はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~ -5ページ目

はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

★2020年5月28日(木)に掲載したブログのアップデート版です★

 

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算332枚目】

カルビー1984年 No.367(表面)

※サインは、二軍監督時代に直接ご本人から書いて頂きました。

 

カルビー1984年 No.367(裏面)

裏面コメントは、No.205のカードとほぼ同じですが、文章の末尾部分だけベテランだけに守備はうまいが、問題は左腕克服だ。」⇒「ベテランだけに、チームが落ちこんでいる現在、卒先して士気を高めることだ。」へ変更されています。

新年あけましておめでとうございます。
2025年も「はっきりいってライオンズびいきでした」ブログをよろしくお願いいたします。

ここ2年間は1日24時間では足りないくらい忙しくしており、ブログの更新がおろそかになっており、加えてブログ内容も乏しく何とも中途半端な状況が続いております。
それでも「いいね」を押してくださっている常連読者の方が数人いてくれており励みになっております。

2025年は懐かしいライオンズのネタをひとつでも多くお届けし、挽回したいと思っております。


さて、私が真のライオンズびいきに目覚めたのが今から40年前の1985年シーズン途中からでした。

それ以前からも気にはなっていたのですが、1985年のある日突然、そして偶然にも西武ライオンズにハマってしまったのです。

そのきっかけとなった出来事については、あらためてブログで触れる予定です

 

今年はあれから40周年…。

節目の年でもありますので、ブログのネタは1985年の西武ライオンズ回顧を中心にお届けする一年になるかと思います。

どうぞお付き合いよろしくお願いいたします。

 

1982年、1983年と2年連続日本一の頂点に立ちながら、1984年はリーグ3位で終わった西武。

1985年はリーグ優勝、日本一奪回を目標に「V奪回」を掲げスタートした一年でありました。

 

↓1985年の西武ライオンズ↓

 

1985年西武ライオンズの軌跡は当時の記事や物を紹介しながら今後ブログで回顧していきたいと思います。

つづく…。

 

【1985年(昭和60年)】

私の記憶にいまなお残っている衝撃的な出来事

 

・豊田商事会長刺殺事件(テレビで生中継されてしまいましたよね。たまたまリアルタイムで見ており衝撃過ぎました)

・日本航空123便墜落事故(520人死亡の史上最悪の事故でした。後年になって事件説も出ましたが真相は闇の中)

・ファミコンゲームソフト「スーパーマリオブラザーズ」が発売(ライオンズに匹敵するくらい私はハマりました)

・PL学園の桑田真澄&清原和博のKKコンビ(甲子園通算本塁打最多記録を更新した清原がライオンズの一員に)

・阪神タイガースとバース(日本シリーズで西武球場をジャックした阪神ファンと3戦連発を放ったバースの凄さを実感)

★2020年9月10日(木)に掲載したブログのアップデート版です★

 

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算331枚目】

カルビー1984年 No.363(表面)

※サインは、直接ご本人から書いて頂きました。

 

カルビー1984年 No.363(裏面)

裏面コメントは、No.214のカードと全く同じになっています。

★2020年6月12日(金)に掲載したブログのアップデート版です★

 

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算328枚目】

カルビー1984年 No.322(表面)

 

カルビー1984年 No.322(裏面)

裏面コメントは、No.120のカードとほぼ同じですが、文章の末尾部分だけ残り13勝で200勝達成は早いうちにできるだろう。」⇒ 「200勝達成の名球会入りは今年中には十分達成できる。」へ変更されています。

★2020年8月19日(水)に掲載したブログのアップデート版です★

 

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算327枚目】

カルビー1984年 No.315(表面)

※サインは、直接ご本人から書いて頂きました。

 

カルビー1984年 No.315(裏面)

裏面コメントは、No.206のカードと全く同じになっています。

 

杉本投手は中日移籍後の1987年から1990年途中まで星野仙一監督のもとで主に先発を任され、1987年には13勝をあげました。

カード裏面解説を書いたことを星野氏は覚えていたのかな?

