茨城・取手二高と常総学院で春夏あわせて甲子園で3度の全国優勝を成し遂げた名将・木内幸男監督が24日にお亡くなりになりました。
特に1980年代から1990年代の高校野球が好きだった私にとって、また一人甲子園の名物監督がこの世を去ったという訃報は残念で仕方ありません。
訃報のニュースを知ったその日の夜に私は1983年(昭和58年)の西武ライオンズファンブックを読んでいました。
すると、本当に偶然だったのですが…。
松沼博久、雅之兄弟の高校時代の逸話として二人の取手二高時代の監督であった木内監督(当時53歳)が寄稿していた記事に遭遇しました。
お亡くなりになられたタイミングでこの記事に遭遇するとは、何とも不思議なものだと感じつつ、木内監督を偲びながら記事を読みました。
当事者でしか知りえない逸話であり、面白いエピソードでもありました。
記事の画像をアップしておきましたので画像をクリックして拡大すれば読めるかと思います。
兄・博久投手は、木内監督との出会い、そして木内監督が投手への転向を命じなければ、その後プロ野球で通算112勝も積み重ねたアンダースロー投手は誕生しなかったということです。
弟・雅之投手は、木内監督に誘われて兄と同じ取手二高へ進学していますが、まさか入学する前から投げていたとは。
現代では即問題になるようなエピソードですね。
また、この記事の中には書かれてはいないのですが、当時の木内監督の練習はとても厳しかったようで、引退時に兄・博久の時は2人、弟・雅之の時は4人しか同級生の部員が残らなかったという逸話もあります。
その木内監督の苦しい練習と厳しい指導に耐えたからこそ、その後プロ野球選手への道がつながったのだと思います。
まさに松沼兄弟にとって木内監督との出会いは運命でしたね。