バルシャイがケルン放響を振ったショスタコービッチの交響曲全集から交響曲15番を聴く。
15番はショスタコービッチ最後の交響曲。やや小ぶりな印象。
しかも、極めて抽象的な音楽。
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クラシックを聴かない人にとっては、こんな音楽チンプンカンプンだろう。
これはいわゆる「絶対音楽」。標題性のないことおびただしく、聴くものは音楽の姿そのものを受け止めることを求められる。
この曲を聴くと僕は、旧ソヴィエト内で表現の自由に苦しんだショスタコービッチの求めた自由な世界が、音楽の世界でしか実現しなかったのだと実感する。
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20世紀生まれのショスタコービッチは、19世紀までの音楽を学ぶことができた。
出し尽くされた感のある音楽のアイデア。
しかし、彼の卓越した作曲の技術は不思議な音の世界をここで作り出す。
まずは第一楽章。話には聞いていたが、第一楽章の頭の部分でロッシーニの「ウイリアム・テル」の序曲が響く。音楽に突然割り込んできたようで妙な気がする。
作曲家が「初めて好きになった旋律」だといったらしいが・・。
いずれにせよ、この第一楽章は推進力のある音楽で気持良いが、何を言いたいのやら。
音楽でのみ、ものを語っている。
憂鬱なアダージョを経て、第三楽章はスケルツォ。
スケルツォは散漫として短め。だが、ユーモアを感じる。
そしてこの第三楽章は第四楽章のラスト、打楽器があれこれいう印象的な部分の暗示をして終わる。
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そして第四楽章。
フィナーレの冒頭も有名だ。ワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」と瓜二つで始まる。
しかし、これも一体何を意味しているから分からない・・。
自分がもうじき死ぬことへの暗示?それとも、単にこの曲が終るから・・?もっとうがって考えてみて・・例えばソヴィエトの崩壊への暗示とか・・?
多分、絶対音楽から意味を読み取ろうというのが間違っているんだろう。
でもこんなことをされると、最早音楽そのものが新しい言語のようだ。
「ジークフリートの葬送行進曲」はフィナーレの節目に繰り返しでてくる。
曲は最後、ショスタコービッチ特有なシリアスで悲劇的な盛り上がりを見せた後、第三楽章が暗示していた例のあの打楽器による不思議な世界へ。
ここでは全く自由になったショスタコービッチが、まるで子供に戻ったようだ。
打楽器がおのおの好き勝手に鳴る様子は、まるで音楽の精達が戯れているような感じ。
まさにこの不思議な世界こそ、ショスタコービッチが求めて止まなかった「自由のある世界」の表現なのだと思う。
それにしても、とっても不思議な世界だと思った。
