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今日は「哲学の日」です鉛筆


紀元前399年4月27日に古代ギリシャの哲学者ソクラテスが、時の権力者から死刑宣告を受け、刑の執行として自ら毒杯をあおり、死を選んだ日であることに由来するそうです。


ソクラテス   Σωκράτης

【紀元前469年頃 - 紀元前399年】


手ただ、こうしてソクラテスの名が残り、その思想が継承・宣揚されたのは国家権力による庇護や、民衆による支持ではなく、ソクラテスの愛弟子であるプラトンによってでありました。


むしろ、ソクラテスの死は国家と民衆によって行われた凶行、愚行でした。


- 人は自分自身について、魂について、何を知っているというのか。その無知を知り、謙虚に真理を求める人が賢者である。それなのに、人々は、賢ならずして賢者を気取り、無知に気づいてもいない。


彼(ソクラテス)は叫ぶ。


「偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂をできるだけ優れたものにするということに気もつかわず心配もしていないとは」(『ソクラテスの弁明』プラトン)


ウインク2000年以上の時を超えて、ソクラテスとプラトンという"哲人"師弟が訴えたことは、現代の闇を照らし、未来への希望・道標にもなっていると思います下矢印グー





プラトン  Πλάτων
【紀元前427年 - 紀元前347年】

ソクラテスの裁判は、プラトンが28歳の時であった。彼は20歳から、足かけ9年にわたってソクラテスに仕え、師とともに青春を歩んできた。


そのソクラテスに対する、理不尽な裁判を見ていたプラトンは激怒する。


ある記録によれば、彼は法廷で発言を求めるが、裁判官に制止されたという。


敬愛する師が殺されたプラトンの衝撃は限りなく大きく、心労はあまりに激しかった。そのため、病に倒れもした。


しかし、彼は憤怒の涙を拭って立ち上がった。


絶対に師の正義を証明しなければならない。師が願ったように、正義に適った国家にしなければならない - それが、彼の生涯をかけた決心であった。


プラトンは、80歳で死ぬまで約50年間、師のソクラテスの真実を明らかにするために、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』をはじめ、膨大な著作を書き残していった。


それは、哲学と言論の大闘争であった。


また、学園アカデメイアを創立して、教育、人材の育成にも励んだ。



プラトンが生涯を捧げたテーマ - それは、どうすれば、この世に「正義」を実現できるのかという根本的な問題であった。


その探究の結論が、「哲人政治」の理想であった。


プラトンは、大著『国家』のなかで、いわゆる"哲人王の統治"こそが、国家と人類に幸福をもたらす「最小限の変革」であると主張したのである。


彼は、政治制度の在り方を分類して、第1を哲人王による王制とし、以下、名誉制、寡頭制、民主制、僭主制の5つを挙げている。民主制は、4番目の低い評価である。


民主制は人類の偉大なる知恵であり、発明である。しかし、それも、民主制を担い立つ人間自身のエゴイズムを制御し、自律する術を知らなければ、本来の民主とは全く異質な"衆愚"に陥りかねないことへの鋭い批判の矢を、プラトンは放ったのである。



彼は言う。


- 民主制の国では、自由を最高の善とし、誇らしげに、こう主張する。


「自由こそ、その国のもつ最も美しいものであり、それゆえに、本性において自由である人間が住むに値するのは、この国だけである」と。


ところが、その民主制は、自由のあくなき追求のあまり、欲望の大群を生み出し、いつしか「青年の魂の城砦」は、この欲望に占領されてしまう。


やがて青年たちは、自由の意味をはき違え、「慎みをお人好しと名づけ」「思慮を女々しさと叫んで」「ほどの良さやしまりのある金の使い方を、野暮ったいとか自由人らしくないとか理由をつけて」軽蔑し、それらの美徳を追放してしまう。


また、反対に、「傲慢を育ちの良さと呼び、無秩序を自由と呼び、浪費を気前の良さと呼び、無知を男らしいと呼び」、多くの悪徳が人々に賞讃され、はびこるようになっていくというのである。


こうした野放図な自由による混乱は、やがて手のつけられないものになり、事態収拾のために、民衆は強い指導者を待望するようになる。


そして、その強い指導者は、抵抗しがたい権力の魔性によって、最も悪い「僭主」へと変化していくというのである。



プラトンは指摘する。


「過度の自由は、私人においても、国家においても、ただ過度の隷属へと変化する以外にはない」


つまり、民主制のもとで、際限のない自由を手にすることによって、かえって、人間の魂は腐敗、堕落していく。


そして、人々が最も美しいと思う、この民主化のなかから、独裁者(僭主)の支配が生まれ、自由なき隷属が始まるというのである。


そこには、"自由の背理"が、また"自由の病理"が浮き彫りにされているとは言えないだろうか。


プラトンは、アテネの民主主義の功罪を底の底まで見つめていた。


人間の魂が正しく健康でなければ、いかなる制度も正しく機能しない。


水は低きに流れる。人間もまた、内なる鍛錬、人格の陶冶がなければ、欲望の重力の赴くままに堕落を免れないのである。



ゆえに、プラトンは、引き続いて「魂の健康」「魂における調和」を考察し、"自己の内なる国"に目を向けるように促す。


"外なる国制"を正義に適った最良のものにしていこうとするならば、必然的に"内なる国制"の整備を必要とするのである。


つまり、「魂の健康」を育む哲学こそが、民主制を支える柱なのである。


プラトンは「哲学者たちが国々において王となって統治するか、あるいは現在、王と呼ばれ権力者と呼ばれている人々が、真実に、かつ充分に哲学するのでないかぎり」、「国々にとって不幸の止む時はないし、また人類にとっても同様だ」と述べている。


プラトンの民主制批判には、古来、さまざまな評価がある。


しかし、人間の魂、人間に内なる規範を確立することなくして、幸福な国家などありえないとした彼の洞察は、不滅の輝きを放っていた。



fin.