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はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

★2020年7月31日(金)に掲載したブログのアップデート版です★

 

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算324枚目】

カルビー1984年 No.276(表面)

 

カルビー1984年 No.276(裏面)

 

裏面コメントは、No.78のカードとほぼ同じですが、文章の末尾部分だけ下記の通り変更されています。

クサらなければ、あの正確な四ツ角のコントロールでかなりやれるだろう。

クサらなければいいが、コントロールがままにならなくなってきた。

■40年前の今日■

1984年(昭和59年)11月8日(木)の西武ライオンズニュース

 

さらば西武よ 江夏 栄光の左腕も寂しく引っ越し


引退が決定的となっている西武・江夏豊投手(36)は8日、西武球場へ出向き、わずか半年の短い間だったが、使用したロッカーを整理。
それにしても数々の記録を残した栄光のサウスポーにしてはあまりにも寂しい「引っ越し劇」だった。

黒いジャンパーにジーパン姿で江夏がやってきたのは午後二時五十分。
ちょうど西武球場内では紅白戦を終え、個人練習に入るところで、まるで首脳陣、ナインとの接触を避けるように江夏は無人のロッカーへ入った。
すでに引退し整理された山崎裕之と永射保の両ロッカーにはさまれた場所で荷物をまとめる江夏にどんな感情がよぎったのだろうか。
手伝ったのが島田二軍マネージャーだけ。
そのあたりも、18年間の最後をとうとうファーム暮らしで終わった男を象徴するような寂しさが漂った。
「ワシが入団したから負けたと言われんように頑張るさ」と自信高々の笑顔で西武入りした今季。
しかしキャンプの時点で早くも広岡監督との確執がささやかれ、ナインとの間に亀裂を生んだ。
一匹オオカミにはこのチームの体質が合わなかったということか。
7月26日、病気を理由に一軍登録を抹消されてから、ついに江夏は一軍のマウンドへ戻ってこなかった。
一軍のロッカーを訪れたのはそれ以来であった。
一つのスーツケースと三つのバッグ。
江夏は最後まで本球場に目を向けなかった。

18年間のプロ生活に終止符を打つとともに「最後の球場」に別れを告げた。

一方の広岡監督は、江夏が引き上げるのと前後し監督室へ消えた。

今後江夏は評論家活動に入るが、現在決まっているのは週刊誌、スポーツ新聞紙各一紙だけである。

 


【写真】二軍マネージャーをお手伝いに、荷物整理を終えた江夏。一匹オオカミはどこへ…。

 

※記事内容は1984年(昭和59年)11月9日(金)付 報知新聞より一部抜粋

★2019年5月14(火)日に掲載したブログのアップデート版です★

 

(1981年西武ファンブックより)
左の切り札。
今シーズンも先発に、ロングリリーフに、抑えにと忙しくなりそう。
独特の大きなカーブと打者の胸元をつく速球は十分威力を発揮しよう。
やさしい顔立ちから想像がつかないほどの強心臓の持ち主。

 

【1981年の永射保】
西武在籍:3年目(28歳)、背番号31
一軍成績:61試合、6勝 3敗 4セーブ、投球イニング86回1/3、自責点30、防御率3.14、奪三振70

 

【永射保:1981年主な出来事】

4月5日:リード守れず逆転サヨナラ負け、敗戦投手に(●西武4-5Xロッテ)
4月19日:8回一挙3点で逆転、永射が今季初勝利(西武○4-2阪急)
4月28日:4回から試合終了まで6イニングのロング好救援で2勝目(西武○8-6日本ハム)

5月30日:4回2/3イニング好救援で3勝目(西武○6-3日本ハム)


6月6日:永射初セーブ

7月19日の対日本ハム戦(平和台球場)で柏原純一に敬遠球を本塁打にされた。

柏原の次の打者は永射がカモにしていたソレイタで、柏原を敬遠してソレイタで勝負をするつもりだった。

しかし、永射の投球が甘くなったところを柏原に打たれ、打球は左中間スタンドに飛び込むホームランとなってしまった。

これは日本プロ野球史上唯一の記録である。


7月20日:永射ロング救援で4勝目
8月12日:永射完全締めでセーブ
8月27日:6回集中打6点で突き放し、永射救援で5勝目。
9月2日:6連投の永射、打撃戦の試合展開も好救援で相手打線封じ6勝目。
9月3日:7連投の永射、サヨナラアーチに沈む。
9月6日:永射8月26日から8試合連続の登板

 

3年連続リーグ最多登板(1979年63試合、1980年56試合、1981年61試合)
4年ぶり2回目のオールスターゲーム出場を果たす。


【1981年当時の記事写真とコメント】

左の切り札・永射投手は今年も出番が多くなりそうだ