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独裁者ではなく、民衆が国家の主導権を握る社会制度が「民主主義(democracy)」。
日本人には当たり前であり、理想的な国家の在り方のように感じますが、驚くことに現在、世界では"民主主義国家が減少傾向"(日経新聞)とのことです
その欠点、問題点は、今に始まったことではなく、民主主義が成立したスタート時点から露呈していました。それは、紀元前、古代ギリシャにまでさかのぼると見えてきます。
🇬🇷アテネ
Αθήνα
アテネは民主主義の源流の地です。また、多くの哲学者が活躍する理性の街でした。
そして、ソクラテスは、"万人の中で最も賢い人"といわれた当代随一の知者であり、"正しき人"でした。
にもかかわらず、いや、むしろ、それゆえに、彼は人々から嘲られ、誤解され、中傷され続けました
その最後は、まったく無実の罪によって、死刑にされたのでした
…人間という世界の、暗き"業"ともいうべき不条理を、深く感じます。
ソクラテス Σωκράτης
【紀元前469年頃 - 紀元前399年】
紀元前399年、ソクラテスは告訴される。その罪状の大要は、国家の認める神々を認めず、青年に害毒を与えているというものであった。
訴えたのは、メレトスという無名の男であったが、その黒幕は、政治家のアニュトスという人物であったといわれている。
また、ソクラテスが訴えられた背景として、ソフィスト(詭弁家)たちの存在も見逃せない。ソフィストとは、当時流行の、論争を事とする似非学者である。
彼らは賢者であるかのように振る舞い、どんなことでも論争のネタにし、自分が優位に立つための弁論術を若者に教え、金を取っていたのである。
ソフィストにとっては、何が真実であるかも、そして、何が人間の人生や幸福にとって大事かも関係なかった。
ともかく、博学を装い、白も黒と言いくるめて、相手を打ち負かし、自分の主張が正しいと信じ込ませることが狙いとなっていた。
彼らは、多くの若者たちの人気を集める一方で、伝統を重んじる市民たちからは危険視されていた。
ソクラテスは、ソフィストたちが、人生の本質については、実は全く無知であることを見破っていた。
彼はいつも、飄々としていた。小柄だが、たくましい体躯で、獅子鼻をした、服装には無頓着な彼がアゴラ(広場)に姿を現すと、真理を探究しようとする青年たちは、彼を慕い、教えを求めた。
🇬🇷アテネ
Αθήνα
また、ソフィストも彼を打ち負かそうと、議論をふっかけてきたが、ソクラテスの"真理の言葉""正義の言論"に、詭弁が太刀打ちできるわけがなかった。
詐術を暴かれたソフィストたちは、ソクラテスを妬み、憎んだにちがいない。
ところが、そのソクラテスは、あまりに抜きんでた言論の力ゆえか、青年への感化力のゆえか、一般市民からは、かえって"ソフィストの代表"のように誤解されていたのである。
このように、ソクラテスの真実の姿が歪められたなかで、彼を排斥する世論がつくられていった。
そして、民主主義のアテネにあって、一見、民主的な手続きのもとに、彼は死刑を宣告されることになるのである。
ここに"アテネの民主主義がソクラテスを殺した"といわれるゆえんがある。
🇬🇷アクロポリス
ἀκρόπολις
アテネの民主主義 - それは、ギリシャの7賢人といわれ、詩人として知られるソロンや、部族制度の改革を行った政治家クレイステネスによってつくられている。
やがて、前5世紀の半ば、民主派の指導者ペリクレスの時代に黄金期を迎えた。
しかし、強力な指導力を発揮していたペリクレスが前429年に死去すると、たちまち、民主政治の腐敗が始まっていった。
政治家として、取り立てて優れた能力をもたない彼の後継者たちは、「民衆の幸福」や「正義の実現」という理想を忘れ、自分の野心のために民衆を利用していくようになる。
アテネの政治家たちは、民衆に取り入り、人気を得ることに汲々としていた。
そのなかで、「デマ」の語源ともなったデマゴゴス(民衆扇動家)が台頭していくのである。
大衆の喜びそうなスキャンダル(醜聞)を捏造し、流すことによって、秀でた人物、崇高なる者、正義の人、真実の人を汚辱にまみれさせ、"悪人"の烙印を押して葬り去る - それが彼らの常套手段であった。
真実はどうあれ、追い落とそうとする人物の悪しき強烈なイメージを、民衆に植えつけることができればよいのである。
人の足を引っ張ったり、蹴落としたりすることが、彼らの狙いであった。