★2020年8月30日(日)に掲載したブログのアップデート版です★

 

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算326枚目】

カルビー1984年 No.313(表面)

※サインは、直接ご本人から書いていただきました。

 

カルビー1984年 No.313(裏面)

 

裏面コメントは、No.212のカードとほぼ同じですが、文章の後半部分だけ変更されています。

 

「思い切りがいいので見た感じは気持ちがいいが、難点はハートが弱いことだ。

                       ↓↓

思い切りがいいので見た感じは迫力があるが、難点はハートが弱いことだ。

■40年前の今日■

1984年(昭和59年)11月30日(金)の西武ライオンズニュース

 

郭泰源 入団発表背番号「12」

 

夢の100マイルピッチャーがやってきた。
台湾の快速球投手、郭泰源(22)=180センチ、72キロ、右投右打=が三人の兄姉らとともに30日午後4時12分羽田空港着の中華航空機で来日、同7時過ぎから東京・東池袋の球団事務所で入団発表が行われた。
すでに台北で正式契約を済ませており、契約金8,000万円、年俸600万円(いずれも推定)で、背番号は12。
郭はきょう12月1日、西武球場で自主トレ中の広岡監督以下ナインと顔合わせをする。
滞在期間は未定で、近々、所沢市小手指町のマンションに住む予定。

 

※記事内容は1984年(昭和59年)12月1日(土)付 報知新聞一面より一部抜粋

 


【写真】入団発表会でグラブとボールを手にカメラ撮影に応じる郭泰源。

「目標は王選手、来期は10勝したい」と語った。

(東京・東池袋の西武球団事務所で)

 

当時、球速100マイルを投げるとも言われ、日本かアメリカのプロ球団でのプレーを希望していた郭の動向が注目されていた。

アジアの快速球投手は最終的に日本の西武ライオンズでプレーすることを選択した。

当然「ようこそ日本球界へ」と歓迎ムードになるのが普通だが、今回ブログで引用した報知新聞は違った。

わざわざ郭泰源の入団発表を一面トップの扱いで持ってきたにもかかわらず、紙面上には「開幕ムリ」、「右ヒジ軟骨否定も残る疑問」、「ロス五輪前後空白6か月、難しい調整」などネガティブな見出しばかりが踊っていた。

 

こうなったのも以下の背景があったからだろうと推測する。

郭泰源をめぐる争奪戦は日米のプロ球団、特に西武と巨人が最後まで繰り広げた末での西武入りだった。

巨人は郭が憧れる台湾の英雄・王貞治が監督をしており、王も郭へラブコールを送り獲得に向け圧倒的有利な状況であった。

実際に郭の気持ちは最初に巨人へ傾いていたと言われている。

だが、そこから西武は郭泰源が親のように慕っていた兄を先に口説き落とし、最終的に郭本人を説得させたのである。

「郭に会うために王貞治も同行し巨人一行が台北入りする」という情報をキャッチしていた西武はその前に決着をつけたのだった。

それは巨人にとって屈辱的な出来事であったのは間違いない。

その腹いせだったのかはわからないが、読売系スポーツ紙である報知新聞(現スポーツ報知)紙上で「郭には故障不安がある」と西武への皮肉も込めていたのでは?

 

この記事が出た1984年シーズン終了時点で西武ライオンズは球団誕生からまだ6シーズン目だったが、その間に2度の日本一になり、1983年日本シリーズでは直接対決で巨人を退けている。
当時の西武は堤義明オーナーの大号令のもと「球界の盟主」の座を狙っていた。
凄まじい勢いで存在感を示すようになっていた西武に対し巨人が危機感を募らせていた時期でもあり、新聞紙上で西武に対するネガティブキャンペーンを一発かましてやろうとでもなったのかもしれない。

 

さて、郭泰源をめぐる西武と巨人の争奪戦については下記書籍でリアルに書かれている。

西武と巨人のドラフト10年戦争:坂井保之、永谷脩 著

当事者の一人でもある当時の西武球団代表・坂井保之氏がグラウンド外での巨人との闘いの真相を明かしている。

数年前にも紹介したが、私がこれまでに読んできた西武ライオンズ関連の書物の中でもベスト3に入る秀逸な一冊です。