロメオとジュリエット」や「ドン・キホーテ」が西洋の教養の主要な一部分だとしても、標題音楽はあまりに作曲家よりの音楽として響く。


「絶対音楽」には自立性がある。これはどういうことかというと、聴衆が目の前で演奏される音楽だけを聴いて音楽の内容を理解し、楽しむことができる事を意味している。


これに対し「標題音楽」は、時に音楽的自立性を有しつつも、その音楽以外にも別の価値を待たせている。つまりそれは、音楽と現実世界の際を取り払ったもので、聴く側にとっては教養を問われることになる。


こうした作品はヨーロッパのロマン主義が生んだ、教養としての価値を高めた音楽である。


結局、それを楽しむには、音楽だけに囚われない広い芸術に対する理解が必要なのだろう。