こうした扇動家がはびこっていったのは、既にアテネが"嫉妬社会"の様相を深めていたからにほかならない。
🎨『才媛アスパシアに教えを請うソクラテス
と弟子アルキビアテス 』(1801)
🇫🇷モンシオ
Nicolas-André Monsiau
(🇷🇺プーシキン美術館)
表向きは"民主主義"の看板が掲げられていても、正義や道理ではなく、嫉妬や敵視によって社会が動かされていけばどうなるか。
紀元前404年、アテネは、都市国家の一方の雄スパルタと、27年にわたってギリシャの覇権を争ったペロポネソス戦争で敗北し、無条件降伏した。
アテネの市民が低次元の"足の引っ張り合い"に明け暮れていたことが、その本当の敗因であるといわれている。
"嫉妬社会"は、結局、衰退の坂を転げ落ちていったのである。
この戦時中と戦争直後の2度、アテネの民主制は倒壊する。
🇬🇷パルテノン神殿
Ναός Παρθενών
戦後は「30人僭主」と呼ばれるグループが"恐怖政治"を敷いたが、これも短期間に瓦解し、民主派は政権を取り戻す。
しかし、その基盤はいまだ不安定であったことから、彼らは反対勢力を一掃しようとした。
「30人僭主」のなかには、ソクラテスの弟子と目されていた人物がいたことなどから、民主派の指導者の一人であったアニュトスは、ソクラテスもアテネの民主主義を破壊する危険な存在と見ていた。
しかし、ソクラテスは、「30人僭主」の暴政に反対し、その命令に従わなかったために、命を狙われたことさえあったのである。だが、そんな事実は無視された。
アニュトスは、智者の誉れ高いソクラテスを処刑すれば、見せしめとして、反対派を追い払う絶大な効果があると考えたようだ。
そして、遂に、ソクラテスは、国家の認める神を敬わず、青年を腐敗させたとして、無実の罪で告訴されるのである。
アテネの「良心」が、偉大なる「精神の柱」が倒れようとしていたのだ。しかし、市民の多くは、むしろ、それを喜んでいた。
ソクラテスは、彼がまさに正真正銘の「正義の人」であったがゆえに、嫉妬され、デマが流され続けた。
そのために、いつしか、市民の間に、社会に害をなす人物であるかのようなイメージが定着してしまっていたからである。
たとえば、当時の有名な作家アリストファネスは、ソクラテスが告訴される24年前に、彼を主人公にした喜劇「雲」を発表し、もの笑いのタネにした。
もとより、彼の実像とは正反対の、似ても似つかぬ捏造された人物像であったが、大衆はそれを信じてしまった。
ソクラテスは、こうした悪のイメージに塗り固められたなかで、一人、真実の叫びをあげたのである。
ソクラテスの裁判の模様は、全貌をつぶさに見ていた弟子のプラトンが、「ソクラテスの弁明」に詳しく書いている。
ソクラテスは、法廷に立ち、500人の陪審員と聴衆を前に、堂々と初信を述べていった。
彼には、許しを請うような卑屈な態度は微塵もなかった。裁く側が反対に裁かれているような、激烈な「弁明」であった。
- 人は自分自身について、魂について、何を知っているというのか。その無知を知り、謙虚に真理を求める人が賢者である。それなのに、人々は、賢ならずして賢者を気取り、無知に気づいてもいない。
彼は叫ぶ。
「偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂をできるだけ優れたものにするということに気もつかわず心配もしていないとは」
さらに、ソクラテスは、もしもアテネの人々が自分を殺すなら、それは殺された自分の損害であるより、むしろ、彼ら自身の大きな損害になるだろうと断言したのである。
不屈なる信念の弁論であった。それは、心ある陪審員たちの胸を激しく揺さぶった。
しかし、それでも彼が有罪か無罪かを決める陪審員の投票の結果では、およそ280票対220票で有罪となったといわれる。
🇬🇷ヘファイストス神殿
Ναός Ηφαίστου
続いて刑罰を決める番である。当時の慣習では、訴えられた人も自分で適当と思える刑罰を申し出ることができた。
ここで彼が有罪を認め、反省の態度をもって死刑以外の刑を求めれば、当然、命は助かったであろう。
ところが、彼は「自分にふさわしきものは、『迎賓館』での食事である」と主張したのだ。
"最高の国賓的扱いで自分を遇せよ"というのである。そこには、正義によって立つ、アテネの「精神の柱」「魂の王者」としての自負があった。
しかし、その毅然たる姿は、陪審員への傲慢な挑戦とも受け取られたのであろう。刑を決める2度目の投票では、圧倒的多数で「死刑」が確定してしまった。
