■40年前の今日■
1984年(昭和59年)11月30日(金)の西武ライオンズニュース
郭泰源 入団発表背番号「12」
夢の100マイルピッチャーがやってきた。
台湾の快速球投手、郭泰源(22)=180センチ、72キロ、右投右打=が三人の兄姉らとともに30日午後4時12分羽田空港着の中華航空機で来日、同7時過ぎから東京・東池袋の球団事務所で入団発表が行われた。
すでに台北で正式契約を済ませており、契約金8,000万円、年俸600万円(いずれも推定)で、背番号は12。
郭はきょう12月1日、西武球場で自主トレ中の広岡監督以下ナインと顔合わせをする。
滞在期間は未定で、近々、所沢市小手指町のマンションに住む予定。
※記事内容は1984年(昭和59年)12月1日(土)付 報知新聞一面より一部抜粋

【写真】入団発表会でグラブとボールを手にカメラ撮影に応じる郭泰源。
「目標は王選手、来期は10勝したい」と語った。
(東京・東池袋の西武球団事務所で)
当時、球速100マイルを投げるとも言われ、日本かアメリカのプロ球団でのプレーを希望していた郭の動向が注目されていた。
アジアの快速球投手は最終的に日本の西武ライオンズでプレーすることを選択した。
当然「ようこそ日本球界へ」と歓迎ムードになるのが普通だが、今回ブログで引用した報知新聞は違った。
わざわざ郭泰源の入団発表を一面トップの扱いで持ってきたにもかかわらず、紙面上には「開幕ムリ」、「右ヒジ軟骨否定も残る疑問」、「ロス五輪前後空白6か月、難しい調整」などネガティブな見出しばかりが踊っていた。
こうなったのも以下の背景があったからだろうと推測する。
郭泰源をめぐる争奪戦は日米のプロ球団、特に西武と巨人が最後まで繰り広げた末での西武入りだった。
巨人は郭が憧れる台湾の英雄・王貞治が監督をしており、王も郭へラブコールを送り獲得に向け圧倒的有利な状況であった。
実際に郭の気持ちは最初に巨人へ傾いていたと言われている。
だが、そこから西武は郭泰源が親のように慕っていた兄を先に口説き落とし、最終的に郭本人を説得させたのである。
「郭に会うために王貞治も同行し巨人一行が台北入りする」という情報をキャッチしていた西武はその前に決着をつけたのだった。
それは巨人にとって屈辱的な出来事であったのは間違いない。
その腹いせだったのかはわからないが、読売系スポーツ紙である報知新聞(現スポーツ報知)紙上で「郭には故障不安がある」と西武への皮肉も込めていたのでは?
この記事が出た1984年シーズン終了時点で西武ライオンズは球団誕生からまだ6シーズン目だったが、その間に2度の日本一になり、1983年日本シリーズでは直接対決で巨人を退けている。
当時の西武は堤義明オーナーの大号令のもと「球界の盟主」の座を狙っていた。
凄まじい勢いで存在感を示すようになっていた西武に対し巨人が危機感を募らせていた時期でもあり、新聞紙上で西武に対するネガティブキャンペーンを一発かましてやろうとでもなったのかもしれない。
さて、郭泰源をめぐる西武と巨人の争奪戦については下記書籍でリアルに書かれている。

西武と巨人のドラフト10年戦争:坂井保之、永谷脩 著
当事者の一人でもある当時の西武球団代表・坂井保之氏がグラウンド外での巨人との闘いの真相を明かしている。
数年前にも紹介したが、私がこれまでに読んできた西武ライオンズ関連の書物の中でもベスト3に入る秀逸な一冊です。