海底の庭園
その魔術師は大切にしまっていた指輪をようやく見せてくれた
それは重い木で丹念に作られた机の裏側に隠すように組み込まれた小さな小箱に良く鞣された古い革に包まれていて解かれたその一瞬で私の心を掴んで離さなかった
これはもう300年は前になるのだがどんな術を尽くしても結局自分のものにならなかった女性の心なのだと
その魔術師は指輪を古びたランプの光に翳してみせた
その海底の中にしつらえた庭園を思わせる不思議な石は揺らぐ光をあびて不安定な影を作っていた
これは彼女の心そのものなのだと魔術師は告げ指輪をテーブルの小箱に戻すとそのまま椅子に深々と体を沈め寝入ってしまった
実際彼が自身の術でどのくらい生き存えてきたのかはわからないが既に彼の命は尽きかけていて20分も意識を保てれば良い方なのだと手引きをしてくれた彼の弟子が教えてくれていたのだがその通りだった
私はその指輪を用意して来た鉛の箔で包むと彼を起こさぬようそっと部屋をでた
部屋の出口にはその弟子が待っていて彼が途中で目を覚ますことがないよう更に念入りに呪文を唱えてくれた。
それから彼の使い魔達に気取られぬよう足音を殺す為に兎の革で作った靴を履きカケスの血で染めたフード付きのマントを着て銀の帚で自分の足跡を消しながら用意させておいた銀と鉛で窓を封じた馬車に乗ってそれでようやく港に着いたのだ
それから一ヶ月程の船旅の間も私は一度も船室から出る事は無く暗い部屋の中で指輪とともに過ごした
おおよそ2ヶ月程の旅路を経て屋敷に帰り着いた私に手紙が届いていたが彼はそのまま眠りから目を覚ます事は無く息を引き取っとっていたのだそうだ
弟子は彼の後を継いで魔術師となり必要な研究を引き継ぎ枯れ木のようになった彼の躯とそのままあの部屋で暮らしているらしい
そうやって考えてみれば彼にとってこのどうしても自分のものにならなかった女性の心こそが消えかけていた彼の命の火の源泉だったのかもしれない
私はこうやってようやくこの素晴らしい宝物を手にいれたのだが ひとつだけ 大きな間違いをおかしてしまっていた
一ヶ月もの間日の差し込まない船室で暮らしていたからか どうしても指につけたくなりある夜その衝動が押さえきれずとうとうその指輪に中指を通してしまったのだ
最初はちょっとつけてみるだけで でも その都度石の奥で揺らめく光を見たくて堪らなくなりそれを何度か繰り返すうちその指輪に封じられた いや そのものともいえるその女性の脳髄が私を支配しはじめ私は徐々にだが彼女の言いなりになるしかなくなっていたのだ
ただ それでも幸福だと思えたのは彼女が類い稀な同情心と良識を持ち合わせた女性であり彼女自身が決して支配したいとかそういった感情や思念を持っていなかったという事だろう
彼女は未だに自分が指輪に封じられているとさえ知らず自らの体を動かすように私を支配しているだけのことなのだ
彼女の心に満たされて私はそれを幸福と感じられるし少なくともそれはそれまでの生き方よりは遥かに心地よいものだったからだ。
私は魔術師が彼女を支配したいと望み決して叶わなかったその理由をそれでようやく理解したような気がしているのだ。