ソクラテスは、不正に屈して魂を堕落させるより、死を選んだのだ。彼は自分の命をかけて、人々に崇高な"人間の道"を教えようとしていたにちがいない。
🇬🇷ソクラテスの牢獄
H Φυλακή του Σωκράτη
獄中にあっても、ソクラテスは堂々としていた。
死の2日前、友人のクリトンは獄中のソクラテスのもとを訪ね、死刑の執行が近いことを伝え、彼に脱獄を勧めた。
ところが、ソクラテスは「不正に報いるに不正をもってすべきではない」と、脱獄を拒否し、従容として死を受け入れている。
不正を受ける者と、不正を働く者と、どちらが幸福か。
「善き人には、生きているときも、死んでからも、悪しきことは一つもない」との信念に生きる彼には、恐れるものなど、何もなかった。
しかも、死刑の当日、ソクラテスの最後の対話は、「魂の不死」をめぐる語らいであった。
そこで、彼は、哲学とは「死の練習」であると語り、思慮や正義、勇気、自由、真実によって自らの魂を仕上げていきなさい、と友人に勧めたのである。
人間は、"生命の永遠"を自覚するならば、死の恐怖をも乗り越えていけることを、彼の死は物語っていよう。
また、ソクラテスは友人に対して、「言論嫌い(ミソロゴス)になるな」と戒めてもいる。
「それはちょうど、あの人間嫌い(ミサントローポス)みたいなものになることだが - それを用心しろというのだ。なぜなら、言論を憎むようになるというのは、およそ人が陥る、心の状態のうちで最悪のものだからだ」と。
言論、対話に生き抜いてほしい - ソクラテスは、こう訴え、最後の最後まで我が道を貫き通した。
日が暮れて、遂に、刑の執行が伝えられた。
ソクラテスが、刑吏から毒杯を受け取って飲み干すと、付き添っていた友人たちは、いたたまれなくなって号泣し始めた。
🎨『ソクラテスの死』(1787)
🇫🇷ダヴィッド
Jacques-Louis David
(🇺🇸メトロポリタン美術館)
「おいおい、君たち、こんなことのないように妻たちを帰したのに。"死は静謐のうちにこそ"というじゃないか。どうか、静かにしてくれたまえ」
ソクラテスは、こう言って友人をなだめ、やがて、死の床に横たわった。
荘厳な最期であった。
ソクラテスは、死刑の判決後、陪審員たちに、自分の死後、直ちに復讐がもたらされるであろうと、予言している。
この復讐という意味は、自分の弟子たちが"真理の戦い"を挑み、彼らを追い詰めていくということだ。
ソクラテスは、プラトンならば、自分の思想を、哲学を人々に伝え、自分の正義を証明してくれるであろうという確信があったはずだ。
死の時を待つ彼の胸には、若き愛弟子プラトンの英姿が、鮮やかに躍動していたにちがいない。
つづく
『新・人間革命』第6巻
池田大作
参考文献
⚫︎『ソクラテスの弁明 クリトン』
プラトン著、久保勉訳
⚫︎『プラトン全集 1」
田中美知太郎・松永裕二他訳
⚫︎『世界の名著 6 プラトン Ⅰ』『世界の名著 7 プラトン Ⅱ』
田中美知太郎責任編集
⚫︎『世界古典文学全集 14 プラトン Ⅰ』『世界古典文学全集 15 プラトン Ⅱ』
田中美知太郎編
⚫︎「国家」(『プラトン全集 11』所収)
藤沢令夫訳
⚫︎『ソークラテスの思い出』
クセノフォーン著、佐々木理訳
⚫︎「雲」(『世界古典文学全集 12 アリストパネス』所収)
田中美知太郎訳
⚫︎『プルターク英雄伝 ③⑤』
河野与一訳
⚫︎『世界古典文学全集 23 プルタルコス』
村川堅太郎編
⚫︎『ギリシャ哲学者列伝(上)』
ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳
⚫︎『アテナイ人の国制』
アリストテレス著、村川堅太郎訳
⚫︎『政治学』
アリストテレス著、山本光雄訳
⚫︎『戦史(上中下)」
トゥーキュディデース著、久保正彰訳
⚫︎『世界の歴史 5 ギリシアとローマ』
桜井万理子・本村凌二著
⚫︎『生活の世界歴史 3 ポリスの市民生活』
太田秀通著
⚫︎『ギリシア案内記(上下)』
パウサニアス著、馬場恵二訳
⚫︎ 「ソフィスト」「ソクラテス」(『田中美知太郎全集 3』所収)「古典への案内」(『田中美知太郎全集 4』所収)
田中美知太郎著
⚫︎『ギリシア旅行案内』
川島重成著
⚫︎『裁かれたソクラテス』
T・C・ブリックハウス、N・D・スミス著、米澤茂・三嶋輝夫訳
⚫︎『ソクラテス裁判』
I・F・ストーン著、永田康昭訳
⚫︎『ソクラテスはなぜ裁かれたのか』
保坂幸博著
⚫︎『わたしたちのギリシア人』
K・ドーバー著、久保正彰訳
⚫︎『人類の知的遺産 7 プラトン』
斎藤忍隨著
⚫︎『若く美しくなったソクラテス』
林竹二著