西武ライオンズタイムマシーン(第256回):1979年 慶元秀章 | はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

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1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

(1979年西武ファンブックより)
甲子園では江川を簡単に打ちのめした実績の持ち主。
カンのいい守備と、右へ打つうまさは先輩に決してひけをとらない。

 

【1979年の慶元秀章】
西武在籍:1年目(23歳)、※クラウンライターから残留、背番号39
打撃成績:54試合、11安打、0本塁打、5打点、0盗塁、打率.216

 

(イースタンリーグ成績)
打撃成績:16試合 2安打、0本塁打、0打点、1盗塁、打率.167

 

1977年ドラフト会議でクラウンライターから4位指名で入団。
入団1年目の1978年から積極的に起用され105試合に出場。シーズン終盤にはレギュラーとしてに定着していた。


球団が西武へ変わった1979年は、更なる飛躍が期待された。

開幕から一軍にこそ帯同していたが、大半が土井正博に代わる左翼手の守備要因としての途中出場で、それ以外は代打や代走など出番は限られていた。
5月16日対日本ハム戦で途中出場し、シーズン11打席目でようやく初安打が出ると翌5月17日から右翼手で先発起用されることが増えていった。
するとコンスタントに安打が出るようになり、6月13日対ロッテ戦では、一番打者として先発起用もされた。
しかし、打率は2割台前半を行ったり来たりと波に乗り切れず、次第に先発での起用も無くなった。

8月以降になると出場機会すらほぼ無くなりシーズンを終えた。
 

【1979年当時の記事写真とコメント】

甲子園で江川を簡単に打ち砕く
確実なミートで右へ流す打法は一流。
着実に力をつけている。
あとは引っぱる打法をマスターして、どのコースも打てる打者になること。
甲子園では江川を簡単打った実績の持ち主だけに、これからの成長が楽しみ。
貴重な戦力となる日も近い。