(1979年西武ファンブックより)
野球に取り組む姿勢はチーム随一と折り紙つき。
フィールディングは文句なし。
打撃が正確になれば第一線に。
【1979年の伊原春樹】
西武在籍:1年目(30歳)、※クラウンライターから残留、背番号30
打撃成績:85試合、22安打、0本塁打、3打点、0盗塁、打率.237
(イースタンリーグ成績)
打撃成績:1試合 1安打、1本塁打、1打点、0盗塁、打率.250
1970年のドラフト会議で西鉄から2位指名を受け入団。
当時、大学で学生運動により授業が中断するなどの影響を受け、卒業単位の取得がままならず中途退学扱いでの入団だった。
入団1年目から一軍に定着し、2年目の1972年にはレギュラー三塁手として118試合に出場した。
1973年にはアメリカのマイナーリーグ1Aのローダイ・ライオンズに野球留学。
1975年オフに関本四十四、玉井信博との交換トレードで加藤初と共に巨人へ移籍。
巨人を自由契約となり1978年にクラウンライターに戻りライオンズへ復帰した。
球団が西武に変わった1979年は、4月7日対近鉄との開幕戦で9番・二塁手として先発起用された。
新生・西武ライオンズとしての公式戦初ゲームで栄えある先発メンバーの一人として名を連ねた。
その後は、途中出場での起用が多かった、4月16日対日本ハム戦で、7番・三塁手として先発出場すると3打数3安打と結果を出した。
5月12日以降は13試合連続で遊撃手として先発で起用された。
すると打撃の調子も上り、5月19日対近鉄戦で2安打を放って打率は.317まで上げた。
しかし、この日をピークに打撃は降下し定位置の獲得には至らなかった。
6月以降は先発出場での起用は減ったが、内野ならどこでも守れることで守備固めとして起用され続け、最終的にこの年は85試合に出場した。
磨きかかるマジメ人間
野球に対するマジメさでは定評がある。
野球を知っていることでも、チームでは指折りの存在だ。
九年目の今年こそ内野の控えの一番手からの脱却をめざす。
レギュラー・ポジションを取るには打撃があと一歩。